水燿通信とは
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316号

蜩(ひぐらし)の鳴くころ

 暑かった一日がようやく暮れようとしている。と、どこかで蜩が鳴きだした。カナカナカナ。「ああ、もう秋も近いのだな」ということに気がつき、夏を越した体の微かな疲れと去りゆく季節に対する想いがさみしさとなって感じられてくる……。
 蜩の鳴き声というと、子どもの頃のこんな情景が浮かんでくる。生きることのさみしさみたいなものを幼いなりに感じ始めたのは、あの蜩の声を聞いた時だったろうか。
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(ひぐらし)、大半の蝉は夏の季語になっているが、蜩は法師蝉と共に秋の季語になっている。夏至の頃から鳴き始めるところもあるが、多くの地域では晩夏から鳴きはじめることと、どこか哀調を帯びている涼しげな鳴き声のゆえんだろう。山本健吉は「声の涼しさ、寂寥感が何となく秋を感じさせるが、夏のうちに感じる秋めいた涼味の一つとして詠むことも出来よう」と語っている。蜩の鳴き声の特徴をうまくとらえた言葉だと思う。
蜩といふ名の裏山をいつも持つ安東次男(『裏山』1972年刊)
 私にとって蜩というとまず浮かぶのはこの句だ。
 この句の作者安東次男は句集『裏山』の巻末で、この句について「私のやうな田舎で生まれ育つた者には、裏山といふのはいつも感性の出発点になつてゐて、瞭(あき)らかなものと不分明なものとが、交々そこにある。……掲句を「望郷」といふと照れくさい、またさう言つては物が見えてこない」と述べている。また宮坂静生は「私が気になるのは「といふ名」のところ。「蜩の名の裏山」でも「蜩の鳴く裏山」でもない。あえていえばこんな裏山は現実にはないのではないか。蜩がいつも鳴いている、それが作者の「裏山」だ。……ふるさとを失つた者の「ふるさとへの思ひ」。孤独なればこそ、少年の日の「蜩といふ名の裏山」を生涯の支えにする」(「NHK俳句」2010年10月号)と述べている。
 私の故郷にも裏山があった。実家の裏にあるちょっとした丘とでも呼んだ方がふさわしいものだったが、我家では裏山と呼んでいた。私が故郷を離れたのは、高度経済成長期に入る直前だったが、それ以来、故郷の変貌は著しいものだった。それでもこの裏山だけは健在で、いつしかこの裏山は私の原風景とも言うべきものになっていた。都会に過ごしていても、自分にはあの裏山がある、故郷がある、ということが、何かにつけ私の心に余裕や豊かさをもたらしてくれたように思う。そんな私にとって、前述の解説はどちらも、共感を覚える心魅かれる味わい方である。
 だがそんな私の裏山≠熏。はない。今から20年近く前、工業団地を造成することになって、その裏山はあっという間に更地になってしまったのだ。
 近年「里山」という言葉が盛んに用いられるようになったが、宮坂静生は「この呼称は信州辺では使われなかった。〈蜩といふ名の裏山をいつも持つ〉という句のように専ら裏山と呼んでいた」と語っている(「NHK俳句」2009年9月号)。また宇多喜代子は『里山歳時記』で、里山には「田んぼ」という場を加えたいとして「地域住民の生活にかかわる雑木林に、田んぼ、小川、湖沼などを加えて、ひとつながりにした場と景観」と定義している。人びとの生活とのかかわりを重視したこの定義は、単に山と限定するよりもイメージが豊かに広がる感じがする。“私の裏山”にも、その先には田んぼがはるか彼方まで広がっていた。
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 蜩の哀調を帯びた鳴き声は多くの俳人の心をもひきつけたようで、この季語を使った心魅かれる俳句は沢山ある。
@蜩の一本道を来りけり大峯あきら
Aかなかなや一直線にくる寂しさ正木ゆう子
Bかなかなや陰画となりし兵の列倉橋羊村
C蜩の声より過去となりゆけり油布五線
Dかなかなや思ひの数の山浮かべ市村究一郎
Eかなかなやこの世に父母のきて去りし児玉南草
Fひぐらしやみんな帰つてゆくところ矢島渚男
Gこの世とはかなかな蝉の啼くところ京極杞陽
H蜩やこの世かの世の橋なかば浅田三千代
Iかなかなのどこかで地獄草子かな飴山 実
