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 ハイジは歌う (1)

 だれもが触れているけど知らない歌 ―― ハイジのお日様の歌について



 多くの人が接しているのに、だれもそれがどこから来たのか知らないもの・・というものがあります。
 こう書き出すとなんだか特別なお話のようですが、すべてのものには由来があります。

 でも知らなくても別に問題はありませんよね。
 普段使っている言葉の一つ一つ、物品の一つ一つがそれぞれ計り知れないほどの歴史を持っているのがあたりまえです。

 身近にあるものとして出会い、使い、口ずさみ、何かを感じる。

 そして気がつかないままに、はるか昔の人たちと同じことをしている。心をかよわせあっている。それがそうと知らないままに、です。

 人から人へと伝えられ、手渡され、変形され、それでもなお、その時々の人の心を揺り動かして「なにか」を与え続ける、長い長い旅をしてきた「情報」たち。

 どんなことでもいいのですが、何かをわずかでも調べはじめますと、背後にある深さが少しづつわかってきて、やがて立ちつくす瞬間が訪れます。




 児童文学の古典として読みつがれている「アルプスの少女ハイジ」には、5つの歌が収録されています。
 どれも作中で、主人公の10歳に満たない少女が口にするのですが、1880年の19世紀に書かれた原作では出典が記載されていません。

 ハイジは日本には1920年(大正9年)に初めて翻訳されています。
 それ以来、様々な訳がありますがやはりこれらの詩の原典にさかのぼって紹介されたことはありません。

 私がハイジに関心をもったのは2000年頃からですが、作者スピリの作品をハイジ以外にもいろいろ読んでいきますと作中に頻繁に「詩・歌」が登場しており、短編でさえ「詩」が挿入されていない作品は珍しいので、「詩」が作者にとって極めて重要なのだと気づかされました。

 そこでハイジの「詩」の原典を探し始めたのですが、これがさっぱりわからない。

 ドイツ文学者高橋健二のスピリの伝記に「小説の中には、パウル・ゲルハルトなどの古い賛美歌や母の詩とならんで、自作の詩が随所に織り込まれている。」とあるくらいで、日本の研究ではまったくかえりみられなかった分野だったのです。


 昨年2005年10月21日に九州東海大学の純丘曜彰助教授より、「ハイジに関する本」についてのメールをいただき、ハイジの詩の原典は何であるか教えていただきました。
 本当に感謝の言葉もありません。その他にもいろいろとご高配いただいたのですが、これを知った瞬間の感動は忘れられません。

 そして、どうやって探すことができたかも後で教えていただいたところ、インターネットでの検索なのでした。
 ハイジのドイツ語原文をドイツのサイトで検索をかけると確かにでてきます。同じようにしてハイジの5つの歌のうち、4つまでを特定することができました。
 普段一番自分がやりそうな調査方法であっけなくわかってしまうのに、なんともうかつなことでした。「調べていた」と公言するのが恥ずかしいです。
 純丘助教授に原典を教えていただいたお礼をいうと「たいしたことではありません」と言われてしまいました。返す言葉がありません。m(_ _)m

 ドイツでは充実したサイトが次々と誕生し、どんどん情報が蓄積されていて頻繁にチェックする必要があったのです。時代の進歩に遅れていました。


 さて、こうやってやっと原典がわかった4つの歌は、どれもプロテスタントの讃美歌として歌われているものです。
 そのうちの一つは日本の教会で普段使用している讃美歌集にも収録されています。


 私は楽譜が読めませんし、詩について何も知りませんし、わかりません。
 ましてやドイツ語の原文が本当はどんな意味をもっていて、音のつながりの構成をどう味わうべきかというのは、言い訳するのもヤボでしょう。

