ラーメンを食べ損なった話

小野田学

「皆さんお蕎麦はいかが、 御なじみチャルメラ娘、 町から町へと細細ながらも楽しい蕎麦屋でござる、 おじさんぱい1ごきげん、 ほら危ない千鳥足、はい一兆上がりよつるつるつる、 毎度有難う、 お待ちどう。」  そして、「さて東京名物は、 御なじみちゃるめら娘」と第2節へ続く。

この歌をご存知の方はあまり居られまい。美空 ひばり歌うところの「ちゃるめら蕎麦や」。巷に流行ったのは昭和28年から29年にかけてと言うのだから、ご存じない方が大方とは当然なこと。東洋ふうの哀愁をおびたちゃるめらのあの簡単な旋律。西洋音楽のオオボエに似た、しかし音量はもっと乏しいあのちゃるめらの音色。ウエスタン調の曲想。美空 ひばりの歌の絶妙な美味さ。一寸した茶めっ気「そーバーやー!」と大きく叫んで終わるあの懐かしい歌謡曲である。

 いったい、蕎麦売りが何時のころから始まったものかを僕は知らない。江戸時代にはすでに甘酒売りや煮豆売りなどの商売があったそうだが、天秤棒で担いで売り歩くなどということが叶わない蕎麦売りは屋台車ができてからのことだろうから、多分明治になってからのことではなかろうか。 古典落語に登場する(蕎麦や)はもちろん日本蕎麦である。それが、何時ごろから日本蕎麦かららーめんに変わったものか。戦前は「しな蕎麦」と呼ばれ、戦後になって「中華蕎麦」と一時呼ばれていたのが、何時ごろから「らーめん」と呼ばれて親しまれるようになったものか。

 寒い夜など学生寮から幾人かとちゃるめら蕎麦屋を呼び止めてその美味を、そして、立ち食いの楽しさと蕎麦屋とのたわいのない会話とを楽しんだのも数回。昭和30年ごろ学校近くの食堂で時に寮生数人と消灯時刻ヲ気にしながら、1杯30円のらーめんに舌鼓を打ったころが懐かしく思われる。古きよき時代の思い出では有る。美空 ひばりの「ちゃるめら娘」の最後で「そーバーやー!」と明るく高らかに呼ばわったところあたりは心憎い音の演出ではある。「らーめんやー!」とはなっていないのだから昭和28年ごろには「らーめん」の呼び名はまだ市民権を得ていなかったのかも知れない。もっとも、「らーめんやー!」では歌の演出にしても野趣に乏しいのかも知れないが・・・・・。


それは昭和42年の暮れごろだったか昭和43年の春先のころだったか、名古屋は熱田にある今ではすっかり老朽化してしまった「健身会館」で日盲連青年部会の全国委員会が1泊二日を要して開かれたときのことである。日程初日の午後3時ごろまでに東は福島から西は宮崎まで、青年部会委員20名ぐらいが合い寄る。部会の「活動ほうしん」やら次年度の「全国大会」の実行プランの策定などと言うおよそ色気のない会議で喧喧額額の議論が繰り広げられた数時間。開会のころから窓外をしきりにちゃるめらラーメン屋の音が行き交う。会議中も「中京名古屋のらーめんが食べたい」とか「名古屋はなんとラーメン屋の多いところか?」との私語も。夕食を挟んだ会議もようやく終わり、「それではぜひ名古屋の屋台らーめんを」となったのは夜も更けた10時ごろだったか。ところが・・・・・。夕食過ぎごろまでいた会館の事務員は何時の間にやら帰ってしまい、1回の出入り口は施錠されていて、開けることが叶わない。時々はちゃるめらのあのちょっと哀愁をおびた旋律が通り過ぎてゆく。「らーめんが食べたいなあ!」。誰の思いも同じらしい。

僕は会議の後処理とか記録の整理とか、他の執行部役員数人とともになお2時間近くも会議室に缶詰にされた後、真夜中12時を過ぎたころになって、ようやく減り腹を抱えたままの就寝が許されたのだった。

あくればその日も晴天。「お早うございます!」の声声。その中で、浜松から来ていたNだったか東京代表のKだったかが「夕べのちゃるめら蕎麦はことのほか美味かった!」との声。「いったいどうして手に入れたんだ」 「3階の窓から寝巻きの紐を繋いで、バケツを下ろし、1杯1杯吊り上げたのさ」とのこと。文字通り古典落語の1場面を字で行くような話し。「小野田! そのバケツはどこにあったと思う?」とNだったかKだったかの問いかけ。もちろん「知らない」の1語。「トイレの掃除道具入れにあったもの」とのこと。お手伝いに頼んでいた女性が「汚い!」との悲鳴。「もちろん綺麗に洗って使ったのさ。それに丼を食べるわけではないのだから大丈夫さ」とあっけらかんとした答え。仲間のうちの7、8人がその一寸したいたずらのらーめんの美味にありついたとのことだった。「そうと分かっていたなら、俺たちも一寸手を休めてその美味にありつきたかった」とは僕をはじめ幾人かが悔しがったひと時だった。「普通の家庭の窓越しになべを下ろされたことはあったが、ビルの3階からとは初めての出来事」とは窓のはるかにしたの路上からの一言だったとのこと。

僕には妙に忘れられない挿話の一こまである。その後、何年も過ぎて当時の仲間たちが相集った席で、ビールのつまみ代わりに「あの時は楽しかった!」とそんな話題が持ち出されたことがあった。「俺たちも若かったなあ!」 「あのらーめん釣り下げを働いた仲間のうちのNはすでに亡くなってしまったなあ」と懐旧談の一こまだった。

40年も昔の取るに足りない挿話であり、若きひえのノスタルジアである。そんな悪ふざけが心行くまで楽しみあえる「若さ」へのついそうであり、過ぎ去った40年を遡って若さを求めたいとふと叶わぬ願いの発露に違いない。

ちょうどお時間のようです。お後と交代します。
以上。