健康さえあれば、命はいらない
永田敏男この題名を見て、皆さんは「ばかなやつだ。やはり永田は、知能指数が少ないんだ。」とうわさするでしょう。まあ、最後までお付き合いください。その意味が、きっと分かるでしょう。
生活習慣病などと最近は、その対策やら予防法やらで、私のように、メタボが服を着ているような人間には耳を塞ぎたくなります。 健康を保つために、運動・食事制限・禁煙・禁酒など、がんじがらめに手足を縛られるような思いをするのは、私だけでしょうか。
運動も、水泳やジョギングなどは、あまり筋力を高めたり、筋肉を太くしたりはできないといいます。 筋力とか・筋肉の太さを増すには、脳から出る成長ホルモンが出なければその効果はないそうです。
脳からの生長ホルモンの分泌を起こさせるスイッチを何が押すかということが問題です。
メカニズムはこうです。
その人の出せる限界の力を100パーセントとし、その65パーセント以上を出さないと、そのスイッチを押すことができません。負荷を65パーセント以上かけると、そのスイッチは押されて成長ホルモンが出るということです。
瞬発力を使った運動ですと、筋電図で見ると、筋肉は連続的に動くのではなく、とぎれとぎれに動いているそうです。早いスクワットでも、やはり筋電図画とぎれとぎれになるということです。
すなわち、筋肉には、瞬発力をつかさどる筋肉(速筋)と有酸素運動を主とする、比較的ゆっくり働く筋肉(遅筋)があり、速筋は、それが働くと、つまり激しい運動をすると、これが働き、乳酸が筋肉中にたまり、同時に水分を取り込んで筋肉が腫れてきます。それが脳の成長ホルモンを出すスイッチを押して筋肉を強くするということです。
ところが、もっと手軽で、負荷も少なくて、成長ホルモンを分泌させる方法があります。それは、筋肉をゆっくり動かして運動をすることです。
スクワットでも、ゆっくりと行うのです。
すると、連続的に筋肉は動き、筋肉の血管も、連続的に圧迫され、乳酸が筋肉内にたまり、浸透圧の関係で水分を取り込んで腫れてきます。
この腫れが、脳の生長ホルモンを出すスイッチを押して、筋肉の力も体積も増えるという結果をもたらします。結局、早いスピードのある運等と同じ結果が出せるということです。
なにを言いたいといえば、そんなに無理して激しい運動をしなくても、脂肪を燃やし、筋力の増加を図り、いわゆる加齢性筋萎縮を防止できるのです。これで杖を使わずに歩いたり、糖尿が軽くなったり、体重が3ヶ月で13キロも落ちたという例が本当にあるのです。
もう一つ、大事な運動は、声帯の運動です。
ご承知のように声帯は、2枚の筋肉が触れ合って、空気がそこを通るとその振動で音になるのです。
ある人が、お医者さんに行き、声が出しにくいといったら、先生が「風邪でしょう。しばらく声を出さないように」と忠告を受けたので、真面目にそれを実行していたら、だんだんと声が出なくなり、専門に行って見てもらったら、「これは、声帯の筋肉が萎縮して、うまく合わさらず、声がでないのです」と診断されました。
声帯を鍛えるには、両手を胸の前で組、左右の手を押し合うか、引っ張りあうか、どちらでも良いのですが、とにかく力を入れながら声を出すことが、効果的だということです。
今までは筋肉の運動でしたが、脳の体操も必要です。忘れっぽくなって、顔は思い出しても、名前が出ない。何かを持ちに行って冷蔵庫を開けたとたんに「なんだっけ?」ということが多いですよね。
歌手の鳥羽一郎さんが、冷蔵庫まで行って、どうしても取りに来たものが思い出せず、まあ、先にトイレに行ってこようと、トイレに行き、ズボンの窓を開いて思い出したそうです。「ああそうだ、ソーセージだ」という話があります。
逆に、これは忘れた話ではないのですが、ついでですので、もう一つジョークを。
北島三郎さんが歌った「函館の人」は、星野哲郎さんが作詞ですが、飲み屋で飲んでいて、最後のフレーズをずっと考え続けていたところ、どうしても次が浮かばない。あまり飲んだので、やはりトイレに行きたくなった。用を足したとたんにそのフレーズが浮かんだ「とってもがまんができなかったよう。」と。
やはり脳を使い続けたおかげで閃いたフレーズというわけです。
脳は、左右で記録する場所が決まっているようです。 右には、映像とか感情、左には、言語や文字などですが、若い間は、この連絡がうまく行き、映像とその名前がスムーズに結びつきますが、年を取ると、その連絡がうまく行かなくなるそうです。それがつまり「思い出せない。忘れっぽい」という症状をもたらすといわれています。
そこでそれを解消する訓練として、たとえば1分間くらいの間に、野菜の名前を10個言うとか、歌手の名前を10人言うとか、自分で工夫して言ってみるのが良いそうです。あるいは、日記をつける、良く人と話をする、というように、頭の中の記録を出すという訓練が必要なようです。
80を過ぎた政治家がとうとうと議論をしたり、話したり、森光子さんが、「放浪記」を88歳で2千回に届く舞台演技をこなされたのも、連続的に脳を使っていたからだと思います。
私事で恐縮ですが、朝起きて32段の会談を20往復する運動を始めてもう7年目に入りました。
そのおかげだろうと思いますが、毎年受ける健康チェックは、いつも問題はありません。
そこで「健康さえあれば、命はいらない」ということです。
健康であるときは、「もう死んでもいいなあ」とか、「早くお迎えが来ないかな」とか、言う人がある。私も同じですが、人間は、何か役に立っていると元気が良いのですが、嫁さんに家事を渡し、旦那は、趣味のない限り、テレビを見たり、散歩をしたりで、家族の間からもだんだん遠のかれて、惰性で生きていると、お迎えを待つしかなくなるようです。これがすなわち「健康があっても、命はいらない」ということになります。
逆も真なりですが、健康ではなく、病気の人は、痛いとか、眠れないとか言って、お医者さんに通います。
しかも「もうお迎えが来てほしい」とか、「死んだほうがましだ」とかいうわりに、お医者さんにせっせと通います。薬をきちんと飲み、先生に言われたことを忠実に実行し、やはり命はほしいのです。というより、何かの役に立って、生き甲斐がほしいというのが本音でしょう。
「健康でなければ命がほしい」
これを裏返すと、「健康さえあれば、命はいらない」ということです。病気になって必死に健康を取り戻そうとするのは、健康のありがたさを知るからです。そのときこそ、健康さえあれば命さえいらないくらいに感じるのが、病人の気持ちではないかと思います。
結論は、健康であって、生き甲斐のある生活をするために、努力も必要であると言うことです。ちょっと無理だったかな。