水燿通信とは
目次

302号

イナゴ捕りのことなど

『古季語と遊ぶ』(角川選書)から

 第一線で活躍する主に関西在住の俳人たちが、生活環境の変化によって消えつつある季語の中から、古い生活に裏打ちされた季語を持ち寄って句会を始めた。平成2年から始められたこの句会の様子を、参加者のひとり宇多喜代子がまとめたものがこの『古季語と遊ぶ』である。俳句を作る人にとっては有名俳人のお手並み拝見といった楽しみもあろうが、俳句は鑑賞するだけという私には、それぞれの季語にまつわる宇多喜代子の解説がなかなか面白かった。なにしろ宇多は、俳人として活躍する一方、日本の古い生活習慣、食生活に大きな関心を持ち、古い文献を読み込み、中国雲南省の山奥の村を度々訪れては土地の人たちとの交流を楽しみながら今に残る様々な風習、生活のあり方を学び、日本の各地を訪ねて古老の話を聞き、また自ら多少の畑を耕して黒米を作ったりと、旺盛な学ぶ姿勢と健康を武器に実に精力的に動いている人であり、日本の農耕の歴史的変遷、雑穀などに対しても並々ならぬ知識を有していて、『古季語と遊ぶ』にはそのような宇多の片鱗を窺わせる多くの興味深い事柄が語られているからである。
 関西地方を中心とした古季語が多く、第2次世界大戦後には消えてしまったものも少なくないので、昭和18年末に山形県内陸部の田舎に生まれ、大学入学までそこに住んだ私には全く想像もつかないような季語も数多く採用されている。だが日本の戦後間もないころまで残っていた日本人の生活のあり様、さまざまな農仕事の様子などに触れられたあたりでは、日本全体、ひいては東北の農村などにも共通するものもいくつも見られ、私には、読んでいて子供時代の遠い記憶が呼び醒まされるような懐かしさでいっぱいになることがしばしばあった。そんな中からいくつか選んで、気軽なおしゃべりをしてみたいと思う。
雛荒し
 「三月三日に、子供たちが雛壇に供えられた菓子や餅などを貰い歩くこと。菓子が贅沢品だった時代の子らへの福分けの行為だったのかもしれない」とある。私の子どもの頃も同様の習俗が残っていたが「雛荒し」という言葉は知らなかった(子どもが雛祭りに家々をまわってお菓子をもらったことについては297号で触れている)。
 この行事、ヨーロッパを起源とするもので、現在はアメリカを中心に行なわれているハロウィーンと似ているのではないかと私は思った。これは10月31日、それぞれに魔女やお化けなど意匠を凝らした扮装をした子どもたちが家々を回り「Trick or treat.」(お菓子くれないといたずらしちゃうぞ)と言ってお菓子をもらう行事だ。ラジオの英語番組の講師が、初めてそれを聞いたとき「チカチー」と聞えた、などという話をしたことがあり、おかしくて今でも覚えている。
雛流し
 よく知られている行事で特に説明のいる季語ではないが、私は宇多の次の文に注目した。
 「ながす」という行為が、思想を伴って私たちの暮らしに根付いたのは、狭い国土に川が多いこと、山から海までの距離が短いこと、季節の循環が〈再生〉を約束してくれることなどと無縁ではないだろう。忘れっぽいと嘲われながらも、恨みつらみを「水に流す」という思想が、千年も二千年も恨みを抱いたまま同胞が戦うというような愚行を避けてきたのではないか。東洋広範に残る「流す思想」のなかでも、清浄な諦観をもっている点で、日本のそれはやはり特異であろう。不浄なものも、尊いものも、一切を水に流すことで、とりあえずの決着をつける。死者の精霊も、七夕の願いも、女子の不浄も、すべて水に流して祓除し、のちの再生に思いを期す。
