列車の旅こぼれ話
小野田 学僕の長かった学生生活の内には、京都・東京への旅をよぎなくされたこともあった。
我が家からは京都へは半世紀も前のその頃までには京都までの電化が漸くなって走り始めた東海道線「比叡何号」、東京へは大方は「東海何号」と言うナンバーの付いた準急列車を利用したものだ。
急行や特急など、親父の細い脛を齧り続けている身にはとうてい叶わぬ夢であった。
学生生活に別れを告げて数年、名古屋盲のK先生やN先生とすっかり親しくなってまもなく、彼らが日盲連青年部会に出席するのに「ぜひ同行を」とのお誘い。若さともの珍しさに飛び付きたがる我が生来の性分ゆえに京都で開かれた全国大会に同行したのが運の付きで、以後4年間日盲聯青年部会の執行部役員をとの御脅迫(おっと失礼、否応無く命じられて)年3回の委員会や、年1回の全国大会に出席するはめとはあいなったしだいである。
そんな訳で、列車の旅を多く重ねる中で、僕は盲人なるが故の珍談を多く経験する身とはなったものだった。否、珍談と言うよりも眼の不自由さを生来の無鉄砲とずうずうしさで何とか凌いで、鉄道の旅をしようとすればやむをえない行動と言うべきだろう。
そんな中から、健常者では多分有りえないようなこぼれ話を拾い上げてみたい。
その1
京都からの帰路、悠々と比叡何号とやらに揺られている内に何時もの通り車掌が検札にやって来た。ポケットから乗車券を出して渡したところ、「これは入場券ですよ」とのこと。
さては、京都駅のホームで急いで乗車するときに彼女が手渡してくれた乗車券は入場券だったと知られた。
手に触れた感触では、当時の入場券と乗車券とは全く区別のつかない代物。車掌に事の次第を伝えて「京都駅で京都市の某福祉事務所発行の割引証を使って入手したのだから、そちらを尋ねてみてほしい」と伝えたところ、一旦姿を消した車掌が再び現れて、「それではこれを刈谷駅の集札口で渡すように」と大きな紙片を渡してくれた。
終着刈谷駅で何の問いかけも無く、無事集札口を通過できたことは今もふしぎにはっきり覚えている。
その2
列車のたびと言えば、それについて回るのがいわゆる汽車弁。「汽車ポッポ」がなくなってしまった今もそのように呼ばれているらしい。
「列車の旅の醍醐味」は「汽車弁にあり」と言う有名人の見解を承ったことがある。
「汽車弁食べ歩き」などと言大部の随筆集まで世の中には流布されていると言うのだから、さもありなんと思われる。
ところで、僕は一人旅の場合には寿司またはサンドイッチ、せいぜい幕の内弁当程度で、其れ以外の物は食べないことにしている。何時の間にやらそんな習慣を身に着けてしまった。
寿司にしろ、サンドイッチにしろ、手で食べても特に非礼ではあるまい。
寿司は手で食べてほしい。特に握り寿司はその握りかげんをも指のデリケートな感触で味わいながら食べて頂きたいと言うのが寿司職人の本音と聴いている。
幕の内弁当の中身を箸でつまみ上げ口に入れてみたら其れは枝豆だった、一旦口に収めたものを出して皮をむくなどはどうにも我慢ならない醜態。やむなく、1個を皮ごと食べて、同上の弱視の友人にからかわれたことがある。
漸く箸でつまみあげて口に入れたら、其れはアルミ箔の小皿ごとだったなどと言う、恥ずかしさに耐えない失態は演じたくない。
滋賀県は米原駅の1駅か二駅名古屋寄りに醒ヶ井(さめがい)と言う駅があり、確かそこに、有名な養鱒場があるとか。その駅だったかの「鱒寿司」はだから有名な弁当。今も有名かどうか? 1度食べてみたいと思いながら、幾度もその売り声を聞きながら、ついに食べずに今日に至っている。
今にしてやはり「食べなくて良かった」の思いをしみじみ味わっている。
もっとも、鱒寿司はその場で食べずに、家に持ち帰って、他人の眼を気にせずに、家族だけでゆっくり食べることが最善だろうが、家族の多かった当時の僕にはそんな贅沢は許されなかったと言うのが本音である。
