海軍九七式艦上攻撃機の誕生

Nakajima Type 97Carrier Attack-bomber [JAPAN Navy]

中村勝治技師の手記から

 明治44年、当時海軍の水雷艇に乗っていた機関将校中島知久平少尉が「近い将来、飛行機から魚雷を投下して軍艦を沈めることになる」と予言をした。まだ飛行機がやっと飛ぶか飛ばぬかの黎明期であり「またもや中島の大ぼら」と言われたのも無理からぬ時代であった。それから5年後の第一次大戦でイギリスのショート水上機が世界で初めて魚雷投下によってトルコの汽船を撃沈している。

 海軍の制式採用した攻撃機の歴史は、10式艦上雷撃機(3葉単発450HP)、13式艦上攻撃機(複葉単発600HP)、89式艦上攻撃機(複葉単発800HP)と、いずれも外国人の設計に基づいて三菱が製作したものであった。昭和6年、満州事変の始まったころから日本でもようやく航空自立の動きが急となり、独自の設計による試作競作が始まった。昭和7年、7試艦攻の計画が三菱・中島両社に出されたが、両社とも不合格となり、同年海軍航空廠が13式艦攻の改造設計を行って92式艦攻として制式化された。しかし性能にも見るべきものがなく、直ちに次期試作構想が発表され、ふたたび三菱・中島・空廠の官民3者の競争となった。

 このころから陸上機や戦闘機は金属製単葉の時代に入りかけていたが艦攻だけは航空母艦のエレベーターからくる大きさの制限から3者とも複葉機を選んだ。民間2社は海軍の納期が厳しく、試作を急ぎだのに反し、空廠は納期を通り越える上に民間2社の良いところのアイディアを取入れたために、より優れていたのが当然で、結局それが採用されて96式艦上攻撃機(右写真)となった。この機体が最後の複葉艦攻となったが、飛行機の性能が単葉化で急テンポで向上しつつあるときだけに、完成時点ではすでに旧式化しており、昭和10年に三たび海軍は三菱・中島に競争試作を命じた。これが10試艦攻である。

 10試艦攻の試作要求書は10試艦偵と同時に海軍航空部の杉本修部員から呈示された。従来「索敵」ということに海軍の認識は薄く、艦攻の魚雷を外せば偵察機になると考えられていたが、性能を突き詰めて考えると別の機体になるとして要求書が出されたが、結局10試艦上偵察機は実を結ばず従来のままとなったが、後日ミッドウェーの敗戦で艦上偵察機の重要性が認識され昭和17年になって「彩雲」の特殊偵察機になっていった。

 要求書の内容は、はっきりと近代的航空機の容姿を伺わせるもので性能は現用機を遥かに上回るもので、単葉3座、800Kg魚雷を搭載して航続135Kt×4Hr、離艦滑走100m(風速10m/s)、最高速180Kt/2000mというものであった。この要求を受けた中島側は、すでに昭和8年頃から近代化に対応すべく、米国からクラークGA-3旅客機やノースロップ偵察機、ダグラスDC-2など新鋭機を購入しあらゆる角度から研究に努めていた。しかし中島の海軍部門は9試単戦や9試艦攻、試作陸攻などいずれも不合格となっており、幹部はあせりのいろを隠し得なかった。そこで海軍機の製造部長であった吉田孝雄技師のもとに新しく設計課長となった三竹忍技師が総指揮をとる形で10試艦偵(社内呼称S)と10試艦攻(社内呼称K)の両試作に取り組んだ。開発組織も能力を最大に発揮させるために、従来の機種別編成から、翼・胴体・操縦・・・といった専門機能別編成に変更した。また三竹技師の補佐として設計全般の調整やとりまとめ役として艦偵に福田安雄技師、艦攻に中村勝治技師を充てた。これらを支える各専門技師や技手達はいずれも学窓を出て3〜5年の若者達であった。若いだけに臆することなく新しいことを研究し野心的なアイディアを取入れていくことで、数々の日本初のタイトルを得て、世界有数の傑作機に仕上がる原動力そのものであった。

 中村勝治の手記から設計開発での主なポイントとして、まず艦攻は何が何でも「引込み脚」を採用しようと考えた。しかし国内には参考になるものがなく困っていた。米国には脚を横たたみにするノースロップ機があり、その写真を空廠の飛行部長に見せてもらって、これを手がかりに苦心惨憺、我が国最初の油圧式引き込み脚機構を完成させた。初めてのことで脚に伴う事件は数々あり、尾島飛行場では領収直前の試験飛行で着陸滑走中に片脚が引き込んで機体を大破した。これはロックの確認不備であったことから後に確認の白灯を追加した。また横須賀での比較試験飛行での事件は有名であるが、新しいものに挑戦することの試練であった。 艦攻は高速性能を良くするためには主翼面積をぎりぎりまで小さくすることになる。しかし反面低速性能が擬製となり離着艦性能が満足しない。そこで油圧作動で2段モーションとなるファウラーフラップを考案した。作動はまず後方に移動して翼面積が増加する、その後角度をとって下げ翼となるものである。しかし構造が複雑になるため1号機に試作したが2号機からは単純なスロッテッドフラップにせざるをえなかった。

