Web-Suopei  生きているうちに 謝罪と賠償を!

慰安婦の裁判

 支える会が支援した慰安婦裁判は、山西省の被害者による1次訴訟・2次訴訟と、海南島の被害者による海南島訴訟の3本でした。原告たちは勇気を奮い起こして提訴し、直接法廷で自らの体験と長年心にとめてきた思いを吐き出すように語りました。そして今までほとんど知られなかった中国人「慰安婦」の被害状況が少しずつあきらかになりました。

 

第一次訴訟 第二次訴訟 海南島訴訟
海南島訴訟

 

原告と請求内容

黄有良ほか7名 各人に謝罪および金300万円の支払い

提訴

2001年7月16日 東京地裁 訴状

東京地裁判決

2006年8月30日 敗訴 判決文 判決要旨 弁護団声明

 

東京高裁判決

2009年3月26日 敗訴 判決文 判決要旨 弁護団声明

事実認定○、不法行為○、国家無答責任○、請求権放棄×

最高裁決定

2010年3月2日 敗訴 決定文 弁護団声明

 

支援団体

中国海南島戦時性暴力被害者の謝罪と賠償を求めるネットワーク

海南島性暴力被害者を訪ねて

 2001年6月、弁護団は海南島へ調査に行き、加茂川という川傍の藤橋というまるで日本の地名のような場所にあった慰安所跡を訪ねた。その後原告となる八 人の方たちに会い、丸2日に渡って聴取をした。少数民族で文字がなく「譚(タン)さん、黄(コウ)さん…」と音に中国字を当てた名前を名乗る女性たちで あった。皆、若い頃はさぞ愛らしかったのだろうと思わせる容貌と、70才をいくつも超えた今も話し方や身なりに女性らしい雰囲気を漂わせる方たちだった。 聴取が当時のことに及ぶと、話はまるで昨日のことのように生々しく私たちにも映像として伝わってくるようだった。また記憶に封印をしてきたような残虐な場 面について質問が及ぶと「なぜそんなことを聞くのか、そんなことを聞かれて私がどんな気持ちでそのことを思い出し語らなければならないか、人間なら分かる だろう」と涙ながらに訴える姿にも接した。「尋常でない悲惨な出来事がどれほど鮮明に記憶されているかを明らかにすることで、心の傷の深さを裁判所に伝え ることができます」と説明した我々も質問するに忍びない思いであった。また、慰安所を逃げ出したために地面に刀の刃を上向きに置いてその上で腕立ての姿勢 をさせらる罰を受けたという女性は、「あのとき泣きながらさせられたことをこの年になってまた再現しなければならないなんて…」と涙をうかべてそのときの 様子を示してくれた。暑い中での長時間の聴取を終わったとき、少数民族で言葉では通じ合えない女性たちがそばに来て「私たちが死んでもかわりにきっと戦っ て欲しい(通訳による)」と話しかけてきた。海南島を発つ飛行機から島を見たとき、この島の中で彼女たちが耐え続けた時間が確実に存在したこと、そしてお そらくあと何年かのうちにすべての記憶を一緒に墓場へ持っていってしまうだろう女性たちに出会ったということを重く感じずにはいられなかった。(弁護士  杉浦ひとみ) 

東京地裁での闘い

○提訴(2001/7/16)

  訴状

 

 〇2001年7月16日、原告黄有良さんら8名は、国を相手に謝罪と名誉回復等を求めて東京地裁に提訴しました。
 今回の提訴は従来の戦後補償裁判とは違い、『謝罪と名誉回復』を中心とする戦後の責任を追及するという点で大きな特色があります。具体的には、謝罪文の交付と新聞での謝罪広告の掲載、そして300万円の損害賠償を請求しています。
 この訴訟の意義は2つ考えられます。1つは被害者の人権救済です。被害者の筆舌に尽し難い苦痛を理解し、被害事実を認め謝罪し、賠償することにより、本当の意味で戦後を迎え、将来の日中両国の平和的関係を築き上げることができます。もう1つは、謝罪と賠償をすることにより、経済交流はもとより、あらゆる面 での交流がより活性化し、日中両国にとって大きな利益となるということです。
 日本の裁判所はこれまで多くの戦後補償裁判で、国家無答責や除斥等を理由に原告の請求を棄却してきました。海南島性暴力訴訟の原告らは「自分たちの願い は、日本政府に日本軍が行った蛮行の事実を認め、謝罪をし名誉を回復してくれることが一番の願いである」と言っています。そこで今回の訴訟では、今運動が 進みつつある立法的解決をはかり、裁判所が勇気を出して公正な判決を言い渡せるように『謝罪と名誉回復』という戦後の不作為に的を絞って訴えることとなりました。

