古都、京の一日
生田泰忠コースは南禅寺を中心インクライン・無鄰焉・平安神宮といったコースでした。
朝8時名古屋駅に集合、8時46分発に乗車。
都合よく全員近くに席を占めることができる。そこで一日の旅程と見学先の説明を聞く。
間もなく列車は定刻通り9時45分京都駅に到着。
早速地下鉄南北線に乗車、二ツ目の烏丸大池(からすまおおいけ)で東西線に乗り換え二つ目の蹴上(けあげ)にて下車。
ここ、京都東西線は全駅島ホームになっており、ホームは転落防止柵(ガラス張り)になっているとのことでした(市交通局言)。
地上に出るとすぐ右側が琵琶湖疏水記念館。
ここでも改め説明を読んでいただきました。
「この記念館は、琵琶湖疏水竣工100周年を記念して疏水いぎを一人でも多くの人々に伝え先陣の偉業を顕彰するとともに将来に向か活力の源ととなることを願って市民の協力のもとに建設しました」と書かれていました。
「京都にとって琵琶湖の水を引くことは昔からの夢でした。明治維新による東京遷都による沈みきった京都に活力を呼び戻すため琵琶湖疏水おと。
疏水の水力で新しい工業を興し船で物資の行き来を容易にしようという計画だったんです。
予算の原案は当時の60万円でしたが、もっと念入り工事をするようにという政府の意見で125万円になりました。
議会は市民に税金をかけてでも計図を進めんと決定し、明治18年に着工、第一トンネルは長さが2436mもあり、完成をあやぶむ人が多く難工事でした。
琵琶湖疏水は着工から5年後の明治23年に完成しましたが、水力発電を採用ためで、新しい工業が生まれ、路面電車も走りだし京都は活力をとり戻しました。
それから20年後更に豊かな水を求めて第二疏水を建設し同時に水道と市営電車を開業したことで、今日の京都の町づくりの基礎りができあがったのです。
琵琶湖疏水はまさしく明治から現在に至るまで京都に生命の水をもたらしてくれているのです。
疏水の水は当所の目的以上に利用され京都は目を見張る活気を呈するが疏水の沿岸には桜・紅葉楸・山吹・柳がハ戯植樹四季折々の景色がよいので、思いもよらず疏水が舟遊びの名所となり屋形船が浮かび沿岸茶店・飲食店が並び賑わイ、渡後尖トシテモオオイニ賑わった。
説明おわり。
地上に出て、すぐ右側にちょっとした小高い山になっており、ここが琵琶湖疏水記念館なのです。
記念館というより公園といった趣で、自由に出入ができるようになっていました。
先ず、 ちょっとした坂道さらに階を約約30mほど上ったところの平なところに立つ。私たちが来たのがもう深緑にかかるころだったこともあり桜もほとんど散っておりそれでも歓迎してくれるように頭や肩に舞い下りてくれる。
ここには疏水で使われていた送水管・水道管・電気機関車・台車・レールなどが展示しており、電気機関車以外は直接手で触れてみることができるし、送水管の中は通り抜けることもできます。
疏水記念館を後にし、50m程進んだところ、ここは「無鄰奄(むりょうあん)」ここの庭園が素晴らしいんだそうですが、京都のテレビ局が撮影に来てをり庭の中へはいくことができなかった、そこで無鄰奄の建物の中に入ることにしました。
ここは外から見れば蔵なんですよ、だが中は改造され一階には(山形あいとも)の礼装姿ノ写真とか遺品が展示されてをり、二階は会議室ニナッテおり天井から壁ニかけて絵画が施こされており中央テーブルなどが配置されていました。
ここで重要会議が行なわれていたといわれています。
窓は高窓になっており、外部からは見られないように工夫されていたようです。
次はいよいよ南禅寺。
ここの三門は、創建されてから3度の火災に見舞われおり、現在の(三門)は、嘉永5(
1628)年に戦没者の霊を慰めるため、藤堂高虎の手によって、再建されたものだそうです。
入母屋造半瓦葺五軒三戸げんぜんたる三門の形用を備えその高さ約22m左右より昇降スル楼上には、勾配をフシタ(個の廻楼かは最初から勾配がつけてあるという廊下のようです)
内部には、仏師(さきょう)等の手になるの手になる「おおかんしゃかざぞう?」御を本尊とし、その脇に「げんざい童子」を安置しその左右に「十六羅漢」それに徳川家康・藤堂高虎像が安置されています。
天井は鳳凰、天人の墨彩色の字は狩野山遊の筆である。
歌舞伎の楼門ごさんのきり)の石川五右衛門の伝説で有名である。
なお前方左方の巨大な石灯籠は佐久間勝之ガ奉遷したもので高さ6m大きさでは東洋 第ん1位だそうです。
行きはよいよい帰りは怖いの歌じゃないけれど旧ナ階段を下りるには後ろ向きでゆっくりと降りる。
