日本の歴史認識南京事件第6章 否定論とその反論 / 6.4 証言や証拠の信憑性(2) / 6.4.2 埋葬記録は偽造!?

6.4.2 埋葬記録は偽造!?

図表6.13(再掲) 証言や証拠は改ざん、偽造ばかり!?

証言や証拠は改ざん、偽造ばかり!?

(1) 否定派の主張

田中氏は第7の論拠で次のように述べる。… 「南京事件の総括」,P66-P73を要約

東京裁判で弁護側は、「埋葬記録は10年もたってから想像で作ったもの、死体発見場所からみてもこれらの死体は戦死者、1日当たり埋葬者数が不自然に増加している期間がある、雨花台等日本軍が清掃した地域にこのような多くの死体が存在するはずがない、女・子供の数字が不自然」、など誰しもが持つであろう疑問を反論している。

南京市政府行政統計報告などによれば、崇善堂の事業内容に葬儀や埋葬は含まれていない。南京日本商工会議所の資料では、崇善堂が本格的な活動を再開したのは1938年9月から、となっている。以上により、崇善堂の膨大な死体埋葬はまったく架空である。

また、紅卍会の埋葬記録で12月28日に6,466とだけ記入されているが、1938年4月16日の大阪朝日新聞が「城内で1793体、城外で30,311体を片づけた」と報道しており、この約6千体は紅卍会の水増しである。洞氏はこの6千体は揚子江に水葬したのを隠すため、と言っているが、中国の公式資料と称される「証言・南京大虐殺」には12月28日(城内各地で納棺)中華門外普徳寺6,468とあり、矛盾している。

以下を付言する。

① 埋葬死体のほとんどは、中国軍の戦死者である。

② 南京にはおびただしい数の傷病兵が後送されてきた。死体にはこれら傷病兵も含まれる。

(2) 史実派の反論 … 「13のウソ」,P121-P137を要約

東京裁判に提出された遺体埋葬記録は、当時の記録文書そのものではなく、戦後裁判のために整理し直されたものである。紅卍会の楊登瀛氏によれば、死体収容・埋葬記録は日寇に没収されてしまったが、紅卍会と崇善堂は当時の資料の一部をひそかに保存していたので、それをもとに埋葬記録を整理しなおしたということである。

紅卍会は道院という新興宗教の社会事業団体で1922年に設立され、200余りの支部と300余万の信徒を有していた。当時、南京の道院の会長は陶錫三で、「南京市自治委員会」の会長でもあった。
紅卍会の埋葬については、南京特務機関の同年3月の報告に、3月15日現在で城内1,793体、城外で29,998体を収容した、とある。紅卍会の記録によれば3月15日時点で城内は上記数字と同じ、城外は35,099体で5000体ほど多いが、これは魚雷営の腐乱死体を後で補足したためとみられる。
また、南京市自治委員会を引き継いだ「督辦南京市政公署社会処」に同年8月下旬、紅卍会が提出した調査表には4万と少しの遺体を埋葬、と記されており、これも埋葬記録とほぼ一致する。

崇善堂は、中国に近代以前からあった「善堂」とよばれる慈善団体のひとつであった。1938年2月6日付けで崇善堂の周一漁堂長が「南京市自治委員会」に宛てた書簡によれば、1938年初めに埋葬隊が組織され、自動車も保有していたことがわかる。他にも崇善堂が埋葬活動を行っていた記録はある。

崇善堂の場合、簡単に埋められた遺体が風雨で露出しはじめているので、それらを別な場所に移すか、その場に土を盛って塚をつくるというやり方が多かったようで、そのために大量の遺体を埋葬できたのかもしれないが、埋葬遺体数の記録には厳密さを欠くところがあったように思う。崇善堂についての記述が南京特務機関の報告などに出て来ないことも事実である。しかし、彼らが埋葬作業を行い、相当の遺体を埋葬したことは疑いないことである。

(3) 東中野氏の主張

東中野氏は紅卍会の埋葬について次の2点を主張するが、いずれも史実派は否定している。

2月1日以前の埋葬は偽造

紅卍会が埋葬を開始したのは2月1日からで、それ以前の埋葬記録は水増しの偽造である。その根拠は、満鉄社員で南京特務機関の一員として出向した丸山進氏が、埋葬は「2月初め」から始まったと証言したこと、及びラーベが1月31日の日記に「わが家の前にうちすてられていた中国兵の死体がようやく埋葬された」と書いていることである。また、東中野氏は丸山氏の「紅卍会に3月15日までに埋葬を完了するよう指示した」という証言と、紅卍会の埋葬記録が3月15日から減ることから、埋葬完了は3月19日、と断定し、1日平均の埋葬量×作業日数で埋葬数を計算し、多くても1万3千~1万5千体、と結論付ける。(「南京虐殺の徹底検証」,P302・P306・P314ーP316)