 

〇第一回口頭弁論(2001年11月28日・東京地裁103号法廷)
 11月28日、第一回弁論が開かれました。大きな法廷がほぼ埋まる傍聴人(老若男女と多層で新顔の方も多数)が集まりました。
 まず、原告黄有良さんが証言台に立ち、戦中自分の受けた被害とこれにより今も残る心の傷(PTSD)、戦後から続く周囲の非難や蔑視の状況、そしてこの訴訟に求めるものが「名誉と尊厳の回復」であり、今日この場に来られなかったほかの7人の原告の願いであることを自分の言葉で話しました。黄さんの話す黎語 から北京語に、北京語から日本語にと二重の通訳を介しました。その後、原告側代理人から、事実についての認識を裁判所に持ってもらう意味で「海南島原告らの被害の状況」とについて八人の原告の被害事実について凄惨・衝撃的ないくつかのエピソードをあげて紹介しました。続いて「海南島侵略の歴史」とこの訴訟の法律的構成について、具体的には性暴力被害についての不法行為責任を問うのでなく、戦後原告らの名誉回復が図られてこなかったことにより受けた原告らの被害の救済を求める訴訟であることを法廷で明確に伝えました。さらに、この訴訟の持つ意義について。原告側のアピールは二時間弱を要し、終わったときに傍聴席からは拍手がわき起こりました。
 この後、原告側から被告代理人に対して『事実についての認否』を行うよう要求をしました。これに対して被告側は「その要求について書面で出してしてほしい」と。この迂遠な要求に対しては、裁判長が「口頭で要求のあったことを裁判の記録にとどめます」と。そして、事実の認否ができるかの回答を求めると被告側は「即答できない」を繰り返し、業を煮やした(?)裁判長が被告側に実のある回答を促し、傍聴席からヤジが飛ぶという一幕もありました。裁判所は第一回目を見る限りではフェアな立場にあるという印象でした。被告側からの答弁書は比較的詳細に書かれ、原告側の今までの戦後補償とは異なる「戦後なすべき名誉回復を怠ってきた不作為による不法行為」との原告の主張について、戦中の不法行為が前提となっての名誉回復であり、国家無答責という従前の論点が出てくるのではないか、という指摘もありました。法律論は、原告側としても今後詰めていく大きな課題ではありますが、今回伝えるべき点は裁判所に伝えきった、という第一回目の裁判でした。(弁護士 杉浦ひとみ)

〇2002年3月13日、第二回口頭弁論がありました。海南島事件においては、戦中の日本軍の性暴力それ自体を不法行為として損害賠償請求をするものではなく、拉致監禁下での強姦・輪姦行為を受けた被害者らが、その後も長く「日本人の女だった者、日本軍に協力した者」という汚名を着せられ、自分だけでなく夫、子、孫までがその罵りを受け続け、差別・非難されて、人間の尊厳性を傷つけられてきたことに対する救済がなかった、その不作為を不法行為として準備書面では構成してい ます。

 これまでの「慰安婦」訴訟とは異なる構成であるため、そのことを明確にすべく今回の口頭弁論では、訴状・第一次準備書面を敷衍して第二次準備書面 として主張しました。裁判所からは、その際の戦後の不作為が行政不作為であることについて確認的に釈明を求められました。たしかに立法不作為も考えられるが、弁護団としては当面は直截の行政不作為の主張を展開していくことにすることを明らかにしました。不作為構成に伴う、(不作為をしたことが義務違反に当たる)所管庁、公務員の特定を今後行うとともに、戦後の侵害事実についての肉づけを行っていくことが今後の課題です。5月21日から27日まで、弁護団が再度海南島へ赴き、原告らの聞き取りと、尋問ビデオを作成する予定ですが、このときに海南島スタディーツアーも企画されており、参加者を募っていま す。(BS)

 

