水燿通信とは
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317号

宇多喜代子著『里山歳時記』を読む

 今回取り上げた「『里山歳時記』(角川学芸出版)の著者宇多喜代子は、俳人として活躍する一方、日本の古い生活習慣・食生活に大きな関心を持ち、古い文献を読み込み、日本の各地を訪れて古老の話を聞き、また自ら多少の田畑を耕して黒米を作ったりと、旺盛な学ぶ姿勢と健康を武器に実に精力的に動いている人であり、日本の農耕の歴史的変遷、雑穀などに対しても並々ならぬ知識を有している人である。
 本著は、今日では忘れ去られようとしている田んぼや農作業に関わる多くの興味深い事柄が語られていて、そのような宇多の面目躍如としたエッセー集となっている。だがこの本を特徴づけているのは、幼い頃、里山(註)で存分に遊んだ自らの体験、当時の食生活の詳細をよく記憶していて、それらが現在の著者の知識と綯い交ぜになり、深い思索になっていることである。そういったなかから、著者が何度も繰り返し言及し、私自身にも特に関心の深かった事柄をいくつか選んで、それらについて述べてみたいと思う。
(註)宇多はこの本の中で、里山には、山だけでなく、雑木林につながって一つの環境、景観をつくっている「田んぼ」という場をぜひ加えたいとして「地域住民の生活にかかわる雑木林に、田んぼ、小川、湖沼などを加えて、ひとつながりにした場と景観」と定義付けている。(316号参照)
棚田は景観か
 ある日、宇多喜代子は未知の人から「棚田の景観を守るために、力を出しあう会にお入りになりませんか」という手紙を受けとる。それを読んで、宇多は果して棚田は景観なのかと首を傾げたという。その後、棚田が名勝地として観光客を集めたり、ビジュアル系の雑誌が棚田の特集を組んだり、長野県更埴市(現千曲市)の姨捨地区の棚田が国の文化財に指定されたりするのを知るにつけ、著者は自分の抱くような疑問はもはや通用しなくなっていることに気づかされながらも「棚田は米を作るための田なのだ」と頑なに思ってしまう、と語る。
「春窮」
 この季語は、春、前年にとれた穀物が底をついて食べるものがなくなり、困窮にさいなまれることを言う。昭和になってから出来た比較的新しい季語ではないかと推測される。年配の人なら「昭和の六年から十年にかけて東北地方を襲った飢饉の際に、わずかの食糧を得るためのお金と引き換えに、大勢の娘さんが都会に売られていったという悲惨な出来事」があったことを覚えているはずで、つまりたかだか80年ほど前の日本ではこの「春窮」という季語は立派に生きていた実感のあるものだったのである。
自然現象に託すしかなかった農業
 田畑の耕耘を機械で済ますようになる以前の農業は、田植えを終えた後は、収穫まで自然の恵みに託すしか術はなかった。「梅雨時にたっぷり水を蓄え、夏にいい日照をうけ、虫獣の害にもあわずに秋を迎えてこその収穫です。どこかが狂っても収穫は望め」ない。「正月儀礼、春ごと、春祭り、水口祭、虫送り、案山子、秋祭りなどなど、田のまわりで行われる行事はことごとく、どうぞこのようなことになりませんように、というひたすらなる願いを〈かたち〉にしたものです。自然現象に起因した不幸に対してなす術のなかった時代、このような〈かたち〉をよすがにする以外、こころの休まる手立てがなかった」のである。
 棚田に関して言えば、中には畳1枚くらいの小さな田もある。傾斜のきつい棚田の畦塗りはことのほか辛い農作業であり、ここからの収穫量はおそらく1升未満のものだったという。それでも大事に作らなければならない時代があったのである。
飢える危機感の喪失
 輸入食品があふれ、国内の流通が発達した現代では、もはや人びとはこのような食べるものがなくなるといった危機感を感じる必要はなくなった。そして当然ながら、かつて人びとが「来年もまた収穫が得られますように、不幸な天気に遭ったりしませんように」との切実な思いをこめて行なった様々な行事の意味も忘れられていく、と著者は感じる。
農にかかわる行事の観光化
 こうして次に出てきたのが、農にかかわる様々な行事の観光化である。棚田を景観とする思考も同じ発想から出てくるものだろう。「棚田にかぎらず、かつての農村のあれこれが観光資源になったり、村起しの材料になったりしてゆく例に出会うたびに」、著者は農村の生活を知ってもらうという意味では意義はあるかもしれないと認めつつ、複雑な気持ちにさせられる、という。
