600.九州 局地戦闘機「震電」(J7W1)[日本-海軍]
   KYUSHU SHINDEN J7W1 Intercepter[JAPAN-NAVY]

  
全幅:11.1 m、全長:9.66 m、発動機:三菱「ハ43」42型空冷星型18気筒 2,030 馬力、
総重量:4,928 kg、最大速度:750km/h、
武装:30mm砲×4、乗員:1名
初飛行:1945年 8月
 
Illustrated by Shigeo KOIKE , イラスト:小池繁夫氏 2004年カレンダー掲載

  日本海軍が開発した数多くの軍用機のなかで、ひときわ異彩を放っているのが、この尾翼を前方にして飛ぶ「震電」だ。上のイラストの機体は勿論手前に向かって飛行している。基本計画は海軍空技廠、詳細設計以降は九州飛行機鰍ェ担当した。先尾翼、カナード、エンテなどと呼ばれる形式であるが、帝国海軍では「前翼式」と定義した。この前翼式は、古くはライト兄弟のフライヤーもそうであったが、その後も幾つかの挑戦の例があるが大成した機体はほとんど無い。主翼は前縁で20度もの後退角をもち、また胴体先端が尖っていかにもスマートなこの形態は、実に先進的で、高性能というイメージを与える不思議な魔性がある。

  昭和17年から18年にかけて、戦争の激化に伴い日本本土を高々度から空襲するB29を予測し、その迎撃するため、強力な火器を搭載し上昇力の大きい高速局地戦闘機が必要となった。 海軍は中島には双発の「天雷」、三菱には双胴プッシャーエンジン(推進式)の「閃電」、そして九州飛行機に「震電」の試作を命じた。天雷は確実性を狙った設計であったが貴重なエンジンを2基使うなら単発機を2機との考えで数機の試作で中止となった。閃電は意欲的な企画であったが、プロペラ後流に水平尾翼がありその振動解決に時間を要し、またエンジンも必要な性能が得られなかったので試作開始直前で中止となった。 

 九州飛行機の「震電」は海軍航空技術廠の鶴野正敬少佐(当時大尉)の長年の研究と熱意で試作・飛行にまで至った。鶴野大尉は昭和18年3月この「前翼機」の課題を解くために模型による風洞実験を繰り返してきたが、さらに実証するためにモーターグライダーによる飛行事件に取り掛かった。それがMXY6前翼型滑空機と呼ばれるもので、空冷式水平対向4気筒・出力25馬力のエンジンを搭載し、並列複座、前幅11.14mで9月には完成した。このテストには鶴野大尉が自ら操縦し、「十八試局地戦闘機」としての技術的見通しがたったとして正式に試作が発令されたのである。

 震電の目標性能は当時の最速戦闘機「疾風」を120km/hも上回る405ノット(750km/h)の最大速度が期待されていた。基本計画主任でテストパイロットでもあった鶴野大尉が、水交社の浴場で「400ノット、400ノット」と掛け声をかけて背中を流し、それが綽名となったという伝説もある。だが冷静に考えれば、尾翼を前にして飛ぶだけでは高性能になるわけが無い。高出力エンジンを搭載して、かつ通常型戦闘機とくらべて、胴体を細くし、表面積を小さくして空気抵抗を減らすとともに軽量化の努力の成否が、400ノット達成を左右する。 

 確かに前翼もプロペラ後流の影響も無く揚力を得て、主翼はその分小型に出来、また燃料タンクも胴体内にも納め主翼内タンクは小さくしたことから層流薄翼が採用でき有害空気抵抗の極小化を試みた。また胴体も紡錘形で空力的に有利と思え、また双胴尾翼式の閃電と違って尾翼振動の問題もない。しかしその反面、エンジン冷却が難しく、プロペラ軸延長の振動問題や、またプロペラ自体も効率の良い大径のものが使えず六翔を使わざるを得ないなどの課題も多かったのである。 面白い話では機関砲の射撃後、薬莢を機外に捨てるとプロペラに衝突する危険があるので、機体内に格納しなければならなかったり、非常時にパイロットが脱出するときも同様の危険性があるため、プロペラ根元に爆薬をしかけ脱出時にはあらかじめプロペラを吹き飛ばす装置も必要で装備してあった。

  結果的に得失がどうであったかは試験飛行回数が少なく解が出せていない。海軍はむしろ震電の開発に踏み切ったのは、性能だけでなく、天雷や閃電と同様に、この配置なら、長さが3mを超える30mm機関砲4門を、プロペラの回転にわずらわされることなく機首に集中して配置し、機関砲の全能力を発揮して必殺の弾丸をボーイングB−29に浴びせられることにあったと思われる。

 終戦の直前の8月3,6,8日に約45分間の試験飛行を陸軍の蓆田飛行場(現在の福岡空港)で行われたことは、同じく初のジェット機「橘花」と同様に終戦直前の快挙である。実はこの様子がムービーとして残されている。操縦席までの地上高は3mを超えており、パラシュートを背負ったパイロットが梯子を用いて搭乗している姿は今日のジェット戦闘機の場合と同じである。また、その初飛行の着陸時に迎角をとりすぎ、プロペラが地面に接地し先端が曲がってしまったところも撮影されている。垂直尾翼の下端に小さな車輪が装備されたのは、この対策のため追加されたものである。

 元九州飛行機の清原邦武技師が昭和30年に投稿された航空情報誌に、海軍の計画要求書のなかに「将来タービンロケット(ジェットエンジンのこと)の搭載を設計に要請しており強い希望を持っていた」と書かれているのは驚きに値する。

 試作は強度試験用の0号機と初飛行の試作1号機の完成に続き、2号機もほぼ完成まじかにあった。1号機は戦後、アメリカに送られ、現在も国立航空宇宙博物館の倉庫(Paul E.Garber Facility)に保管されているが公開されていないのは残念である。是非ともレストアしていただきたいと思うのは私だけではあるまい。

 さて「九州飛行機」という会社について、1986年・明治19年に渡邊鐵工所として創業、大正8年に株式会社となり、大正11年には軍の指定工場になっている。 1935年・昭和10年には96式小型水上偵察機や11試水上中間練習機などを製作、昭和16年には2式陸上中間練習機、翌年2式初歩練習機「紅葉」や陸上作業練習機「白菊」などを生産。昭和18年に魚雷などを生産していた兵器部門から、航空機部門を分離して「九州飛行機株式会社」と改称された。丁度その頃に陸上哨戒機「東海を開発開始し、終戦前年の1944年・昭和19年12月に初飛行している。 「震電」の開発は、「東海」の開発が終了して比較的手隙であったことから選ばれたようだ。
           (2004年カレンダー掲載)

 



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