 〇5月21日〜27日、弁護団とスタディーツアーの一行は海南島を訪れました。今回は原告の法廷での尋問に代わるビデオ収録を目的としました。また、被害に巻き込まれる前の平穏な生活のことや、監禁状態を解かれた後の状況、特に周囲からどのように扱われたか、どのような非難を受けたかなどについても厚く 聞きました。この中で、事件前までは何人もの男性からの結婚の申し出を受けていたある原告が、慰安所から帰された後唯一結婚を申し込んできた男性が麻風病患者(らい病)であった人だったという話も初めて出てきました。この聴取には山東テレビが来ていましたが、原告がこの話の部分は放送しないで欲しい、とコメントをつけたこともその置かれた立場を推測させるものでした。六月十九日の裁判では、国が戦後の回復措置を執るべき義務の根拠、戦後の回復措置を採らな いままの放置が原告らにどのような被害を与えたか(特に名誉について)、について書面で明確にします。(BS)

 

○判決(2006/8/30)

  判決文  >>判決要旨  >>弁護団声明

 


2006年8月30日

中華全国律師協会
中華全国婦女聨合会
中国人権発展基金会
中国法律援助基金会
中国抗日戦争史学会

本日、日本の東京地方裁判所は、中国海南島の林亜金ら6名の被害女性及びその遺族7名が、侵略戦争中に「慰安婦」制度を強行し彼女(彼)らに生涯にわたる 傷を残したことについて、日本政府に対し法的責任を負うことを求める請求を棄却する一審判決を言渡した。この不当判決を下した東京地方裁判所を我々は厳し く譴責する。

旧日本軍は、前世紀30年代の侵略戦争中に、中国において初めて組織的に女性を対象とした「慰安婦」制度を実施し、少なくとも10万人以上の女性の心身の 健康と人間の尊厳を踏みにじり、生涯癒えることのない傷を彼女たちに残した。著しく人道に反するこの戦争犯罪の野蛮さは、世界を震撼させた。

長年来、中国を含む国際社会の平和を愛する人たちや団体が、日本政府に対し、その逃れようのない責任を一刻も早く果たすようさまざまな手段を用いて促して きた。中国及びアジア諸国の女性も、この戦争犯罪の責任追及を放棄したことはない。彼女たちの正当な要求は、中国をはじめとする国際社会において、平和を 愛する人たちや団体から大きな支持を獲得している。

しかし、この人道に反する「慰安婦」制度を実施した日本政府は、現在もなお、事実を隠し、時間を稼ぎ、誤った法律解釈をし、責任を回避する姿勢に固執して いる。他者の人権と尊厳を無視し、人類の平和に背くこのたびの不当判決は、ふたたび中国人戦争被害者を傷つけ、中国国民と世界の平和を愛する人たちを激し く憤慨させるものである。

東京地方裁判所の裁判官は、確かに判決において、日本侵略軍が中国人女性らに対し性暴力を加えた加害行為の事実を認定している。しかし遺憾なことは、日本政府に対しその責任を負わせる勇気を持たなかったことである。

我々は、日本政府と関係機関が、歴史を正視し、法的責任を果たし、誠実に当時犯した戦争犯罪を反省し、中国人を含むアジア各国の国民に対し謝罪と賠償をすることを求める。

我々は、正義、平和、人権擁護を貫き、長年来、中国人被害者を助け訴訟を担ってきた日本の弁護士及び各界の友人の皆様に対し、心からの感謝を表明する。またこの問題のために努力を惜しまず奮闘している中国人弁護士及び関係者に支持を表明する。

人類の平和を探求し、永劫に続く中日友好を築き、中国人被害女性の人権を護るため、我々は、今後も引き続き、中国人女性らによる人間の尊厳を護るための正義の闘いを支持する。
以上

===================================================
【以下、中国人戦争被害賠償請求事件弁護団による団体紹介】

※中華全国律師協会 (All China Lawyers Association)
1986年に設立された中国で弁護士業務を行う資格を有する弁護士の強制加入団体。全国組織の弁護士会は中華全国律師協会のみで、この組織の下に31の 地方弁護士会がある。会員数は2002年12月現在で11万4788人。機関誌は Chinese Lawyers、 URL: www.acla.org.cn

※中華全国婦女聨合会
1949年3月設立。1978年に現在の名称「中華全国婦女聨合会」に改名。経済建設、社会発展に女性が参加すること、女性の権利擁護、男女平等促進を主な目的とする。全国に33箇所の支部がある。5年に1回、全国婦女代表大会を開催。
http://www.womwn.org.cn