 そして、山間のある神社に、頭屋(とうや)制度で辛うじて維持されている歴史的な意味を有する祭りに行った時のことを語る。この祭りが滅びそうだというので、数年前からある大学の教授が学生をつれて祭りを主催するためにやってくるようになった。古式に則って祭事が行われたのだが、何かが違うと感じていた著者は、皆が帰った後、思いがけない光景を目にする。
 しばらくすると二人、三人と村の人たちが集まってきて神前に並び、お仕えを始めたのである。私がハッとしたのは、中の一人が「さぁさぁ、わたしらの番だ」と小声で呟いたのを耳にしたときでした。やがて皆は直会(なおらい)の輪を作り、楽しそうに談笑し始めました。ところがいずれも高齢で、この人たちだけでは、ここに続いてきた歴史的な祭りは遠からず消滅することが歴然とわかりました。かといって、他地域の者でこの地の祭りを続けることがいいのか、どうなのか。他地域の者が行うということは、祭りの本来の主旨とは違ってきます。それでも「かたち」を残すことがいいのかどうか、いまだ思案中です。
 宇多喜代子は、この本の中で同様の迷いを何度も繰返している。飢える心配のなくなった現在は幸せな時代であり、飢えに怯えた時代の精神がわからなくなることを嘆く必要などない、伝統的なことは形だけでも残した方が消滅するよりはいい、農村の活性化、村興しになるのなら、観光化することもいいのではないか、こういった考えに反対するというのではないけれど、実際に飢える時代の記憶や体験を有する宇多は、これでいいのかと始終考え、ときに「かたちを変えて見せ物になるくらいなら、いっそ本来の姿のまま無くなったほうがいいのでは」と思うことさえある、と述べる。
「ばっかりおかず」
 宇多喜代子はまた、子供時代の「ばっかりおかず」の話をする。
 昭和10年代の瀬戸内のある村で暮らしていた頃、村の南西側に立派な松茸の育つ赤松の山があり、秋もたけなわになると、夕餉は連日、松茸ぜめとなった。鰯の旬の時期には鰯がドサッと台所の流しに置かれ、イワシ料理が毎日食卓に上がった。このように旬の期間に同じものを食べることを、むかしの人たちは「ばっかりおかず」と呼んでいた。「どんな場合でも、食べ物に関して不平を言うことや、皿に残すことは許されませんでしたので、〈またナニナニなの〉などとは口が裂けても言えません。私の家だけではなく、そういうことが躾として通用していた時代」の話だった、という。だが、著者は更に「すべてその時節にしか出会えなかったのですから、〈ばっかりおかず〉は自然の理だった」と考え、これはファミリーレストランなどで沢山の注文の品を食べのこしている現在の子どもたちの贅沢とは質の違う贅沢だったと今にして思い当たる、と述べている。
何もないことの豊かさ、静かなことの贅沢さ
 また宇多は、岐阜県の萩原や島根県の隠岐を訪れた時のことを回想して、何もないということ、静かだということがいかに贅沢なことかを語っている。土地の人が「この町にはなんにもなくて」と語る萩原を訪れた時、宇多はそこで飲んだ水のおいしさに感嘆する。また隠岐は景観のよさ、政争に巻き込まれた貴人や知識人が政治犯として配流されたという歴史、新鮮な魚介、山菜、人々の善意などがあって、観光客にとってまことに魅力的なところだが、「それにも増して気持ちがいいのは、島全体が〈静かである〉ということだ……港に毒々しい看板がない、歓迎の鳴り物が聞えてこない、押し付けがましい土産物の売り声がないという、隠岐・菱浦港のこれだけのことすらが、私には格別のことに思われた」と語る。
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 ところで本著を読んでいて、私はこれまで自分が接してきたり鑑賞したりした俳句作品のいくつかについて、本著に書かれているような事柄に対する自分の無知からいかに浅い理解にとどまっていたかを痛感した。同時に、かつての農村の様々なことを知るに及んで、これまでは見過ごしてきた、俳句作家の表現したかったものに思いが至るようになった。それらのいくつかをここで紹介しよう。
冷やされて牛の貫禄しづかなり   秋元不死男
 140号(1997年8月5日発行)で取り上げた句である。その鑑賞文を紹介しよう。
