日本の歴史認識慰安婦問題第4章 活動の軌跡 / 4.1 前史~初の慰安婦訴訟

flower第4章 活動の軌跡

慰安婦の存在は早くから知られていたが、1970年代にはその実態を調査してレポートする動きが出始め、1990年になると韓国でこれが問題視されるようになる。そして、1991年に韓国の元慰安婦金学順が名乗り出て東京で裁判を起こす。その直後、朝日新聞の報道がきっかけとなって日本と韓国の間の問題として炎上する。以来、国連人権委員会でも調査・報告が行われるなど、世界を巻き込む問題となった。この章では、慰安婦問題に関する主なできごとについて、研究者の主張を紹介し、あわせて筆者の考え方も述べる。

図表4.1 主なできごと

主なできごと

4.1 前史~初の慰安婦訴訟

この節では、慰安婦問題が炎上する1991~1992年以前の日本と韓国の様子から1991年に韓国の元慰安婦金学順が名乗り出て東京地裁に訴訟を起こすまでの事情について述べる。

図表4.2 前史と慰安婦訴訟

前史と慰安婦訴訟

(1) 1980年代以前(日本)

1960年代以前

日中戦争や太平洋戦争に従軍した将兵であれば、慰安婦がいたことはみな知っており、終戦後には雑誌、小説、映画などにもよく登場していたらしい。たとえば、1947年、作家の田村泰次郎は「春婦伝」という朝鮮人慰安婦をモデルにした小説を書き、のちに映画化されている。小説はGHQの検閲で発禁処分となり、映画もGHQの指示で主役が日本人に変更されている註41-1

1970年代

1970年代になると、千田夏光の「従軍慰安婦」(1973年)、元慰安婦だった城田すず子の「マリアの賛歌」(1971年)、広田和子の「証言記録 従軍慰安婦・看護婦」(1975年)、金一勉「天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦」(1976年)などが発刊された。千田の「従軍慰安婦」について、秦氏は次のように述べている。

{ 慰安婦と慰安所について初めてまとまったレポートを書いたのは千田夏光と言ってよい。… 50万部以上が売れたというが、書評は「赤旗」の読書欄くらいにしか載らず、社会的に話題になることもなく、女性からの反応は皆無に近かった、という。
千田は戦場体験こそないが、元新聞記者らしい取材力と筆致で、何人かの元慰安婦、業者、元兵士、軍医などに取材してまわり、全体像に迫ろうとした。狙いはそれなりに成功し、良くも悪くもその後のイメージ形成に大きな影響を与えることになる。}(秦:「戦場の性」,P15<要約>)

1980年代

1983年7月、のちに強制連行を裏づける証言として注目される吉田清治の「私の戦争犯罪」が出版された。韓国語訳は1989年に出版され、韓国人には大きな衝撃を与えた。しかし、1990年代に入って作り話であることが判明する。(3.2節参照)
80年代には70年代につづいて日本に在住する元慰安婦の体験談などが増えていく。

(2) 慰安婦関連文献の出版状況

下図は、日本国内で出版された慰安婦問題関連の書籍や雑誌の件数である。1969年以前は全部で49件だったが、1970年代に85件に増え、1980年代は77件、1990年26件が1991年になると81件、問題が炎上した1992年には何と321件もの文献が出版されており、総計で1,276件にのぼる。(出典(財)女性のためのアジア平和国民基金編:「"慰安婦"関係文献目録」)

図表4.3 慰安婦関連文献の出版状況

慰安婦問題関連文献の出版状況

(3) 1980年代以前(韓国)

慰安婦という存在は戦後の韓国でも知られていなかったわけではないが、ふれたくない問題であったようで、慰安婦問題が社会的にとりあげられるようになったのは、1987年の民主化のあとだった。(デジタル記念館「慰安婦問題が明らかになるまで」)

{ 朝鮮半島では実証的に近現代史を調べ、記録する伝統が乏しい。高崎宗司註41-2によれば、挺身隊や慰安婦への関心は1970年代から高まってはいたが、情報はほとんどが千田、吉田清治、金一勉など日本(と在日朝鮮人)からの輸入に依存し、官庁記録や元慰安婦の周辺など第一次情報にあたろうとする風潮は乏しかったという。}(秦:「戦場の性」,P16)