※中国人権発展基金会
1994年8月設立。法人資格を有する全国規模の民間組織。中国の人権事業を発展させ、世界の人々との人権における相互理解、協力を促進し、共同で世界の人権擁護の発展に貢献することを設立趣旨とする。募金活動、人権キャンペーン活動、国際交流、
教育及び研究、公益事業などを主な活動内容とし、人権事業に貢献する団体と個人への奨励、援助も行う。
http://www.humanrights.com.cn/

※中国法律援助基金会 (China Legal Aid Foundation)
1997年5月設立。国内外からの団体、企業、個人からの募金を財源とする民間非営利組織。独立社団法人。設立趣旨は、公民に賦与された基本的権利を護 り、公民の、平等な法の保護の享受を保障すること。主な活動内容は、基金の管理、運営。国家の法律援助制度を広く知らせ、司法の公正を促進する。

東京高裁での闘い

〇2008年1月15日、海南島戦時性暴力被害訴訟の弁論が開かれました。
 今回は、原告本人尋問でしたので、原告の黄有良さん(80歳)がいらっしゃり、証言されました。
 黄さんは14歳の時、村に日本兵が突然やってきて、自分の家の中で強姦されました。その後毎日のように日本兵はやってきては強姦し、しばらくすると日本軍の駐屯地に連れて行かされ、監禁されて毎日数人の日本兵に強姦され続けました。
 1年ほどのちには、別の慰安所に移され、そこで3ヶ月ほど経ってからやっと、通訳の中国人の尽力で(黄さんの親が亡くなったから帰してくれとかけあってくれた)家に戻る事ができ、しかし連れ戻されるのが怖かったので、それからは自分が死んだことにして自分の墓をつくり、敗戦まで家族で別の場所に逃げて、隠れて暮らしました。
 黄さんは、当時の様子を現在も克明に記憶していて、悪夢にうなされる日も多いそうです。黄さんは「謝罪損害賠償、そして身の潔白を証明してほしい」と結ばれました。
 裁判長は、黄さんの証言をねぎらう言葉をかけ、弁護団には、4.27最高裁判決の射程範囲かどうかの主張を、弁護団はやったらどうか、といった、裁判体からの「鼓舞」ともとれる提案を出してきました。

1月15日、海南島戦時性暴力被害訴訟の原告の黄有良さん(80歳)の原告本人尋問で証言した記録です。

黄有良さん尋問記録

Q リー語ではお名前はなんと発音されますか。
A ウィユーリャンです。

Q 黄さんが日本軍に捕まったときに住んでいた住所はどちらですか。
A 最初に捕まったのはカバ村というところです。

Q その当時の家族構成はそのようなものでしたか。
A 4人家族で、父、母、妹と私です。

Q 当時お父さんはどんなお仕事をされていましたか。
A 父は農民でした。母は何も仕事をしていませんでした。

Q お母さんがお仕事をしていなかった理由はなにかありますか?
A 目が不自由だったので、仕事ができませんでした。

Q お友達や妹さんとどのような遊びをしていましたか。
A 友達がみんなうちに来て、妹とも一緒に遊んでしまいした。

Q 黄さんが見た日本軍はどんな印象でしたか。
A 日本軍が村に入ってきたときには、刀を持って、至るところで物を略奪したり、家を焼いたりしていました。

Q 村の人たちや黄さんのご家族は、日本軍のそのような行動を見て、どのような対応をしましたか。
A 日本軍に捕まると恐いので、山の中に逃げて隠れました。

Q 山の中に逃げて、山の中で暮らしていたんですか。
A 山の中にしばらく逃げ隠れていたんですけれども、村の様子が落ち着いたので、また戻りました。

Q 次に黄さんが日本兵に襲われたときのお話を聞かせてください。
A 日本兵に最初に襲われたときは、私は畑で仕事をしていました。そこに10人ぐらいの日本兵がやってきて、取り囲まれて、無理やりにキスをされて、抱きつかれて、そのあと服をはがされて、周囲の何人かの日本兵はニヤニヤしながら見ていました。私は抵抗して腕を噛んだんですけれども、そのときに一人の日本兵が銃剣を出して私を刺そうとしたんです。そういう状態だったので、私はますます暴れました。

