中島飛行機の想い出(磐石の名声の確立)

18年目;呑龍工場時代 18.(昭和九年1934年)

 昭和九年を迎えて日支間の風雲は、ますます急を告げて来た。これに伴い機体の生産も急激な上昇線をたどり、試作機関係も多種類となった。

 量産の方では、九一式戦闘機の生産は累計320機となり、これを改造した九一戦改も13機生産した。その他九○式二号二型水偵および陸偵、九○式艦戦、フォッカー水上機(C2N2)フォッカー陸偵(海軍用C2N1)、フォッカー改造の機上作業機(キ-6)の九五式二型練習機等であった。また、九四式偵察機(キ-4:下左写真)も七月から生産に着手された。

 試作機は、三竹技師の八試水偵九五式水偵(M-S;下右写真)も着手した。これは九○式水偵の代替機として川西、愛知、中島の三社間で激烈な鼓争試作をしたもので、その結果、中島のものが制式機として採用が決定した。その後十年から十四年頃まで約700機が生産され、支那事変から太平洋戦争中まで広範囲に活躍したが、本機には寿二型460馬力が搭載されていた。

 

 なお、陸軍機でも大和田技師の担当の複座戦闘機(キ-8)寿三型550馬力が三月から翌年五月頃までに5機の生産をみた。

 九○式艦戦の性能向上機で九五式艦戦A4N1(YM:左下写真)も、春に設計を終り、秋には第1号機の完成をみた。本機には光一型730馬力が搭載されたが、海軍における複葉の戦闘機としては最後の型式となり、その後はすべて単葉機となった。七試に引続いて八試特爆は二月二十日に試飛行となり、八試複戦も二十二日に完成したが、計画より重心点が100mm後方になったため満足な飛行が出来ず失格となったので、直ちに第2号機の製作に取りかかった。この間違いの原因は、基本数字の12mmを次の計算の際に112mmと見間違って計算を続けたために生じたもので、ただ、これだけの間違いが、長い月日の多勢の苦労と、莫大な資材や何万工数という人手の損失を来すに至ったもので、思えば、設計担当者の責任は実に重大であることを痛感した。本機も三菱との競争機であったが三菱も失格したので、第2号機で再度競争することになった。

 第2号機は八月四日に完成し、十日から追浜の海軍航空技術廠飛行実験部で飛行実験が実施されることになった。今までは、試作機が完成すると各社とも、自社の飛行場で社内試験飛行を行い、その後海軍からの試験飛行士の来社を受けて、公式試飛行が実施されていた。しかる後納入すことになっていたが、今度からは、完成機体はすべて追浜飛行場において試験飛行が実施されることになった。

 当時主に試作は二社又は三社に命令されて競争に依って決定された。各社は試作に当り指示された各データを目標にして少しでも之を上廻る性能を発揮する様、設計製作しなければならない。又其の完成期日も厳格で一日でも遅れたら失格となるのが普通であった。

 それで設計部門は予定の期日までに製作図面を仕上げねばならないが、仲々予定通りには進渉出来ない事が多いので自然其の皺寄せが部品製作から最終組立に来るので組立関係等は毎度幾日も徹夜を重ねて完成するのが常識となって来た。出来た部品が計画通り結合されれば問題ないが試作機に於ては仲々思う様には取り付かない。誤差を手直したり、又は計画が変更されたりして完成までは実に目の廻る多忙な日を送って納期一杯で持ち込む事になる。

 そこで実験飛行となれば、他社の機体と並んで実施されるので、いやでも緊張して真剣にならざるを得なくなるのだ。こうなると人間は実に浅ましいもので、何か他社の機体に不具合な処が出来れば良いと願ったり、何かケチを付けて見たくなるもので、良い例があつた。それは十試艦攻(後の九七艦攻)が三菱と中島の競争機で共に追浜で実験飛行が施行(昭和12年)された析、当社の機体には我国最初の油圧引込脚を使用したが搭乗者が着陸の際、脚出し操作の不馴れから脚が出なくて2時間余りもグルグル低空飛行をした際、私達は全く色を失い居ても立っても居られない位だったのに、隣りで之を眺めて居た三菱の人達はさも愉快そうに皆笑つて居たものだが、之が競争相手に対する偽らざるお互いの心情であろう。他を憾むより自己を反省する余裕を持たねばならないだろうが聖人君子への道も又甚だ厳しいものだ。(三菱の十試艦攻は固定脚だった)

