日本の歴史認識慰安婦問題第4章 活動の軌跡 / 4.4 アジア女性基金 / 4.4.1 設立と運営方針

4.4 アジア女性基金

アジア女性基金(正式名称:財団法人 女性のためのアジア平和国民基金)は、「政府と国民が協力して、元慰安婦の方々に対する償いの気持ちをあらわす事業と、女性をめぐる今日的な問題の解決のための事業を推進する」註441-1ものとして、1995年7月に設立された。この節ではアジア女性基金の設立から解散(2007年)にいたる活動を、同財団の中心的存在だった大沼保昭氏註441-2の著書「"慰安婦問題"とは何だったのか」(以下、大沼:「慰安婦問題」と略す) と「デジタル記念館 慰安婦問題とアジア女性基金」(「デジタル記念館」と略す) を中心に紹介する。

図表4.6 アジア女性基金

アジア女性基金

4.4.1 設立と運営方針

(1) 設立の経緯

戦後50年問題プロジェクトチーム註441-3

1994年6月10日、村山富市を首班とする自民・社会・さきがけの連立政権が発足、93年8月の河野談話や94年8月の村山首相談話を受けて、94年9月に慰安婦問題などの解決に取り組む「戦後50年問題プロジェクトチーム」ができた。社会党の中には、強制連行や強制労働、旧植民地出身の軍人・軍属の年金支給やBC級戦犯への補償などをふくめた包括的な戦後補償基金を特別立法で設置すべきだとの意見も強かったが、自民党や外務省などはこうした賠償の問題は法的に処理済みであるとして強く反対した。激しい議論の末、対象は元慰安婦に限定し、民間基金により対応することで決着した。1994年12月7日に発表された報告書の内容は次のようなものである。
「日本は国家として道義的責任を果たすべきであり、政府の資金拠出を含む協力の下に国民参加の基金を設置し、元「慰安婦」を対象とした国民的な償いをあらわす措置をとるべきだ」。

大沼氏の活動

ここまでの活動について大沼氏は次のように述べる。

{ 「せめて慰安婦だけでも」という願いさえ、しかも問題解決にきわめて積極的な村山富市という首相と五十嵐広三という官房長官をもつ内閣の下でさえ、実現は困難をきわめた。戦後50年問題プロジェクトチームでの議論は、基本的な歴史認識とあるべき方策をめぐって激しいやりとりが延々と続き、とりまとめは至難のわざだった。}(大沼:「慰安婦問題」,P12)

民間側の推進キーマンだった大沼保昭氏は、右派系の雑誌「諸君!」1994年11月号に「日本国民が正当な誇りをもって生きていくためにこそ、国民全体の戦後責任への取り組みが必要なのだ」という論稿註441-4を発表している。

アジア女性基金設立構想

政府内の消極姿勢をなんとか説き伏せて、五十嵐官房長官は1995年6月14日、次のような設立構想(基本方針)を発表した。

このうち(b)は、当初案には含まれておらず、大沼氏は「政府からの補償を何らかの形で示すべきだ」と指摘し、五十嵐長官も粘りをみせた。政府予算を使って行われる医療福祉支援は実態は国家補償である。(同上,P13-P15)

大沼氏の考えかた

大沼氏は、95年6月28日、次のような趣旨の論稿を読売新聞に発表している。

{ 償いは政府がやるべきで、国民からの募金は問題のすりかえだと批判があるが、戦争と植民地支配は政府だけの仕業ではなく、マスメディアや知識人を含めて国民もかかわったのであり、その責任は一内閣に委ねるべきものでなく、国民一人ひとりが過ちへの自覚をもって償うべきものだ。… 政府案を批判するのはたやすいが、この案を拒否したら、償いをどの内閣でどういうかたちでやれるのか。その代案がない限り、この案を拒否することは償い自体を拒否するに等しい。}(同上,P19-P20)

(2) アジア女性基金設立

アジア女性基金は、1995年7月12日に呼びかけ人会議を開いて呼びかけ文を確定し、7月19日に発足した註441-5。呼びかけ文は、日本国民がアジア女性基金への拠金を通して償いの気持ちを示すよう、償いへの参加と協力を訴えるものであり、8月15日に主要新聞に掲載した。

メディアの反応、殺到する非難と脅迫

{ メディアの論調はさまざまだったが、新聞の社会面や市民への影響力のあるテレビでは、基金は日本政府が自己の責任回避の手段として作った隠れ蓑という批判的な論調が圧倒的だった。他方、少数だが声高の"右"のメディアと批判者は、元慰安婦はカネで身体を売っていた売春婦、公娼であり、償いの必要などなく、基金は韓国や左翼の主張に基づいてつくられた不要・不当な組織であると非難した。慰安婦問題は、被害者個々人の救済、償いというより、歴史認識、ナショナリズム、フェミニズムをめぐる政治的・感情的な争いへと転化してしまっていた。}(同上,P26)

{ わたし自身は、… 基金を説明する立場にあった。そのため、自宅にまで左右双方の陣営から避難と脅迫が殺到し、家族の安瀬のため1年近く警察が自宅付近をパトロールするという事態に見舞われた。ほかの呼びかけ人にも非難と脅迫が殺到した。当初呼びかけ人となる意思を示していた宮城まり子さんはこうした状況のなかで呼びかけ人を辞退した。}(同上,P28)

(3) 運営方針

償い対象者の認定

被害者の認定に際しては、元慰安婦であることを公にしたがらない人たちのプライバシーを守り、他方で虚偽の申請を見抜く作業が求められる。しかも本当に慰安婦だったかを審査・認定する際に"セカンド・レイプ"と言われる事態を引き起こさないようにしなければならない。こうした事情を考慮して認定は次のようにすることに決定した。すなわち、戦争中に旧日本軍の慰安所などで一定期間将兵等に性的奉仕を強いられた人たちを"従軍慰安婦"と考え、単純な強姦の被害者は含まない。… 具体的な被害者の認定については、元慰安婦の属する国の政府が行なう認定を尊重しつつ、その認定の手順をアジア女性基金として確認することにした。(同上,P29-P32<要約>)