Q 暴れた後、どうしましたか。
A そこに上官が来てやめろと叫んで、上官と一緒に、黄さんの家に連れて帰られました。

Q その後はどんなことが起こったんですか。
A その上官がうちに入って、私の衣服を無理やりにはいで、そこで強姦したんです。お母さんは目が見えないもので、何もわからないまま「どうしたんだ、どうしたんだ」と叫んでいたんですけれども、お母さんはどうする事もできずに、私はそのまま強姦されました。お母さんはオロオロしていました。

Q その時お父さんはおうちにはいなかったんですか。
A その事が起こった時は、父は不在でした。

Q 上官は黄さんを強姦した後、どうしましたか。
A 暴行されて、日本兵はそのまま逃げてしまいました。そうこうしているうちにお父さんが帰ってきて、私は近くの家にかくまってもらいました。

Q それからあとは、日本兵は来ませんでしたか。
A その次の日に、2人の日本兵がやってきて、その時は父が帰ってきていていましたから、父と母を地べたに四つんばいにならせて、殴る蹴るの暴行を加えました。それで父と母が耐え切れなくて絶叫したんです。ものすごく大きな声で「助けて」と言った声が近所にも響いて、それが近所にかくまってもらっていた私の耳にも入ってきたんです。

Q その日本兵が2人来たというのは、黄さんを探しに来たのですか。
A たぶん私を探しに来たのだと思います。

Q では娘を探しに来て、暴行を加えられた父母の様子を聞いて、黄さんはどうされたのですか。
A 悲鳴をあげている声を聞いて耐え切れなくなって、私は出てきました。そうしたら、母と父のいる前で、服をはがして強姦しました。

Q その時ほかに近所の人などはいなかったのですか。
A 村の人たちはそういう状況を外から感じ取っていたのですが、恐くて近寄れなくて、何が起こっているのかすごく心配で、遠くから眺めていました。

Q 黄さんは、日本軍に拉致されていますが、このときに連行されたのですか。
A その日はこれらの日本兵は逃げていきましたが、その次の日に連行されました。

Q それはどこへ連れて行かれましたか。
A カバの日本軍の兵営があるところです。

Q それは家からは遠いところですか。
A うちからはかなり近いところで、畑からも見えるところです。

Q 連れて行かれて入れられた建物は、どんなところだったのですか。
A 茅葺きの建物で、どれぐらいの広さかというのは私にはよくわかりません。

Q 黄さんのほかにも女性が誰か入れられたのですか。
A 4人が入れられました。

Q 年齢的にはどれぐらいの方でしたか。
A 私とそれほど年齢に差がありませんでした。

Q 黄さんはその時何歳でしたか。
A 14歳でした。

Q その茅葺きの家は、床はどのような感じでしたか。
A 板ではなくて、セメントみたいな、土間みたいな感じでした。

Q その建物の中には何がありましたか。
A ベッドがありました。

Q ベッドはいくつありましたか。
A 4つ?でした。

Q 窓はいくつありましたか。
A 小さいのが1つです。

Q 部屋の中にあったベッドの位置など、まだ覚えていますか。

A 覚えています。

(平面図を出し、それで解説をする)

Q この部屋の中で、ベッドは、あなたたちが眠る意外にどんな使われ方をしたのですか。
A 強姦されたりしたときに使われました。

Q この部屋意外でも強姦されましたか。
A 部屋の中だけでなく、外でも強姦されている女性がいました。

Q 他の4人とも、強姦されているという可能性はあったのですか。
A 人間でない、牛馬のような扱いを受けたんですけれども、要するに1人入ってきて強姦したら、また代わりの人が来て強姦するという感じでした。日常的に強姦されていました。

Q 黄さんが強姦されているときに、ほかの少女も一緒に強姦されているという事もあったのですか。
A 同時に強姦されている時もありました。

Q 少女達はお互いに慰めあったりといったことはありましたか。
A いろんな少数民族の子が来たので、言葉が通じなかったんですけれども、お互い抱き合って、泣いて慰めあったというのはあります。

Q 1日に何人ぐらいの日本兵が来ましたか。
A 数え切れません。

Q ここでは食事はどれぐらいもらいましたか。
A 1日2食でした。

Q 量はどれぐらいでしたか。
A お椀にひと椀ぐらいでした。

Q 何をもらっていましたか。
A 貝?だとか、お茄子。

Q 穀類は。
A お米のご飯です。

Q こうした日々は黄さんはお腹は空いていましたか。
A いつもお腹いっぱいにはなりませんでした。

Q トイレはどのようにしていましたか。
A 茅葺きの部屋の外に出て、用を足しました。

Q その時に見張りはついていたのですか。
A 見張りはいました。

Q 茅葺きの部屋には鍵はかかっていたのですか。
A かかっていたりかかっていなかったりしましたけれども、必ず外に見張りがいました。
出るときには最敬礼をして出るなどしました。

