265.陸軍九七式戦闘機(中島キ-27)  

        Nakajima Type 97 Fighter  Ki-27 [JAPAN Army]

 

全幅:11.31m 、全長:7.53m、 総重量:1,790kg、 最大速度:460km/h

発動機:中島 空冷9気筒「ハ-1乙」(寿) 780馬力/2,600m

武装:7.7mm機銃×2、乗員:1名

初飛行:1936年10月

 

                                           Illustrated by Shigeo Koike , イラスト:小池繁夫氏 2001年掲載

 1935(昭10)年末、陸軍は九一式高翼単葉戦闘機(中島)および九五式複葉戦闘機(川崎)の後継機として航空3社に後継戦闘機の試作命令を発した。 中島では陸軍機部門の技師長であった小山悌技師を中心に太田稔(1934年入社)、糸川英夫ら二十歳代の若手技師の協力の下、それまでの新たな単葉機体の研究成果を生かし、1936(昭11)年初頭から意欲的な戦闘機開発に取り組み、11月には試作1号機を完成させた。

 全金属製・低翼・単葉・スパッツ式一本脚の降着装置という斬新なスタイルで、特に徹底した軽量化に取り組むとともに、あらゆる分野に新機軸を取り組み、脅威的な格闘性能をもち、とくに近接巴戦では世界一の戦闘機として、世界航空史上に特筆される中島の最高傑作軽戦闘機に仕上がり、海軍の九六式艦上戦闘機とともに、わが国、航空技術の近代化の先駆けとなった。 なお設計陣は引込脚も検討したが、外地の荒れた飛行場を勘案し固定脚と決し、空気抵抗を最小化するため独特のスパッツ形状となった。

 1939(昭14)年に発生したノモンハン事件(中国東北部とモンゴル国境地帯での軍事紛争)で、秘密のベールを脱いだ九七式戦闘機(九七戦)は、「ホロンバイルの荒鷲」として、連日、そのスマートな雄姿と大活躍が新聞紙上に伝えられ、国民を熱狂させた。九七戦の勝利は、当時の技術の極限の追求と、厳しい訓練で鍛えられたパイロットの技量によるものだったが、陸軍の戦闘機乗りに「近接格闘戦術」に対する固執と「現状技術」への過信を生み出してしまった。

 このため急速に進歩する世界の航空技術の中で、太平洋戦争の開戦時には後継機である一式戦闘機「隼」の開発は難航し間に合わず、九七戦は明らかに旧式化していたが、陸軍戦闘機隊の主力として活躍し続けなければならなかった。 それでも戦争初期のマレー方面での米英機に対し素晴らしい活躍をした。しかし昭和17年4月のB-25ドゥリットル部隊による東京発空襲の際には、迎撃に出ても追い付くことができず劣勢は明らかで重戦闘機の必要性を強く認識することとなった。

 最初の画(上)は飛行第1戦隊の初期型(キー27甲)である。 低圧タイヤは雨季の末舗装の飛行場での運用を考慮して、一時的に装備されたもの。 通常は空気抵抗を考慮して、流線形のカバーで覆われた幅の細い高圧タイヤが使われている。(下の画)  開発ストーリーは下段の解説をご覧ください。

 本機は生産性にも優れた独特の構造を有し、昭和11年から17年まで中島で2,007機、立川飛行機・満州飛行機で1,379機、合計3,386機が生産された。

                                        Illustrated by Shigeo Koike , イラスト:小池繁夫氏 1979年掲載

 


                                          Illustrated by Shigeo Koike , イラスト:小池繁夫氏 1987年掲載

 

 陸軍は九一式戦闘機の後継機として1934(昭9)年再び新戦闘機の競争試作の命令を出した。 これに応えた川崎にはキ-10、中島にはキ-11の番号が与えられた。(陸軍では1933年からキ番号を与えるようになり、キ-1は三菱の九三式重爆撃機である) 

 川崎は九一戦での反省から陸軍の好みである格闘性に重点を絞ることから敢えて複葉に戻った機体を試作した。 一方、中島は九一戦で高翼単葉の技術を完成させた事から、その後、将来は低翼単葉の時代になると確信し、自主研究機として PA、PB、PCの3種の機体を試作し研究を進めていた。ただ低翼とはいえ未だ主翼を支えるために張り線をめぐらす設計であった。

 1935(昭10)年立川の陸軍航空技術研究所にて審査が行われ、低翼のスマートなキ-11に関心が集中したものの、結果は格闘性に勝った複葉の川崎キ-10が採用となり、九五式戦闘機として制式機となった。 中島の小山技師はキ-11が不採用となってもそれほど残念には思わなかったという。 必ずや低翼の時代となる確信をキ-11の開発を通じ実感したのである。 4機試作した内の1機は不採用が決まった後、朝日新聞社に「AN1通信機」として売却されたが、1935(昭10)年末に東京〜大阪間を1時間25分で飛ぶなど次々と新記録を打ち立てたのである。

 中島は九五式戦闘機では競作に敗れはしたものの継続して研究を進め、後の九七戦の原型となる試作機PEを完成させていた。 案の定、陸軍は1935年末には早くも次期戦闘機の試作を企画した。 その内容は、・低翼単葉・最高速度450km/h以上・上昇力5000m6分以内 といった世界一級のレベルを要求したものであったが、小山技師にとってはPE機での実験結果から十分に自信の得られるものであった。この競作には中島・川崎・三菱の3社が応じそれぞれ キ-27・キ-28・キ-33の番号が与えられた。