 私は小・中学校で何かやるとき納得できないことがあると「どうして」「なぜ」とよく質問した。だが殆どの場合、十分説明されることはなくて途中で話は打ち切られ、私はいつも「くどい」「我を張りすぎる」「協調性がない」というレッテルを貼られるばかりだった。また子供同士でけんかをしたときなども、原因やお互いの言い分は何なのかといったことはあまり問題にされず、「友だちなんだから仲良くしなくっちゃ」ということで、双方とも不機嫌な顔をしたまま仲直りをさせられるということが多かった。私は自分が常に正しいと思っていたわけでも、自らの非を認めるのが嫌だったわけでもなく、単に納得したかっただけなのだが、学校ではこのようにいつも「徹底的に議論をする」ということは避けられ、適当なところで決着させるのが常だった。長じてみると、このことは学校だけの話ではなく、日本の社会全体を覆っているやり方だということが分かった。日本人の生活の隅々まで張り巡らされている、議論などせず適当なところで「水に流して」解決するやり方(よく言えば「和を大切にする」ということなのだろうが)は、自己主張の確立している国々との関わりが多くなった今でも基本的には健在だと私は思っており、私は日本人の度し難い駄目さだとずっと嫌悪してきた。だが宇多のこの文を読んで、大いに考え込んでしまった。私の考え方は一面的なのだろうか。視点を変えれば、日本人のこのやり方は長所にもなり得るものなのだろうか。もっと多面的に考えてみるべき課題なのだろうか。
雁風呂
 もう40年近くも前のことになるが、サントリーのCMに次のようなものがあった。
 漂着した小さな枝があちこちにころがっている浜辺の夜、焚火の傍らで作家の山口瞳が腰を下ろして土地の人の話を聞いている。そして次のようなナレーションが流れる。
 月の夜、雁は木の枝を口にくわえて北国から渡って来る。飛び疲れると波間に枝を浮かべその上に止まって羽根を休めるという。そうやって津軽の海までやってくると、いらなくなった枝を浜辺に落として、さらに南の空へと飛んでいく。日本で冬を過ごした雁は早春の頃再び津軽に戻ってきて、自分の枝を拾って北国へ去って行く。あとには生きて帰れなくなった雁の数だけ枝が残る。浜の人たちはその枝を集めて風呂を焚き、不運な雁たちの供養をしたのだという。
 最後に山口瞳が「哀れな話だなあ、日本人って不思議だな」とつぶやき、酒を飲む。
 映し出される浜辺や月、波の映像は美しく、流れる尺八の音楽もすてきだったが、特に最後の山口瞳のせりふは大評判となり、その後しばらく人々の間でちょっとした流行語になった。この話は『俳諧歳時記栞草(しおりぐさ)』という古い歳時記に載っているが、雁の供養のために浜辺の枝で風呂を焚いたという話について宇多は「それって本当ですか、今でもやってるんですか、などと真顔で畳み込まれるとちょっと困る」として、次のように語っている。
 雁がいなくなった頃の浜辺に転がっている大小さまざまな漂着の木。これを風呂の焚木にしたというところまでは本当だろう。薪炭の大事が身にしみている時代に育った者であれば、木端があれば竈か風呂の焚きものにするくらいは誰でもする。ところが、飛来の雁がこれを銜えてからの物語がいわゆる空想から生まれたウソとなる。人々のこころを打つのはこのウソの部分なのだ。
桃吹く
 仲秋のころ、棉の木に白色の五弁の花が咲くが、その花のあとにできるピンポン玉大の堅い果実、これがまさしく桃の形をしていて、これが熟すと裂けて中から白い棉花が吹きだしたように出てくることからできた季語とのこと。宇多は、親しくしている農家のおばあさん、俳句には全く関わりのないそのおばあさんが、割れた果実から棉花が出ているのを示して「モモがもうフイてるよ」と語ったのを耳にしたことがあるという。
