日本の歴史認識慰安婦問題第4章 活動の軌跡 / 4.6 米国下院の決議

4.6 米国下院の決議

2007年3月に安倍首相が「強制連行を示す証拠はなかった」と表明したことをきっかけに世界で日本の慰安婦問題への取り組みに対する批判が高まり、アメリカ下院は同年7月に日本政府の謝罪を求める決議を可決した。その後、EU、カナダ、オーストラリア、フィリピンなどでも同様の決議が採択された。

図表4.9 米国下院の決議

米国下院の決議

(1) 安倍首相の見解表明

櫻井よしこ氏にレポートしていただく。

{ 首相は、2007年3月1日、記者会見で慰安婦問題に触れ、「強制性を裏づける証拠はなかったのは事実ではないか」(強制性の)定義が変ったということを前提に考えなければ」と語った。河野談話の継承については言及しなかったものの、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストなど米有力紙は2日の紙面で、「首相が河野談話を全面否定した」とこぞって書きたて、さらに国粋主義者、歴史修正主義者であると批判した。}(櫻井よしこ:「日本よ、歴史力を磨け」,P37)

同年3月16日、安倍首相は辻元清美議員の質問に対して、河野談話は否定しないものの、「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」との回答を閣議決定した。( 外務省HP より)

安倍首相は同年4月の訪米時にブッシュ大統領に釈明、記者会見で{ 「20世紀は人権が侵害された世紀であった。日本国もその例外ではなかった」と、言外に他国も同様のことをしたというニュアンスを含めたのだが、米メディアは「安倍首相は謝った」と報道した。}(同上,P38)

櫻井氏はこの回答について、一定の評価をしつつも{ 元慰安婦に対する同情の念を表現すべきだった、日本政府や軍が強制連行した事実はないと明言すべきだった。}(同上,P38<要約>) と述べる。

(2)THE FACTS

すぎやまこういち氏や櫻井よしこ氏ら5人と賛同者58名註46-1は、2007年6月14日のワシントン・ポスト紙に「THE FACTS(事実)」という標題の全面広告を出した。櫻井氏によれば、「客観的な事実の紹介に徹したものにした」(同上、P34) と胸を張る。広告には次の5つの"Fact"が書かれている。

・FACT1; 慰安婦が強制連行されたことを証明する史料はみつかっていない。逆に陸軍省や内務省は、本人の意志に反した募集を禁止し、国際法遵守を指示している註46-2

・FACT2; 上記の指示が実行された証拠として、当時の韓国の新聞(東亜日報)に、女性の意志に反して慰安婦を徴募した多数のブローカーが警察に取り締まられた記事が掲載されている註46-3

・FACT3; インドネシアのスマランではオランダ人女性を強制的に慰安婦にした事件があったが、軍は慰安所を閉鎖し、責任者は戦後の戦犯裁判で死刑を含む重罪判決を受けている。

・FACT4; 下院に上程されている決議案は慰安婦の証言に基づいている。慰安婦は最初、ブローカーに連行されたと証言していたが、反日キャンペーンが始まったあと、警察官の制服のような服を着ている者に連行された、に変わった。

・FACT5; 彼女たちは将軍の収入を上回るような高収入を得ていたし、好待遇を受けていたという証言がたくさんある。また、売春宿はレイプ防止に効果があり、当時は多くの国が売春宿を設けていた。1945年にアメリカ軍が日本を占領したときも慰安所の設置を求めた。

・まとめ; 多くの女性が第二次大戦中に厳しい苦難に苦しめられたことは遺憾に思うが、日本軍が若い女性を性奴隷にしたというのは事実を歪曲したものだ。根拠のない中傷は日米間の友情に悪影響を与える可能性がある。