 追浜での実験中は各社、不具合の箇所を毎日改修するために設計部、製造部の関係者が十数人も出張して居て之が対策に当らねばならない。僅少な改修は其場で出来るが、現地で出来ない改修は解体して会社へ持ち帰って改修したり、材料や部品を会社から取り寄せたりせねばならないし、之等の工事は午前の飛行が終ってから翌日の飛行までに間に合わせなくてはならないので、飛行後の忙がしさは実に想像以上であった。かような試飛行が半年から1ケ年も続けられるので各社の競争は誠に激しいもので、一流会社同士の間では其の技量も伯仲して居るので、例えば速力に於ても1ノットの競り合いが勝負所となる有様で、此の様な試練の結果勝利機体が制式採用される事になる。

 この事は陸軍機に関しても同様で陸軍では立川の陸軍航空技術研究所の審査部で実施せられて居た。特爆及び複戦は一応八試で各社の機体は共に不採用となって打ち切られた。複戦は実験終了後は朝日新聞社にてAN-1型高速通信機として使用されて居た

 本年の五月十八日には米国からクラークGA-3輸送機が輸入され、当社の四宮氏が羽田飛行場で試飛行を行った。(右写真:当時、初の引き込み脚の全金属製高速旅客機として注目された)その際、着陸を誤り機体を大破したが、氏は無事でなによりであった。当社も、飛躍的増産のため、現在の呑龍工場は早や拡張の余地もなく狭隘になったので、年初から太田町の東部地区に近代的な大工場が建設されていたが、遂次呑龍工場から新工場(太田製作所)の方へ生産を移行した。

 十一月十六日には天皇陛下の行幸を仰ぎ面目をほどこした。その後は、当日を行幸記念日として、毎年祝賀会が催された。この太田製作所は、その後も拡張が継続されて、大戦当時は五万余人を収容する大工場となった。この記念すべき年にあたって、当社では会社の紋章が制定されることになり、従業員から懸賞募集の発表があった。私は、その頃追浜に長期出張中であったが、手もとにあつたコンパスと青鉛筆で、入選等予期もせず軽い気持ちで応募したが、遂に、それが一位入選の栄冠を勝ち得て中島飛行機株式会社の社章と決定され、全従業員の胸間を飾つたバッジとなり、帽章となったのは実に愉快であったが、この賞金が、ただの10円であったことも、後年まで笑いの種を残したようであった。

 華府条約で、米国五、英国五、日本三の比率で海軍勢力が締桔されていたが、わが国としては、甚だ不満とするところであった。その後状勢の変化にともない、わが国も、この規範を脱却することになり、十二月十九日にその旨を決定、二十二日に関係各国へ通告文が送られて、軍備に関しては、一切平等の立場となり、何等の制約を受けない状態となった。

 なお、本年新たに設計室に迎えたのは太田稔、中村勝治、等その他の諸氏であった。

19年目;太田製作所時代 1.(昭和十年1935年)

 昭和十年の新春は東洋一を誇る新太田製作所で、洋々たる希望に満ちた年を迎えた。

 中島飛行機が呑龍工場に呱々(ここ)の声を挙げてから早や18年、実に異常な発展成長をしたことを思えば、誠に感慨無量である。懐かしき思い出深い呑龍工場は、生産の主力が太田製作所に移つてからも、当分の間は部品製作の分工場として機能を発揮していたが、その後太田製作所の機械部品専門工場として、中島最後の日まで活躍を続けることになった。

 現存する太田製作所本館 
   (現、富士重工業群馬製作所)

 太田製作所の整備も着々と進捗して機体の生産もますます上昇のテンポを早めて来た。今年もフォッカー輸送機、九四式偵察機、九五式二型練習機、九○式艦上戦闘機、九○式二号陸上偵察機等の外九五式水上偵察機(M-S)の試作も完成し量産態勢に入った。また、九○式艦戦の性能向上機が、発動機を光一型730馬力に積み替え、機体も相当に改造されて九五式艦上戦闘機(A4N1)として量産に入った。これは昭和十五年頃までに計300機余生産された。