20年くらいも前だったか、某点字雑誌の随筆に、どこかの有名な鮎寿司を食べた印象記が載っていた。
全盲の筆者はやはり鮎寿司の売り声に誘われて其れを入手。早速、列車の座席で開いたところ手に触れるものは数多笹の葉。漸く笹の葉を掻き分けて出てきた鮎寿司らしきものは箱一杯に広がった食べ物で、切れめなどは全くなさそう。
せっかく買った以上はやむをえずちぎっては食べ、食べてはちぎってヲ繰り返して、漸く鮎寿司の美味を堪能し終わる頃になってふと手に触れたものは薄い金属片。隣座席に居た中学生君か高校生君かに尋ねたところ、其れはカッターだとのこと。
「これで鮎寿司を切り分けながら食べるのか?」と始めて気付き、数多乗客の注視の中で「ちぎっては食べ」ヲ繰り返した我が身の無知と非礼に赤面の思いひとしおだったと記されていたのだった。
やはり、醒ヶ井駅での鱒寿司の誘惑に負けなかったことが、今にしてああ幸いなり!と思い起こすのである。
静岡駅だったか浜松駅だったかのホットドッグの美味を味わったのはだから誰かと二人旅だった時の事だろう。
その3
半世紀近くも昔、日盲連青年部会全国大会が九州は宮崎市で開かれた時のことである。
僕ら愛知県と名古屋市の代表4人が京都駅で東海道線を離れ、夜8時近く発車する日豊線周り西鹿児島行きの寝台列車に乗り換えたのだった。
乗り換えて落ち着いてみると4人とも未だ夕食にありついていなかったことに気付き、さあ弁当の入手方法をどうするかが大会に先立っての有力議題と成った。
「小野田何とかできないか?」と言うのがその結論。生来の気の小ささを自認する僕としては其れを断る勇気もなし。夜行列車なので駅での呼び声なども聞こえない。
「まあ何とかなるだろう」と決め込んでいたら、車掌が検札にやってきた。恐る恐る「弁当を買いたいのだが」と尋ねたら「夜の駅は売り声を発しないから難しいですよ。私が買ってあげましょう」との有り難く嬉しい申し出。
「この先では姫路で買うのが良いでしょう」とのこと。その姫路を出た直後、車掌が4人分の弁当を届けてくれたのにはすっかり恐縮。
「渡る世間に鬼はなし」との格言はやはり廃っていないものと嬉しさを噛み締めたものだった。
その翌朝の朝食は朝7時頃門司駅での元気な売り声に誘われてかの地の魚料理の汽車弁の美味を列車の窓越しに買い込み、満喫したのだった。
その4
今は故人となられたKさんと湯河原の某山の宿で開かれた「点字通信将棋会主催の将棋大会」に出席した時のことである。
彼が調べてくれて、1日1本の準急熱海行きの列車に蒲郡辺りで落ち合って、朝9時ごろ乗車した。正午頃静岡駅に到着の予定。
「がくさん、昼飯はどうしよう」とKさん。「僕が買ってくる」と答えると、「このごろの駅の売り子は大声を出さないから難しいぞ」と途中失明の彼。まあ何とかなるさ、と僕が立ち上がってデッキへ。
静岡駅停車で早速手に千円札をひらめかせながらホームに片足を下ろしかけようとしたとき、目の前で「弁当」と遠慮がちな売り声。もちろん二つ入手して座席に戻ったところ、彼が大変驚いて「どうして入手したか?」と聞く。
「デッキへ出て行って腹がへったという顔をしていたらちゃんと売ってくれた」と嘯いた僕でした。
向かい側の席に居た乗客がどんな顔をしていたか知るすべもなかったのだが…。彼Kさんはその事がよほどふしぎだったらしく、その後ふとした機会にその話題が持ち出されたことがあったほどだった。
その5
やはり日盲連青年部会の委員会が伊勢で開かれた時のこと。委員だった名古屋盲のN先生、K先生、それに僕の3人、近鉄列車で伊勢駅に下車。ホームから乗客の足音を頼りに集札口まで。
当時はもとより自動改札機などと言う機械はなく、専ら駅員が出改札の作業をしており、改札用のはさみのリズミカルな音を頼りに全盲でも集札口へ辿り着くことはそう至難なことではなかった。古き良き時代ではあった。