対象国

アジア女性基金は、被害者からの要請があり、償いの事業が実施可能と判断したフィリピン、台湾、韓国、オランダ、インドネシアを対象とすることにした。中国に多くの元慰安婦がいることはたしかだが、中国政府は元慰安婦を把握・認定していなかった。また、中国政府は一方で被害者個人の請求権は存在すると言いつつ、他方では毛沢東が1972年の日中共同声明で決着をつけた対日戦争賠償問題が問題化して国内が不安定化するのを嫌う姿勢も強かった。(同上,P33-P34<要約>)

償い金と医療福祉支援費

償い金と医療福祉支援費の額については、国によって異なる所得や物価水準をどう考えるかについて議論があった。議論の結果、国民の拠金からなる償い金は国民全体の償いの気持ちを示すものゆえ被害者によって差異があってはならないが、医療福祉支援費は国により物価水準に差がある以上、差をつけるべきだという考えでまとまった。こうして償い金は一律200万円とするが、医療福祉支援費はフィリピンが120万円、韓国・台湾は約300万円とすることに決められた。フィリピンでの320万円は日本での2000~3000万円かそれ以上、韓国・台湾の500万円は日本での約1000万円程度かそれ以上に相当したと思われる。(同上,P42-P43<要約>)

首相の詫び状

{ 1996年1月、村山内閣は退陣し、自民党の橋本総裁を首班とする内閣にかわった。首相就任前に日本遺族会の会長を務めていた橋本首相は元慰安婦にお詫びの手紙を書くことに消極的であるとの情報が流れてきた。呼びかけ人の三木睦子氏(三木武夫元首相夫人)が首相と会った際にこの点を問いただしたところ、首相はお詫びの手紙を書くことに消極的な姿勢を示した(と、三木氏は解釈した)。このため、三木氏は政府の約束違反であると抗議して5月に基金の呼びかけ人を辞任してしまった。この経緯が報道されると社会的に大きな反響を呼び、政府は激しい批判にさらされた。… 最終的に橋本内閣は被害者宛ての総理のお詫びの手紙を作成し、以降の内閣も首相が署名したお詫びの手紙を元慰安婦に届け続けた。}(同上,P36-P37<要約>)

募金に応じてくれた人たち

募金は1995年8月15日に広告を出したときから開始され、対象は次のようなところだった。

(a) 一般市民

直接、基金の口座に振り込んでもらうほか、NGOが街頭での募金活動を行なったりした。老人ホームに暮らす貧しい女性、祖父たちの行為の責任を負うという青年、慰安婦を"買った"元兵士、在日韓国人、など様々な人から募金があった。

(b) 労働組合

以前から慰安婦問題に積極的に取り組んでいた自治労が中心となって活発な募金活動が行われ、かなりの額が寄せられた。

(c) 経済界

大口の募金を強く期待したが、経済界の協力はほとんどなかった。

(d) 政府、地方公共団体などの職場

もっとも貢献度が高かったのがこの職場募金で、県、市、町村などの役所、税務署、警察、自衛隊、在外大使館などから多くの募金があった。

募金は、1996年7月までの1年間で約4億円に上ったが、その後は勢いが衰えた。(同上,P39-P42<要約>) 
なお、最終的な募金総額は約5億6500万円になっている。(「デジタル記念館」)


4.4.1項の註釈

註441-1 アジア女性基金の活動内容

デジタル記念館「アジア女性基金の誕生と事業の基本性格」のページによる。

註441-2 大沼保昭

1946年3月8日生-2018年10月16日没。日本の法学者。東京大学名誉教授。元明治大学法学部特任教授。専門は国際法学。東大法学部在学中に全共闘運動やベトナム反戦運動に影響を受け、在日韓国・朝鮮人の指紋押捺撤廃やサハリン残留朝鮮人の帰還運動などに参加。また戦争責任問題の追及でも知られるなどリベラル色が濃いが、日本国憲法第9条に関しては改正容認の立場を取るなど従来の左派勢力とは立場を異にしている。(Wikipedia:「大沼保昭」)

註441-3 戦後50年問題プロジェクト

この段落は、秦:「戦場の性」,P287-P288 と、大沼:「慰安婦問題」,P4-P12 を参考にした。

註441-4 大沼氏の論稿

大沼氏は次のような論稿を「諸君!」1994年11月号に発表し、右派からも一定の支持を得たという。

{ … 国民の多くは日本が戦争と植民地支配でどのような非道・蛮行を犯したかを知らない。こうした問題の解決がどれほど多くの被害者を放置し、中国や韓国などの国民の怒りの種となっているかも知らない。…
戦後の日本国民は、平和で豊かで、安全で、貧しい国に多額の援助を与えるという、世界に誇りうる国家を創り上げてきた。わたしたちは傲慢であってはならないが、国際社会で十分胸を張って生きていけるはずだ。日本国民が正当な誇りをもって生きていくためにこそ、国民全体の戦後責任への取り組みが必要なのだ。戦後補償・戦後責任論にままみられる「政=悪」、「人民・市民=善」という図式的な思考を克服し、国民自身が日本の過去に直面しなければならない」(大沼:「慰安婦問題」,P7-P8)

註441-5 アジア女性基金呼びかけ人、呼びかけ文

アジア女性基金の呼びかけ人及び組織図は「小資料集」を参照。

呼びかけ文は、「デジタル記念館」 に掲載されている。