中島飛行機の想い出

(技術の謳歌期から忍び寄る悪夢)

羽田で行われた97戦の献納式

21年目;太田製作所時代 3.(昭和十二年1937年)

 昨年に引き続き機体の生産は九四式偵察機、九七式輸送機、九五式水上偵察機、九○式練習戦闘機、九七式戦闘機、等の量産の他に九試艦攻が不採用となったので九七艦攻完成までの継ぎという意味で空技廠設計の九六艦攻(B4Y1-Q-R:右写真)を生産することになった。世は将に単葉、全金属製の時代というのに、この機体は旧態依然たる布張り複葉の機体を持ち出さねばならなくなった事も暫定処置とはいえ実に情けない事に思われた。光840馬力を装備して居たが九七艦攻が出廻るまでに37機生産された。

 九七式戦闘機(キ-27)は昨年十月に試作第1号が完成して引続き製作され本年十二年に採用決定となり、当社では、十七年までに2,007機製作して、其後立川飛行機に生産が転換され第二次世界大戦初期に活躍したものであった。しかし陸軍からは早くも九七戦を引込脚として最大速度と航続距離を大幅に増大させる新型戦闘機の試作命令が中島1社特命で出された。これに引き続き小山悌技師らが当たったが、格闘戦を重視する軍の矛盾した要求に開発は苦難の連続であったが、戦局の変化により性能が再評価され、制式化は昭和16年になってようやく決着した。これが一式戦闘機「隼」キ-43(下写下、右下写真は太田工場での量産組み立ての様子)である。

 試作機の方も益々多忙を極め、試作重爆(キ-19:左写真)は昨年試作命令が出されて、本年三月には第一号機が完成し合計4機製作されたが、本機は三菱の(キ-21)との競争機で、之は三菱のものが採用に決定したので当社製のものは同盟通信社に於て長距離通信機として戦時中の使命を良く果たすことになった。尚、十一試艦爆(D3Nl)も昨年着手されたものが之も三月に第1号機が完成し、其後3号まで試作されたが、之も競争機で愛知のものが九九艦爆として採用されることになった。本年、松村技師担当の陸上攻撃機、光二型700馬力、双発(LB2型)は、自発的に実施した試作であり、当社として初めての大型機で、その成果が大変期待されたが不幸にも不採用となり、これは満州航空で使用された。

 

 十試艦攻(後の九七式艦上攻撃機 B5N1、略称K)は、光一型後に栄三型970馬力を搭載し、三月末の期限一杯に完成した。設計の目論見は開発中の「栄」発動機を搭載する予定であったが、耐久試験で問題が出て送れたため試作機は急遽外径の大きい「光」を採用せざるを得なかった。量産の3型からは「栄」に換装された。機体は前述のように全金属製低単葉で、わが国では初めての単葉攻撃機としてデビューしたもので、降着装置(脚)も引込み式となり、主脚の出し入れや外翼の折りたたみ(注、艦載機で小型戦闘機以外は、艦内に収容格納するため翼の一部を折りたたむようにしてある)等は、試作1号機では油圧で作勤するように設計された。しかし油圧ポンプは手動式でありエンジンによる駆動は後年である。2号機は安全策として手動式でテコを使って「えいっやっ!」と折り畳むものであり、後述のように油圧関係の信頼性が低かったことから、結局量産はこの手動式が採用された。

 主翼の折り畳みだけでなく、あらゆるところが当時としては最も斬新なもので、特にこれ等の機構部の作動が手動によらず油圧式を採用したのは、わが国でも初めての試みで、それだけに機構は複雑となってきた。引込脚は双発機の前方引き上げは経験があったが、内側引き込みは初めてで、設計でも諸外国のこれ等の外観の写真(米国ノースロップ5D)を唯一の参考とした程度で、材料その他の問題もあり、また、実際に使用した場合に機能的にも機械的にも設計どおりに働いてくれるかと、こんなところにも不安があった。(競合する三菱機は固定脚であった) また1号機はこれまた油圧作動のファウラーフラップまでも採用していたが、軍の整備能力レベルから、2号機の単純なスロッテッドフラップが量産で採用された。

