水燿通信とは
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354号

追悼 野々山真輝帆さん

 スペイン文学者で筑波大学名誉教授の野々山真輝帆さんが、去る3月8日亡くなった。
野々山真輝帆さんと私の関わり 野々山さんと私とが関わるようになったのは、私が発行している個人通信「水燿通信」で野々山さんの著書を取り上げたのが最初である(46号「『スペイン辛口案内』―バルセロナ・オリンピックによせて―」1992年7月1日発行)。
 この通信は野々山さんにもお送りした。するとすぐにご本人から「・・・友人たちからは私の本はかたすぎて眠くなるなどといわれていますので、このような御手紙はとてもうれしく、一部は出版社の編集の人にも送りました。・・・」というお便りと近著『あまりにスペイン的な男と女』が署名入りで届いた。
 これをきっかけに、スペイン関係や野々山さんに関わりのある通信をお送りするようになった。いつも必ずご感想が届き、いつ頃からか、通信も毎回お送りするようになった。講演の案内なども届いて何度かお会いする機会もあり、徐々に随分プライベートな話までするようになった。「あなたは病い、私は孤独と戦う運命でしょうか。すべて百点とはいかないのが人生ですよね。」などと言われたこともあった。
ご感想によく見られた言葉 野々山さんからのご感想には「田舎のある方はいろいろな思い出をお持ちで羨ましく思います。田舎とか農村とか何も知らないので、びっくりすることばかりです。自然に近く育っていらっしゃるから、例えば柿の味ひとつとってもこれだけのことが書けるのですね。」「日本文学の本をじっくり読む機会がないので、あなたの文はとてもフレッシュです。いつも目を開かれる思いです。私は教養が片よっているので恥かしいです。」「文学は永遠です。長く関わって下さい。」などということばが度々書かれてあった。また水原紫苑の歌集『客人』の鑑賞をしたとき(173号)には「今回の文にはとくに惹きつけられました。あなたの感性や文章力で、ラテンアメリカの詩について日本文学の眼で解釈していただきたい。」という過剰に評価されたご感想をいただいたこともあった。
すてきなご感想 〈頑に己をまもり来しことの卑しくもあるか木犀匂ふ 杜澤光一郎〉を取り上げた時(228号)は「とても共感を覚え興味深く読みました。それぞれにクエスチョンマークがついているのが面白いです。〈木犀匂ふ〉はいいですね。これでよかったと肯定していることのシンボルでしょうか。」とか、橋本多佳子の〈雪激し化粧はむとする真顔して〉を取り上げた時(255号)には「「女の化粧はすばらしいテーマですね。父を亡くした朝、母が鏡に向かって化粧をしていたとき、妙に青白く美しくきりりとしていて、部屋全体が海底に沈んでいる感じでした。」というすてきなコメントを下さった。
俳句に対する関心 通信を通して俳句にも徐々に関心をもたれていったようで「絵画が表現できないもの、読む人にさまざまな解釈を許す表現力はすごいですね。こんな句が作りたいです。」とよくもらしてらした。時には西欧文学との比較などで思いがけない切り口の味わい方を示されて、深くうなずいたりしたこともあった。世界中を駆け回って活躍なさった方なので、「時間の流れと風土・民族性は深く結びついていると思います。たとえばアンダルシアの人は彼の地の栄養を吸ってはじめてアンダルシア人なので、そこを出ればもう別人といわれますが、どう思われますか。(略)南半球へ行くと本当に時の流れがちがうのを感じます。」などといった興味深いご感想も多かった。
さまざまな人との関わり 観世栄夫(能楽師、俳優、観世寿夫の実弟)、小熊英二(『〈民主〉と〈愛国〉』の著者)など有名人士との思い出話などもいろいろうかがった。〈蜩といふ名の裏山をいつも持つ 安東次男〉の句を取り上げたとき(316号)は「安東先生の句がのっけから出てきてびっくりです。私が外大の助手の頃よくして下さり、帰途、大塚駅の近くの居酒屋でよく談笑しました。私にとっては英語の先生で詩を作っていらしたことは知りませんでした。スカーフやベレーなどを用いておしゃれでした。〈蜩の〉は外国語の発想かな、訳すとどうなるのかしばらく考えましたが思いつきませんでした。なつかしい先生に再会した思いです。」といった楽しいお話を聞くことができた。
率直さに驚嘆 たくさんいただいたご感想を読み返し、ご自身は華やかな経歴をお持ちなのに、何の肩書きもない一介の主婦に過ぎない私に、なんと率直に対応してくださったものかと改めて感じ、ありがたい思いでいっぱいである。これが本当の知性というものなのだろう。
生きる意欲の喪失 野々山さんはしばらく前に愛しておられた方を亡くし(結婚を申し込まれたが、野々山さんの希望で別居したままでの交際だった由)、よく「好きな異性のいない生活にはJOYがありません。」ともらしていらした。一昨年後半ころからご感想が届かなくなり気になっていたところ、昨年5月になって「大腿骨骨折で長期入院していました。体力・視力ともに衰え、今ものを読むのがうっとうしい状態です。」とのお葉書が届いた。「入院はしたことがない。」というお元気な方だっただけに、長期の入院はかなりこたえただろうが、それ以上に活字に接することが困難になったことは、大きな打撃だったのではないかと想い、心が痛んだ。以来、通信をお送りするのは止めて、ときおり季節のご挨拶をするにとどめた。
 あの頃から、野々山さんは生きる意欲を失ってしまったような気がする。だから、訃報に接した時、とっさに野々山さんにはこの世に訣別する頃合だったのではないかと感じた。
 しかし、ご感想を見直したりしているうちに、徐々に「もう野々山さんはいらっしゃらないんだ」という実感が強くなってきている。「葬儀の類は一切しないでほしい」との遺言だったとのことで、私に訃報が届いたのも7月に入ってからであった。私自身、1ヶ月ほど寝込んでようやく起き上がれるようになったものの、あまりの体力の減退に愕然としていた時だった。以来、野々山さんの不在が今もってこたえている。
(2016年8月8日発行)

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発行人 根本啓子