水燿通信とは
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255号

かなしびふるき

二女流俳人の冬の句

   船上山麓にて
風花やかなしびふるき山の形石橋秀野
 石橋秀野(いしばしひでの 明治42年生まれ)というと、第二次世界大戦中、山陰に疎開したとき病いを得、昭和22年、幼い一子を遺し39歳の若さで亡くなったということがひろく知られているせいか、〈短夜の看とり給ふも縁(えにし)かな〉〈西日照りいのち無惨にありにけり〉〈蝉時雨子は担送車に追いつけず〉といった病気に関わる作品ばかりが注目されているように思う。だがもちろん、これだけが秀野の世界ではない。
 石橋秀野の句文集『櫻濃く』(註)に収録されている「明智燈籠」(初出は『馬酔木』昭和15年10月号)という文の中で、奈良県生まれの秀野は、小学校卒業時に東京に移り住んで以来、故郷大和を顧みることもなかったが、母の死後しきりに大和国中(やまとくんなか 大和の平野のあたりのこと)を自分の肉体に感じるようになり、何とかして自分のうちに大和国中をとどめておきたいと思うようになったと語っている。
 この言葉が示すように、秀野の作品には、大和振りや大和なつかしさ、言葉の雅び、さらにそこから派生したと思われる日本の歴史や文化に対する想いなどが、句の背景に見え隠れしているものがある。
 冒頭に掲げた句は、そういった作品のひとつといえるもので(〈山の形〉は「やまのなり」と訓む)、「船上山麓にて」の前書きがある。山陰流寓中の昭和21年、伯耆(ほうき 現在の鳥取県西部)の末次雨城庵を訪れた時に作られたもの。山本健吉は〈かなしびふるき〉とは、名和長年が隠岐から遷幸された後醍醐天皇を奉戴してこの山に孤立無援のうちに立籠った歴史を回想したもので、船上山の魁偉な山容が遠い悲史の回想を託すに相応しいと述べている(『山本健吉俳句読本』第2巻)。山本は秀野の夫でその時の状況をよく知っている人であるだけに前書きの説明も適切で、説得力のある解説だと思う。
 けれど私はこの解釈にもうひとつのイメージを重ねたい思いにかられる。つまり秀野は船上山で起こった悲史を回想しつつ、その想いはさらに故郷大和の自然やそこを舞台にして起こった様々な歴史にまで、ひろがっていったのではないかと思うのである。くわえてこの句の作られたのが疎開中の不自由な暮らしの最中であり、体も病みがちの時期だったという事情は、秀野のかなしみや大和なつかしさをさらに深くしたのではないだろうか。〈風花〉という冷え冷えとしてはかないイメージを持つ季語は、ここではそのような秀野の心情をさらに切なく美しく演出している。古えと現代、伯耆と大和という時空の広がりが感じられ、用語も選び抜かれたものであり、格調高い作品となっている。
 なおこの時、伯耆では〈うま酒の伯耆にあれば春寒し〉〈芹なづな海より暮るゝ国ざかい〉といった句も作られている。
(註)昭和24年刊。第1回茅舎賞(現代俳句協会賞の前身ともいえるもの)受賞。
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雪はげし化粧はむとする真顔して橋本多佳子
 橋本多佳子(明治32年生まれ)は、昭和38年2月、大阪回生病院に入院、肝臓および胆嚢癌と診断される。同5月29日死去。享年64歳。掲句はこの入院中につくられたもので、多佳子の最終句集『命終』(みょうじゅう)の終わり近くに収録されている。
 病室で化粧をしよう(けをはむ)とした多佳子。ふと死を予感し、化粧もあと何回できるだろうか、そんな思いが心をよぎったのではないだろうか。〈真顔して〉の表現にはそのような心情が窺えるように思う。
 外ははげしく降る雪。だが実際に雪がそのように降っていたかどうかということよりも、かつて作った〈雪はげし抱かれて息のつまりしこと〉(『紅絲』 こうし)の句を、そしてその句を成さしめた亡夫豊次郎との日々が想われていたということなのかもしれない。
 美貌と豊かな経済力に恵まれ、俳人としても名を成した橋本多佳子。その生涯は、38歳の若さで夫に先立たれ、戦後の農地改革で広大な土地を失う、などといったことがあったにしろ、まずは華やかで幸せなものだったということができよう。夫の早すぎた死にしても、多佳子が良家の奥様的な側面をかなぐり捨て、俳人として大きく羽ばたくきっかけとなったと指摘する人は多い。夫豊次郎は多佳子にきちんとした家庭の主婦の教養、たしなみとして俳句を始め様々なものを習得させたが、いずれもあまり深く関わることは必ずしも望んでいなかったようなので、おそらく正しい見方であろう。
 そんな多佳子にとっては、死を間近にしても、自らの一生を振り返って苦い悔恨を抱くようなことはあまりなかっただろうと思われるし、またこれから自分が赴く来世に救いを求める必要なども感じなかっただろう。
 彼女にはひたすら現世が、美しいわが身がいとおしかった。入院の前日、短冊にしたためて四女美代子に託した句〈雪の日の浴身一指一趾愛し〉〈雪はげし書き遺すこと何ぞ多き〉(『命終』所収。以下の引用句もすべて同じ)には、そんな多佳子の思いが色濃く出ている。後者は辞世の句として有名だ。
 また〈この雪嶺わが命終に顕ちて来よ〉〈蝶蜂の如雪渓に死なばと思ふ〉の句の示す如く、死に臨んでも凛として美しくありたいと希んでいた多佳子だが、死を予感してその思いはさらに切なるものがあっただろう。
 病いによる痩せややつれは、彼女にも訪れたようである。しかし多佳子は、その容貌においても作品においても、老いによる衰えが顕れるまで生き永らえることはなかった。あるいはこれは、うつくしい多佳子に対する天の配剤だったのかもしれない。とはいえ、多佳子の老いの句はどんなものになっていたか、それを知りたかったという思いは、やはり残る。
今回のふたつの文のもとになったものは、以前、角川書店刊の月刊誌『俳句』に掲載されたものです。再録に際して相応の加筆を行いました。なお〈風花や〉の文は平成15年12月号、〈雪はげし〉のそれは同年6月号に載っています。
(2009年1月20日発行)

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発行人 根本啓子