これらは、否定派がいつも使う一般的な否定論で確かに個々の事実として間違いはないが、それを全体に組み上げた時の見方が一面的になっている。これを読んだ一般の人は、「やっぱり強制連行はあったんじゃないか、なのに日本はその責任を否定するのか」と思うだろう。FACT2とFACT3の、取り締まったり処罰した、ということは実際に不法行為があったことを示すが、一方で、FACT4やFACT5では、慰安婦の証言は信用できない、高収入を得ていた、他の国でもやっていた、とその責任を回避している。つまり、責任を回避するための言い訳としか聞こえないのではないだろうか。櫻井氏は「沈黙することはもっと悪い結果を招く、主張すべきことはしっかり主張すべき」(同上,P34<要約>) というが、事実を正しく知ってもらうためには、元慰安婦の苦難を「しかたがなかった」で済ませずに、日本軍に一定の責任があることを認めることが必要条件になろう。それを認めないことが事実誤認に拍車をかけていることを知るべきである。

朴裕河氏は"THE FACTS"について次のように述べている。

{ ほかの国家も無罪ではないとしても、謝罪より先にそのことを強調するのは、責任回避と受け取られるほかない。…
日本政府は、こういった発言や行動こそが、その次のアメリカ下院の決議を導き出したことを深刻に受け止めなかった。2007年に「日本の弁護を買って出ることの多い人物ですら」「安倍首相を擁護せず、批判する方に回った」(…)ことの意味をよく考えなかったのだろう。そして、当時の決議を不当なものとして無視し続けたことは、その後の日本の立場をさらに悪化させた。
あのとき日本政府が世界の反応をもう少し深刻に受け止めていたら、その数年後にソウルの在韓日本大使館前に少女像が建ち、さらにアメリカにも似たようなものが建ち、ニューヨーク州の議会決議(2013年1月)まで出されることにはならなかったかもしれない。}(朴裕河:「帝国の慰安婦」,P259)

(3) 米国下院決議

決議の提案

慰安婦問題に関する決議は、1996年1月以降断続的に出され、いずれも否決されてきたが、2006年9月には下院国際関係外交委員会が慰安婦問題で日本政府を非難する決議案を満場一致で可決した註46-4。このときは、その後中間選挙があって本会議にはかけられなかったが、2007年1月にマイク・ホンダ註46-5議員が新たな決議案を提出した。そして、2月に外交委員会は公聴会を開き、韓国人2名、オランダ人1名の元慰安婦の証言を聴いた。

このような時期に出された安倍首相の発言は、アメリカから強い批判を受けた。以下は、西岡氏が引用したワシントンポストの記事である。

{ (北朝鮮の)拉致問題での安倍の姿勢も疑うような記事まで出てきている。… たとえば、2007年3月24日付けワシントンポスト社説は次のように書いた。「 … 声高に北朝鮮を非難しながら、第二次大戦中、少なくとも十数万の朝鮮の女性を拉致したうえ、彼女らを強姦し、性奴隷にした日本自身の国家犯罪に対しては、その責任を回避するばかりか、そのような事実があったことさえ否定しようとする安倍の態度は、単に理解しがたいということを超え、不愉快きわまりないことだと言わざるを得ない」。}(西岡力:「よくわかる慰安婦問題」,P200)

採択

2007年6月26日、下院外交委員会は賛成39票、反対2票の大差で決議案を可決。2007年7月30日に下院本会議で決議案が採決にかけられた。民主党のナンシー・ペロシ下院議長が決議案を支持すると表明し、共同提案者は168名に達した。採決時には議事進行簡潔化の為にサスペンションルール(議論の必要のない議案をすばやく可決するのに用いられる手法)が適用された。(Wikipedia:「アメリカ合衆国下院121号決議」)

決議案の内容

決議文はA4 1枚ほどの英文であるが、以下、WAM(アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館)に掲載された日本語訳などをもとに、事実認識、日本の対応、下院の認識、の3つに区分して要点を記す註46-6

<事実認識>

日本は1930年代から第二次世界大戦中、アジアと太平洋諸島の植民地支配および戦時占領の期間に、日本軍への性的隷属を目的に「慰安婦」として知られるようになった若い女性たちを確保した。
強制軍事売春である慰安婦制度は、その残酷さと規模において前例のないものであり、集団強かん、強制中絶、屈従、死傷や自殺を招いた性暴力、を含む20世紀最大の人身売買事件のひとつだった。