Q この兵営傍に行ったときに、誰かがリンチなどをされている光景を見たことがありますか。
A 部屋の中にいると外の声がよく聞こえてくるのですが、しょっちゅう絶叫だとか殴られて苦しんでいる声が聞こえてきました。

Q この部屋はご自宅から見えるほどの距離と仰いましたが、ここに入れられている間、そのようなお気持ちでしたか。
A 部屋からは、うちも畑も見えるので、どうしてもうちに帰りたいという気持ちでいっぱいになったんですけれども、そこから逃げ出すことは絶対にできなかったので、諦めていました。

Q この建物の中には、どれぐらいの期間入れられていましたか。
A 2ヶ月から3ヶ月ぐらいだと思います。

Q その間に、ここでお金をもらったりしたことはありますか。
A 何ももらっていません。

Q この慰安所のほかに、どこか別の場所に連れて行かれましたか。
A 藤橋というところに連れて行かれました。

Q それはどうやって連れて行かれたのですか。
A トラックに乗せられて連れて行かれました。

Q その時、同じ部屋にいた女の子たちは全員連れて行かれたのですか。
A 全員一緒でした。

Q どうして藤橋に移されたのか、理由を聞きましたか。
A いろいろ噂としてはありましたが、連行された方からは、何の説明もありませんでした。

Q この藤橋の慰安所は、建物はどんな造りでしたか。
A レンガ造りで、そんなに大きくなかったと思います。

Q 床はどんなつくりでしたか。
A やはり前と同じような、セメントを固めたような土間のような床でした。

Q 窓はありましたたか。
A 小さい窓がありました。

Q この部屋の中は、明かりはどうでしたか。
A 油に火をつけて、ランプのような灯かりをつけていました。

Q 窓はいくつあったのですか。
A 1つ?

Q 大きさは。
A 入り口から入ってまっすぐ行って奥にありました。これぐらいでした。

Q A4の用紙を半分に折ったぐらいの大きさですね。先ほどの兵営の慰安所も暗かったのですか。
A 昼間は茅葺きなので、屋根から光が差し込んでくるので、昼間は灯かりはまったくつけてもらえませんでした。夜はつけました。

Q 藤橋のほうの食事の量はどれぐらいでしたか。
A お椀1杯ぐらいです。

Q トイレはどのようにしていましたか。
A 部屋の隅っこの方に桶のようなものが置いてあって、そこで用を足しました。

Q 身体を拭いたり洗ったりはできたのですか。
A 身体を拭いたり顔を洗いたいときは、入れられている建物の傍に川があったので、見張りの兵隊に身体を拭きたいなどと言うと、連れてってくれました。その見張りは少し中国語がわかったようです。

Q この建物には鍵はかかっていたのですか。
A 見張りがいるのでかかっていませんでした(?)

(休憩)

(41:45〜)

Q ここでは4人とも同じ部屋に入れられていたのですか。
A 一緒でした。

Q あななたち以外に人がいたかは知ってますか。
A ほかの部屋はわかりませんでした。

Q カバ村の時と、何か待遇は違いましたか。
A 大体に通っていました。

Q 1日に何人ぐらい来たという記憶がありますか。
A 毎日2、3人が来て、輪姦されました。

Q この藤橋の慰安所で、黄さんが特に記憶に残っている事はありますか。
A 一番つらかったのは、「4本の牛の足の刑」という名前の刑なのですが、地面に四つんばいにならされて、2、3人の日本兵に輪姦されたのが一番辛かったです。