 私の近所に草木をきれいに育てている家がある。散歩の折、この棉の木がまさしく「桃吹く」状態になっていたのだが、この木の紅葉した葉もなかなかきれいだったので、偶々家の外に出ていたその家の年配の女性に「棉の木の紅葉したのもいいですね」と話しかけてみた。そしたら、その人は棉の果実をふたつとって中の棉を取りだし、さらに中を開いてみせてくれた。堅くて黒っぽい種が棉に囲まれてあった。「別に難しいことはありませんから種を蒔いてご覧なさい。桜が終わって気温が20度くらいになったら、時期ね。種を2日ほど水に浸すといいですよ」、そう言ってその種を下さった。
 なお、わたは精製されないうちは棉と書き、綿糸、綿布と区別するという。
橡(とち)の実
 奥美濃に住む妹が、年末などによく餅を送ってくれるが、その中に必ずと言っていいほど橡餅が交じっている。全体が薄茶色でところどころに焦げ茶の細かい粒が混じっているこの橡餅は、私には妹から送ってもらうまで全くなじみのないものだったが、独特の香り、味(といってもこれをどう形容すればいいのか、香ばしいというのとも微妙に違うし適当な形容が見つからない)があってとてもおいしいものだ。妹がよく送ってくれるのは「奥美濃の郡上やきもち」(製造元は白鳥もち加工組合)。説明書には“コンロ、炭火等で焼いてから砂糖醤油などをつけてもう一度焼き、コンガリと焼き上がった味は格別の風味”とある。
 この実は団栗型または栗型で、晒して苦味をとって食べる。その工程の大変さを宇多は次のように語っている。
 必要に応じて、この橡の実を晒して苦味をとって食べる。実際にこの実を生のまま噛んでみると、とてもとても苦くて食べられたものではない。「晒して苦みをとって」と書けば九文字だが、この工程たるや、これを食べて生きよう、という思いがあればこそできると言っていい。
 いまは嗜好品として好まれているようだが、かつて山国の人たちはこのようなものをも工夫して大事に食べなければ生きていけなかったのではないかと思わせられる話である。
 また同著には、熊野の茶店で民俗学を専攻している青年と会い、橡の渋抜きの方法、地方による渋抜きの違い、遺跡から出土した経過など橡の実に関する並々ならぬ知識を披瀝されたが、この青年、茶店のおばさんが持ってきた数種の木の実のどれが橡の実か分からなかった、などという愉快な話も紹介されている。
蝗(いなご)
 小学生の頃、秋になると全校挙げてのイナゴ捕りの日があった。手拭いを縫って作った袋、牛乳瓶などを持って登校途中や小グループで田圃に行ってイナゴを捕まえ、学校に持って行くのだ。袋の中にヘビやカエルなどを入れるワルガキもいたりした。集められたイナゴは校庭の隅に置いてある大きな釜で茹でられたあと、業者に売られ、その売上金は文具教材などの購入に宛てられた(わずかの年齢差ながら、戦後生まれの友人はこのイナゴ捕りの記憶は無い由、また別の小学校では上級生ばかりだったという)。
 業者はそれを佃煮にして売るが、甘辛く煮たそれは独特のしゃりしゃりした歯ごたえがあってなかなかおいしく、カルシウムも豊富な優良食品として故郷では好んで食べられた。私が東京住まいになってからも、母はよくこの佃煮を送ってくれた。
 いつ頃からか、農薬の影響なのか蝗はめっきり少なくなったと私は思っていた。ところが故郷の友人は、「一時はそういう時期があったかも知れないが、現在は減農薬で作るとか強い農薬は使わなくなってきているので、また多くなったのではないか、現に私は教員生活を退職した後など、家の近くでよく捕っている」と語る。また「雨上がりは、体を乾かしに稲の葉先に沢山出てくるので容易に捕まえられる、夕方も捕まえやすいが日中は駄目、蒸し暑い曇りの日はおんぶ蝗(子どもを背中にした蝗)がたくさん取れる、蝗は捕まえられないように葉の裏に隠れているが、その手と足が葉の表にチョコッとかわいく見えるのでわかる」などという興味深い話もしてくれた。彼女は甘くない蝗の煮方を工夫して食べているという。