<日本の対応>>

最近、日本の公人私人が、慰安婦の苦難に対して真摯な謝罪と反省を表明した1993年の河野洋平内閣官房長官の声明を修正又は撤回する動きを表明している。
下院は1995年に日本の民間基金であるアジア女性基金を設立した日本の公人及び民間人の努力と情熱を賞賛する。アジア女性基金は日本の人々から慰安婦に届ける償い金として570万ドルの寄付を集めた。

<下院の認識>

1.1930年代から第二次大戦中にアジアや太平洋諸島で、日本軍が若い女性たちを性的奴隷として強制したことをはっきりと認めて謝罪し、歴史的責任を認めるべきである。

2.日本の首相がそのような謝罪を公式に声明すれば、過去の声明に対する誠実さについての疑問を払拭することとなろう。

3.日本軍の慰安婦の性的奴隷化と人身売買はなかったとする主張に対して明確かつ公的に反駁すべきである。

4.慰安婦に関する国際社会の勧告に従うとともに、この犯罪について現在および未来の世代に教育をすべきである。

(4) 世界各国の決議

アメリカ下院での決議の後、オーストラリア(9月)、韓国(10月)、オランダ、カナダ、台湾(11月)、欧州議会(EU)(12月)、でアメリカと同様の決議が行われた。欧州議会での決議について次のようなレポート註46-7がある。

{ 決議は、日本政府を一律に非難しているわけではない。1993年、河野洋平内閣官房長官の談話や、1995年当時の村山富一首相による慰安婦に関する声明による「心からのお詫び」の表明、及び1995年と2005年の慰安婦システムの被害者を含む戦時被害者に対する謝罪を声明した日本の国会決議を歓迎した上で、旧来の日本政府の立場と国会決議に戻れと呼びかけている。… 今回の決議は、先にも示したようにEU27カ国議員定数785名中、委員会には57名の出席、賛成54、棄権3により可決された。「重要なのは反対が0であったことである」と、欧州委員会関係者は述べる。この問題については、戦争時の軍が関与した戦争犯罪・性奴隷への人権侵害として、最後まで日本を擁護する声は上がらなかった。欧州議会・欧州委員会内部の親日派でさえ、この法案を支持せざるを得なかった。}(羽場久美子:「欧州議会はなぜ従軍慰安婦非難決議を出したか」,学術の動向2009.3)

もし、河野談話、村山談話、アジア女性基金などがなかったら、この程度の決議では済まずに、国連決議など、ある程度の強制力があるようなものを突きつけられていたかもしれない。

(5) 否定派(櫻井よしこ氏)の反論

下記の櫻井よしこ氏の言い分がおそらく否定派の主張を代表しているだろう。

{ ホンダ議員らは決議案で「 … 若い女性を日本帝国軍隊が強制的に性的奴隷化したことに対する歴史的な責任を明確で曖昧でない形で公式に認め、謝罪し … 」 … としている。
だが、日本軍が強制したことを示す客観的事実は存在していない。永年、各機関、多くの歴史学者が調査してきたが、それでも一切発見されていない。… その逆に、本人の意志に反して慰安婦にしてはならないとする業者に対する指示は数多く発見されている。…
事ここに至ったからには、強制の有無を争うのは無意味だという意見が日米両国に存在する。… 米国の良識ある人々の一連の反応は、中国を中心とする、韓国をも含めた反日情報戦略が絶大な効果を発揮していることを痛感させる。…
私たちの意見広告(THE FACTS)は、一部の人々の批判を招くこととなった。米議会を刺激し、かえって慰安婦決議の採択を促したというのだ。こうした論を張った朝日新聞などの一部メディアの報道には違和感を覚えずにはいられない。その論法では、一番良いのは沈黙ということになる。
だが、沈黙は日本に何をもたらしてきたか。およそ全て、負の結果だけではないのか。沈黙を守り、主張もしてこなかったことが現状を招いているのではないか。日本がここまで追い込まれてきたのは、まっ当な主張をしないだけでなく、常識ある国家として果たすべき説明責任を果たしてこなかったからではないのか。}(櫻井よしこ:「日本よ、歴史力を磨け」,P27-P34<要約>)