ここ南禅寺の庭園には 史跡の琵琶湖疏水のうちの水路角(煉瓦造り) 庭園を少し歩と水の音が、「琵琶湖疏水のうちの水路かく」水路かくは疏水事業の一端として起工された水路橋で延長93.17m幅4.06m水路幅2.42m煉瓦造りあーち構造のすぐれたデザインをもち京都を代表する景観の一つとなっている。
また、ここからは西500mにあるインクラインは高低差のある蹴上の船留りと南禅寺の船留まるリを結ぶ傾斜地に、上下二本のレールを引き転嫁台?による船を運ぶ施設で当時の船運にのる交通事情がよく伺える。
いずれも西洋技術が導入されて間もない当時、日本人のみの手で設計・施工されたもので土木技術史上極めて貴重なものである。
唐病水前が廻廊となっており廻廊の一端に腰を下ろし石庭の意味の説明をしていただく。この心は(心)という字に配置されているとのこと。
桜はほとんどなく、残っていた桜がちらほら我々の肩に散ってくれるだけで、ほとんどが薄緑のやわらかい葉が、奥までら行くことができず引き返えすことにする。
本寺院を後に再び中紋・直刺紋の前を通って境内を北に抜けて行き道の左に沿って名物の湯豆腐屋が転在する中の一軒に入り中食を採る。
上品な味に満足しながら永観堂へと向かう。
永観堂は平安時代の初期「しんしょう しょうず」がガ建立した後に入山し(じょうと念仏)を唱えた「ようかんりっし」今風にに読めば「永観りっし」の名にちなんでいる。
この寺は古くから紅葉の名所と知られているとのこと、この季節にも早くも薄緑になった新芽が一面を圧していたが、ところどころに真っ赤に色ずいた(かえで)が色鮮かな色を添え美事なアクセントをかもしだしていた。
木立の中に見え隠れする釈迦堂・そし堂・開山堂本堂など一連の伽藍はみな廻廊で結ばれ上へ上へと目指しながら多宝塔間近かまで連なっていいます。
本尊阿弥陀如来を安置されている本堂へと渡って行きまス。本尊ノ阿弥陀如来ハ「見返り弥陀」と呼ばれており、心持ち上体を傾けて首を左斜め後に振り向いた珍らしい姿の阿弥陀様だそうです。
この仏像について、不思議ないわえが語りつがれております。
広く庶民に阿弥陀の教を解き貧しい人々病める人々の救済活動に積極的に従事していた(ようかん)が或る日いつものように堂にこもって念仏成道に勤しん 壇上から本尊の阿弥陀如来が降りてきてようかんのの先に立ち一緒に成道をはじめたのです、(ようかん)が驚きたちろぐと阿弥陀如来は(ヨウカン)ヲそしといいつつ振り返ったと伝えられている。
その、お顔も左に向けて振り返える仏のを姿を写したといわれているのが永観堂のご本尊阿弥陀如来像なのです。
今回最後のコース平安神宮です。
本殿の左右にそれぞれ右近の桜左近の橘が植られており五月待つ 花橘の暑を香けば 昔の人の袖ノかどする 古今集
この地に伝来した糸桜を津軽藩士がもち帰り育て、それが再び京都に帰ったことから(里帰りざくら)ともいわれている。
谷崎潤一郎ノ小説(ささめ雪)にも登場し、京都の春を象徴する桜として近遠の数ある桜の中でも特に親まれ、八重紅枝垂桜れ桜と示されています。
もうここのお庭も、ほとんど深緑の域に入っていましたが、適当な配置で紅色の(かえで)が植えられておきコントラストよく配置されていました。
ただ嬉しかったのか、ほとんど散ってしまっていた桜なんですが、 1箇私たちの手の届く高さのところに紅色の八重桜がかたまって咲いていたことでした。
庭を手入れしておられた(おじさん)が触れていいよっていってくださったので、触れてみたら、とても柔らかく手に触れは感覚羊ノ毛に触れているようで気持ちよかった。
少し日も暮れかけて来たのに、私の相棒(滝本さん)とそのおじさんと息が合いついつい長話し5時を過ぎかけたので別れてバス停ヘト急ぐ。
ここで感じいったのは、バスに乗るや、運手士さんがマイクで呼びかけ私たちに席を譲るようにいってくださり、皆さんも心よく私達を座わられてくださったこと、さすが日本一の観光地だと感心させられ、今日はよい一日旅行になりました。
では、次にいつもの通り川柳の投稿をさせていただきます。
- マラソンへ 後振り向く 余裕みせ
- 素ウドンへ 薬味添えぬ 空きっ腹
- くやしさが 2倍になった 勇み足
- 埋もれてた 原石見事 花開き
- 原色を 自分好みの 色に変え
- 入園式 ママの影から のぞく顔
- 後方の チームメイトを 信じ投げ
- 聞き惚れて こめい忘れた 添削句
- 添え書きノ 効果ガ発揮 した入社
- 無事帰国 祈って今朝も 切る十字