水燿通信とは |
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262号「いも」のこと芋煮会の思い出など |
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俳人の宇多喜代子は、その著『私の歳事ノート』(富士見書房 2003年刊)の「いも」の項で、次のように述べている(「 」内のみ引用。他は文意をまとめてある)。 |
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私は「日本人は米を食べるのが幸せなのだ、山奥の人も海辺の人も、日本人という民族は稲を育て、米を食べているのだ」と思っていたが、昭和五十年代のはじめ足繁く紀伊半島を横断するようになって「海沿いの道を列車で通るたびに、稲田というものが少ないここの人たちは、何を食べて生きてきたのだろうと思うことが多くなった」。また「餅なし正月」の話を聞いたり、坪井洋文の『イモと日本人』(正月の餅をタブーとする村落、集団、同族などの文化論)やこれに次いで出されたやはり坪井による『稲を選んだ日本人』のなかの「貧困、戦争、落人、異人虐待を契機とした「餅なし正月」の神話には、社会の正統から周辺に押しやられ疎外された、暗いイメージがともなっている」というくだりを読んだりする過程で、「現行の歳時記の内容はすべて「餅正月」の明るさの中に成り立っている」ことに気付いた。 |
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ここで言及されている坪井のこれらの本は昭和50年代に出版されたもので、柳田國男によって開拓された稲作中心の単一的な日本文化論と異なる畑作的農耕文化に焦点を当てており、稲作文化を当り前のこととして考えてきた日本人にとって大変刺激的なものであったらしい。そしてこの非稲作文化の中で重要な役割を担っていたのが、食糧難のときなどに盛んに活用された救荒食物としての甘薯をはじめとする「いも」類だったのである。 |
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ところで「いも」と言われて、日本人は一般的にどんな種類の芋を思い浮かべるだろうか。宇多は83歳から22歳までの平均年齢46歳の計28人という小さな集りでアンケートしてみたところ、多くの人が思い出すのがじゃがいもとさつまいもであり、若い人は前者、年配者は後者を答える人が多かったという。里芋、山芋などはまず思い出してもらえないらしい。 |
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ところが日本においては伝統的には「いも」といえば里芋ということになっている。俳句でも同様に「いも」と言えば里芋のことで、秋の季語とされている。じゃがいも(馬鈴薯)、さつまいも(甘薯)、山芋、自然薯、薯蕷(ながいも)などはそれぞれの名で呼ばれ、単に「いも」と言う場合は含まれない。里芋は稲作が始まる以前に日本に渡来し、米以前は常食されていたという日本民族との古い付き合いのある野菜であったため、このような扱いになったらしい。なお里芋の命名は、山の芋に対して里に出来るいもの意味だという。現在、九州では次第にさつまいもを「いも」と言うようになっているが、今でも日本の多くの地域では、「いも」はすなわち里芋を指すようである。 |
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さて、里芋と言われれば、山形出身の私にとって忘れられないのが芋煮会である。 |
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その起源は江戸時代、里芋の収穫時期に合わせて野外で多くの人が集まって鍋料理を囲む収穫祭的な行事だったと思われる。山形市の西北に位置する中山町(なかやままち)では、この地が最上川舟運の終点に当たっていて、船頭たちが荷物を引き取ってもらうまでの退屈しのぎに、里芋の名産地であった現地で求めた里芋と積荷の棒だらを煮て食べたことを芋煮会の起源だとしている。この行事が東北地方で特に盛んになったのは、寒冷地で里芋の越冬が困難だったため、厳冬前に消費するのが目的だったらしい。江戸時代には肉無しで、肉が使われるようになったのはずっと後、昭和に入ってからになる由。昭和30年あたりからは、学校の課外授業の一環としても行なわれるようになったという。私の記憶に残っているのはこの型の芋煮会だ。 |
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地域ごとに5〜6人のグループに分かれ、鍋、筵(むしろ)などの道具、食材の分担を決め、当日はリヤカーでそれらを運んだ。場所は最上川の支流である寒河江(さがえ)川の河原。寒河江川は月山の冷たくてきれいな雪解け水が直接注ぐ川(1995年清流河川ベスト5で、富山の黒部川、北海道の後志利別川とともに第1位になっている)だ。 |
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河原に着くと、適当な場所を見つけて筵を敷き、そばに低い潅木があったりすると自分たちのテリトリーを示すためにそこに風呂敷を下げたりした。現在埼玉に住んでいる中学時代の同級生が、そこで食べているときの写真を友人に見せたら「何これ!? 乞食?」と言われたという。まさしくそんな情景なのだが、当時は楽しいわれらが家であった。 |
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さて場所が決まったら、今度は河原の石を組み立ててかまどを作る。ある種の模様のある石は熱くなると割れるので、避けるように注意された。一方、別のメンバーは材料を洗ったり切ったりする。鍋や材料を洗うのも煮炊き用の水も全部川の水、澄んでいて実にきれいだったから、何の抵抗も無かった。そしていよいよ煮炊きが始まる。薪は持参したもののほかに、河原の枯れ木などもあった。入れるものは里芋、牛肉、葱、こんにゃくで、醤油、酒、砂糖で味つけした。晴れた秋空の下、川の流れの音を聞きながら食べるそれは、本当に美味しかった。これが私の記憶にある中学校(小学校時代はあったのだろうか、小中学校と顔ぶれはみんな同じだったから、はっきりと区別がつかない)の行事としての芋煮会だ。 |
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ところが、中学時代の友人や山形県に生まれ育った同世代の友人の話を聞いてみると、実に多様な芋煮会があることがわかった。 |
