慰安婦問題の刑事責任を追及するために、「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW-NETジャパン)註45-1が中心となって2000年~2001年に開かれた民衆法廷(模擬法廷)であり、正式な裁判ではない。昭和天皇ら10人の「被告」に有罪が言い渡された。
図表4.8 女性国際戦犯法廷
1990年~1993年のルワンダ紛争(フツ族とツチ族の武力衝突)、1992年~1995年のユーゴスラビア内戦(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)註45-2 では、ジェノサイド(集団虐殺)や女性への性暴力が問題になり、国連が設置した「ルワンダ国際戦犯法廷」、「旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷」でそれぞれ裁かれた。両法廷では、強姦が人道に対する犯罪であることが初めて明確に規定された。
1998年7月17日に国際刑事裁判所(ICC)ローマ規程が成立して、それまで事件ごとに設置されていた法廷が常設されることになった。ICCでは、集団殺害(ジェノサイド)、人道に対する犯罪、戦争犯罪などを対象とするが、強姦・性的奴隷・強制売春などを人道に対する犯罪、及び戦争犯罪の一部として定義づけた。ICCが対象とする犯罪は、ICCに加盟した時点以降に有効となるが、犯罪の時効はない。2018年12月時点での締約国は123国で日本は2007年に批准したが、中国は最初から参加せず、アメリカとロシアはいったん加盟したが、のちに離脱している。(Wikipedia:「国際刑事裁判所ローマ規程」)
このような動きと並行して、東京では1997年に「戦争と女性への暴力」国際会議が開かれ、慰安婦問題や旧ユーゴ、ルワンダの女性への暴力問題に取り組んでいる20か国40人の民間女性が集まった。そこでは、東京裁判が慰安婦制度を取り上げなかったことが問題とされた。この会議の後、1998年にVAWW-NETジャパンが結成され、「女性国際戦犯法廷」の開催をソウルでの第5回慰安婦問題アジア連帯会議で提案し、参加NGOなどから熱心に支持された。(熊谷奈緒子:「慰安婦問題」,P181-P188<要約>)
熊谷氏はこの法廷の目的を、「(慰安婦問題の)司法的な解決が絶望的な中、犯罪性および責任の所在の明確化と責任者の処罰という形で被害者の尊厳回復を図ったもの」(同上,P187) という。
VAWW RAC(VAWW-NETが名称変更)のホームページでは、この法廷の意義を次の3点にある、としている。
平たくいえば、「世界中の女性の力で慰安婦問題の加害者を断罪することにより、被害者の尊厳を回復するとともに同様の問題の再発を抑止する、ということになりそうだ。
なお、民衆法廷として最初に開かれたのは、ベトナム戦争のとき、アメリカの戦争犯罪を裁くために開かれたラッセル法廷註45-3 であり、女性国際戦犯法廷もそれをモデルにしたと言われている。
国際実行委員会;
加害国: 日本
被害国: 韓国、フィリピン、中国、台湾、北朝鮮、インドネシア
国際諮問委員会; 11か国11人
法律顧問; 2人
女性国際戦犯法廷は東京裁判の継続という位置づけで行われ、日本軍が犯した性暴力の責任者の刑事責任と国家の責任、戦後責任を対象としている。法廷は「女性国際戦犯法廷」憲章を作成し、法廷の運用方法や適用する国際法などを定めてから行われた。
判事団と検事団はあるが弁護団はなく、「被告」も全員死亡していたので弁論はない。加害者である元兵士2人の証言と、弁護士が政府の主張を代弁する[アミカス・キュリー」註45-4として日本政府の主張と見解を説明しただけである。
東京で開かれた法廷には8か国から64人の被害者女性が出廷し、九段会館で開かれた東京の法廷への一般参加者は国内各地から600人、海外からは30か国以上から約400人が参加した。(同上,P190-P192)