その集札口で乗車券を渡したところ、はるかかなたから「有難うございました」の若い女性の声。集札口を出たわれら3人、ゆっくり長いコンコースを辿って漸く心づもりのところで後ろに居たK先生を振り返ってやや大きな声で「確かこの辺りに売店があったはずだったっけ」と。
とたんに直ぐ横から「売店はここですよ」の声。あまりほしくもないキャラメルを二箱・三箱買って、ついでに「タクシー乗り場」の位置を尋ねたこと言うまでもない。
この話を過日豊田市の視覚障害者とボランティアグループとの交流会だったかで、列車の旅の話題が出たついでに披露したら「小野田さんは案外な知能犯を犯すのですね」とボランティア嬢の声。特に常識に反しない限り、非礼に渡らない限り、この程度の「知能犯」を覚悟しない限り全盲の一人旅などは不可能に近いと言うべきだろう。もっとも、無鉄砲を自他共に任ずる僕も一人旅ではきわめてお淑やかなのだが…
その6
これは列車とは無関係な話。豊田鍼灸按師会が列車を乗り継いでの湯ノ山方面への「研修旅行」としゃれ込んでの日帰り旅行を楽しんだ時のこと。どこでどのような番狂わせがあったものか、予定の御在所岳へのロープウエーへ乗車する頃にはすでに冬の日も暮れなずむ頃になってしまっていた。
先頭に居た僕はばあさん(御免なさい!その頃は未だ家内は若かった)と一緒にロープウエーの1箱に飛び込んで発車。後の仲間たちは続くゴンドラに乗り込んだはず。2分くらいして「なんとまあ綺麗な夕日だろう!」の声もにぎわう。途端にわずかなショックと共にゴンドラが停止。1分…、2分…、3分…、動き始める気配は全くなし。「なぜ止まったのだろう?」とか「何時動くだろう?」などの囁きも。僕は、早速茶目っ気を出して、隣のばあさんに大きな声で「こんな綺麗な夕景の中でゴンドラが停止するなどロープウエーの会社も親切な計らいをしてくれるものだ。大いに落日の景色を堪能しよう」と無責任発言をしたものだ。
ゴンドラの遠くの隅っこからこれもまたバリトンの大声で「そうだそうだ、その通り」の声。ゴンドラ内は一変に静かになってしまった。その後1、2分で急に動き出したので安心したのだったが、もし動かなかったら、僕は更になんと言い出していたことだろう。今は懐かしい思い出である。
その7
ついこの間のことのように思われるのだが、指折り数えてみたらもう8年くらいには成るだろう。同級会を今度は東京で開くからとの案内に単身出かけた時のこと。豊橋駅の乗車券売り場まで単身辿りついた後は、さすがに駅員を頼んで新幹線ホームまで案内してもらい、ついでにホームの売店で昼食代わりのいなり寿司を手に入れて新幹線に乗り込んだ。点字毎日新聞の報道で承知していた通り、出入り口には車輌番号が点字ではっきり記されており、たまたま入ったトイレには扉の内側に微に入り細に亘って点字の説明文が記されていたことには改めて有り難さを噛み締めたのだった。べんざの高さやく30センチ、自動水洗、その他。非常ボタンの位置も記されていたのではなかったか?
やはり豊橋駅で寿司を入手して来たのが正解で、車内販売は昔のように売り声は全くなし。
東京では同級の友の奥さんがちゃんとホームまで出迎えていてくれたのだった。そして翌日は東京駅で乗車の際は豊橋駅への到着時刻や車輌番号などを通知しておいてくれたので、豊橋駅下車後は何の不安もなく名鉄電車のホームまで駅員に案内してもらえたのだった。
僕はもう新幹線に乗ることも、夜行列車の世話になることもおそらくはあるまい。
それにしても懐かしい思い出である。おかげでここ半世紀くらいはホームから線路上に落ちたなどと言うアクシデントもなく、今日に至っている。
なお、つい最近のNHKの放送で「全国視覚障害者の列車の旅を楽しむ会」のメーリングリストが立ち上げられて居て、200人近い会員が列車の旅、汽車弁食べ歩きの醍醐味などの語らいに賑わっているとの便りをふと漏れ聞いた。そのURLを聴きそびれてしまったが「汽車弁の食べ歩き」の様子はぜひ尋ねてみたいものである。
つまらない駄弁でした。ちょうどお時間のようです。お後と交代しましょう。