 解説の資格はないのがわかっておりますので、この「ハイジは歌う」の項目は最大級の課題として残っておりましたが、数回にわたって、できるかぎり書いてみたいと思います。

 何かお気づきの点がありましたらどんなことでも結構です。
 どなた様からでも、ぜひともご教授いただければ幸いです。




 原作ハイジは前後編に分かれていて、家庭の主婦であった作者が匿名で書いた前編が好評だったので、後編が翌年に書かれて実名で発表されました。

 ハイジ前編はヨハンナ・スピリを後世に残る作家として誕生させた作品だったのです。

 この前編は、題名の付け方や内容を見てみますとこれだけで完結の予定であったようです。

 そして前編で引用されている詩は一つだけ。通称「お日様の詩」であり、おそらくこの詩が作者にとってハイジという物語の中でもっとも重要な詩のはずです。



 ハイジ前編14章「日曜日の鐘」を簡単に紹介します。

 フランクフルトでホームシックになってやせ衰えたハイジがスイスの山に帰ってきます。
 ハイジは試練の日々を送っていたのですが同様におじいさんも愛する孫を失って失意の内にありました。
 ハイジと一緒に暮らす以前のおじいさんも「神をうらみ、人を憎」んで一人で山の上で暮らしていましたが、さらにひどい精神状態になっていたのです。
 しかしハイジと再会し、そして孫が都会で覚えてきた「放蕩息子の物語」をけんめいに語る心に動かされ、深夜に幼子の寝顔をみつめながら、回心をひとり告白します。

 翌日の土曜日、ハイジはおじいさんと一緒に、やはりさびしい思いをしていたペーターのおばあさんを訪ね、目のみえないおばあさんが以前から聞きたがっていた古い詩集を朗読してあげます。

 二人の老人にこのうえない心の癒しと救いをもたらして、この物語は目的地に到達します。

 次の日曜日におじいさんは、初めてハイジをつれて数年ぶりに村の教会に姿を見せて、すべての人と和解します。ここはすでにハッピーエンドの決定したお祝いシーンです。

 ですから物語のクライマックスは、やはりハイジの成長とおじいさん・おばあさんの救いを決定付ける「ハイジの朗読する詩」になります。


 この詩は

原題「Die güldne Sonne, voll Freud und Wonne」
           (黄金色の太陽、よろこびとさいわいに満ちて)

作詞 パウル・ゲルハルト Paul Gerhardt 1607-1676  1666発表
作曲 ヨハン・ゲオルグ・エーベリングJohann Georg Ebeling 1637-1676 
    (その他バッハ BWV 451 1748の曲もある)

 でした。
 日本でも訳されたことはありましたが、一般にはまったく知られておりません。
 (教会讃美歌 425 コーラル 聖文社1974 絶版 この出版社の最後の本と思われる)

 ハイジの読者の間では、題名不明のままずっと「お日様の歌」と呼ばれてきました。

 パウル・ゲルハルトはドイツ・ルター派の牧師で、歴史上の讃美歌作者の中で最高峰と一部で評価されるほどの詩人です。
 ルターとゆかりの深いウィッテンベルグ生まれ。
 前半生で30年戦争を経験。44歳で牧師となりベルリン大教会で重要な存在となります。しかしルター派とカルヴァン派の抗争により免職され、地方の小教会でひっそりと晩年を送りました。

 その詩は近代の主観的・人道的傾向をも含んでいるといわれ、バッハも多くの曲をつけています。

 ゲルハルトの詩は、ナチスや冷戦への抵抗にも登場し、シュヴァイツー博士も大きな共感をよせていました。

 日本に紹介されたゲルハルトの詩はいくつかあり、教会讃美歌集からは絶対にはずせない曲もあるのですが、この詩は従来ほとんど知られていませんでした。
 全12連ありますが、原作中では1,2,8,12連を使用しています。

 そしてテレビアニメ高畑ハイジ第37話「山羊の赤ちゃん」でも大意を損なわないよう短縮して使用されています。この場面はとても美しく、心にしみわたる場面であり、見た人ならきっと覚えていることでしょう。

 テレビアニメのハイジは1974年に放映されてから、再放送用にマスターフィルムから100回以上コピーされているそうで、おそらく最も多く再放送された番組の一つといわれています。

 だれもが触れている。と冒頭で書いたのは、このアニメを通してほとんどの日本人が接しているという意味です。
 見て可愛く美しく、展開が面白く、品のある作品となっていて、親が子どもに見せたいテレビ番組アンケートではいつも上位に姿をみせます。
 おかげで放送後30年以上経ったいまでもコンビニで関連商品を見かけることがあるのは驚異的です。
 原作もアニメも「天使が地上にまいおりた」ような作品だと私は思っております。