Jかなかなのころされにゆくものがたり阿部完市
K慟哭のあとのかなかな浄土かな古賀まり子
L潮満ち切つてなくはひぐらし尾崎放哉
 @〈蜩の〉の〈の〉はこの場合切れ字と考えるべきだろう。句の雰囲気が〈や、かな〉などよりもやわらかな感じになっている。この句を目にすると私は種田山頭火の〈まつすぐな道でさみしい〉を思い出す。山頭火は〈さみしい〉と直裁に詠っているが、確かにまっすぐな道というのはなぜか寂しさを感じさせるものである。この句の〈一本道〉もまっすぐな感じがあり、やはり寂しい雰囲気がある。実際に歩いて疲れたというよりも、長い人生を歩んできた人の疲労を伴った深い吐息の聞えてくるような独特の倦怠感がある。蜩の鳴き声がうまく効いていると思う。
 Aも蜩の鳴き声の特徴を見事にとらえた作品だと思う。この寂しさは単に現世的なものというよりも、過去、未来などにも思考を広げた人間として存在することに対する根源的な寂しさのような気がする。そういった想いは、B以下のように死や過去への想いや浄土にも結びついていく。
 Bの作者は戦争体験のある人なのだろう。蜩の声にふと遠い日に見た出征兵士たちの姿が浮かぶ(ニュース映画などの映像でもいいかもしれない)。〈陰画となりし〉という表現は、これらの兵士が戦死したことを暗示している。まるで映画の一場面でも見るような印象のくきやかな句だ。
 CDEFもかなかなの鳴き声に人の一生や未生以前、死後のことに想いを馳せた作品である。同じような想いを現世に焦点を当てて詠んだのがGHと言えようか。
 Iは蜩の鳴き声の中に潜む特徴のひとつ、涼やかだがどこか残酷さを滲ませているような感じもする点を鋭くとらえた作品だと思う。すぐれた作品だ。
 Jは私の好きな作品。〈かなかなの〉の〈の〉は@の場合と同じく切れ字と考えるべきで、やわらかな雰囲気を出すことを狙っている。全体をひらがながきにして、蜩の鳴き声の持つ雰囲気を巧みに使い、いささか怖いファンタジーに仕上げた、俳句表現ならではの作品だと思う。
 Kでは、もはや、現世で生きていく力も失いそうなほどの強烈なかなしみの中に在った人が、「カナカナカナ」という鳴き声にふと浄土を見たような思いにかられた、という句か。一体ここは現世か、浄土か。
 Lの句は尾崎放哉に関心のある私には見逃せないものだ。彼の作品には、思索的で暗く、意識が現実かあの世かはっきりしないようなものが少なくない。だが、須磨寺時代のこの作品には、そのような陰のまるで感じられない、独特の軽やかな明るさがある。
 社会生活から降りて、いわゆる放浪生活に入ったあとでも、放哉にはそういった生活に徹しきれない感じの時期があったが、須磨寺に住むようになったころからある種の落ち着きに似た精神状態になったように思う。須磨寺は大きな寺であるが、放哉が居た太子堂は奥まったところにあって観光客も少なく、さしたるきつい仕事も無く、放哉は句作に専念することが出来た。大好きな海も近く、放哉はここでの生活に満足していた。そのような生活の中から掲句は生まれた。全てを放下した後の独特の開放感、たったひとりでいることの豊かさの感じられる明るい句である。
 短歌には、私の知る限りでは蜩を詠んだ作品はあまりないように思われるが、そんな中で、興味深い作品を見つけた。
二万発の核弾頭を積む星のゆふかがやきの中のかなかな
竹山広(『千日千夜』平成11年刊)
 〈ゆふかがやきの中のかなかな〉と美しく結んでいるが、上句には現実を見つめる作者の諦観をも伴ったひどく醒めた視点がある。ここではかなかなの涼やかな鳴き声は、おそろしい近未来を予兆する怖さを伴っているように感じられる。竹山は25歳の時長崎で被曝し、やはり被曝した兄の最期を看取った体験を持つ。そのような作者にとって、現実の世界の状況は信じがたいほど愚かなものに感じられるのだろう。
 2012年にアメリカの映画監督オリバー・ストーンと歴史学者ピーター・カズニクが まとめた本『もうひとつのアメリカ史』(この本を元に作られた同名のドキュメンタリーもある。本年4〜6月にNHK-BSで放映された。10回シリーズ)では、「レーガン(政権は1981〜89年 根本註)以後、ワシントンの第一オプションとして先制核攻撃が突発した」と述べられている。このことは2002年、ジョージ・W・ブッシュ大統領の核態勢見直しによって現実的なものとなり、新たな軍拡競争が始まった。(2013年8月1日付けの「マスコミに載らない海外記事」による)