Q それは手は手のひらで地面についたのですか。
A つま先で立って、手のひらを地面に立てて、牛の形とまったく同じような形にさせられました。

Q 手の指は4本ですか5本ですか。
A 4本で立たされました。

Q 親指を抜いた4本の指とつま先で牛のような形にされたんですね。
A そのような体勢にされて、ふらつくと殴られました。

Q その状態で輪姦もされたわけですね。
A こう姿勢のまま輪姦されました。

Q その時には着衣はないのですか。
A 一糸もまとっていません。

Q その体勢は、どのぐらいの時間させられたのですか。
A 長い間して、倒れこみそうになるとまた引っ張り挙げられるので、どれぐらいの時間かわかりません。

Q こういう事をされたのは、1度だけですか。
A ある人は2回、ある人は3回でしたが、そういう事をさせるのは、最も凶悪な日本兵でした。

Q 黄さん自身は1度でしたか。
A 他の人もこのように輪姦されましたが、私を犯した日本兵は一番凶悪でした。

Q 凶悪というのは、どのように凶悪だったのですか。
A 抵抗した場合にそういう刑をさせられました。

Q そういった事をさせられた後、身体の方に異常は起きませんでしたか。
A 強姦された後は意識が朦朧として、ベッドのところに戻されてから、水が欲しいと言って、水を汲んできてもらって、横になっていましたが、お腹の方が痛くて、夜になると流血して、ベッドが血だらけになりました。

Q その時は血は自然に止まったのですか。
A 流血はその時は止まりましたが、その頃から下腹部がずっと痛いのが治りませんでした。

Q 流血したその日は、その後も強姦は止むことなく続けられたのですか。
A 流血がだんだん少なくなってなっていったんですけれども、そういう状態だったために、その後はあまりされませんでした。

Q 藤橋の次はどこかに連れていかれましたか。
A 解放されました。

Q 藤橋にはどのくらいの期間いましたか。
A 1年ぐらいだと思います。

Q そうすると、陳述書の方には違う期間で書いてありましたが、今日仰られたお話の方で正しいのですね。
A カバの方が短くて、藤橋の方が長くいました。

Q 藤橋からは、どのように解放されましたか。
A 親戚に黄文昌という人がいまして、彼が日本軍にいろいろなお米とかを届ける仕事をしていて、彼が、私がここに入れられているという事を知って、そして私がお父さんとお母さんに助けに来てくれと言い、そして黄さんが父母に言ってくれました。

Q そのあとどのような形で助け出してもらったのですか。
A 黄文昌さんが親戚だったので、事情を聞いておうちと相談して、お母さんが亡くなったという理由を日本軍の上官に告げて、連れ戻したいという事で、黄文昌話をつけてくれたのです。

Q 家に戻ってから、どこに逃げたのですか。
A お母さんのお墓を立てて、当日のよる、お母さんとお父さんと妹と一緒に逃げました。

Q 逃げた先はどちらですか。
A ホテイ?というところまで逃げました。

Q そこでは黄さんが慰安所に入れられていたという事は周囲に知られていたのですか。
A ホテイの親戚の人の家に言ったのですが、その親戚には言いました。

Q そのあと、故郷のカバ村には帰ることができましたか。
A 日本が負けてからやっと帰ることができました。

Q カバ村に帰ってからは、村の人の黄さんに対する接し方はどうでしたか。
A 戻ったときに村の人たちからいろいろ責められたりして、ふしだらな女と罵られたりしました。

Q その後黄さんは結婚されましたが、どのような方と結婚されましたか。
A 自分がそういう境遇になって、とても不運だと自分で感じていました。そこにある仲人の方が紹介してくれて、ハンセン病を患っている方を紹介されました。

Q その当時ハンセン病は、村の方達にどのように捉えられていた病気だったのですか。
A 隔離をしなければいけない病気とされていて、山の上の方に隔離されていました。

Q では黄さんも山の上の方に一緒に行かれたのですか。
A 結婚式を挙げましたが、同居はしませんでした。夫は山の上で治療し、私は自宅で婦人病の治療をし、3年経ってから、同居しました。

Q 子どもさんなどは、黄さんの境遇や旦那さんの病気の事で、何か言われたりしたことはありましたか。
A 子どもたちはいじめられたりすることはありました。

Q その時のお気持ちは。
A ひたすら耐えるしか仕方がなかったです。

Q こうした60年以上前の事を、黄さんは今でも思い出す事はありますか。
A もう60年前の事になりますが、一日たりとも忘れた事はありません。夜も夢にうなされます。でも不運だと思って、耐えるしかありませんでした。