 この様に九七艦攻は実に意欲的な新技術が織り込まれ、当時の世界でも最先端を行くものであった。これは吉田孝雄海軍機製造部長のもとで三竹忍技師が指揮をとり、組織もそれまでの機種毎担当制から機能別の専門班制度に変更し、その力をいかんなく発揮した。三竹技師の補佐として設計全般の取りまとめは中村勝治技師が担当し翼は菅原技手、胴体は仲技師、脚と油圧は島崎技師、操縦系統浅井技手ら、学校を卒業して3〜5年の経験でしかない若い技術者約30名が活躍したことが、臆することなく新しい技術を研究し採用してゆく原動力であり、会社首脳部も小姑めいた干渉を一切せず思い切った設計をさせたことも大きかったと言われている。(中村勝治氏談)

 しかし製造上も大変であり、最も懸念されたのが、油圧に耐える高圧ゴム管がわが国で求められるかということであった。果して出来上つたゴム管は甚だ粗末なもので、試験中にもたびたぴ破裂して困った。このゴム管は、藤倉電線で大変苦労して研究の結果、後日相当良質なものが完成されたが、初期には実にみじめなもので、試験飛行中の心労は甚しいものであった。

 また、飛行機搭乗員としても、次ぎ次ぎに新しい機構や複雑な操作が増加するので、失敗を重ねなければならなかったが、これ等の問題を解決するには大変な苦労であった。着陸の際に脚が出ず腹這い着陸したのを三度も四度もみたが、その原因の大部分は操縦者の不慣れのようであった。

 九七艦攻も三菱と中島との競争機で、空技廠での実験飛行も急速に進み、九月に中島のものが採用と決定したが、このように短時日に決定されたのは実に本機をもって嚆矢(こうし)といわねばならない。これも日支事変の重大化のためであったのはいうまでもない。本機は支那事変から太平洋戦の真珠湾攻撃にいたるまで長く使用された。

 其頃当社の飛行場は相変らず尾島の利根川原を使用していたが、生産の増加に伴い飛行場格納庫も大拡張されたのはいうまでもなく、飛行試験課も当時は赤柴氏が課長で四官、青木、末松、高橋の諸飛行士の外、同乗計測員として川村吉郎、楢原浩氏、其他課員には中村善作、大川氏等十数名を数えていた。

 又工場の試作課の方も試作機の種類の増加で大世帯となって進捗係も大増員されたが、半田に転勤された松林敬三氏や中松二郎氏等もこの年入社して進捗係として目を廻した組であった。

 当時の陸軍検査官は和田大佐、海軍監督官は田尻大佐で揃いも揃って無頬の喧し屋で誰彼の差別なく散々お小言を頂裁したもので、この点では最も印象に残った人であった。この年九月頃に田尻大佐の次に着任されたのが吉村大佐で田尻大佐とは対照的な温厚な人であったが、後年退役せられて中島に入社せられ半田製作所が建設されるに及び総務部長として就任せられた。

 本年七月七日夜の蘆溝橋における日支両軍の衝突に端を発した事変の拡大は、当然航空機の急速生産となり、従って九七艦攻も大陸爆撃用として大量生産することになったが、其頃中島の協力下請工場は大部分が関東地区に限られ、且つそれで間に合っていたのであるが、今後は関東以外の地区にも部品の発注をなさねば到底間に合わなくなって来たので、先づ京阪神地方を開拓する方針が決められた。

 開拓には先づ技術指導が主となるので材料関係専門で試験室におられた松林敏夫氏と私が出かけることになった。大阪へ行って驚いた事には、どの会社も航空機部品製作に経験がなかったこととて、軽合金や特殊鋼等の性質からのみ込ませねばならなかった。実は私達の考えでは、三菱、川崎、川西、愛知等の航空機会社よりの外注を担当製作しているものと思っていたのだ。これで私達二人が行ってよかったとつくづく思った。そこで海軍監督長の斡旋で、大阪機械、大阪発勤機、藤井発動機、山岡内燃機、田中スポーク、寺内螺子、甲南工業、岡島其他数社が喜んで協力の申込みを受けたから、之で発注の見通しもついたので至急大阪出張所を設置することになって、設計部にいた岡田徳太郎氏が主任となり、之に高清水技師や渡辺君(其後に細貝順一、金井信明君らも追加)等すべて技術系の連中が中心となって発足したのであった。