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寒河江川を挟んで反対側の地域に育った友人(小学校は別、中学校で一緒だった)は、時期は夏の終わりごろ、小学校のころは専らじゃがいもで、里芋を使うようになったのはずっと後だった、ほかに入れる材料は畑にある菜っ葉なんかだったとのこと。子ども会で代々受け継がれていたじゃがいもの茶巾絞りも作った、砂糖を使っているのでお菓子を作っているという感じで楽しかった、などと話してくれた。 |
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また、最上川寄りの別の地域に育った友人は、メールで次のようなことを教えてくれた。小学校の行事として最上川の川原で行なった芋煮会はたしか10月、5、6年生が参加、地区ごと、男女別の班編成だったが、その材料は里芋、葱、牛蒡、こんにゃくに薩摩揚げ、裏山が松茸山だったので松茸の屑を持ってきた子もいたという。友人曰く「肉類でなく薩摩揚げと言うのが当時の生活水準を物語っていますよね。…現在のような牛肉入りの美味なる芋煮を食したのは就職してから…。就職以後の芋煮会では「里芋、牛肉、葱、牛蒡、こんにゃく、まいたけやえのき」が定番。…結婚後は転勤の先々の地区、幼稚園、PTAなどで一秋に何度も何度も怒涛の芋煮会がありました。いずれも野外、特に山形市民であった折の馬見ヶ崎(まみがさき)の川原(註)での会は良い思い出となっております」。 |
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そのほかの話などもまとめると、材料はほかにはきのこ類、豆腐、人参、大根などもあり、また肉類は庄内地方では豚肉だし、岩手県など他県では鶏肉も使うようだ。岩手版芋煮ではギンダケや本シメジのような高級なきのこを使うときは鶏肉、ボリというその辺の山で採れるきのこのときは豚肉と区別して使うなどといった愉快な話も聞いた。このほか、山形県では鯨肉やイルカ(5ミリほどの黒い皮、その下は脂身)などを使った記憶もあるなどといった話も出てきて、驚いてしまった。現在、芋煮会の習慣のない関西に住む知人は、ふるさとの味が忘れられず県人会を作って年に一度の総会で芋煮会をやり、山形弁を交えながら芋煮に舌鼓を打っているという。 |
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こうやって幾人もの話を聞いてみると、つまり材料は何でもありという感じ、また昭和30年代ころは社会全体もまだまだ貧しかったことが改めてみえてくる。これらの話を聞いた後で考えると、私の中学時代の芋煮会は本当に牛肉だったのか、友人の記憶に比べてちょっと豪華過ぎるのではないか、後年の記憶も混じっているのではと、いささか心許なくなる。だが妹などに聞いてみても「肉は学校で用意してくれたけど、何肉だったのかしら、よく覚えてない」と頼りない。 |
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時期も秋とばかり思っていたが、結構暑かったこともあったような気もするし、それによく先生に「泳いでもい〜い?」と許可を求めたのを記憶している。当時、寒河江川は子供たちの格好の泳ぎ場だったが、この川の水はかなり冷たくて暑くなっても学校の許可が下りないと泳ぐことができなかった。その許可を求めたのである。ということは夏休み前の可能性もないとは言えない。そうすると収穫時期からみて芋は里芋ではなくてじゃがいもだったのだろうか。はっきりしていたはずの記憶がだんだん怪しくなってくる。 |
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ただひとつ確かなことは、それがとても美味しかったこと。おそらくそれは、澄み切った空の下、野外で食するというだけでなく、友人が語ったように「大鍋しかも薪で炊くのが秘訣であり家庭では得られない美味しさがある」からだと思われる。 |
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この秋も、山形の人々は、学校で職場で地域で、またいろいろなグループで芋煮会を楽しむことだろう。 |
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(註) | 山形市内を流れる川。1989年(平成元年)以来、毎年9月の第1日曜に開催されている「日本一の芋煮会フェスティバル」はこの川の河川敷を会場としている。左岸(街側)の河川敷では、直径6メートルの「鍋太郎」と名付けられている山形鋳物のアルミ合金製大鍋に約三万食の山形風芋煮(牛肉使用)が作られ、右岸(山側)では直径3メートルの大鍋で庄内風芋煮(豚肉使用)約五千食分が作られるという。 |
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〈今月の一句〉 |
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芋の露連山影を正しうす 飯田蛇笏(大正3年作) |
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大変に有名な句だから、俳句に関心のない人でも教科書か何かで目にしたことがあるのではないかと思う。だがじっくり考えてみると、なかなか難しい句ではないだろうか。大体〈芋の露〉という表現が「里芋の葉の上の露」を意味するのだと即座にわかる人はどのくらいいるだろう。俳句を読みなれている人でないとなかなか難しいのではないか。また〈影〉もこの場合は姿、形といった意味にとらなければならない。 |
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近景に里芋の大きな葉の上でころころころがっている露の玉があり、遠景には澄んだ秋空の下くきやかに見える山並みがひろがる。日本のどこにでもある風景、この日本人の心の中にある原風景ともいうべき典型的な秋の風景を、見事に格調高く描いた作品である。 |
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(2009年9月5日発行) |
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発行人 根本啓子 |