茶臼岳より朝日岳 那須連峰(二)

二日目の朝、三斗小屋温泉から峰の茶屋に戻るように歩き出す。こちらへはあまり人は行かないようで、どこからともなく人声はするものの、主稜線に出るまで人の姿を見かけなかった。


峰の茶屋には8時前に到着し、左手の厳めしい岩山然とした朝日岳に向かう。残雪の斜面をトラバースするところもあり、足を滑らせると数百メートル下の北温泉の軒先まで、とは言わないが、かなり落ちそうだ。5月で雪が締まっているからよいものの、強風の吹き荒れる冬など通過にかなり注意と度胸が必要だろう。
主稜線からほんの少し往復する朝日岳は好展望のピークで、とくに足下から落ち込む谷を隔てて見る茶臼岳の眺めは一級品だ。左手に広がる那須野原に美しく延ばす裾野と大きく不格好な頭の部分とが何とも不釣り合いで、しかもその頭のあちこちからは真っ白な煙を盛んに吐き出している。大地にへばりついて固まった赤茶けた蛸のようだ。朝日岳山頂まで火山ガスの噴気音が聞こえていたかいなかったか今では思い出せないが、きっと聞こえていたに違いない。音の感じられる絵というのがあるが、この眺めの絵はそういうものになるはずだ。
茶臼岳の右奧には日光連山も浮かんでいる。さらに右にある白い三角形はおそらく尾瀬の燧ヶ岳、その右の白い横長の台形はたぶん会津駒ヶ岳だろう。もちろん塩原温泉裏の高原山も男鹿(おじか)山塊も見える。反対側に目を向けると、ナマズの頭のような三本槍岳が顔を出している。しかしその右肩に見える三角形の山はなんだろう?
三本槍岳 三本槍岳
朝日岳を後にして那須連山最高峰の三本槍岳へ向かう。小広い山頂から会津方面を見ると、このあたりには珍しい背の高い鋭鋒がひとつ、目立ってそびえている。朝日岳から望んだ三角形の山、甲子温泉裏の旭岳だ。まわりに高い山がなく、まさに孤高の山である。どうしても目がいってしまう。縦走路はあれを越えていくのだろうか、登る身には期待3割に不安7割といったところだったが、地図を確かめると登山道は中腹を回り込んでいくようだ。失望3割、安心7割である。目の前の旭岳の奧に、大白森・二岐山・小野岳などの会津の山々、磐梯・吾妻・安達太良の懐かしい山々、そしてまだ真っ白な飯豊山塊が見える。
月曜の昼だというのにグループ登山者がひっきりなしに来る。だが山頂のヘリに腰掛け、山々に面していれば喧噪も気にならない。


半時ばかり会津方面の山々を眺め続けたのち、甲子温泉を北に目指す道に入り、次のピークの須立山との鞍部に下っていく。山頂の騒がしさが途端に遠くなる。大概のひとは来た道を戻って北温泉で一浴して帰るらしい。稜線左下に見える雑木に囲まれた小さな鏡ヶ沼が余計にひっそりとして見える。
旭岳と鏡沼 旭岳と鏡沼。手前右は須立山
登り返して須立山に着く。山頂は三本槍ほど広くはないが、同様に見晴らしが良く、何より人がいなくて静かでよい。三本槍よりいっそう近くなった旭岳と会津の山々を眺めて佇む。
ここからの下りはとても恐ろしい急傾斜で、しかも平石が積み重なっていて滑りやすく、一歩間違えれば岩雪崩を起こしかねない危険な道だ。下っている最中に山頂を振り返ると、まるで垂直のように見えるほどだった。下りきって小さなコブを二つばかり越え、旭岳の頂上に続く稜線に乗る。しばらくはよい道だが、突如として密ヤブにでくわし、ルートは右に山腹をトラバースするようになり、笹が横倒しになっていたり岩が出ていたりのひどい道になる。
トラバースを終えて反対側の稜線に出ると、そこは坊主沼という小ぶりの沼のほとりを歩く道になるのだが、沼側に傾いているうえに残雪があたり一面を覆っている。滑って転ぶと沼の中である。転ばないように足下ばかり見て進んでいたら、宙に伸びていたミネザクラの枝に気付かず、眉間をしたたかに強打してしまう。危うく水中に倒れ込むところだった。
おそるおそる水辺を歩いてようやくの思いで着いた坊主沼避難小屋は、入り口の前が開けていて一休みにはいい雰囲気だ。中を見てみるときれいな板張りで中央に焚き火ができるスペースまである。防風もしっかりしているようで、少人数で泊まるにはよさそうだ。ここをベースにして旭岳の登路を探るのも一興かもしれない。小屋を出て残雪に縁取られた沼を見渡しながらささやかな夢に浸る。


小屋の前から続く山道では何度も残雪の上を歩いた。旭岳北の稜線を下る急なざらざらの土の道を過ぎて「水飲み場あり」の標識を見送ると、道は平坦になって歩きやすくなり、涼しげなブナの林も現れ、郭公の鳴き声も聞こえてくる。横倒しの笹の上や傾いた雪の上を歩いたあとだからとても嬉しい。
最後のピークである甲子山の頂は広くはないが眺めはよい。振り返ってみると見上げる三角錐の旭岳が威風堂々としている。何度見てもいい山だ。そのうちぜひ登りたいものだ。
甲子温泉への下り 甲子温泉への下り
甲子山から樹林帯の中を下って車道に出たのは3時過ぎだった。目の前には一軒宿の甲子温泉がある。もう客が来ているらしく、車が2,3台泊まっている。白いコンクリート造りの本館前に回ると、玄関脇の事務所のなかに番頭然とした男性がひとりいるのが見えた。平日の夕方に山から下ってきた単独行者に驚いたらしく、窓を開けて声をかけてくる。
「どこから?」
「三斗小屋から」
「誰もいなかっただろう?」
「誰もいなかった。しかしすごい道だった」
「最近ここまで歩く人はいないからね。....バス停はずっと先だよ」
そう、バス停まではさらに1時間弱ある。阿武隈川の上流に沿って新緑をめでつつ、最終バスに間に合うよう歩みを速めるのだった。
1999/5/30-31

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