365.中島 一〇〇式重爆撃機二型「呑龍」(キ-49)[旧日本-陸軍]

NAKAJIMA TYPE 100 mod.2 BOMBER "DONRYU"(Ki49-ll)(HELEN)[JAPAN・ARMY]

 
全幅:20.42m、全長:16.81m、総重量:10,680kg、最大速度::492km/h/5,000m、
航続距離 2,400〜3,000Km、発動機:ハ109型 1,310馬力/5,250m、乗員:8名
原型初飛行 1939年8月
Illustrated by Shigeo Koike , イラスト:小池繁夫氏  これは富士重工業が始めた最初の航空カレンダー1976年版作品群の一機です。

 中島飛行機(株)は、戦前、相次いで陸・海軍の戦闘機を送りだし、戦闘機王国と呼ばれていたが、爆撃機の分野にも進出を企て積極的に研究開発を進めていた。このキ49呑龍は、そうした中島飛行機の努力が初めて具体化した陸軍の制式重爆撃機である。

 先に制式になった三菱九七式重爆撃機キ21は、部隊編成が完了すると、戦火が燃え上がったばかりの中国戦場へ急遽派遣されたが、敵戦闘機の反撃は意外に手強かった。特に垂直尾翼の陰に隠れて攻撃してくる敵機には手を焼いていた。

 陸軍は上記の支那事変の戦訓に基づき、また海軍の渡洋爆撃にも刺激され、1938年(昭和13年)中島1社特命で、「戦闘機の援護を必要としない高速強武装の重爆開発」を発注した。 即ち、キ-21の戦訓から、より高速を図り、防御火力を強化して、戦闘機の援護が'受けられない、奥地まで侵攻できるという意図で計画された。

 中島は小山悌技師を設計主務者として、西村節朗、木村久寿、糸川英夫技師らの協力により 1939年8月試作1号機を完成した。 重爆で初めて500Km/hを超えるために、あらゆる新技術の具体化に取り組んだ。 

 高速化を図るためにハ-41エンジンを採用し、高揚力装置のフアウラーフラップ、長弦中央翼、蝶形補助翼などを採用した。 また防御火力の強化のため胴体の後端(背部)に20mm後方銃座を設け、また機首・機体側面・後方下部そして尾部に7.9mm機銃を合計5挺を装備するなどてんこ盛りともいえる欲張った設計だった。 

 そして爆弾搭載量は850kg、行動半径1000kmというのは重爆と呼ぶには寂しいが、これは対ソ作戦を基本とする陸軍の用兵思想によるものであった。 ソ満国境の近距離目標を想定していた陸軍航空本部は爆弾搭載量を多くするよりも、むしろ出撃回数を増やした方が良いと考えていた。

 しかし、完成した初号機型はハ-41のエンシン出力が十分でなく500km/hの目標速度を得られなかったたが、「速やかに性能向上を実施する」という条件付きで昭和15年8月制式機となった。 そして二型ではエンジンを過給器を装備した高出力型のハ-109に換装されたが最高速度は目標にあともう少しの492km/hに留まり、その特長を十分に発揮できるほどにはいたらなかった。 生産は各型合計813機となった。

 太平洋戦争では昭和18年6月20日にチモ一ル島を発進して行われたポートダーウィン爆撃で初陣を飾ったが、フィリピン攻防戦で苦しい戦いを続けた後、防御武装をすべて外した菊水隊使用の搭乗員2名の特攻機として消えていった。

 
(下の画はカレンダーの現物印刷をスキャンしました。 かなり傷が着いていたので部分修正しています「陳謝」)  
                                     Illustrated by Shigeo Koike , イラスト:小池繁夫氏 1982年カレンダー掲載
   
                                      Illustrated by Shigeo Koike , イラスト:小池繁夫氏 1994年カレンダー掲載
 
 
 ★富士重工業に保存されていた試作機製作現場の記録写真を紹介します。(ここをクリック

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