ふつうのおとなの方々が南京事件に対して抱いているイメージは、一部の人たちが激しい論争をしているようだけど自分はかかわりたくない、ちょっと興味はあるけど、何となくこわい、暗い、など、あまり良いイメージではないと思う。私が3年前に南京事件を調べてみようと思ったときも、同じ感覚に押されて少し躊躇したけれど、まずはちょっとだけでも、と自分自身を納得させて調べ始めた。最初は半年くらいのつもりだったけど、あれもこれもと広がっていって、結局3年にわたって100冊くらいの本を読み、図書館に通い、ネットを調べることになった。まだまだ調べたいことは残っているけれど、いったんここで筆をおくことにして、これまでに感じたことを思いつくままに書き出してみたい。
現代の歴史学は、客観性を担保するために実証的、論理的な科学としての研究が求められている。東中野氏はその土俵の上で否定論を繰り広げたが、吉田裕氏ら肯定派に論破され、論壇から去った。また、教科書裁判などいくつかの裁判においても南京事件が存在することが認められ、さらには政府も声明を出して事件の存在を認めている。8.1節でも述べたように南京事件があったことを示す証拠は山のようにあり、これらすべてを否定することは事実上不可能だと思われる。
これに対して藤岡信勝氏や西尾幹二氏は、戦後の"自虐史観"から自由になる「自由主義史観」を唱え始めた。西尾幹二氏は、歴史は科学ではなく物語である、などと述べ、著書「国民の歴史」を刊行して、縄文時代から現代に至る日本の歴史を彼なりの史観で見直した。例えば、日本は中国や朝鮮から一時的に文化や技術を取り入れたが、遣唐使廃止以降はそこから離脱して独自の文明圏を形成していった、とあるが、平安時代以降、陶磁器類や木綿栽培、金銀銅の製造技術など中国から輸入された技術は数知れない※1。先ごろ決まった元号にしても新しい"令和"以外はすべて中国の古典から採用されているという。
歴史が物語であるならば、論争しても水掛け論になるだけである。ちょうど、キリスト教徒とイスラム教徒がどちらの教義が正しいか議論するようなもので、結論はでない。西尾氏らは実証的な歴史学の土俵で戦っても敗れることを知っていて、このような理屈を持ち出しているのかもしれない。
西尾氏は「細部の史実にはこだわらない」として「国民の歴史」でも南京事件には一言もふれていない。藤岡氏も南京事件がなかったことを主張する論文を雑誌に寄稿したりしているが、内容は東中野氏の論稿以下のレベルのようだ※2。せっかくの"自由主義史観"も南京事件否定を世間にアピールする有効なツールにはなっていない。
※1{ 西尾氏は、日中社会・文化・文明対比論として、何としても日本の優越を説こうとする。日本は平安・鎌倉・室町を通じて、中国の影響から離脱し、自立して独自の文明を創出したといい、江戸時代中期には自前で、経済面でも中国を凌駕した、といっている。
しかしこれでは片付かない事実があまりにも多い。… 日本の中世では高級絹織物はもとより、陶磁器類に至っては日常雑器まで中国からの輸入に広く依存した。平安末期鎌倉初期以来貨幣はもっぱら中国からの輸入銅銭を使用して、国際性の強い中国銅銭圏の一環にあった。室町末・戦国時代には衣料原料として木綿栽培、金銀銅の精錬技術、火薬製法、印刷などの先端技術も例外なく中国から学んだ。}(永原慶二:「「自由主義史観」批判」,P35-P36)
※2 詳細は、"ゆう"氏のサイト(http://yu77799.g1.xrea.com/nankin/hondafujioka.html)を参照願いたい。
そこで次に否定論者がかついだのは、NNNドキュメントを制作した清水潔氏が、"一点突破型"と呼ぶ手法だ。これは些細な事実や誤った事実認識、肯定論のなかにあるちょっとしたミスなどをおおげさに取りあげて、「やはり事件はなかった」と言い切る論法である。例えば、自民党の南京問題小委員会の調査報告書では、「国際連盟で中国の顧維鈞代表が南京事件を訴求したにもかかわらず顧維鈞の提案は否決された、だから南京事件はなかった」と主張するが、それが誤りであることは6.6.2項で述べた。また、アパホテルのオーナーは、「犠牲者名簿が南京大屠殺紀念館に掲げていないのは事件がなかった証拠だ」というが、名簿は2017年の紀念館改修時に設置されている。
こうした否定論は、真っ黒な重箱の一部にある塗装がちょっと傷ついて白い地色が現われた部分をルーペで拡大してあたかも全部が白であるかのように見せようとしているようなもので、フェイクニュースといってもよい。だが、この論法は単純明快でわかりやすいので、考えることを放棄した否定派のサポーターたちを満足させるとともに、白紙の人たちを否定論に駆り立てる有力なツールになっているかもしれない。
