朝日岳から茶臼岳那須連峰(一)

那須は噴煙上がる茶臼岳の直下にある大丸温泉に家族で行ったのが覚えている最初である。たしか高校生の春休みのときだったはずだ。温泉ブームがやってくるまえのこと、3月とはいえ実は山の上は雪だらけであることなどつゆ知らずに予約の電話を入れ、ほとんど往来する車のない真っ白な那須ボルケイノハイウェイを父親の運転する車で上り、当時は静かな旅館に着いたのだった。それからは文字通り温泉三昧である。他にすることがなかったのだ。
迷路のような通路をたどって着く大浴場は夜中など貸し切りで、割れたガラス窓から雪混じりの風が吹き込んでくるものだから湯気がもうもうと上がり、反対側の壁も見えないくらいだった。そんななか広く深い浴槽を泳ぎ回ったことを思い出す。今ではこの温泉宿もかなり高級化しているらしいから、窓ガラスが割れているなどということはないだろう。 (だが、あのときの大丸温泉の静けさと浴場の湯煙は、いまでも家族の語りぐさになっている。)
あとは茶臼岳を連れといっしょにロープウェイ経由で登ったことがあるくらいで、那須もまた近くて遠い山だった。どうせ行くなら南から北まで縦走したいと思っていたのだが、泊まるべき宿の三斗小屋(さんとごや)温泉がまた温泉ブームのおかげで泊まりにくい宿になってしまっていて、土日に行けるような感じがしなかったのである。だがこれではいつまで経っても那須には行けない。ある年、とうとう決心がついて、5月末の日曜月曜の二日かけて観光地ではない那須を歩きに行くことにした。


9:20に黒磯駅前を出たバスはリンドウ湖を経由して本日の登山口となる「あけぼの平」まで大回りしながら走る。下車後、別荘地の合間を通る車道を汗まみれになって登る。こういう山の中の車道はたいがい歩く人のことを考えて造られていない。歩く人がほとんどいないからだ。それにしても急な登りだ。忍苦の果てに山道に入るとようやく緩やかな斜度になり、足の裏にかかる衝撃も舗装道と違って柔らかになってほっとする。ここは樅の木が多い。静かだ。(だが、舗装道より山道のほうが歩きやすいというのは実はおかしいことではないだろうか....?)
本日最初のピークは黒尾谷岳である。山頂周辺は灌木が茂っていてまるで眺め無しのように思えたが、人ひとり立てそうな大岩に登ると、行く手に立ちふさがる南月山の稜線の上に活火山の茶臼岳が頭を出しているのが見える。振り返ると男鹿山塊も眺められる。シロヤシオのつぼみが目の前にある。シャクナゲが咲いている。
黒尾谷岳・南月山間のシャクナゲ 南月山の途中:シャクナゲ
南月山に向かって黒尾谷岳を下っていくと単独行の女性に会う。曰く、「花がたくさんあって意外ですね」。確かに那須の主稜線はガラガラとした岩場だから、このあたりの緑の多さが予想外に思えるのも無理からぬ話だ。黒尾谷岳と南月山を結ぶ吊り尾根ではウグイスとホトトギスが競演している。右も左も谷間ななので鳴き声がよくこだましていた。
たどりついた南月山山頂は誰もいなくて、茶臼岳や朝日岳が砂礫とハイマツの平坦な稜線のかなたに眺められる気持ちのよいところだった。黒尾谷岳山頂も静かだったが、開放感にはやや欠けた。南月山では心が伸びをすることができる。矛盾しているようだが、こういうところではほとんど義務感に追われるようにコーヒーを飲む。いわば「ゆとり」を演出するのである。時間に追われる勤労者の身としては致し方ないと自己弁護させてもらおう。
日の出平から南月山(奧) 日の出平から南月山(奧)
小憩後、噴煙上げる茶臼岳を正面にしてほぼ平坦な日の出平まで歩く。山道周辺に大きな木がないので左右の眺めが良く、天気もよい今日は遠望も利いて気分は高揚するばかりだ。茶臼岳の手前あたりで現れる花をつけたミネザクラの木々も心を浮き立たせてくれるのだった。
右行けばロープウェイ駅、左行けば峰の茶屋となる三叉路の牛ヶ首では観光客の姿も多く、歩みを留めずに峰の茶屋方面に進む。右手頭上に茶臼岳のドームが大きい。噴気口から吹き出すガスの音がかつて安達太良山であった火山性ガス事故のことを思い出させ、落ち着かない気分にさせる。茶臼岳のドームを回り込んで到着する峰の茶屋ではハイカーが大勢休んでいた。茶臼岳から下ってきて一息ついている人達だろう。自分はどうしたものかと迷ったが、本日は投宿までの時間的余裕があまりなく、周囲に観光客が多いのも敬遠材料となって、けっきょく山頂に立ち寄るのはやめにした。
「茶屋」と言いながら避難小屋があるのみの峰の茶屋から稜線左手の三斗小屋温泉への下り道へはいる。両側が火山岩に覆われた赤茶けた谷を下っていく。底に避難小屋があるが、ガラス窓が割れて泊まるにはどうか、という状態だった。ここで再び緑の木々の中を歩くようになる。
三斗小屋温泉への道 三斗小屋温泉への道
沢を渡ってしばらく行くと勢いよく湧き水が迸っている場所がある。延命水という名の水場だ。ここでふたつある水筒に水を満たす。明日の水はこれで十分だろう。ここを境にして岩の出た歩きにくい道から平坦な歩きやすいものに変わる。両側は新緑の雑木林が続き、その先には三斗小屋温泉が山間に湯煙を上げているのだった。


二軒ある宿のうち煙草屋旅館に泊まった。太鼓で報知される食事時刻に大広間に行ってみなと一緒に夕食を食べる。日曜の晩だというのに人でいっぱいだ。食後、露天風呂に入りに行く。風呂も眺めも広くてよい。大倉山の連嶺を正面にして見晴らしがいい。ただ日の長い季節の西日が真っ正面から当たって眩しくて仕方がない。日の光が湯のおもてに反射して輝く。浴槽の向こうのふちから谷が始まっている。その向こうに山がある。そちらに背を向ける気にはならず、目を細めて湯につかっていた。
部屋に戻ってうつらうつらしていると、さすがに山中だけあって日の陰るころにはかなり寒くなる。鼻をすする回数が増え始めたので慌ててふとんを敷いて寝た。
(その2に続く)

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