「アラスカ物語」を読んで
永田敏男我が家の隣の奥さんが急逝された。73年間の彼女の歴史は、優れた小説家に書かせたら十分感動と示唆に値する一生だっただろうと思う。
かつて実際に存在し、エスキモーのために一生を捧げたフランク安田の物語は、優れた小説家・新田次郎の手によって、生き生きとその人生を描かれている。
アラスカをアメリカがロシアから買ったとき、「大きな冷凍庫を買って何になる」と批判を浴びたという。そこには、エスキモー・インディアン達が住み、狩猟をしたり、漁業を行ったりして生計を立てていた。
フランク安田は、石巻の代々医者の家に三男として生まれ、15・6歳で両親を失い、幼馴染の千代にプロポーズをするが、彼女の親の大反対を受け、やむをえず引き下がり三菱汽船に勤めた。それを期にアメリカへ渡り、密漁船を取り締まる船に乗り、アラスカ沖で凍りに閉ざされ、船が動かなくなる。そこで彼は、食料を横流しした嫌疑を受け、極寒の中を歩いて助けを求めに行く。 食料もなくなり、厳しい寒さの中で死野直前にエスキモーに助けられる。
彼らエスキモーの生活は、厳しい大自然の中で、協力しあい、団結を図らなければすぐ死に結びつく。 ゆえに子供が生まれると親同士ですぐ婚約をさせる。つまり親戚関係にするのである。 もっと驚いたことは、彼らが招待する大事な客には、親方自らの奥さんと一夜を共にさせるということである。あるいは、鯨取りに幾人かで組を作って行くが、そのときの組長に選ばれた人もまた、親方の奥さんと一夜を共にするが、その奥さんが歳をとって若くなければ、その息子の奥さんを一夜のみ貸し与えるのである。これは、親戚以上の関係を作るということ、あるいは強いきずなを作るために昔からの習慣をつずけているようである。鯨は、人間の女の人のにおいが好きで、その匂いを体に付けて行くと鯨が集まってきて取りやすいという言い伝えを信じている。
あまり争いを好まず、食べ物は、お互いに分け合って食べる。しかも彼らは、動物の生肉を食べる習性を持っているが、あまり野菜のない地域なので、動物の血を飲むことによりビタミンを取るという合理的な習慣を持っている。 家は、コケで壁や屋根を覆い、鯨の骨や流木を柱にして半地下に作る。明かり・暖房・煮炊きの燃料を総て兼ねてアザラシの油を使う。
フランク安田は、エスキモーの親方の娘で「ネビロ」という名前の人と結婚する。彼女はフランクの思いを寄せた幼馴染の千代に良く似ていたので、彼もまたネビロを望んでいたようである。
この大自然が繰り広げるパフォーマンスは、赤・緑・黄色だったと思うが、それがカーテンのように広がり垂れ下がって美しいオーロラを見せる。私のように、幼いときからの視力障害者だと想像も付かないが、鋭い光のカーテンが、音もなく降り注ぐ光景は不気味さを感じる。中には、ごく稀に「骸骨の踊り」と称する青白いものとか、「血の海」とかいう真っ赤なオーロラもあるようである。
フランクは、子供のころから剣道で体を鍛えていたので、鯨取りのモリを打つのにも、狩をするにも、エスキモーより優れた能力をもち、約束はきちっと果たし、エスキモーのために全力で尽くす。その信頼に支えられて、彼は、事実上エスキモーの指導者となっていた。
フランクは、カーターという白人の金を探す人と一緒に金を探すたびに出て、突然ひょんなことから砂金の宝庫を見つける。その大金でエスキモーを砂金場に移住させ、彼らの暮らしもずっと裕福になる。その移住地もインディアンから許可をもらって住み着く。
粗筋はこんなところであるが、やはり一読してもらうと、その感動は私の表現の比ではないことがお分かりになるであろう。過酷な寒さは、時には氷点下30度以下になるというが、それを凌ぐ燃料は、アザラシの油であり、食料は鹿・トナカイ・鯨・アザラシなど、集団でなければとても手に入らず生活は成り立たない。彼らが、強いきずなを築き上げ、争いを嫌い、助け合う精神はこのような条件下で実現しうる生活であろうと思う。 お金さえあれば、一人で暮らせる日本人とは根本的に違う。しかし、考えてみれば我々でも大きな社会という集団の中で生きている。社会があまりにも複雑で大きいために集団であることをきずかずにいる。エスキモーは、生活に困って食べ物がなくなれば、老人が率先して酷寒の氷の張り詰めたツンドラの上で、衣類を脱ぎそこに横になる。もちろん凍死は間違いない。子供を思い、全体の生活の犠牲になる。 それに比べて最近の日本人はどうなってしまったのだろうか。人を押しのけ、なんとか人をごまかして金品を奪う。思うように事が運ばないと邪魔者は殺害する。親は子供を殺し、子供は、親に「もっと勉強しなさい」といわれただけで親を殺す。
彼らエスキモーは、総て命がけである。そこにはごまかしや裏切りはない。人は、生活が裕福だと、もっとその裕福を増すために、人を裏切りごまかして、自分だけのために人を陥れても富を得ようとして努力をする。この純粋なエスキモーの生き方をみて、本当の自由とはなんだろう、人間の暮らしを豊かにすべき文明とはなんだろうと考えさせられる。社会を作るということは、一人では生きていけないということである。 それを如実に教えてくれたのがこのものがたりではないかと思う。
冒頭に我が家の隣の奥さんのご逝去を記した。喜怒哀楽の人生を送り、自分の歴史を閉じるとき、その荘厳さと言い知れない悲しみは、その歴史の尊さゆえかも知れない。
隣通しで過ごして30年あまり、この隣人としてのお付き合いの終止符、そしてフランク安田のエスキモーへの情熱、その共通点は社会を作るもっとも大事な基本は、隣人愛である。
それをアラスカ物語は教えてくれたように思う。