 その他試作では単座戦闘機(キ-11:写真)が福山技師主任で設計されたが、これは低翼式の単葉で張線式を採用、固定脚で発動機は寿三型550馬力を積み、速力430Km/hを出したが不採用となった。しかし、4機ほど製作し、後に朝日新聞社で高速通信機AN-1として活躍した。

 三月には明川技師担当のAT高速輸送機の設計に着手されて、私もこのグループの一員として仕事に従事していたが、八月に会社内の組織が変更されて、この仕事から手を切った。中島ATはAkegawa Transportの略で、乗客8人乗りの独自企画設計の機体である。

 今年度の機構改変では、栗原所長のもとに技師長であつた吉田孝雄氏(後に富士重工業社長)が、設計部を去って製造部長に就かれた。

 この時、製造部のなかに後年の生産技術課の前身ともいうべき工程工具班が誕生した。私は、この仕事を受持つことになって、長い年月住みなれた設計部の生活にサョウナラをせねばならなくなった。しかし、この仕事は、多量生産に最も将来を期待されている仕事であり、かつ、最初の試練ともなるもので、大いなる希望を抱いて開業した。

 しかし、その当時は量産方式等には、あまり関心を持たれておらず、生産技術等ということも左程重要視されていなかったらしい。私達は如何にして量産を具現するかの研究を始めたが、どこにもあるように店開き当時としてはスタッフが余りにも僅少で貧弱極まるものであった。この職場に最初に来たのが、高清水四郎技師、伊藤技師、松浦技手、新居技手、それに後年半田工場に転勤した碓永猪一郎君等々であった。碓永君は見習として入社配置されたばかりの時であった。

 私達の仕事は読んで字のごとく先ず作業工程の研究、作成、機械器具工具や治具等の研究整備、その他生産向上に関する研究等で仕事の量は無限に多いが、人手不足で手がつけられないというのが実状であった。私達は、早々輸入機械で日本にも一台しかない後述する折曲機や落下槌等の機械を国産するために見取図を作ったが、これ等の諸機械の利用によって機体部品の機械化が促進され、品質の均等と共に異状な能率の向上を来たしたことは、当時のわが国としては一大改革といわねばならない。

 なお、このことについて、昭和十四年末に九六式陸上攻撃機、俗に中型攻撃機(G3M2)の件で、名古屋の三菱の工場を詳細に見学する機会があったが、その頃でさえ三菱では機械化作業といったものがなく、整形作業もほとんど手ばたきであり、中島より5年も遅れているように見受けられ、能率も甚だ悪いのに気がついた。

 さて、当社の作業方式も前記のように大変改善されることになったが、過去においては量産といっても、その方法はいわゆる人海戦術に依存したもので、作業の大部分は一個一個の手作業で機械を利用することは甚だ少なかった。

 もっとも、これには適当な機械もなかったのだが、たまたま本年一月十八日に杉本一郎と秋谷の両氏が、ダグラスDC2輸送機の生産準備に米国のダグラス飛行機会社へ出張して、治具や水圧機等の使用による量産方式を見学し、わが国においては使用されていなかった1t落下槌(ドロップハンマー)や3m折曲機等を購入して帰朝された。その後入荷した2,000t水圧機(これも当時飛行機工場としては最大のもの)の稼動とともに生産向上に画期的な役割を果した。

 この2,000t水圧機の購入については軍部でもその利用度からいって大分論議されたそうであるが、この中島の決断は結果として甚だ高能率をあげることを実証したのであった。(右写真)

 さて、話題を変えて当時(昭和十年)の野球部について少し述べて置きたい。私も、後援会との意見の相違でここ五、六年野球部と縁を断っていたが、その間、部には上山君を始め、三井、大島、鈴木、官沢、滝沢、神戸、田中、谷君等々優秀な選手が次々と入部した。しかし船頭多くしてその団結を欠いたせいか、成績は思わしくなく昔日の姿はなかった。本年になって、これが立て直しのため部長に天野素六氏に出馬を願い、私も監督として再建に努力することになり、長年の沈滞から目覚めて、大飛躍の段階に一歩踏みだす年となった。

 切角やるなら思いきって強力なチームを作り、一挙に神宮大会へ出場できる位にならなければ、大中島のチームとしては不満足であるというので、投手には松尾、臼田、捕手に池田、常盤を内外野手に小見千代三、斉藤敏夫、竹永、大理、堀越等々の諸氏を補強し陣容を整備したが、、まだ理想には程遠かった。