2000年12月の東京の仮判決では、日本国家と昭和天皇に有罪を宣告し、2001年12月にハーグで発表された最終判決では、天皇と東条ら起訴された9人の戦時指導者全員の有罪が発表された。有罪とされたのは次の人たちである。
※ カッコ内は起訴に関連したとみられる役職(筆者推定)。下線は東京裁判で死刑判決を受けた人。
熊谷氏によれば、秦郁彦氏はこの法廷の問題点を次のように指摘しているが、熊谷氏はその反論を女性法廷の報告書から拾っている。
{ 事後法を採用していること、東京裁判で裁かれた戦犯を再び裁くことによって、一事不再理の原則を否認していること、被告に弁護人がいないこと、反論を能力を持たない死者を裁いていること、時効と大赦が不適用となっていること、などである(秦「慰安婦問題の終末」(「政治経済史学」2003年2月・3月合併号))。}(同上,P190-P191)
{ 植民地への被害者への犯罪については戦争犯罪ではなく、人道に対する罪で裁くので問題なしとした。}(同上,P193)
→ 「人道に対する罪」が初めて定義されたのはドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルグ裁判(1945年)であり、事後法であることには変わりない。なお、性的奴隷など女性への性暴力が人道に対する罪で定義されたローマ規程は、「この条約に加盟した以降の犯罪に適用する」ことになっており、いずれにしろ事後法である。
※ → は筆者コメントである。(以下同様)
{ 東京裁判の被告を裁いてもそれは訴追されなかった人道に対する罪としての「性奴隷制」やマパニケの強姦註45-7 についてであって、一事不再理の原則に反しない。}(同上P193-P194)
→ 東京裁判で「性奴隷制」(慰安婦制度)は訴追されていないが、強姦は訴追されているものもある。例えば、松井石根の判決文には南京事件で「何千という婦人が強姦され…」と書かれている。
{ 死者を一方的に裁くことについては、刑事被告人が公正な裁判を受ける権利、適正手続きの保証の必要性に反することになるが、これについては次のように反論している。「法廷は民衆法廷として刑事処分を科す権利も強制力もない、事実と法の認定で宣言の形で裁定を下し、勧告できるだけである。しかし、その判決は道義的な力をもって被告の行為を明らかにできる」。}(同上,P193)
→ 民衆法廷だから許してね、と言っているだけのようにしか聞こえない。
{ この法廷が東京裁判の延長と位置づけられ、ゆえに東京裁判の管轄権と判決を継ぐので、東京裁判で起訴すべきであった犯罪に関するものについてこの法廷が管轄権を持つとしており、それを制限する大赦は存在しない。}(同上,P194)
→ 東京裁判の延長ということ自体が、自ら宣言しただけでのもので法的裏付けがあるわけではない。
熊谷氏は、「女性国際戦犯法廷の開催と判決は、多くの重要なことを提起した」(同上,P194) として、次の5点をあげる。
(a) 慰安所制度の犯罪性の明確化
法的に処罰が不可能とされた慰安婦制度の犯罪性を明確にした。(同上,P194-P195<要約>)
(b) 被害者への癒しの効果
被害者が、公の場で証言し、加害者認定とその裁きの場面に立ち会うことにより癒しの効果がもたらされた。(同上,P195<要約>)
(c) 判決に期待される道義的権威
判決に法的な強制権限はなくとも、国際社会や各国政府がこれを受け入れて実施することを要求する道義的権威を持つ。(同上,P196)
(d) 被害者の全人格的保護の観点
判決は、日本の不法行為の責任だけでなく、被害者の社会生活や人間関係を破壊し、第二次被害を巻き起こした責任を問うた。(同上,P198)
(e) 真の和解の方策を考える一助