 これで関西方面での私達の仕事も一段落したが、私にはまだ東北地方の技術指導の任務があったので十二月中旬から秋田市に出かけて、ここを中心に米沢、山形、酒田、鶴岡、土崎、能代と東奔西走しなけれぱならなかった。何しろ冬期の当地方は積雪多く自動車に代り馬橇が唯一の交通機関で吹雪ともなれば交通も杜絶することも度々で大変苦労であった。当地区に発注されたものは脚の引上げ装置や油圧作動筒等、機能関係の機械加工部品としては最も困難な物が多かったが、業者の熱意はよく之等を完成したのには驚かされた。

 今年は事変発生のため急速多量生産態勢を整えるに多忙な年を過した。政界でも二月二日に林内閤が成立したが、六月四日には第一次近衛内閣の誕生をみるに至り、事変不拡大の方針で進むかと思われたが、軍部の大陸進攻策には抗し得ず、ますます進展して北支から遂に上海に飛火し、十月十日には首都南京も陥落するに至った。

 航空界として特筆すべきは、朝日新聞社による神風号機の訪欧飛行で、飯沼飛行士、塚越機関士の両氏は四月六日早朝、東京を出発しインド、ローマ、パリー経由で十日午前ロンドン着、15,357Kmを94時間18分を要して無事大飛行(国際記録の樹立)をなし遂げた。この機体は陸軍の九七式司令部偵察機を改造したもので機体は三菱、発動機は中島「寿三型改(550PS)」であった。 (上記は原文のまま、正確には司令部偵察機として開発中のキ-15の試作2号機を朝日新聞が譲り受け「神風号」として使用した。訪欧飛行の成功した翌月陸軍は九七式司令部偵察機として制式採用した。また右の写真は同型の「朝風号」です。読者の指摘で注記しました)

 又当社においては二月に大和田繁二郎、藤森正巳の両氏が約6ケ月の予定で米国に出張され、主にダグラス飛行機工場を視察せられた。なお、本年に内藤子生、新井英雄、畑氏等の他、半田に転勤された人には橋本公平氏を始め朽木久尚、稲場敬、上村哲二郎、松林敬三、中松次郎、大滝寅三郎、折原達一郎氏等の入社があった。

22年目;太田製作所時代 4(昭和十三年1938年)

 明けて昭和十三年度も引続いて九四式偵察機を初め九七式輸送機(AT-2)、九七式戦闘機、九五水偵、九五艦戦、九○練戦、九七練戦、九六艦攻、九七艦攻等々を量産し、なお九七式重爆撃機(三菱設計のキ-21、中島のキ-19の対抗機:下写真)も八月から量産に着手された。従つて工場の方も加速度的に拡張され、太田製作所初期に建設された工場は殆んど海軍機の工場となつて、陸軍機の方は東方へと延ぴ続けた。設計部関係もこの頃になると完全に陸海別棟に独立した。長い間同室で苦楽を共にした人々とも完全に別れねばならなくなった。

 このような多種類の量産は、必然的に生産面にも相当な混乱を生じ、特に九七艦攻も予定確保が困難となった。私も四月上旬に秋田を引き上げ組立関係の仕事を担当することになった。当時の組織では、機体が組立工場で完成すると最終組立の部門の組が機体を工場から搬出して飛行場に輸送し(勿論輸送作業は運送屋がする)、飛行場の格納庫で発動機の整備関係者と協力して飛行可能な状態に機体を整備し、監督官立合いの上で試飛行が実施されそれに合格したものが軍に引渡されていた。ここまでの仕事を組立工場が担当していたので、工場と飛行場との間に人々の往復が激しく、双方で混乱を来し進捗上甚だ悪影響を及ぼした。そこで今後は、この点を改め飛行場に独立した整備工場を設け、納入までの一切の作業責任を採ることになり、私がこの仕事の担当を命ぜられたが、これが中島で整備工場が出来た初めであった。

 しかし、何時の世でも店開きに当ってはスタッフの編成はなかなか困難が伴い且つ貧弱なもので、人を集めるが一仕事であった。機体整備には盆子、中山君等が主体で発動機整備には伊藤技師、根岸君等で総勢30名許りで先づ始めることになった。試験飛行課もその頃は赤柴氏に代って竹内幸一氏が課長となっておられ、互いに協力してこそ初めて試験飛行が出来るのであってお互いに苦労したものであった。