(6) 筆者の評価

否定派は「強制連行はなかった」 ―― 正しくは「官憲による暴力や威圧による組織的な強制連行はなかった」 ―― だから、日本には責任はない、という秦氏の主張をそのまま受け継いでおり、ことあるごとに強制連行はなかった、と強調する。そしてそれは間違いのない事実なのだから、中国などからの「反日情報戦略」などがなく、自分たちの主張をしっかりと聞いてもらえればわかってくれるはずだ、それをちゃんと説明しないからこんなことになっている、と思い込んでいる。日本軍が無罪でなければ困る人たちにとってはそれしか方法がない、ということであろう。しかし、櫻井氏もわかっていると思うが、世界が問題にしているのは慰安婦システムの存在そのものなのである。

確かに、その当時の国際法の運用状況や日本の社会環境を見れば、政府が謝罪するようなものではないのかもしれない。しかし、そのときの元慰安婦や家族が生存していて、人権蹂躙を訴えていることに対して、{ 慰安婦として働かざるを得なかった女性たちには、心底、同情し、気の毒に思う}(同上,P38)というだけでは、十分ではないのである。

各国の決議は、あたかも裁判員裁判で陪審員全員がクロの判決を出したようなものだが、それは事実誤認で出したのではなく、現代の人権感覚を基準に判断した結果であり、それが現在の国際慣習法だということである。つまり事実認識の問題ではなく、価値観の違いなのだから、いくら事実と違うと叫んだところで無罪を認めることは絶対にないだろう。

とはいっても、慰安婦は20万人とか、慰安婦全員が官憲により強制連行されて性奴隷のような生活を送らされたなど、実態とかけ離れた認識を正していく必要はある。だが、それは政治的な次元ではなく、学術的な次元においてなされるべきものである。例えば、慰安婦問題に関する実証的な研究で最も優れた成果と思われる秦郁彦氏の「慰安婦と戦場の性」の英訳版を出版するなど、地道な活動を積み上げていくしかないのではないか。


4.6節の註釈

註46-1 THE FACTSの発起人と賛同者

発起人; 屋山太郎,櫻井よしこ,花岡信昭,すぎやまこういち,西村幸祐 すぎやまこういち氏が中心的役割を果たした。

賛同者; 国会議員 44名(自民党:29名,民主党:13名,無所属:2名),大学教授 8名,政治評論家 4名,ジャーナリスト 2名

註46-2 陸軍省の資料

1938年3月4日の陸軍省副官通牒の原紙の写真が掲載されている。

註46-3 新聞記事

1939年8月31日の東亜日報の記事の写真が掲載され、その内容を英語で解説している。記事の見出しは次のようなものである。□はハングル文字。

「悪徳紹介業者□跋扈」 「農村婦女子□誘拐」 「被害女性□百名□突破□□」 「釜山刑事奉天□急行」

なお、記事本文では45人のブローカーが見つかった、と書かれている。櫻井氏らは、これは日本政府が悪徳ブローカーを取り締まっていた証拠だというが、慰安婦の証言などから、この取締り以後にも同様の手口で連行された女性ががいたことが判明しており、こうしたブローカーが根絶されたわけではない。そもそもこうしたブローカーが跋扈しやすい制度だったことが問題なのである。

註46-4 過去の決議案提出

Wikipedia:「マイク・ホンダ」によれば、2006年9月を含めて過去5回提出されたが、いずれも廃案となっている。

註46-5 マイク・ホンダ

日系3世、カリフォルニア州選出議員(2001年~2016年)、民主党。韓国では親韓派議員として報道されていた。中国系アメリカ人からの献金疑惑もあった。(Wikipedia:「マイク・ホンダ」)
櫻井よしこ氏は、{ 中国系反日団体の全面支援を受けており、半ば中国政府の代理人的活動をしているのではないかと評されても弁明は難しいだろう。}(櫻井よしこ:「日本よ、歴史力を磨け」,P39)

註46-6 アメリカ下院決議文

決議の原文(英語)は、ここ(Wikisource) にある。

日本語訳は、ここ(WAM) にある。

註46-7 EU議会決議のレポート

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