 松尾君は、横浜商工出身で三重の紡績にいたのを無理に取ってきたが、これは全くの堀だしもので、雄飛のエースとして神宮球場への道を開いた功労者であった。なお、六大学で名をなした東大出身の篠原投手も入れたが、早や峠を越して投手としては使用できなかったが、コーチャーとしては立派なものであった。

 その後、野球部も急速に充実され、翌十一年には関東代表として待望の神宮大会(現在は後楽園に移った)ヘ出場するようになり基礎も固った。私は後任の小見氏に託して手を引いたが、それから金井、三富の両投手を入れて、都市対抗実業の選抜で国体神宮大会に出場し三富投手で優勝した。三富は職業チーム(名古屋)に引き抜かれ、金井も大変よかったが応召となった。熊本工業からも毎年入部があり、巨人軍の川上選手も岡本とともに当社へくるように話がついたが、川上は吉原とともに巨人に行ったので岡本と岩本だけが入った。当時相当に期待されたもののこれ等も間もなく入営し、若い連中の出入でにぎわったのだ。支那事変最中の頃で編成もなかなか落ちつかなかった。

 今年の三月八日には後年半田製作所に転勤された青木与氏が、試験飛行士として入社され飛行試験課もますます充実された。青木氏は、海軍航空隊の戦闘機乗りで、海軍の三羽烏といわれた程の名パイロットであり、当時源田サーカスといわれた源田大尉、岡村大尉、間瀬平一郎氏(亀崎出身)等とともに有名であつた。私も追浜に出張中、たびたびこれ等三人組による編隊曲技飛行をみて、そのものすごい神技に驚歎した。

 この他、本年春には青木邦弘、松山正一、鏡嘉門、小見千代三の諸氏や戦後ロケット研究で知られた糸川英夫氏等が入社した。

20年目;太田製作所時代 2.(昭和十一年1936年)

 昭和十一年度に入って、機体関係もフォッカー輸送機、九四式偵察機、九五式二型練習機、九○式二型水偵、九○式艦上戦闘機、九○式二型陸偵、九五式水偵、九七式輸送機、九五式艦戦、九○式練習戦闘機等で、機種も大変多種多様となった。

 試作の単座戦闘機(キ-12)は仏国人ロペル、ペジョーの両氏を招聘して、これに小山、森、糸川の諸氏のグループで設計試作され十月完成をみたが、これは数機生産されただけに終った。その他の試作機も多忙を極め、十試艦上偵察機(S)、二式艦上爆撃機、九試艦上攻撃機等々。九試艦上攻撃機(右写真)は吉田氏担当のもので、昨年より試作中で海軍でも複葉機としての最後の試作機であり、外形も従来の複葉機の典型を破つた風変りな形態のものであった。これは三菱の九試艦攻とともに不採用となったので、十試艦攻(K、九七艦攻となる)が十試艦偵(S)とともに三月から設計、試作に着手された。十試艦偵は残念ながら九七艦攻で代用出来るとして不採用になったが、後年偵察機の重要性が高まり、後に高速艦上偵察機「彩雲」に技術が引き継がれていった。

なお、ダグラスDC2輸送機(双発、乗員14名)の試作にも着手された。本機は十二年までに6機生産されて、日航輸送で使用せられた。

DC-2輸送機

 それに昨年から試作に着手していたAT輪送機も、本年完成をみるに至った。本機は中島において設計された輸送機としては唯一のもので、DC2より一廻り小型で実用性も優れていた。陸海軍を始め民間でも使用せられ(左下写真は戦前の日本航空で使われていた愛称「北野」)、中島では民間用を33機を生産したが、その後は立川飛行機で陸軍九七式輸送機等として300機以上が生産された。本機は寿二型改460馬力2基が搭載され、乗員は8名、全金属製であつた。

なお、十試艦偵(S)十試艦攻(K)も全金属製で、わが国で設計される飛行機も今年になつて初めて全金属製時代となつた。大正年間は純木製であったのが、昭和に入って木金混合となり、昭和十一年にやっと先進国の仲間入りが出来ることになった。昭和十一年正月二十一日に岡田首相の施政演説直後衆議院は解散せられ、二月二十二日総選挙が実施されたが、政友会を破って民政党が勝ち、腕の喜三郎といわれた政友会総裁鈴木氏の落選は、殊に印象が深かった。