 なお、蝗の字について宇多は「イナゴは「蝗」と書くが、なぜ虫偏に皇なんだろうと思っていたところ、皇には「四方へ大きく広がる」の意があると知る。それでわかった。一匹の蝗がたくさんに増え、四方へ飛んでゆき、稲に被害をおよぼす」と語っている。
 何十年も前のことになるが、職場で長崎出身の女性から「東北の人ってムシ食べるんだって」と言われたことがある。「ムシ食べる」という言い方と、東北全体を一括りにして「東北の人」といった言い方のどちらにも、東北の人間に対する侮蔑的な視線を感じ、いたく傷ついた。「単なる食習慣の違いじゃない」とか「フランス人はかたつむりだって喜んで食べるじゃない」などという言葉がのどまで出かかったが、まともに相手をしたらますます馬鹿にされるだけだと思って「そうよ」の一言で済ませたが、悔しさは後々まで残った。
蒸飯(ふかしめし)
 今ではレンジを使えば冷たいご飯だってすぐ温かくなるご時世、蒸し器で冷えたご飯を温めた蒸飯という季語などは、早晩説明されないと意味のわからない人が多くなってきて、消え去る運命にあるものだろう。
 母の得意に、羽釜のご飯が完全に炊き上がったのちに少しの間、冷やご飯をのせて置き、熱の勢いで炊き立てご飯と同じようにするという再生法があった…。
 このくだりを読んで、子どものころの記憶がよみがえった。冷えたご飯もおいしくなったかもしれないが、わたしが忘れられないのは少し硬くなった菓子パンとか饅頭の類をあたたかいご飯の上にちょっとの間乗せたものだ。ホカホカにやわらかくなって、手に持てないくらい熱いのをほおばったそのパンのおいしさったらなかった。
 こうして憶い出してみると、子ども時代の食生活は結構貧しいものだったような気がするが、それだけにホカホカの菓子パンでも十分に満ち足りたものになった。「豊かになったことが必ずしも幸せにつながらないなあ、今何を食べても、子ども時代の記憶に残るおいしかった食物に勝るものは無いもの」と、妙に年寄り染みた感慨が浮かんでくる。
*
〈今月の1句〉
個個にゐて大夕焼に染りゐる鈴木六林男
(『荒天』初版本の表記 昭和24年刊)
 鈴木六林男(むりお)は大正8(1919)年、大阪府生まれ。昭和15年に召集、中国での戦闘に従軍したあと、同17年、第2次世界大戦でもっとも苛酷な戦闘と言われたフィリピンのパターン・コレヒドール戦でも戦った。掲句はその時作った戦争俳句のひとつ。対米宣戦以降、戦地での検閲はことのほか厳しくなり、転出のたびごとにノート・メモ類は全て没収された。六林男は検閲の直前まで自作を暗記し、検閲が終るとまたすぐノートに書き記す、ということを繰返してこれらの戦争俳句を残した。
 〈個個にゐて〉の句について、六林男は「夕焼に染まりながら」という文章(『二十世紀名句手帖』8「旅と人生の嬉遊曲」所収)の中で、次のように語っている。
 マニラ湾は世界でも有名な夕焼の名所です。日本兵の一人ひとりの顔も、敵の陣地も、ジャングルも、海も、全てが眞ッ赤に染まります。コレヒド−ル島ではまだマッカーサーが指揮を取っていました。兵隊は、それぞれ蛸壺(一人用塹壕)のなかで、夕焼に赤く染まりながらいろんなことを切に想います。国家について、戦争について、運命について……。
 鈴木六林男はこの戦闘で何とか命だけは助かったものの、腕に大きな傷を負い帰還した。
射たれたりおれに見られておれの骨
 彼はこの負傷を戦後も抱えて生き、その精神も戦争を風化させず時代の状況に対する厳しい批評意識を持ち続けた。2004年、85歳で死去。(掲句の表記は、初版本以外は〈個個にゐて大夕焼に染まりゐる〉の二つの「ゐ」は「い」になっている)
(註)231号「戦争に関わる俳句」(2005年8月15日発行)のなかでも鈴木六林男の作品を取り上げています。
(2012年8月10日発行)

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発行人 根本啓子