 これまで原曲がわからなかったので、テレビ番組では朗読で表現するしかありませんでしたが、原典が判ったことでメロディーもわかりました。
 エーベリングのメロディーは素朴で、ハイジが歌うのにふさわしいように思えます。

 作中に引用されていない部分では、多くの苦難も表現され、それらが乗り越えられたあとの、平安と救いを歌い上げています。

そして興味深いのが、ゲーテの名詩「ミニヨン」との関連です。→「マイスターとハイジ」


 ハイジ第一部のもともとの題名は「ハイジの修行と遍歴時代」で、これはゲーテの大作「ウィルヘルム・マイスターの修行時代」「ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代」になぞられた題名なのです。

 そしてこの「マイスター」に登場する少女ミニヨンは、ハイジと多くのモチーフが共通しています。

 作中でミニヨンが歌う「歌」はとても有名ですが、どうやらこの詩と「お日様の歌」が関係があるようです。

 作者スピリは別の作品(デビュー作の「フローニの墓の上の一葉」)でもこの「お日様の歌」の別の部分を使用していますが、ハイジで1,2,8,12だけを抜き出した意味はナンなのでしょう。

 何かあるはずと思っていたのですが今年の3月思わぬ怪我で入院・手術することになり、その間パソコンを持ち込んで、いろいろと翻訳などを試み、私なりに確信を得る事ができました。


 まず注目したいのが

 ミニヨン1連(以後、M1と表記)のdie Goldorangen と

 お日様の歌1連(以後、G1と表記)のDie göldne Sonne です。

 どちらも詩の冒頭部分で、「黄金色」に光り輝くオレンジと太陽が登場します。ここから対比がはじまります。



 全体で言うと、M1G1 も、共に自然の美しさを歌い上げ、癒しを求めています。

 M1は不幸な少女ミニヨンが故郷への激しい渇望をもち、それをひそかに愛し慕ってやまないはるか年上の主人・ウィルヘルムに連れて行ってと求める、満たされることのないあこがれです。

 G1は、ただの美しい空によって、心みたされ、癒され、失望のなかから新たに希望を得たことを歌います。



 M2では、建物、故郷の我が家がしのばれています。私が帰るのをおうちが待っているのです。故郷の我が家は肉親の作ったものであり、そこへ行くために、愛する人が守り手になってほしいと求めています。

 G2は、世界は神が作ったものであり、人間の作った家などは問題ではなく、また人間によって守られるのでもない。
 はかない人のきずなに最大の価値を求めず、ついには平和のうちに自由になることを表現します。



 M3は故郷に帰るための苦難の道です。
 望みにいたるための試練の山。
 竜にも立ち向かう、想像を絶した命がけの旅です。
 そこへ「父」というもっとも強力で切り離せぬ肉親になぞられた「あの人」と一緒にいきたい。のです。
 しかしながらその決意はありますが、あまりの空想の飛躍に現実味が薄れていき、絶望の匂いがします。

 そしてM1,M2,M3と最終の「あの人」の表現は、「愛する人」、「保護者」、「父」と、より思い入れ深く、少女にとって抜け出せない絶対的存在になっていくのです。
 これはやがておとずれる少女・ミニヨンの悲劇の臨終の伏線となっています。


 G8G12はスピリの選択です。
 ハイジが読んでいる本は、実際はG3-G7G9-G11があったはずですが、作中では完全に飛ばされて、「お日様の歌」は4連しかない詩のようにしか見えません。

 そしてG12はおばあさんのリクエストで全部を繰り返しています。
 ですから作中では
 G1,G2,G8,G12,G12となります。
 スピリは別の作品でG7を引用していますので、他の連を無価値と思っているわけではありません。
 省略したのは、あくまでも「何らかの意図」を表現するためです。


