出会いそして別れ
近藤貞二生きてりゃ誰でも1度や2度は挫折の経験はあるはず。私の最初の挫折は21歳の頃だったでしょうか。片思いの失恋でした。
その頃、失恋した事実を認められず、ひどく落ち込みもんもんとした日々を過ごしていました。
そんなある日、友人が私の所にやって来て、私の失恋を知ってか知らずか「旅にでも行ってきたらどうか。一人旅だ。どうにかなるさ」と言うのです。
そりゃどうにかなるのかもしれないけれど、 それまで私は少しは視力はあったものの、ちゃんとした白杖歩行訓練は受けたことがありませんでしたので、知らない所の単独歩行はできませんでした。おまけに臆病ときているものですから、そんな自分が一人旅?とは一瞬思ったものの、次の朝起きたら“どうにかなるかもしれない”とその気になり始めていました。
となれば早速計画!!といっても、行き先は京都、そして行く手段としてはバスで行くことだけを決め、あとは野となれ山となれ状態で、早速その週の土日を利用して、小さな小さな1泊の京都の一人旅を実行しました。
「一人旅」というほどかっこいいものではありませんが、きっかけは何であれ、今になって思えば最初の自分への挑戦だったかもしれません。
当時はまだ週休二日制が一般的ではなく、私が勤めていた職場でも土曜日は3時までの勤務がありましたが、たしか12月最初の土曜日、午前中の仕事だけ終えると午後は早退して早速京都に向けてレッツ・ゴー!!
名古屋駅から高速バスに乗り込んで座席に着いて一息つくと、初めて大きな大きな不安と心細さがボワーっと頭の中いっぱいに占領しました。
その不安は、これからのこと、安全な移動をどうする、食事はどうする、トイレはどうする……というような予想される不安に加えて、自分で予想できないような漠然とした不安と心細さだったように思います。
12月の日没は早く、沈みかけた太陽をバスの窓外に見ながら、京都駅に着いたらすぐ新幹線で引返したい衝動に負けそうになっていました。
まぶしいほどの夕日のせいかそれとも不安のせいか、目の奥が熱くなるのを感じながら、それでも私は京都駅に着いてからの行動を考えていました。何しろ今晩のホテルの予約もしていませんでしたから!!
バスが京都駅に到着したのは5時過ぎてたと思いますけど、すでに日は落ちて真っ暗になっていました。
バスの中で考えていたとおり、まずは京都駅構内の観光案内所へ行くことにしました。今晩の寝場所を紹介してもらうためです。
観光案内の窓口の人は、何軒か電話で問い合わせてくれた結果、駅から近くの旅館を紹介してくれました。最悪、駅の待合室で夜が明けるのを待つか、どこかの軒下を借りる覚悟をしておりましたので、暖かいふとんで寝られるのはうれしいことでした。しかも旅館の人が京都駅まで迎えに来てくれるとのことで、変に感激です。
間もなくすると旅館の仲居さんらしき人が迎えに来てくれました。
12月上旬とはいえ、京都の冬はしんしんと冷えて、旅館の部屋に案内されるとすぐに夕食をとり一息つくことができやれやれです。その晩はさすがに街へ出る元気もなく、明日に備えてマッサージを受けて休みました。
翌朝朝食をすますと、早速お寺冒険。
といっても京都を知らない私は、とりあえず有名な金閣寺・銀閣寺などへ行ってみることにしました。もちろん行き先が問題ではなく、それくらいのお寺の名前しか思いつかなかったのです。
結果的には、バスや路面電車を乗り継いで、金閣寺(鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)、清水寺へ行くことができました。
その間には多くの人と出会い、多くの人のお世話になりました。その中には、私が白杖を持っていることに気づいていないのか「あそこです」とか「あちらです」などと言って指をさして教えてくれる人もいました。そのたびに私は、自分は目が見えない旨を伝えなければなりませんでした。
それでも行く先々で、本当に多くの人のお世話になったと思います。その中で忘れられない人がいます。
金閣寺をうろうろしていたとき、あちらから声をかけてくださった女性がいました。彼女は六十代半ばと思われる年齢で、ご主人と二人の旅行のようでした。