 総選挙直後の二十六日はあの二・二六事件といわれた陸軍青年将校によるクーデターが行われた日である。この日、青年将校の一部は演習に名を借り、部下の兵隊を動員して、岡田首相を始め斉藤内大臣、その他官界、財界の大物や朝日新間社等を襲撃して改革を企図、国会議事堂を占領し、まさに帝都は戦乱のちまたと化せんとしたが、二日間の説得が効を奏して治安も回復した。しかし、一時はどうなるものかと全国民が不安におびえたことだった。

 二十九日に反乱軍も全部帰順したので、これが責任を負って岡田内閣は総辞職し、後継内閣は難産の末三月九日に広田内閣が誕生した。その時、中島知久平氏の入閣も論議さたが、知久平氏に代って島田氏が入閣した。

 又、この日は第二次世界大戦の遠因ともなった日でもあった。それは、ドイツのヒットラー総統はラインランドの再武装のためロカルノ条約の廃棄を声明して、六万の大軍をもつてライン左岸に侵入し、かくてヨーロッパは再ぴ戦雲みなぎり色めき立ってきた。

 三月に入って十試艦攻(K)の試作が始まり、私は、この機体の製作主任を命ぜられ試作課に移つることになった。そのため四月は花見どころかKの実物木型の製作で目を廻したが、一応二十五日には無事審査を終了出来た。

 この実物木型は、木型の実物大の模型で、設計図面が大体出来上ると造られる。これによつて、視界、射界、艤装、兵装、電装、計器の配置、操縦装置、発動機操作装置、その他全般にわたつて審査が行われ、その結果、胴体等の一部形状が変更されたり、座席や計器板、各種の把手、風防等々の位置が適正に修正され、最後決定が行われる。(右の写真はキ-43「隼」戦闘機の実物大木型である)

 このため、軍部から各専門の担当者が来社され、数日間にわたり審査が実施される。その結果にもとずき計画も変更されるので、設計部も製造部も大変多忙な思いをせねばならない。しかし、修正に関係のない部分は試作を進められるので、この段階において、始めて試作機生産工事の第一歩を踏み切ることになる。それ故にこの木型審査が如何に重要視されるかが伺える。

 五月頃から都市対抗野球の前哨戦が始まり、わが雄飛も、まず関西の雄日本生命を迎え、これを12対2で破ることが出来た。日生チームは当時早大出身の名投手伊達を擁し大阪代表の名門で、これを破ってますます自信を強め、余勢をかり群馬予選で桐生に33対4と大勝、関東大会に出場し八王子を6対2で破り優勝して神宮大会に駒を進めた。

 雄飛が関東代表として出場するのにおもしろい問題が持ち上った。それは、雄飛は世間にも知られていない田舎の太田町を代表したもので、都市とは余りにも縁遠いものであったため、主催者の毎日新聞社で「こんな代表は初めてであり、太田町を都市ど認めるか、どうしたものだろう」というのである。結局「強くて関東代表となったのだから仕方あるまい」ということで出場出来ることになった。

 私達は七月一日からの大会を前に上京し、まず知久平氏に挨拶のため日比谷公園の市政会館に氏の事務所を訪ねたら、武藤金之丞氏を通じて金2,000円の御祝儀をいただいた。現在のお金に換算すれば60万円以上にもあたり大した贈りもので、誠に有難く感謝した次第であった。これが例となって毎年上京の度に参上する習慣となった。

 七月十八日には東京製作所(荻窪)の当時の所長佐久間一郎氏が米国へ出張されることになったので、其の壮行会が熟海の玉久旅館で催されて出席したが、太田及び東京からの参加者が約130名もあって甚だ盛会であった。この様な合同の集会は初めてのことで其後私は聞かない。

 日支間の風雲険悪になって来たのであろうか、八月十七日から二日間当県下初の防空演習が実施せられ太田工場でも張り切って焼夷弾消火作業や馬穴の手送り等の練習が実施されたし、燈火管制と云うものも、この時始めての経験であったので私達には深い印象を与えた事を覚えて居る。

