188. 中島 AN-1高速連絡機(キ11試作戦闘機改)[日本]
       
NAKAJIMA AN-1(Ki-11mod)High-Speed Utility Plane [JAPAN]

 
 全幅:10.80m、全長:7.50m、翼面積:18.0u、
発動機:中島「寿」3型(ハ-8)」550/700馬力(公称/離昇)、
総重量:1,504kg、最大速度:430km/h(4,300m)、乗員:1名
初飛行:1935年
                   
                                                Illustrated by KOIKE, Shigeo , イラスト:小池繁夫氏   2008年カレンダー掲載 

 1930年代(昭和10年頃)に新聞社で活躍した「高速」連絡機である。
携帯電話で写した写真を、その場で友人にメールで送ったり、イチローや松井らの日本人スポーツ選手の活躍を生中継TVでみたりすることができる現代からは想像もできないだろうが、当時の情報伝達技術は、まったく未熟だった。とくに写真を送る手段は人手によるしかなかった。
 
 遠隔地域に派遣された記者の原稿やカメラマンのフィルム(乾版〉などを、他社よりも早く本社に届け、その日のうちに号外として発行したい。そのために案出された手段が、オートバイで近くの飛行場へ届け、待機している社有連絡機で東京・羽田へ、そして再びオートバイで本社へというタスキリレーと同じ駅伝方式だった。この駅伝リレーに遅れをとれば、せっかくのニュースも古新聞になってしまう。この競争のエースが各社航空機部の高速連絡機だった。
 
 このイラストの機体登録番号「J-BBHA」は朝日新聞社の112号機、1936年11月に北海道で行なわれた日食観測の
報道合戦で、のちに「神風号」でロンドンに飛ぶ飯沼正明が、時速400kmの高速で他社機を圧倒した栄光の機体である。
 
 だが、新聞社の高速連絡機というのは、この飛行機が開発された本来の任務ではなかった。実態はキ-11(中島社内呼称PA)という日本の戦闘機設計技術自立の先駆けとなった陸軍の試作戦闘機だった。
 
 1933年陸軍は複葉水冷エンジンの九二式戦闘機に代わるべき新型戦闘機の試作を川崎に対し発令した。川崎はキ-5試作戦闘機で応え、更に改修を重ねたが陸軍の要求性能に至らず不採用になり、結局制式採用されたのは複葉に戻ってキ-10となったが、世界は単葉機に移行しており太刀打ちできなかった。
 
 この時、中島では単葉機に将来の姿を見通し、小山悌技師の指導のもと井上真六を主任技師として、当時世界の注目を集めていたボーイングP-26を参考に社内記号PAと称して開発を進めていた。
 
 井上は細部にわたり徹底した空気抵抗の低減と重量軽減を図り、張線を若干残した単座・低翼単葉機を開発した。L.プラントルの翼理論を適用した放物線で整形された主翼の平面形、発動機を覆っているNACAカウリングなどに、革新技術を積極的に取り込み、外国人技師の指導に頼っていた先の中島九一式戦闘機(時速300km)を、自前の技術で乗り越えようとした設計者の意欲が現れている。 
 
 特に垂直尾翼から操縦席につながる背びれは、のちに三菱の九六式艦上戦闘機にも採り入れられたが、九一式戦闘機で苦労したフラット・スピン(水平錐揉み)から生まれた知識だった。
 
 その結果、全備重量1.5トンに収めることができて当時としては画期的で快速の性能となった。 陸軍の競争審査では、キ-11のスピードと「寿」空冷エンジンの信頼性・整備性は高く評価されたが、対抗馬であった川崎のキ-10複葉機のほうが、スピードは劣っても、小回りが効き、空中格闘戦では優位になるというパイロットの主張に遮られ採用に到らなかった。 しかし、この時の経験はノモンハン事変で活躍する傑作戦闘機キ-27 九七式戦闘機(陸軍)で実を結ぶことになる。
 
 中島の低翼単葉戦闘機の研究は、複座戦闘機のキ-8から始まり、このキ-11、そして変わり種・水冷単葉で初の引込脚のキ-12により設計技術を獲得して、キ-27 九七式戦闘機によって結実されたのである。
 
 キ-11は4機が製作されたが、その内 3号機、4号機が朝日新聞社に譲渡されて、最速の連絡機として注目され、1935年の大晦日に東京・大阪間を1時間25分で飛び記録を塗り替えた。

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