Q 当時の映像が脳裡に甦ってくることはありますか。
A 普段意識していようがいまいが、突然ふっと浮かぶことがあります。

Q そういう時、当時の映像がありありと浮かんでくるのですか。
A 父母が殴られている場面とか、忘れることはできません。

Q そうした時に、何か体の変化はありますか。
A いつもそうですが、悪夢にうなされると目が覚めます。ベッドから起き上がる時もあります。

Q 動悸や寝汗などもありますか。
A 動悸もあり寝汗も出て、ベッドの上に座り込んでしまいます。

Q 夜中に起きて、そのまま寝られないときもあるのですか。
A 一端起きると、そのまま寝られない事があります。

Q 運が悪かったという事を話されましたが、人生をあきらめるという気分になってしまうのでしょうか。
A 人生には運が良い時と悪い時があるという事で無理やりあきらめるしかないと思っていましたし、他にやりようがないと思っていました。

Q 裁判長に仰りたい事あれば、お願いします。
A 私は事実を述べたので、その事実に対して、裁判長は答えていただきたいというです。そうでないとこの事件をずっとひきずって、最高裁まで行ったとしても、私の気持ちはおさまりません。そして真摯な謝罪をして、私の身の潔白を証明して頂きたいと思います。

(以下、裁判官からの質問)

Q 今でも(聞き取れず)
A いつも悪夢にうなされると苦しいです。

Q 被害に遭われた当時も悪夢にうなされていましたか。
A 自らの体験ですから一生忘れる事はできません。

Q 今お伺いしているのは、60数年前にも同じような症状があったかを伺っています。
A 精神的苦しみは当時と今とまったく同じです。

Q 結婚後3年間の間に、悪夢などはどうでしたか。
A 別々に暮らしていましたが、今よりその3年間の方が、今より余計に苦しかった時代です。その時には自殺も考えました。

Q これまでの60数年間お伺いして、被害を(聞き取れない)その苦しみが、変わっていないのか、それとも以前に比べて強くなっているのか、そのあたりの変化があるのかを聞いてください。 
A 自分が病気になった時、または過去の事を思い出すときに、特にひどくなります。

Q そうすると、60数年間そうした被害がずっと続いてると考えて宜しいですか。
A 病気や過去の事を思い出すときはひどくなりますが、それ以外のときはそうでもありません。

 

 

〇現在、東京高等裁判所で係争中の海南島戦時性暴力被害訴訟は、最後の「慰安婦」裁判といわれています。「慰安婦」問題の全面解決のためにも、とても重要な裁判だと思います。地裁判決で認定された事実の中には、原告女性たちがPTSDにあたる症状に悩まされている事実は認定されましたが、医師の診断書が出ていないことから、PTSDとの判断はできないとされました。
 控訴審では、この訴訟は、昨年4月27日の中国人の請求権は日中共同声明により放棄されたとの最高裁判決には拘束されないことを証明するために、日中共同声明のその時点では、被害として認識されていなかった原告女性たちのPTSDという被害を医学的に、論理的に説明することが課題となっています。そこで、精神科医にPTSDの診断をしてもらうことが大きな目標となり、昨年3月と6月の2回にわたり精神科医野田正彰氏と被害女性たちとの対面が実現しました。
 野田氏の診察により、予想以上の精神的被害が明らかになりました。「破局的体験後の持続的人格変化」(国際的な疾病基準による)という診断が6人中5人に対してなされました。これは、ナチスドイツ下でのホロコーストからの生還者に見られるような、きわめて深刻な精神症状を呈するもので、症例も多くはありません。同氏の診断によれば、被害女性たちの精神被害は今もなお「燃えさかっている」状態にあり、悪夢を見たり、深夜目が覚めて眠ることができずに家族にも気づかれないようにベッドで朝を待つような生活がなお続いているということです。
 海南島裁判の弁護団は、この数少ない症例である「破局的体験後の持続的人格変化」について、現在多数の国内の精神科医のほか、PTSDのバイブルともいわれる書物を執筆しているジュディス・ハーマン氏など、さまざまな方からアドバイスを受けているということですが、やはり、当の被害者らの生活史を丁寧に調べなければ判断できないとの意見が多数なのだそうです。
 今後、裁判所に対しては被害女性らの再度の聞き取りと共に、彼女らの過去の精神状態を知るための周囲の方たちの聞き取りも不可欠になることを伝えていき、この事件のもたらした被害の実相を明らかにしたいと考えています。
 高裁の裁判長がこの春に替わりました。この交代によって裁判が良い方向に向かっていくように、祈りつつ、働きかけていくことになります。みなさんの応援をぜひよろしくお願いします。(2008年6月)

 

○判決(2009/3/26)

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最高裁での闘い

○決定(2010/3/2)

  決定文  >>弁護団声明

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