 G8は永久にあるものは何かを歌います。絶対神への確信により、救いがあり、慈しみがあり、心の痛みはとりのぞかれます。

 そしてG12では、M3のような苦難の後で、再び太陽があらわれ、天の国の門が開き、願いはかなえられると歌います。


「ああ、ハイジ、おかげで胸のなかが明るくなったよ。ほんとうにうれしいよ」
 
と目の不自由なペーターのおばあさんは涙を流します。
 目が見えず、暗闇に閉ざされていた心が明るくなりました。
 ハイジもおばあさんの喜びようをみて、自分が何をしてあげたのか自分で自分に驚くのです。



 ゲーテの詩「ミニヨン」でもっとも印象的なのは「Dahin! Dahin」(彼方へ、彼方へ)という、血を吐くようなリフレインです。

 M1からM3まで、すべて終わりの同じ場所に置かれて、この詩の形式を決定しています。

 そしてゲルハルトの詩G12の最後に、やはり「Dahin」があります。


 最初の「黄金色」と最後の「彼方へ」を考えると、やはりスピリはゲルハルトの詩を編集して、ゲーテのミニヨンにぶつけているのだと思います。G12を繰り返すことで、「彼方へ」が二回あることになるのです。

 「ハイジ」を「マイスター」になぞらえているのは題名から明らかですが、詩の構造を対比させ、ミニヨンが歌うように、ヒロイン・ハイジに歌わせるのは、スピリの挑戦でしょう。

 ハイジがカールした黒髪であるのも、モデルがミニヨンなら不思議ではありません。イタリアっぽい女の子なんですね。
 夢遊病になったり精神的に不安定だったり、あるいは最初におじいさんに会った時に妙に怖がったりしないのも、「なるほど」になってしまいます。


 それにしても二つの「彼方へ」の思い。二人の少女の運命の違い。
 これはなんという違いでしょう。
 二人の作者の方向性、狙っている標的はまったく違います。


 スピリはゲーテを尊敬し、その作品にはさまざまな影響を受けています。
 しかし偉大な先人へのただの賞賛におわらず、自分の考えを述べているのです。



 ゲーテの作品には、ミニヨンのほかにファウストのグレートヒェンなど悲劇的生涯の少女が登場します。
 そしてハイジは9歳。ミニヨンは11歳。グレートヒェンは14歳です。(いずれも推定)
 大して変わらない年齢です。

 19世紀だろうと21世紀だろうと現実世界において不幸な子供は数限りなくいます。

 自身女性であるスピリにとって、これは自分自身の運命にもかかわる、どうしても必要な幸福の希求であり、不幸な少女への呼びかけであり、救済の手のさしのばしであり、
 さらにはすでに不幸な生涯を終えた数多くの魂をなぐさめる祈りではないでしょうか?


tshp 2006/8/12


「ハイジは歌う(2)」 に続く 


純丘助教授、L様、賛美歌の資料を貸していただいたH・T牧師夫妻、
探索に協力いただいた柿木畠の教会とH学院図書館の皆様、K夫人、
わがままな患者を癒してくれたK医療センターの皆様、その他多くの方々に深く感謝いたします。



追記

 原作ハイジのスピリの編集した「お日様の詩」、あるいはアニメハイジの「朗読部分」。どちらもそれぞれ味わって充分に意味ある美しい部分です。


 そして、今回ようやくわかった元の詩の全体と、メロディー、そしてミニヨンを背景にとらえたことで、新たな気持ちで「歌って」みたくなりました。

 ゲルハルトの原詩は長く、またこれまでの翻訳文ではうまくメロディーにのりませんので、別に短縮化した「歌える歌詞」(モドキ)を作ってみました。
(これも入院中の産物です。我ながらホント無謀なことをしてます。)


 ハイジの歌としては、日本では初めての試みになるはずです。本邦初演(?)というわけです。

 歌うことでハイジやスピリの気持ちに近づき、もしかしたら時を越えてちょっぴり心を通わすことが可能かもしれません・・。

 歌詞の著作権は主張しませんので、どうかご自由にお使いください。
 ただし、改良のため、予告なく歌詞の一部が変更されるかもしれません。
 ご容赦ください(^ ^;)

 また、知り合いのピアノ教師、K夫人からのご好意で、伴奏を創作した演奏をいただき、これもインターネット上で公開してよいとご許可いただきました。

 できましたらご利用の時には、ご一報いただけるととてもうれしいです。

 どうかよろしくお願いいたします。