日本の歴史認識慰安婦問題第4章 活動の軌跡 / 4.4 アジア女性基金 / 4.4.2 償いを受け入れた国々

4.4.2 償いを受け入れた国々

図表4.6(再掲) アジア女性基金

アジア女性基金

(1) フィリピン

リナ・ピリピーナ

被害者の認定と償い事業が先行したのはフィリピンだった。フィリピンの慰安婦支援団体である「リナ・ピリピーナ」は、当初、国家補償を要求して基金の受け入れに反対していたが、1996年1月から基金の対話チームと話し合った被害者のなかに、償いを受け入れる人が出てきた。このような状況を見たリナ・ピリピーナは、被害者個々人の判断で償いを受けとることを認めたのである。(大沼:「慰安婦問題」,P44-P45<要約>)

マリア・ロサ・ヘンソン

1996年8月、フィリピンで最初に元慰安婦と名乗り出て被害者の中心となって行動してきたマリア・ロサ・ヘンソンさんが、日本政府と国民からの償いを受け入れるという意志を表明した。ヘンソンさんと彼女と同時に償いを受け入れる意思を示した被害者(3人)は,8月14日、日本政府を代表する湯下大使、アジア女性基金を代表する有馬副理事長から、橋本首相と原理事長からのお詫びの手紙と償い金、医療福祉支援の内容を示す目録を受けとった。ヘンソンさんは、記者団に「いままで不可能と思っていた夢が実現しました。とても幸せです」と語った。(同上,P47<要約>)

おおむね順調に事業終了

その後、フィリピンでの償い事業はおおむね順調に遂行され、2002年9月に予定通り終了した。
フィリピン政府の司法省と社会福祉開発省の担当者たち(多くは若い女性)は、粘り強く、熱心に任務を遂行した。在フィリピンの日本大使館も熱心に償いの事業に協力した。(同上,P48<要約>)

秦氏著書からの補足 (秦:「戦場の性」,P312-P313)

・戦争中のマニラなどには、業者が経営し日本軍が監督する慰安所が開設され、多数のフィリピン人慰安婦が働いていた。だが、このカテゴリから名乗り出た事例はほとんどない。名乗り出ている人のほぼ全員が、日本兵によって拉致され、暴行、監禁されたと申し出ている。

・リラ・ピリピーナの基金受け入れに反対して、拒否運動を続けるグループもいた註442-1

・100人余りの申請者に対する認定作業は順調に進み、受給者は50人前後(98年末)に達している。

(2) オランダ

経緯

第二次大戦当時、インドネシアはオランダの植民地だった。日本軍がインドネシアを占領した期間、日本軍はインドネシア人とオランダ人をともに慰安婦として利用した。オランダ政府は第二次大戦にかかわる日本との賠償問題をサンフランシスコ条約と56年の議定書で解決したが、オランダ国内には日本軍の占領中に捕虜として虐待された人たちを中心に強い反日感情が残り、1990年につくられた「対日道義的債務基金」(債務基金)というNGOは、日本に被害者一人当たり約2万ドルの補償を求める運動を展開していた。(大沼:「慰安婦問題」,P67)

妥結

在オランダ日本大使館はオランダ政府と債務基金の関係者と話し合いをかさね、アジア女性基金との間を仲介した。その結果、オランダ側は償いを受け入れ、アジア女性基金は総額2億5500万円(一人当たり約300万円)註442-2の医療福祉支援費を支払うことで合意した。償い金が除外されたのは、交渉の過程で双方の理解に齟齬があったためで、残念なことだった。(同上,P67<要約>)

償いの実施

1998年8月にメディアを通じて償い事業の内容と申請手続きを広報、99年3月までの申請期間の後、審査して79名を慰安婦と認定した。被害者の中には男性もいた。医療福祉支援費はオランダの実施委員会を通じて交付されたが、同時に総理のお詫びの手紙も被害者個々人に届けられた。
オランダでの償いはおおむね被害者から評価され、深い満足感をもって受け入れられた。ある元慰安婦は、「私は橋本首相の手紙にたいへん大きな満足感をおぼえました。長い年月を経て、ついに私が受けた被害が一定のかたちで認められたのです。私は感情を抑えきれず、身も心もふるえます」との手紙をよせた。そのほかにも同様の感想を漏らした元慰安婦は少なくない。(同上,P68-P69<要約>)

成功の原因

オランダの反日感情は韓国の反日感情ほど根深いものでなかったかもしれない。しかし、何よりも大きかったのは、支援団体の対応だった。オランダのNGOは、第二次大戦中の日本の残虐行為に対する責任追及という原則を守り、償いの内容と方法については厳しい要求を日本側に提起しつつも、被害者個人の希望を尊重し、被害者に寄り添ってその利益を守るために全力を尽くすという態度を一貫させた。ただ、こうした経緯について日本のNGOは沈黙を守り、メディアもほとんど報じることがなかった。(同上,P69-P71<要約>)

(3) インドネシア

慰安婦の認定は困難!

アジア女性基金の実施した償い事業のなかでもっとも不十分なかたちで終わったのが、インドネシアのケースである。
1992年に元慰安婦と名乗り出た女性があらわれ、93年から元慰安婦の登録を開始した。これらの登録には強姦その他の多様なケースがふくまれているといわれ、登録者は数万人におよんだ。(同上,P67<要約>)

政府間交渉

日本政府とインドネシア政府は元慰安婦への償いのあり方について協議を進めた。1996年2月、インドネシア政府は、アジア女性基金の償い事業は被害者個々人への償いとしてではなく、高齢者福祉施設の整備事業への支援として行われるべきであるという方針を示した。日本政府もインドネシア政府の方針を受け入れる姿勢だった。基金内では、その施設が元慰安婦のために使われるかについて定かでないとして、強い反対の声があがったが、インドネシア政府の協力が得られない限り償いを進めるのは困難だった。(同上,P72<要約>)

高齢者福祉施設整備で合意

1997年3月、インドネシア政府は償い事業による施設は、元慰安婦が多く存在する地域に重点的に整備し、施設への入居に際しては元慰安婦と名乗り出た人を優先するという確約をアジア女性基金に与えた。基金内にはなお反対があったが、最終的にはこれを受け入れ、日本政府が拠出する3億8000万円の予算で2007年までの10年間に50の高齢者福祉施設註442-3を建設することに同意した。(同上,P73<要約>)

実態は不満足

アジア女性基金の担当者は建設された施設を訪れ、入居者と話し合いをもってきたが、そこから元慰安婦と確認できたケースはごく一部にとどまる。ただ、2006年になって西ジャワ州に元慰安婦を中心とする4つの施設が支援団体の力を得て建設されることになった。50の施設のうちわずか4つとはいえ、基金の理念に少しでも近づいた施設が作られることはわずかな救いであった。(同上,P73-P75<要約>)


4.4.2項の註釈

註442-1 アジア女性基金の活動内容

{ リラ・ピリピーナが基金の償い金を受けとろうとする元「慰安婦」を援助すると決定したのちに、その経過に不満をもった人々は新しいグループ、マラヤ・ロラズをつくりました。しかし、このグループも2000年1月にはアジア女性基金に申請書を提出しました。}(デジタル記念館「各国・地域における事業内容―フィリピン」)

註442-2 オランダへの医療福祉支援費

大沼「慰安婦問題」,P67では総額2億4500万円となっているが、「デジタル記念館」では2億5500万円となっている。

註442-3 インドネシアの高齢者福祉施設数

「デジタル記念館」によれば、最終的には69か所に建設されている。