否定論者のなかでも、不法殺害が一定量(数千から1万程度)あったことを認めた上で、戦争だからしかたがない、他の国でもやっていることで日本だけが責められるのはおかしい、と主張する人たちもいる。この人たちの否定論は、事件を科学的に調査・研究しているので、"一点突破型"の否定論者よりはるかに説得力がある。しかし、ベトナム戦争で大問題になった"ソンミ村大虐殺"の犠牲者は500人である。日本だけがなぜ責められる、という気持ちは理解できないでもないが、その言い訳は武士道に反したものではないだろうか。(筆者は武士道を奉じないが …)
最近の否定派の人たちは、「日本の歴史を貶めたのは中国のプロパガンダやアメリカの占領政策で、日本は何も悪くない、誇りある日本の歴史を取り戻せ!」などと叫ぶ。自分は全面的に正しく、相手が全面的に悪いという一面的な主張では、味方の賛同は得やすいが、相手は反発するだけで、紛争はエスカレーションするだけである。
人にはそれぞれ長所と短所が必ずあるように、国の文化や風土にも良いところと改めるべきところが必ずある。例えば、南京事件の直接的な契機となった「命令無視の南京進撃と中央の追認」の原因には、合理的な情報分析もせずに現地軍の勢いに押されて追認してしまったというマイナス面だけでなく、現場の自主性尊重というプラス面を見ることもできる。このように人間の行動は多面性を持っており、複数の人間がそれぞれの強み弱みを補いながら進歩して来たのが人類の歴史である。右にしろ左にしろ、強硬派・過激派と呼ばれる人たちには、こうした一面的な見方をする人たちが多いが、相手を納得させるというより自分の意思を明示することで自己満足しているようにしか見えない。
国の誇りとか英霊の名誉とかは、自分たちだけで確認しあうものではなく、他の国の人たちから賞賛されて成り立つものである。他国(特に中国)への敵愾心をあらわにして自国の誇りを強調しても、それは独善的、自尊的な誇りでしかない。誇りは胸に秘めて温めておけば良いものであろう。司馬遼太郎は次のように述べている。
{ ナショナリズム※3は、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治的意図から出る操作というべきで、歴史は、何度もこの手でゆさぶられると、一国一民族は壊滅してしまうという多くの例を遺している。}(司馬遼太郎:「この国のかたち1」、P23-P24)
※3 ナショナリズムは本来、国家主義という意味だが、ここでは”愛国心”とでも置き換えて読んでいただきたい。
南京事件があったという主張は、英霊を冒涜するもので、戦死者の名誉を傷つけるものだ、という主張をときどき見かける。しかし、英霊が望んでいたものは何だろうか …
事件や事故の被害者やその遺族などは、犯人の処罰や謝罪を求める一方で、ほとんど例外なく、「二度とこのような悲劇が起こらないようにして欲しい」と言う。事件とは直接関係のない現代の"ふつうのおとな"ができることは、同様の事件を起こさないようにすることではないだろうか。それが日本人、中国人を問わず犠牲になられた方の霊を弔う最も大切なことのように思える。南京事件で被害に遭われた中国人の方々の思いも同じだ、と信じたい。
8.2節で分析したように南京事件はたくさんの原因が複合して発生しているが、強いて単純化して言えば、正確な情報収集をせずに勢いに押されて南京攻略戦の実行を決定した判断ミスにある、と思う。そして、その判断の背景には、国民世論の後押しがあったことも間違いない。当時の世論は政府がコントロールしていたが、現在の政府も世論をコントロールするかのごとき動きをしている。
南京攻略を決断した人たちは、決して悪意をもって判断したわけではない。積極的に支持した人たちの多くは、この作戦が"支那事変”を早期に終結できる最善の方法と信じていたに違いない。しかし、その判断が誤りだったとき、組織のトップにいる人たちは結果責任から逃れられないが、そのような人たちを犯人として処罰するだけでは問題は解決しない。人は必ず誤りを犯す、パーフェクトな人間などいない、それをいかにしてカバーするかを考えないと問題は解決しない。なぜ彼らは判断を誤ったのか、仕組みや環境にどんな問題があったのか、というアプローチが必要なのである。
歴史に道徳を持ちこむつもりはないが、あえて言わせていただけば、"ふつうのおとな"にできることは、"ファクトチェック"だと思う。南京事件のあった時代とちがい、今はたくさんの情報が新聞・テレビ・雑誌・書籍、そしてインターネットなどから入手できる。そうした情報の中にはフェイクニュースも混じっていれば、自分の意見と異なる主張もある。自分が見たくない情報にも目を通し、自分の頭で考え、何が正しいか判断するのがファクトチェックであり、言葉で言うほど簡単なことではない。しかし、その意志さえあれば、この情報は怪しい、という判断くらいはできるはずである。
とりとめもなく書いてきたが、このレポートが読者のみなさんのファクトチェックに少しでもお役に立つことを祈って筆をおくことにする。
(2023/8/19一部改訂) (2019/4/6了)