 主翼の断面は糸川英夫技師の設計した「NN-5」型であった。その桁構造は、機体を艦内に収納するとき折り畳むことから従来の2本桁構造では都合が悪く、思い切って翼弦の30%位置を真直ぐに通した1本桁とした。そのため主桁フランジは超ジュラルミンのフライス削り出しによる特殊形状になった。量産では押し出しとなるが当初は国内で加工できずドイツに加工を注文したほどであった。主翼の折り畳みは1号機では機体の中で操作できる手動ポンプによる油圧式であったが左右の作動を同期させるのが困難でうまく上で重なりあうのが難しかった。また高圧を得ることができず時間がかかって不評であり2号機では整備員が機外でてこを使いグイッと折り畳む手動式にした。こういった油圧装置は全く遅れをとっており、エンジン直結の高圧油ポンプが装備されたのは123号機からで、それまでは脚もフラップも手動ポンプに頼っていたのである。

 発動機は、要求書では中島の「光」または三菱の「金星」となっていた。「光」は直径が1375mmと大きく空力性能上好ましくなく、中島で試作開発中であった「栄」(直径1115mm)を前提に進めていた。ところが「栄」が耐久運転で開発に手間取り、艦攻の試作に間に合わなくなったので1号艦攻(左上写真)は「光」のままで量産に入った。そのため頭部がずんぐりしており形態美に欠けるものであったが3号艦攻(右写真)では「栄」に換装され、当初の狙いの統一したラインに仕上がったのである。

 試作機の製作は反町技師らの担当で昭和11年年内完成の突貫工事が行われ何と大晦日に完成した。そして翌年1月18日尾島飛行場にて高橋勇操縦士により初飛行が行われた。しかし前述のように脚故障で機体を大破し、その修理に手間取ったので、海軍での領収飛行は2月末となった。海軍追浜飛行場に持ち込まれた10試艦攻Kは先に搬入された三菱機と並んで飛行実験部の格納庫におさめられ、いよいよ比較実験が行われる。

 追浜到着の翌日、本邦初の引き込み脚の艦攻を見ようと、実験部長の桑原大佐を初め多くの将校の前で、鈴木少佐操縦により、雷撃正規状態の10試艦攻Kは見事に飛び立った。脚を引き込み、低空飛行。「ふむ。なかなかスマートだな」と感心しているまでは良かったが、やがて低空でぐるぐる旋回を始め、盛んに翼を振っている様子がただ事ではない。今のように無線機を搭載していないのでさっぱり事情が分からず大騒ぎになってきたころ、超低空飛行でパスしたおり、機体から紙片が落とされた。「油パイプ切れた、脚おりぬ」と。初めての飛行で同乗の実験部整備員も取り扱いをのみ込んでおらず、地上では「油がなくなったのなら、小便を油タンクに入れて、応急下げを試みさせればいい」などという珍説までが真剣に検討される始末であった。ここで機体を壊しては過去2年間の苦労も水の泡であることから、中島幹部一同蒼白になっていた。これに対し三菱側はしてやったりと余裕の観戦となっていた。そして滑走路に大きく応急下げの文字を書いて知らせたり、戦闘機を飛ばして連絡に当たらせたり、大騒ぎが1時間以上も続いた。また丁度このとき皇后陛下の横須賀御成りの飛行禁止時間とぶつかり混乱を極めたが、鈴木少佐の冷静な処置で、木更津に空中待避し疑雷を捨て、応急脚下げに成功してから田圃の水鏡で両脚を確認して約2時間後に無事着陸したのである。

 この事件があってから、応急下げ装置は重要視され改造が加えられた。また脚下げを直接パイロットが目視出来るように翼の上面に指示板が突き出るようになるなど、以降の海軍機の定型になったのである。この比較審査には両メーカーの代表技師が参加でき、目の当たりで善し悪しが比較判定されるので、それだけ緊張とスリルに満ちたものであった。最高速試験では0.5ノットでもよけいに出るように念じたり、どこか具合の悪い点が見つかると、その日の内に部品を群馬県太田に持ち帰り徹夜で修復して翌日朝には換装を済ませることも日常であったという。

 この比較審査は3カ月にもおよび、固定脚の三菱機と複雑な機構を持つ引き込み脚の中島機の決戦が続いたが、総合判断が難しく結論が出なかった。そこで7月上旬の鹿児島県指布志沖で行われる連合艦隊演習の参加の成績に委ねることとなった。その着艦実験は空母「加賀」で三菱2機と中島は1号機と2号機の4機で行われた。全機ともなんら問題なく見事に着艦した。しかし、その日は強風となり艦上での主翼折り畳み実験は散々で三菱(単葉後方折り畳みで後に上方に改修された)は2機とも、中島機は油圧作動の1号機はともヒンジを損傷し、主翼を広げたまま鹿屋基地に戻ることとなってしまった。ここで翼折り畳み機構は2号機の手動式と決した。その後も、三菱か中島かの議論は続き、昭和12年12月に結局両社とも採用となって、中島機は97式1号艦攻、三菱は97式2号艦攻として制式機となった。しかし実際には2号艦攻は60機程度が生産されただけであった。中島機は昭和14年に発動機を「栄」に換装した3号艦攻が制式採用となり、更に性能が向上し97式3号艦上攻撃機となり、昭和16年まで 1,250機が生産された。この生産責任者は本編中島飛行機物語の筆者 斉藤昇技手である。日華事変から実戦に参加し、太平洋戦争の真珠湾攻撃では愛知の99式艦上爆撃機(急降下爆撃)とともに主力攻撃機であった。しかしミッドウェーで多くを失うと共に次第に老いて、次の新鋭艦攻「天山」(下イラスト)の第一線を譲ることとなっていった。

 なお、97艦攻と同時に開発された10試艦偵察は艦攻の2カ月前に制式採用されたが、この97艦攻で偵察機も兼ねることに方針転換されたために97艦偵は2機生産されただけであった。しかし偵察機の機能を突き詰めれば自ずと専用機体が望まれることは必死で、艦上高速偵察機「彩雲」の登場を待つ結果となった。

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