秦氏は、1990年に尹貞玉(ユン・ジョンオク)が慰安婦問題に関するルポ記事を出すまでは、{ 1930-40年代の生活感覚を知る世代が健在だったせいか、朝鮮人女衒による就職詐欺まがいの勧誘が主で、官憲による"強制連行"というイメージはあまり出ていない。}(秦:「戦場の性」,P18<要約>) という。

(4) 太平洋戦争犠牲者遺族会

韓国政府による戦争被害者補償

1965年の日韓協定で日本から韓国に供与された資金の大部分は、道路や製鉄所などインフラや生産財に投入されたが、一部は戦争被害者への補償に振り向けられた。

{ 1971年1月に対日民間請求権の申告を受けつけ、1975年から補償金の支給を行なっている。申告対象9件のうち8件は、日本銀行券、日本内金融機関預金、簡易生命保険などの財産関係のものであり、1件だけが「軍人・軍属や労務者として召集又は徴用され1945年8月15日以前に死亡した者【への補償】、だった。1974年12月に請求権補償法が制定されて1975~77年に支払いが行われ、財産関係の申告者約7万5千人に約66億ウォン、被徴兵・被徴用死亡者8910人に25億6560万ウォンが支給された。
民間請求補償額がすべて合わせて91億8800万ウォンで、無償3億ドルの6.3%にしかならないが、朴正熙政権が民間のお金を着服したのではなく、請求権を持ついくつかの金融機関、農協、漁協、など国有金融機関に対しては補償しないことにしたからである。」(李榮薫:「反日種族主義」,P189-P190<執筆者は朱益鍾><要約>)

太平洋戦争犠牲者遺族会結成

この補償規定では、負傷者を含む生存者、在日朝鮮人、原爆被害者、サハリン残留者、BC級戦犯、慰安婦などは対象外だった。それが不満な人たちが、1973年4月に「太平洋戦争犠牲者遺族会」を結成して、運動の方向を模索していた。

(5) 挺対協結成

尹貞玉(ユン・ジョンオク)のルポ記事

{ 千田夏光を日本側の先駆者とすれば、韓国側でその役割を果たしたのは、挺対協を設立した尹貞玉氏であろう。1925年牧師の娘として平壌に生まれた尹はミッション系の梨花女子専門学校に入学したが、「1943年12月日帝が未婚女性を挺身隊に引っ張って行くようになり退学して挺身隊を免れた」、という。戦後、母校の英文科教授となり、1980年頃から、北海道、沖縄、タイ、パプア・ニューギニアなどをまわって、慰安婦たちの足跡をたどり、その成果は1990年1月の「ハンギョレ新聞」に「挺身隊取材記」として連載された。しかし、本人が直接取材した元慰安婦は2人だけで、吉田清治や千田夏光の紹介した現場をまわったルポ記事が主で、慰安婦問題の全貌に迫るにはほど遠いものだった。}(秦:「戦場の性」,P16<要約>)

秦氏は続けて、次のように述べる。

{ 慰安婦強制連行説は日本発のものでその起爆剤となったのが尹貞玉のルポ記事だった。さらに、尹貞玉は、慰安婦の存在自体よりも「女性の性に対する観念を徹底的に変える社会的な意識改革を」と訴え、慰安婦たちは「民族心の主人公であらねばならぬ」と、ナショナリズムにフェミニズムを結びつけて訴求した。折から韓国では、高度経済成長がもたらす急速な社会変動のなかで、伝統的な男尊女卑の観念がゆらいでおり、慰安婦問題は恰好のキャンペーン材料だった。}(秦:「戦場の性」,P18<要約>)

挺対協の結成

{ 申蕙秀によれば、慰安婦問題がはじめて公式に取り上げられたのは、1988年に韓国女性団体連合会が開催した女性と観光問題(いわゆる妓生観光)についてのセミナーで、「それ以来この問題は韓国における女性運動の共同の課題」になったという。
1990年11月、尹貞玉と李効再教授(社会学)を共同代表に戴く挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)が結成された。… 韓国女性団体連合会を含む30余の女性団体が寄り集まる連合体で、やがて日本政府の謝罪と補償を要求する有力な圧力団体へ成長する。}(秦:「戦場の性」,P18-P19)