 この整備工場も各種の機体が毎日多数搬入されるのでこれを組立てたり、毎朝八時頃までには整備された機体を格納庫から引出して飛行場に並べて、何時でも飛行出来るように各部の点検をするので大多忙であった。大体前日の飛行終了後、残業しても良好な状態に整備して置くのが常態であるが、飛行直前に車輪の空気漏れが出来たり、ブレーキの効果が悪かったりして予定の飛行時間に間にあわず、泡喰うこともたびたびであった。一寸した落度が人命に関することだから、いい加減な作業は絶対に許されるものではなく誠に大変な仕事である。かくして一応の試飛が終了すると、機体附属部品等を一通り揃えて納入することになるが、事変の進展に伴い現地への空輸が急がれ、各航空部隊から空輸員が派遣せられ、それ等が幾組もかち合うようになって、機体の配分にも混乱を来すことがたびたぴであった。

 支那大陸では当時爆撃機が不足していたので、九七艦攻を転用することになったが、本機もやっと量産に入ったばかりで、いまだ内地の航空部隊にも行き渡っておらず、その為め飛行訓練にも事欠き、一部は現地において訓練しながら戦闘に参加せねばならない有様となった。

 しかし本機は新機軸とも見られる箇所が多く採り入れられたため操作も面倒になり、且つ故障も相当発生するものと思わねばならないので、会社からも誰か現地に派遣せねばならなくなった。そこで試作当時から私が関係し各部に精通していて都合がよいというので、急に現地に出かけることに決定した。私の他に組立の近藤紋作、銅工の新井光紀、発動機の梶原中の三君も行くことになった。

 私達は一応海軍航空技術廠飛行機部に籍を移し、そこから又軍艦朝日の飛行機応急修理班に編入され、九月十五日佐世保軍港を出港した。しかし私達の行先は一切知られていなかったが、大体中支那方面で九江か安慶の基地ではないかと想像していた。私達は上海から南京に行ったが、この基地では当社から先発していた中田、吉田、飯塚、半田君等と落ち合い、その後九江、漢口と常に前線基地に移動した。漢口は本部基地として、私達もここに落ちつくことになった。幸いかつて中島の監督官であった佐伯甚七大佐が部隊長で、又永森大尉、斉藤技師(元中島で監督官助手)等知人が多かったので仕事の方も大変好都合で愉快であった。

 私達のここでの仕事は対戦教訓による応急改修や、被弾又は離着陸の際の事故破損等の修理が主なものであった。ここでの九七艦攻の事故は割合少なかったが、九六陸攻(三菱の中攻G3M2:右写真)の改修や修理が大変多かったので、私もこの機体に就いて相当の知識を得ることが出来た。これは帰還してから本機を中島でも製作することになったので大変好都合であり良い経験であった。

 私は初めて現地において戦争という実感に触れ経験したのだが、驚いたことは上海、南京、九江、安慶、漢口、その他港では日の丸を翻した大小の船舶が数十隻昼夜をわかたず軍需物資を陸揚げし、岸壁には例えば食糧品の味噌でも醤油でも露天に山と積み上げられ、この有様は実に壮観である。その様は衣類であれ兵器であれトラックであれ同じで、すべて山程の物資を消耗することがしみじみ感ぜられた。

 当時は連戦連勝で進撃し占領していたので敵国人の家屋、田畑は思いのまま荒され、人権は無視されて実に悲惨なものであった。これを思えば私達は決して、どんなことがあつても戦争には敗けるものではないと、この時程強く感じたことはなかつた。

 私達が在支中、小泉製作所長の吉田孝雄氏や荻窪製作所の新山春雄氏等の来訪慰問を受けたが、大変有難く嬉しい思い出となった。今年二月二十四日には三竹忍氏と反町忠男、松浦定太郎の両氏が、ダグラス社のDC4旅客機の調査見学のため米国に出張され、反町、松浦の両氏は五月十六日、三竹氏は七月三日にそれぞれ帰朝された。