 キ-27における新しい試みは、・主翼を1枚構造にしてその上に胴体をのせる形式とした(軽量、剛性)・胴体を前後に分けてボルトで結合した(軽量化に加え貨車輸送と生産性向上、修理交換の容易さを狙ったものであり、その後の中島機は勿論、三菱の零戦にも採用された)・カウルフラップを初めて採用 ・発動機カバーの着脱式(整備性をとくに重視した) ・水滴型風防の採用 ・リング状の滑油冷却器採用 ・陸軍機として初めての全金属製構造  等であった。 

 技術的課題(格闘性)を実現するため、まず翼面荷重を88kg/m2に抑えようとした。これはドイツのMe109が150kg/m2であった事から見ても、いかに徹底して格闘性を優先したかがわかる。そのためにはあらゆる個所に徹底した軽量化が進められ、生産工程増があっても部品の肉抜き軽量孔が徹底され「競作に勝つか、空中分解か!」と若い技術者達は必死の思いで限界に挑戦していった。

 重量軽減と共に空力性能が重要となるが、中でも主翼形状は設計者の思想が強く反映されるものである。小山技師を主務者として太田稔技師に加え、新人技師であった糸川英夫技師(後の東大工学部教授)や青木邦弘技師らを指導しつつ、このキ-27で中島の戦闘機主翼設計の基本を確立させ、以降の主要機種に採用されている。それは前縁を翼端失速を防ぐために直線とし後縁は緩い前進角のついたテーパー翼としたことである。PA以来研究してきた翼断面形状と相俟って迎角が極端に変化する戦闘機にあって優れた耐失速性能を実現した。また7度という大きめの上反角を与え座りの良い操縦性を実現した。 

 降着装置は前述のように不整地での運用を勘案し固定脚としたが、その分軽量化と空力的に優れた形状とし、当初はスパッツにマグネシュウムを用いているほどだった。航続距離についても強く望まれたが、キ-27は主翼内タンクだけで、軍からは操縦席後部の胴体内タンクの増設を要求してきたが、小山技師はパイロットの安全上から強硬に反対した。その結果、後に日本最初の落下式補助タンク採用に結びついた。また後部胴体の空間は後の実戦で思わぬ効果を発揮したのである。

 軍の審査は1936年から始まったが3社とも他社の情報を得るため激しいスパイ合戦であった。 水冷エンジンで臨んだ川崎のキ-28は高出力エンジンを搭載して高高度での最高速度に秀でて(485km/h)いたが旋回性能と水冷エンジンの信頼性不安から、見所が多かったが早々に競争圏外となってしまった。 ここから中島と三菱の対決となった。 最大速度試験でキ-27は468km/hで、三菱のキ-33(海軍の96戦の改造機)474km/hに破れたが、格闘性では抜きんでており、とくに舵の効きは陸軍の好みにピタリと合致しており、これが勝負の決定的要因となった。 発動機は中島機は勿論、三菱のキ-33も同じ中島のハ-1甲(680HP)を搭載していた。

 審査の結果、中島のキ-27が九七式戦闘機の名で制式採用となった。 しかしその後も増加試作10機を製作して各種の実用試験が行われ操縦性にさらに磨きがかけられ、単座軽戦闘機としては世界最高傑作と称された九七式戦闘機に育ったのである。 

 量産機の発動機は ハ-1乙(中島国産の寿2型の軍用発動機、空冷星形9気筒、排気量24.1リットルで1段過給器つき710馬力離昇)を搭載した。 この発動機は極めて信頼性が高く、ノモハン戦で1日5回の出動でもエンジン不調で引き返すことは皆無に近く、九七戦の実戦での成功の半分はこのハ-1乙発動機によるといっても過言ではなかったという。(海軍の三菱九六式艦上戦闘機も中島の同シリーズエンジン「寿」を搭載していた)

 ノモハン事変(歴史ではノモハン事件という)を通じての戦果は撃墜したソ連機は総計1,300機に対し我が方の損害は120機(爆撃機を含む)であり、九七戦は10対1の戦いを勝ち抜いてきた。また固定脚の恩恵も大きく大陸の滑走路に30cmも水が溜まる状況でも離着陸できたし、基地飛行場が使えなくなっても大陸の草原に着陸待機したり、不時着した僚機の側に着陸して、パイロットを胴体後部の空間に乗せて帰還するなど素晴らしい活躍であった。

 一方、欠点としては7.7mm機銃2丁という武装の貧弱さであり左右に500発づつ携行していたが、大型機には打っても打っても落ちないこともあった。 軍の標準仕様であったとはいえ、太平洋戦争初期においては明らかに劣勢であった。(胴体や翼の構造上それ以上の装備が出来なかった)

 先に述べたように、この97戦が余りにも格闘性に優れていた事から、軍はそれにこだわり、次期戦闘機キ-43「隼」の登場を遅らせる結果となってしまったこと、また時代の一撃離脱の重戦闘機への変化を素直に受け入れられなくさせたことは皮肉な歴史の結果となったが、30年の中島飛行機の歴史にあって、もっとも重要な傑作機であることは間違い無い。

  現在福岡県の太刀洗駅前の記念館(私立施設)内に博多湾から引き上げられた97戦が唯一現存する機体である。

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