 今年は珍しい多彩な年で十一月二十五日には日本とドイツとの間に共産主義に対する防衛の為めに防共協定が成立したが、之は軍事同盟の前提をなすものと思われた。

 十二月十日には英国皇帝エドワード八世陛下が愛人のシンプソン夫人との結婚問題にて御退位せられ全世界に非常なセンセーションを捲き起し、私達日本人としては到底想像も及ばない事件であった。又このニュースで賑わって居る十三日には張学良将軍が西安に蒋介石総統を監禁して対日宣戦容共を通電し、中国は為めに極度の混乱に陥ち入らせた所謂西安事件が発生する等枚挙に暇なき状態であった。 かような状態で日支間は益々険悪の度を増して、其の為め機体の生産も急ピッチで上昇するに従い、多数の新入社員が必要となって来て毎年其の数を急激に増加して来た。

 この年は中島の軽戦闘機の傑作機 九七式戦闘機が初飛行に成功した記念の年である。陸軍は昭和10年に中島、三菱、川崎の3社に複葉の九五式戦闘機に代わるべき近代的な初めての全金属製単座戦闘機の競争試作を命じた。これに対し小山悌技師を設計主務者として太田稔技師、糸川英夫技師らと研究試作に取り組んだ。最初に実験機としてPE機を7月に完成し、続いて同機をベースに陸軍の審査に提供するキ-27試作機を完成させ11月には熊谷飛行場にて初飛行を行った。審査の結果、他社機に対して最大速度は若干劣るものの、抜群の格闘性が認められ九七式戦闘機として制式採用された。

 当時、中島の中でも単葉にするか、複葉にするか会社を二分する論争が巻き起こっていた。海外でも同様であり、格闘性を重んじると必然的に複葉が常識であった。その中で小山悌技師は、初の全金属製片持式低翼単葉の軽戦闘機で革新的な機体構造や新しい翼理論による断面形状(糸川英夫技師)、前縁を直線としたユニークな桁構造を採用した。そして三菱、川崎の機体に競り勝ち、中島3番目の本格的量産の制式機となったのである。

    

 九七戦は軽量化による運動性の良さだけではなく、整備性に優れており高い稼働率を誇りノモハン事件や初期の太平洋戦争で多くの戦果を挙げた。また主翼を1枚構造とし、後部胴体と別々に製作して組み立てる方式を採用して生産性も一段と優れていた。(本来、貨車輸送を考慮しての設計であったが、生産性向上に寄与すると同時に、前線での被弾の際の修理にも甚だ都合が良かった)前線では補充のパイロットを要求しても、次々と補給の機体のみが到着し、操縦士が居なかったという逸話もあった。また開発改良の過程では、軍から航続距離の増大のため操縦席後部に燃料タンクを増設するようにとの指示があったが、中島の小山技師は「操縦士の安全を考えると許されない」と頑としてその要求を退けたと言われている。ところが、その胴体部分はガランドウで、これが前線では結構役に立ち、輸送物資や人を乗せたり、不時着した仲間のパイロットを僚機が助け載せて帰ったという話しも1件や2件ではなかったという。大陸の草原への不時着には実に頑丈で頼もしい脚であったらしいが、そのスパッツ(車輪カバー)のデザインは何ともユーモラスで可愛いではないか。(空力的には大変優れていたとか)

 また搭載した発動機ハ-1乙(710PS〜 海軍名では「寿」)も熟成の域にあり、高い信頼性を発揮した。当時、余りに信頼性が高く、酷使しても耐え、1日に5回の出動すらこなした事から「百姓エンジン」とさえ言われた。

 この九七戦に採用された独特の翼理論は後の中島戦闘機の全てに引き継がれていった。(前縁の一直線形状も) 製作機数は昭和11年から17年に中島で2,018機、立川飛行機や満州飛行機で1,379機、合計3,397機となった。

97式戦闘機諸元

全幅 11.31m、全長 7.53m、自重 970kg、総重量 1,650kg、翼面荷重 88.6kg/平米
発動機 ハ-1乙 空冷星型9気筒 公称最大出力 785PS/3,000m
最大速度 460Km/h/3,500m、上昇率 5分22秒/5,000m、行動半径 480Km
武装 7.7mm機銃×2、乗員 1名
中国西貢基地で整備中の97戦

この春には山田為治、井出英次、飯野優、見方謀策氏 其他であった様だ。

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