法廷での兵士の証言は元慰安婦に謝罪しているわけではないのに、元慰安婦から拍手があったという。このエピソードは、何をもって加害者を許すことができるかを示した。被害者が望んでいるのが賠償などのお金の問題ではなくいわゆる加害者側の正直な告白であり、真実の究明であるということである。(同上,P198-P199<要約>)
最後に熊谷氏は、「ジェンダーの視点」という言葉でこの法廷の意義を総括する。
{ 女性国際法廷は被害者の視点を中心に構成、設定、展開された。被害者の視点はジェンダー的視点という意味でも大変革新的である。判決は、ジェンダーの正義の観点から現存の国際法や条約をも批判した。サンフランシスコ条約や2国間賠償協定は、その交渉過程において女性が発言権をもっておらず、それゆえ軍性奴隷制についても交渉で取り上げられなかった。こうした国際的和平プロセスにおけるジェンダー偏向が戦時性暴力不処罰の文化を継続させてきたと指摘した。この不処罰が被害者を沈黙させ、強姦と性奴隷制という犯罪を隠蔽した。また、法廷の勧告には公式謝罪、損害賠償などのほかにジェンダー教育と女性のエンパワーメントが含まれていた。}(同上,P200-P202)
→ 「ジェンダーの視点」とは平たく言えば「女性の視点」であろう。確かに、女性の視点は大事だし、それが国際法や条約、裁判的など法的な世界で考慮されて来なかったことは事実だろう。そうであったとしても事後法で刑事責任を問うことはあってはならないことである。あとで決めた法で過去の行いを裁くことによって起こる法の不安定性は、法の存在価値そのものを疑わせてしまう。
秦氏は(4)に述べたとおり、法的な問題を指摘して女性法廷には否定的である。西岡力氏はさらに強硬に反発している。
{ 日本の犯罪行為なるものを挙げて、それがすべて天皇責任だと言い、天皇を有罪にする国際法廷なるものを開く。「女性国際戦犯法廷」と彼らは呼んでいるが、法廷といっても、弁護側が誰もいないのだから、法廷ではなくて、革命のときに行われる人民裁判と同じであった。}(西岡力:「よくわかる慰安婦問題」,P161)
国家補償派の評価は、おおむね肯定的である。林博史は次のように評価する。
{ 戦時性暴力を女性の人権問題としてとらえなおし、それを許さない国際的な努力の結晶でもあった。}(林博史:「日本軍慰安婦問題の核心」,P124)
フェミニストの藤目ゆき氏の評価は次の通り。
{ 貧困層の女性がまず「慰安婦」に徴募された事実が、女性国際戦犯法廷の判決要旨で認定されたことは感動的であった。そこには"公娼制度"という表現こそとられていないが、貧困ゆえに売買された女性の集団としての被害が正当に認められており、無垢な少女か否かで被害者を二分する女性差別的評価基準はみじんもみられない。}(藤目ゆき:「慰安婦問題の本質」,P85)
熊谷氏はこれまで述べてきたように全面的に評価しているわけではないが、女性の視点で問題を明確にしたことは評価している。大沼氏も熊谷氏ほどではないが、一定の評価を与えている。
{ 女性国際戦犯法廷は、法廷の構成をはじめ、裁判として満たさなければならない公平性の要件の欠如やその他多くの面で深刻な問題を抱えていた。… しかし、同法廷による審理と判決は、出席した多くの被害者に巨大なカタルシス(心理的浄化)を与え、さらにそれをニュースで知り、また出席者から聞いたほかの被害者にも大きな高揚感と満足感を与えた。}(大沼保昭:「慰安婦問題とは何だったのか」,P219-P220)
この法廷が元慰安婦たちに癒しを与えたのは間違いないだろうが、それだけのものだった。法的な問題を含めて「法廷」と称してはいるが、内容はシナリオがあらかじめ決められたドラマであり、いっそのこと「法廷劇」とした方がよかったのではないか。
たとえ「民衆法廷」だったとしても、「人道に対する罪」という事後法で裁くことはあってはならないことだし、起訴された天皇や軍幹部の刑事責任を立証する証拠はほとんどなく、弁護人もいない状態での「裁判」は被告の人権を無視しているといわざるを得ない。
