Z00. 中島 長距離 重爆撃機 「富嶽」 (計画構想)

NAKAJIMA "FUGAKU"

全幅:65m、全長:45m、総重量:160,000kg、

最大速度:680km/h 、航続距離 16,000km、発動機:中島「ハ54」D-NBH 5,000馬力×6、

富嶽緒元は幻に満ち諸説紛々で、上記は中島記念図書館にある必勝戦策にあった中島社内の初期構想2案の一つ。

                   (上記想像図は富士重工業1980年カレンダーに掲載  小池繁夫氏 作)

 「富嶽」計画の発端は、中島飛行機の創設者である中島知久平が考えた「Z計画」からであった。この計画は中島個人で発想したもので、太平洋戦争の緒戦の戦果に酔って楽観的なムードに浸っていた昭和17年から、彼は米国との資源・工業力の大差を危惧していたが、とくに米国の航空戦略の動向に鋭い眼を向け、米国が開発着手していたB-29や B-36の状況から、昭和19年秋にはB-29の来攻を予測していた。

 これに対し中島知久平は今までの戦略を一転させ、日本が先手を取って戦局を一気に挽回することを実行すべきと考え昭和18年8月具体案として「必勝戦策」なる大論文を作成し、極秘の内に50部を作成して政界官界に働きかけた。

 この作成に先立ち、18年4月 小山技師長をはじめ、太田稔・渋谷巌・内藤子生・中川良一ら、社内の精鋭設計陣を群馬県太田にあった中島飛行機の厚生施設「中島クラブ」に集め、起死回生の「Z計画」を説いて、そのまま全員を建物に閉じ込め(宿泊)させて、「6月まで」の厳命の元に昼夜兼行の基本設計の突貫作業をさせた。これを言い伝えられる「クラブ缶詰事件」である。(集められた中島の技師のお一人に戦後50年以上経った時点でお聞きしたが、壮大な話で一同あっけに取られたと言われていました)

 この作業で、ようやく「Z計画」は具体的な形が明確になってきた。それは中翼6発3車輪の巨人機で、爆弾20トンを搭載し1万6千キロメートルを飛ぶという怪物であった。米国のB36は噂として情報を得ていたが、それ以上知る由も無かったが、それと比較すると、一回り小さいものの、搭載量や諸性能ははるかに上回る狙いであった。その性能の鍵を握るのは、当時の最大出力性能であった中島ハ219(空冷星型複列18気筒2500馬力を更に前後に2基を結合した4列36気筒という構想)であった。このエンジンは中島の三鷹研究所で懸命の研究が進められていたが、冷却方式について難問山積の厳しい開発であった。

 昭和18年秋になって、戦局の悪化に焦燥感を持った軍部は、それまで中島だけで研究していた巨人機「Z」にようやく本格的な陸海軍共同の試作機として採り上げ、陸海軍省、航研、技研、空技廠と各航空機会社を含めた大掛かりのものになったが、かえって船頭多くして・・・の例えで、混乱を極めた。その後やはり中島主体に作業を進めう事で、「富嶽」という最終決戦の名称が与えられたものの、昭和19年になってサイパンが陥落し、本土爆撃が現実のものとなって、また資材も逼迫する中で、基礎技術も確立するための十分な研究を行うことができず、19年6月に中止が決定し、幻の巨人機となった。

 ここに掲載した写真「必勝戦策」は太田市にある中島記念図書館のものであるが、その中には小泉製作所の海軍設計部作成の案(上記イラスト、下左図)と太田製作所の陸軍設計部のまとめた尾輪式で双垂直尾翼(下右表と図)の2案の基本3面図が添付されていた。

 これらを見ると構想としては壮大ではあるが、当時の国内の技術では、発動機は冷却が最大の問題で、この36気筒4列案は三鷹研究所で、栄エンジンを使った研究(多分2000馬力エンジンを開発するに当たって、誉の18気筒エンジンにたどり着く前の研究と思われるが、栄エンジン14気筒を二基つないだ28気筒の研究資料が残っている)が早くから行われていたが冷却は問題を残したままであった。 また排気タービン(ターボ)過給器の性能は勿論、全般に信頼性が得られる見通しが立たず、与圧装置や集中制御動力砲塔、防弾・防漏タンクや消火設備、レーダーなどの設備が無く、更には降着装置のタイヤ一つをとっても解決策を見出せなかった。 更にこんな巨人機を大量生産する能力も全く保有していなかった。 このように残念ながら現実的な計画とはいえなかったのが正直なところであるが、国の行く末を思い「何とかしなければ・・・」という熱い思いの技術者の気持ちが強く伝わってくる。

 先で述べた中島技師の話として、「大社長(中島知久平のこと)は、不思議に米国の航空情報を何処からか手に入れておられた。そして以前より『米国の工業力には勝ち得ない』と言っておられたという。 このZ計画を持ち出しても計画が破綻するであろうことを中島知久平はは容易に推測していたと思われるだけに、大社長は“他に狙い”があったのではないか?」と感じていた言われていました。それは「技術の先端を行く技術者を戦場に駆り出させず、敗戦後の復興に活かす為に、生き残らせるために、敢えて無謀な計画を掲げたのではないか?」とも言われている。 

 大正の中期に「大鑑巨砲主義」を否定し、軍を退役して航空機開発に身を投じた中島知久平が、最後は巨人機に行き着くのはいかにも運命の皮肉にも思える。 Z計画も中止となり、敗戦の色が濃くなったころ、中島知久平は残った中島の技師を集め「この戦争に負けても、また例え勝っても、中島飛行機は潰れる。 何年か先には航空産業は復活するであろうが、こんなに多くの航空技術者は要らなくなる。 戦争後は自動車の時代になる。しっかりと勉強するように」と訓示したそうです。

-

[HOME/Whats New/ClassicPlane/NAKAJIMA/MUSEUM/QESTIONNAIRE/OPINION]

  2006.01.29