本機は昭和2年(1927年)陸軍が国産戦闘機に競争試作制度を採り入れた最初のものである。三菱と川崎はドイツ技術者の指導の元、水冷エンジン付き複葉の試作機に取り組み、一方、中島はマリー、ロバンの両フランス人技術者を招聘して指揮者として、大和田繁次郎、小山悌の両技師が協力して、昭和3年6月までに空冷エンジンを採用したいかにもフランスの香りのするパラソル型単葉のスマートなデザインの試作1、2号機を完成させた。
これら3社の機体はそれぞれ相当意欲的な設計であったが、総て過酷な飛行において強度不足で審査の結果は不合格となった。しかし中島はこれに社運をかけて改修に取り組む計画を提示し、陸軍もこれに応え、また将来性を期待し、ジュピターエンジンの国産化計画と合わせ増加試作の命令を出した。
中島では昭和5〜6年に大幅に改修した3〜7号機を試作し、遂に6年の秋、制式採用となった。折からの満州事変にあたって急速に量産され愛国号の名で献納され国民にも広くしたしまれた機体であった。
初期の1型(上のイラスト)は中島ジュピターエンジンと木製プロペラであったが、後期の2型(下のイラスト)は自社設計の「寿」を搭載、金属製プロペラとし、ジュピターの左回転のくせが右回転に変更となり実用性は更に高まったが、次期95戦闘機に世代交代となっていった。生産は昭和9年までに約800機が中島を中心に石川島飛行機でも作られた。 |