慰安婦問題の根源的な原因は貧困や格差の問題、家父長制などの儒教的道徳観念、組織運営のまずさなどにあり、いくら犯人を特定してそれを罰しても問題の根本的な解決にはならない。その意味で刑事裁判としてやるのではなく、{ 南アフリカのアパルトヘイトの責任を問う「真実和解委員会」のように加害者の処罰ではなく、何が起こったかの「真実」を加害者への恩赦と引きかえる方法 }(熊谷奈緒子:「慰安婦問題」,P191) のアプローチをとったほうがより効果的で訴求力のあるものになったのではないだろうか。
性暴力を一つのテーマとして掲げるのはいいが、その背後には、現在も続く女性差別の問題が大きく影響していることは間違いない。この法廷から20年もたった現在に至っても日本や韓国の女性差別度が世界の最下位のレベルにあるのは、そうした取り組みをしてこなかった証しなのではないか。
女性国際戦犯法廷の模様はNHK教育テレビ(Eテレ)で放送されたが、朝日新聞が「政治家の圧力で内容が改変された」と報じた。圧力を加えたとされた安倍晋三氏と中川昭一氏はそのような圧力はかけていない、と朝日新聞を非難し訂正と謝罪を求めた。朝日新聞は圧力があったことを示す録音テープがある、と主張するがそのテープを公開することなく、後日になって取材の不十分さは認めたが、謝罪や訂正は行わなかった。番組のプロデューサーだった永田浩三氏によれば、忖度せよ、といった要求だった註45-8ようだ。
また、法廷の主催者であるVAWW-NETジャパンが「制作協力時に期待していた内容と実際の放送内容が大きく異なった」として、NHKを相手取って訴訟を起こした。最高裁まで争ったが、VAWW-NETジャパンの敗訴に終わった。
2011年9月に「VAWW RAC(バウラック)」に名称変更している。ホームページは こちら。
VAWW RAC = Violence Against Women in War Research Action Center
多民族国家ユーゴスラビア連邦共和国は、冷戦終結により連邦を構成する各国で独立運動が活発になり、1991年にスロベニアが分離独立したのを皮切りに、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、コソボ、マケドニアが2001年にかけて次々と独立していった。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争はセルビア人とクロアチア人、ボシュニャク人の間で1992年から1995年まで闘われた戦争。1995年7月、セルビア人勢力がスレブレニツァという町で8000人のボシュニャク人男性を虐殺し、多数の女性を強姦した事件が起こっている。
ベトナム戦争で北爆が激化した1966年、哲学者ラッセルの提唱で、哲学者サルトルを裁判長として開かれた。(Wikipedia「民衆法廷」)
裁判所の求めに従い、裁判所に対し事件についての専門的情報または意見を提出する第三者。(熊谷奈緒子:「慰安婦問題」,P192)
事後法; 実行のときに適法であった行為について,のちに制定された法律,すなわち事後法によってさかのぼって処罰することはできないという原則。(コトバンク<ブリタニカ国際大百科事典>)
罪刑法定主義; どのような行為が犯罪とされ,いかなる刑罰が科せられるか,犯罪と刑罰の具体的内容が事前の立法によって規定されていなければならないという刑法上の原則。(コトバンク<ブリタニカ国際大百科事典>)
刑事訴訟法上,ある事件について有罪無罪の判決または免訴の判決があって確定した場合に,同一事件について再び公訴を提起することを許さない原則をいう。(コトバンク<ブリタニカ国際大百科事典>)
1944年11月23日、日本軍はフィリピン・ルソン島中部のマパニケ村を「ゲリラ討伐」の名目で襲い、村の男たちを拷問・虐殺した後、女たちを集団強かんした。(WAM 女たちの戦争と平和資料館)
元プロデューサー永田浩三氏へのインタビューは ここ にあります。