ご夫婦の案内で私たちはほんの短い時間でしたが、金閣寺の庭園内を散策した後、別れぎわに思いきって写真を撮ってもらえるようお願いしてみました。するとご主人が快く撮ってくださり、自分の住所を告げて私たちは別れました。
その後私は一人で、銀閣寺、清水寺と回って京都を離れましたが、帰りには同僚から頼まれた持ちきれないほどのお土産をいっぱい買って帰りました。しかし、その荷物の重いのなんのって!!指にずっしりくい込む重さと、言われるままにたくさん買った後悔を感じながら、それとは裏腹に私の気分は晴れ晴れとしておりました。
数日後、彼女の名前で手紙とともに、金閣寺で写してもらった2枚の写真が届きました。その手紙で彼女の名前を「多田 あき子」さん(仮名)といい、東京に住んでおられることを知りました。
早速私もお礼の手紙を返しました。
当時はまだ電子メールや音声ワープロなどというものがありませんでしたので、覚えたてのカナタイプライターが役に立ちました。
それを機会に、多田さんからは行く先々の旅先から、あるいは帰宅後、旅の感想を記した手紙をいただくようになりました。中にはお二人が写った写真を送ってくださったこともありました。私もどこかへ行ったときなど、旅の感想やできごとなどを書いて送っていました。
こうして私と多田さんとの、手紙だけのお付き合いが始まりました。
一方、知らない所の一人歩きですが、たった1日だけの一人旅の冒険でしたが、それまで知らない所の一人歩きのできなかった私にとっては、この冒険が大きな節目になりました。
つまり、京都の行く先々であっちにぶつかりこっちにぶつかりした体験を通して、どんなに上手に白杖を使えたとしても、知らない所では自分から人に援助を求められなければ、一人歩きは絶対にできないことを知りました。
例えば、トイレに行きたいとしても、白杖だけを頼りにトイレを探すのはほとんど不可能でしょう。また、お茶一杯のみたいと思っても、自力で喫茶店を探していては日が暮れてしまうかもしれません。
つまり、視覚障害者の単独歩行に必要なことは、白杖を的確に使う技術に加えて、困った時に周囲の人たちに援助を求めるための依頼技術、つまりコミュニケーション技術が必要であることを実感させられました。それまでの私には、そのコミュニケーション技術に欠けていたのだと思います。
しかし、周囲の人に援助を求めるといっても、言葉で言うほど簡単なことではありませんでした。何しろ人の動きが分かりにくいですので、声を出すタイミングが悪くて相手が聞こえなかったり、立ち止まってくれていても私が気づかなかったこともあったかもしれません。
そんなもどかしさや恥ずかしさを感じながらも、めげてるわけにはいきません。そんな開き直りとも思えるずうずうしさが気づけばどこへでも一人で行けるようになっていました。
後に私は、短い期間でしたが東京でひとり暮らしをすることになりましたが、それも京都での経験があったからできたのだと思います。そしてそのとき多田さんと6年ぶりに再会することもできました。
お互いに名前と住所ぐらいしか知らない二人。高田馬場駅で待ち合わせた多田さんと私は、駅近くで食事をしながら、6年ぶりの再会を喜び合いました。
しかしご存じのように、高田馬場周辺は「盲人村」と言われるほど視覚障害者施設が多く、そのため白杖を持った視覚障害者の往来も多いはずなのに、6年前に一度しか会っていないのによく私を見つけてくださったと思います。
多田さんとはその後も年賀状のやりとりはありましたが、東京で再会後2年ほどしたある日、「妻は6月に亡くなりました」と、ご主人からの手紙が届きました。私は何も知らず、頭から冷水をかぶせられたようなショックを受けました。
ご主人からの手紙によれば、私がそれまでに彼女に送った手紙はすべて、奥様と一緒に棺に入れてくださったそうです。
多田さんは亡くなりご主人とのやりとりも無くなってしまいましたが、私にとっての京都の一人旅はすばらしい人との出会いでありましたし、一人歩きのチャレンジをするきっかけにもなりました。そしてまた、自分自身を試すためのいい機会でもありました。そのような成長の機会のために、背中を押してくれた友人のおかげだと今も感謝しています。
ちなみに、清水寺でおみくじを引いたのですが、旅は凶でした。