 そしてアメリカ同様、現在も核抑止力に対する根強い信奉を有する国は、相変わらずいくつも存在する。1970年に発効された核不拡散条約も、発効から25年に当たる1995年に、無条件・無期限延長されたままだ。2009年、チェコのプラハで、オバマ米大統領が「核のない世界」の演説を行なったとき、世界中の人々は、これで核問題は大きな進展を遂げるだろうと明るい気持ちになったのではないだろうか。だが、あれから4年経った今となってみると、オバマ大統領もブッシュ大統領と何も変わっていないことがわかる。核廃絶に対する多くの人々の願いにもかかわらず、政治の世界では核廃絶どころか核兵器削減すらも、夢のまた夢というのが現実である。
 世界唯一の被爆国であり、福島原発事故のような未曾有の大事故を起こしてしまった日本、それでも日本はアメリカのこの核政策を事実上支持し、平和憲法を擁しながら、核兵器に変わり得る原発を決して手放そうとしないのである。
 なお、現在(2013年8月)、世界中の核保有国における核弾頭保有推定数は、2万発を大きく超えている。
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〈「風立ちぬ。いざ生きめやも」誤訳説に反論する〉
 堀辰雄の小説『風立ちぬ』で主人公がつぶやいた「風立ちぬ。いざ生きめやも」というせりふは、フランスの詩人バレリーの原詩を作者が文語調に翻訳したもので、その流麗な訳は多くの人に愛されている。だがこの訳は「誤訳」だと丸谷才一が指摘、大野晋もそれに同調して「こういう訳をするようでは堀さんは日本語の古典語の力はあまりなかったと思います」とまで言った。これに対して「誤訳とはいえない」ことを立証しようとした論考を見つけた。「水燿通信」313号で紹介した山田潔氏によるもので、『解釈』平成16年11・12月号に載った「『いざ生きめやも』考」である。以下、その大概をまとめてみた。
 学校教育における「古典文法」は主として奈良・平安朝の語法に基づいている。「誤訳」説もそれを踏まえたものであるが、文語表現はすべて「古典文法」に基づかなければならないというわけではない。後代、とりわけ室町期の文語表現には、奈良・平安朝とは異なる語法が多く認められており、「めや」に関しても同様のことが言える。
 『論語』の「子罕第九」中の「子曰、沽之哉、沽之哉、我待賈者也」は、現在は「古典文法」に則って「売らんかな、売らんかな」と訓読されているが、室町期の抄物(室町時代に主に京都五山の禅僧が作った経典・漢籍の注釈書や、講義を筆記したもの 根本註、以下( )内は同じ)には「ウラメヤ」となっている。この「ウラメヤ」は反語ではなく強い意志の表明であることは、他の抄物によって知ることが出来る。「メ」は『玉塵抄』(抄物のひとつ。豊富な言語量を有し、口語性も高い)の用例からみて、当時は強調表現に用いられるという程度の意識ではなかったかと推定される。また「ヤ」についてもいくつかの用例から「聞き手を意識しての『伝達』と考える」(芳賀綏説)が妥当と思われる。
 「ウラメヤ」は強い意思を表わす場合だけに用いられていたわけではないが、少なくとも(丸谷才一が主張するような)反語を意味することはない。つまり「ウラメヤ」は強い意志を含意するものであり、「生きめや」も同様に考えることができる。 さらに「生きめやも」の「も」であるが、一般に「や・か・も」が詠嘆を表わす用例は広く認められるから、「生きめやも」が堀辰雄の創意に基づく表現であったとしても「誤用」とまでは言えないだろう。
 「風立ちぬ」の五音を受け「いざ生きめやも」の七音で語調を整えたこの表現は「いざ生きんかな」というような凡庸な表現に比べると流麗な趣がある。狭隘な「古典文法」にとらわれなければ、日本語の文語表現の世界は多様で豊かなのである。
(なお、山田氏の後の話では「〈も〉が気になっているが、まだ答えは見つかっていない」とのことである。)
(2013年9月5日発行)

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発行人 根本啓子