→史実派の反論; 南京特務機関の38年2月の報告には「紅卍会屍体埋葬隊(隊員約600名)は、1月上旬来特務機関の指導下に城内外に渉り連日屍体の埋葬に当り2月末現在に於て約5千に達する死体を埋葬し… 」とあり、丸山氏の回想にも「概ね2月初めから始め」とあるだけで、1月末まで埋葬を許可しなかった、とは言っていない。(「13のウソ」,P128-P129)

埋葬完了日について史実派はふれていないが、埋葬記録を見ると3月15日前後に埋葬数は少し減るが、3月23日から再び増加し、5月1日までに約6000体を埋葬している。この記録を見る限りとても3月19日に完了した、などといえる状況ではない。

ニュース映画に出てくる紅卍会はニセモノ

1996年2月24日、NHKスペシャル「映像の世紀⑪JAPAN」で放映された「アメリカのニュース映画1938年1月」に紅卍会が出てくるが、その一コマはニセモノであった。服の腹の部分に白地に大きく卍と描いた人物が登場するが、朱友漁は「卍が全作業員の腕章や救援隊の隊旗に描かれていて」と述べているのと異なる。

→史実派の反論; 紅卍会の埋葬班長だった高端玉氏は「埋葬に従事した者は上着かベストを着ており、上着の胸と背中には卍の字があった。上着が間に合わないものは腕章をしるしにしている者もいた」と述べており、胸に卍が書かれているのが普通だった。(「13のウソ」,P130-P131)

(4) まとめ

4.7.5項でも述べたが、崇善堂の埋葬記録によれば、4月の埋葬量は約10万体にのぼる。2月、3月が2500体ほどなので異状に増加している。また、収容場所は南部・東部・西部であるが、この方面での大規模な捕虜などの殺害は、日本側記録で最も多い笠原氏の推定でも2万2千余註642-1、中国側の証言でも3万9千註642-1ほどしかない。大半が戦死としても戦死者数は、多く見積っている研究者でも南京周辺全域で3万しかない。崇善堂が埋葬作業をしたのは事実であろうが、埋葬記録には不審な点が多い、と言わざるをえない。

紅卍会について、田中氏が指摘する6,466体を史実派は説明しきれていないが、こうした不審点が多少はあるものの、合計4万余体の埋葬は、概ね信頼できる記録ではないだろうか。

ラーベは2月15日の日記に、{ 紅卍会が埋葬していない死体があと3万もあるということだ。}(「南京の真実」,P291) と書いているが、紅卍会の記録によれば2月11日までの埋葬者数は約1万5千(上記6,466体含む)なので、総埋葬量4万3千と概ね一致する。

田中氏は、「埋葬死体のほとんどは中国軍の戦死者であった」というが、軍服を着用していない遺体を戦死者と断定するのは無理があろう。ベイツは次のように述べている。

{ 埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、そのうちの約30パーセントはかつて兵隊になったことのない人々である。}(「大残虐事件資料集Ⅱ」,P47<戦争とは何か>)

この話は上記ラーベの日記と同様に紅卍会から聞いた情報をもとにしていると思われる。

田中氏が主張する「傷病兵の遺体も含まれる」はその通りであるが、どのくらいかはわからない註642-2


6.4.2項の註釈

註642-1 東部・南部・西部の殺害者数  単位:千人

(1) 日本側記録(笠原氏推定 … 図表4.18より)

堯化門: 7~8 不明(16師団): 0.96 安全区→玄武門: 0.6 馬群: 0.31
雨花門外: 1.5 安全区(9師団): 6.67 安全区(兵民分離): 2 南京近郊: 2
合計 21.04~22.04千人

(2) 中国側証言(孫宅巍説 … 図表4.29より)

漢中門外: 2 三叉河: 2 水西門外・上新河一帯: 28 城南鳳台郷・花神廟一帯: 7
合計 39千人

註642-2 中国軍の傷病兵 … 中沢三夫氏の述懐

{ 南京は11月下旬より、遠く南方前線の戦死傷者の収容所となり、移転せる政府機関、個人の私邸まで強制的に病室に充てられ、全市医薬の香び浸したる状態なり。これにより生ぜし死者も亦すくなからず。入城時、外交部の建物は大兵站病院開設せられあり、難民とともに外人の指導下にありて、数千を算する多数の患者を擁し、重傷者多し。日々、3,40名落命しつつありたり。}(「証言による南京戦史(2)」,P14)