 過日、東京新宿区にある俳句文学館を訪れた際買ってきた、俳句の色紙を刷り込んだ絵葉書の中の一枚(この句を書いた色紙のコピーを通信の画面に入れて作成した)。勢いよく書かれた太い文字が、十数枚展示されていた中でひときわ目立ち、句も文字に劣らず魅力的で、思わずほれぼれしてしまった。牛の太く逞しい躯が、冷やされて寡黙に喜んでいる。殆ど動かないその表情の内側からも、気持ちよさが滲み出ているようだ。好ましい男っぽさにあふれた作品……。
 『里山歳時記』では、牛や馬が家畜として人間とともに暮らしてきた歴史にも触れている。「喘ぎながら重い荷物を曳いていた馬、黙々と田を行き来していた牛」。車の発達、田畑の耕耘を機械で済ますようになった頃から、人が牛馬に触れる機会が少なくなった。「労働使役に動物の力を借りていた頃の人たちには、わたしもつらい、おまえもつらかったろうと家畜を思いやる気持ちがあった……夏の季語の〈牛冷やす〉や〈馬冷やす〉にはそれがよく表われています。代田掻きのために使った牛や馬を水辺に連れていき、泥や汗を洗い流し、しばらく休ませます」。この個所を読んだとき、私は美的な観点からのみ味わった掲句の理解がいかにも浅いものであることを悟った。当時、私がこの本に書かれているようなことを知っていたら、この句の味わい方はずっと深まっていたのではないかと思う。
やませ来るいたちのやうにしなやかに   佐藤鬼房
 夏に吹く冷気をはらんだやませという風を、東北地方に住む人たちはとても怖れていた。この風が吹くと稲はてきめんに冷害にやられてしまうからだ。この句に初めて接したとき、私はやませを〈いたちのやうにしなやかに〉と表わした鬼房の表現の巧みさに感嘆した。作者は大正9年岩手県釜石生まれ。人生の大半を釜石で過ごした。従っておそらくこの句は、やませの特徴を巧みに描いたなどというよりは、人間の力ではどうする術もないこの風のおそろしさとその影響を骨身に沁みて感じていただろう人間の、心の中からしぼり出された言葉だったのではないかと、今になって思われてきた。
ふるさとの他人ばかりの祭りかな   白濱一羊
 すっかり観光化してしまった自分のふるさとの祭りを皮肉っている作品だろう。作者は盛岡市在住。昨今の農村の観光地化が念頭になければわかりにくい作品で、以前の私だったらおそらく見過ごしてしまっていたのではないかと思う。保存とか地域の活性化などと称して、本来の主旨を忘れてどこかおかしくなってしまった現代の祭りや風潮に対して考えさせるものがある作品である。
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 さて『山里歳時記』に戻ろう。
 著者は本著の終り近くで次のように述べている。
 限りなく「速く速く、便利に便利に」と、まるで人間などが居なくてもいいような設定でことが運ばれていきます。「速くて便利」という価値観はほんとうに人間にとって必要なのかどうか、もう少しゆっくりでいいのではないか、と思うのです。……「遅くて不便だけど、不幸ではなかった。そんな暮らしでいいのだ」ということだけを大声で言いたいのです。
 この部分を読んで、私は311号で『眼と風の記憶 写真をめぐるエセー』を取り上げた時、著者鬼海弘雄が彼の写真集の中で語った言葉を紹介したが、それを思い出した。
 自然のめぐみをうけながら、つつましく暮らしている子どもたちを見ていると、そこに、ある「しあわせ」を感じるのはなぜだろう。ひとの暮らしのなかには、貧しいけれど、自然にすべてをまかせる生き方でしか育まれない、「しあわせ」があるのだろうか。それとも便利なものが豊かにあふれる暮らしには、べつの貧しさが生まれているのだろうか……。
 私は鬼海弘雄のこの言葉と宇多喜代子の考えとの間に共通した視点をみる。
日本人はすでに十分物を持っている。もうこれ以上「もっともっと」という思考を止めて、自然であること、何もないことの中にひそむ豊かさに気づいてもいい時なのではないか。
 現代の一見平穏そうでその実、将来に何の夢も持てない閉塞した状況の日本の社会を打開する手立のひとつとして、このような思考の転換も参考になるのではないだろうか。
 そのように感じさせられた1冊であった。
*宇多喜代子の類似の内容の著書に関しては、262号「「いも」のこと 芋煮会の思い出」、302号「イナゴ捕りのことなど 『古季語と遊ぶ』から」でも触れています。
(2013年10月10日発行)

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発行人 根本啓子