 三月二十五日には国家総動員法が成立して、日支事変の長期化体制を確固たらしめた。この間、当社の発展も異状なもので既設工場の拡張はもとより、四月には東京都下の武蔵野製作所が創立せられて陸海軍関係の発動機の生産が開始され、六月には田無鋳鍛工場もでき金属材料の実験研究、鋳造、鍛造部品の生産を始めた。

 陸軍関係ではキ-43にほぼ平行して、重戦闘機キ-44の試作命令が出された。これには小山悌技師をやはり主務として森重信技師、内田政太郎技師、糸川英夫技師らにより、画期的な高速戦闘機の設計に取り組んだ。600Km/hを超える高速と重火器の装備で1,450馬力の発動機を搭載(二型)しドイツの主力戦闘機メッサーシュミットBf-109と互角に戦える性能を得て競合の川崎キ-60を破って、昭和17年に二式戦闘機「鍾馗」として制式採用となった。

二式戦闘機「鍾馗」は翼面荷重が150kg/平米にもなる典型的な重戦である。それを支えるために蝶型ファウラーフラップが考案され、離着陸は勿論であるが、空戦時に15度下げて格闘性も確保された。この蝶型フラップは先行していたキ-43にも展開され、懸案になっていた制式化への道を拓いた。このキ-44「鍾馗」は、「こじんまりした短い翼、引き締まった精悍な胴体、それにちょっと頑丈そうな機首を持った傑作機で、小気味よい出足、すばらしい上昇力、軽快な舵の効き」とベテランパイロット達の絶賛を得た。(黒江保彦氏)しかし、日本軍の荒れた滑走路では離着陸速度が速いために難しく、扱いにくい機体と評する向きもあったが、局地戦闘機としての十分な資質を持っていた先覚者たる機体であった。

 キ-43(隼)は本年12月に初飛行に成功している

23年目;太田製作所時代 5.(昭和十四年1939年)

 さて、昭和十四年度の機体生産状況は、九四式偵察機、九七式輸送機(AT-2)、九七式戦闘機、九七重爆、九五水偵、九五艦戦、九七艦攻、九○練戦等が昨年から引続き量産され、また、一○○式重爆撃機(キ-49、「呑龍」:右写真)の試作機も八月には完成して、その後制式に採用が決定、これも量産に入り以後790機生産された。(当時の試作現場の写真を別のページで紹介します。当時の雰囲気が察せられます)

 また、DC3型輸送機の生産準備にも着手され、これには今春入社された芦沢俊一氏が、現場において準備作業にとりかかられた。しかし、間もなく海軍に服役されたのでその後を小山長吾氏が引継がれた。

100式爆撃機「呑龍」

DC-3輸送機

 新しい開発機としては海軍より陸上長距離双発戦闘機の計画が提示され、中村勝治技師により設計に着手した。しかし、要求には応えられず戦闘機としてではなく二式陸上偵察機として昭和16年制式化され、更に昭和18年に「斜め銃」で武装し夜間戦闘機「月光」として改めて制式採用されるといった数奇な運命をたどることとなる。

 今年二月頃、私は在支中で事情は詳しく知らなかつたが、永年苦労をともにした明川技師が、菅原、大金、下河君等AT輸送機の設計メンパーに属する人達や、その現場の各関係者を引き抜いて退社し、蒲田に創立された富士飛行機株式会社に行かれた事件は、親しい人達ばかりであったので全く驚きもし、遺憾に思われた。

 今年も相変らず多忙のうちに過したが、国の内外にも重大な出来事が発生した年でもあった。

 一月五日には近衛内閣から平沼内閣に変り、四月二十日には政友会も中島知久平派と久原房之助派とに分裂する騒ぎが起り、政界もいよいよ不安定な状態におちて、八月三十日にはまたまた阿部内閣が成立するに至った。

 欧州にあっては、七月に入りドイツのヒットラー総統はダンチヒ回収のため遂にポーランドに電撃侵入を敢行したので、九月三日には英、仏両国はポーランド援助の誓約を遂行するため、ドイツに対し宣戦を布告するに至り、遂に第二次世界大戦の火蓋は切って落された。

 これが後年わが国敗戦の悲運の端緒となろうとは誰が予想できたであろうか……。

 

   ▼中島飛行機の思い出「後期」に続く

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