(6) 原告探しから訴訟へ

1991年12月に東京地裁に提訴された「第一次慰安婦訴訟」の起点は、「朝日ジャーナル」に掲載された意見広告であったという。

{ 大分県に青柳敦子という女性がいる。… お医者さんの奥さんで在日韓国人のちょっと変わった宋斗会氏という差別反対運動家に私淑していた。… 【西岡氏は2人から聞き取り調査をした】 彼らは最初サハリン在住韓国人問題に取り組んでいたが、後述の高木弁護士に乗っ取られた註41-3
そこで、韓国から原告を集めようと、青柳氏らは「朝日ジャーナル」1989年5月19日号から12月まで15回にわたって「日本国は朝鮮と朝鮮人に公式に陳謝せよ」という広告を出す。青柳氏がその広告を韓国語に訳して韓国を訪問したのは89年11月19日から22日までだ。徴用被害者や元慰安婦などで日本政府を相手に謝罪と賠償を求める裁判の原告になってくれる人を探すのが目的だった。そのとき私の知り合いの日本のある新聞の支局にも彼女が現れ、原告募集活動をしていることを話したという。
青柳氏が大分に帰って数週間後、韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」から電話がかかってきた。青柳氏は翌90年3月再訪韓し、遺族会に裁判の手続きなどについて説明会を開いた。遺族会はその後、日本大使館前で座り込みをしたりデモをしたりするかたわら、22人の遺族を集め、90年10月29日提訴した。ここで原告になったのは、戦中に徴兵や徴用で動員され戦地などで亡くなった韓国人戦争被害者の遺族で元慰安婦は入っていない。ところが、青柳・宋グループは弁護士を使わず、裁判のケアができなかった。遺族会は青柳氏らと別れ、高木健一弁護士ら別のグループとともに新たな訴訟の準備を始めた。このグループが92年12月金学順さんたちを先頭にたてた裁判を起こしたのである。}(西岡力:「よくわかる慰安婦問題」,P54-P59<要約>)

西岡氏は弁護士を使わなかったことを遺族会が青柳氏と別れた理由かのように書いているが、秦氏は{ 22人が提訴する際、遺族会が内紛を起こし主流派は高木弁護士のグループに乗り換えた。}(秦:「戦場の性」,P21) と述べる註41-4。弁護士を使わなかったことが内紛の原因なのかもしれない。

(7) 元慰安婦名乗り出る!

1991年8月、挺対協の呼びかけに応じて初めて名乗り出たのが金学順さんだった。西岡力氏はそれを報じた朝日新聞を激しく非難する。

{ 91年8月11日、朝日新聞は「初めて慰安婦名乗り出る」と大きく報じた。この記事を書いたのは遺族会幹部を義理の母とする植村隆記者だった。義理の母が義理の息子に便宜をはかったとしか思えなかった。この記事は次のような一節から始まる衝撃的記事だった。
「日中戦争や第二次大戦の際、"女子挺身隊"の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた"朝鮮人従軍慰安婦"のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」が聞き取り作業を始めた。
ここには金学順さんが貧乏のためキーセンに身売りしていたという問題の本質に関わる重大な事実関係が書かれていない。… 植村記者は金学順さんを、吉田清治証言のような強制連行の被害者として日本に紹介したのだ。}(西岡力「よくわかる慰安婦問題」,P43-P44<要約>)

これを含めて植村氏が執筆した記事について、櫻井よしこ氏など否定派が植村氏を非難したことに対して、植村氏が名誉棄損で訴えた裁判が行われており、2020年2月札幌高裁で植村氏の訴えを退ける判決が出ている。
どっちもどっち、互いの憎しみがぶつかりあっているだけの非生産的な裁判のようにしかみえない。

(8) 初の慰安婦裁判

{ 1991年12月6日に補償を請求して、東京地方裁判所に提訴。控訴人は韓国太平洋戦争犠牲者遺族会。1次原告35人うち慰安婦は3名、他は元日本軍人および軍属、2次原告は1992年4月13日、元慰安婦ら6人。訴訟原告代理人は高木健一(弁護士)、林和男(弁護士)、福島瑞穂(弁護士)ら11人。2001年3月26日、東京地裁は請求を棄却。2003年7月22日東京高裁控訴棄却、2004年11月29日最高裁上告棄却し原告の敗訴決定。}(Wikipedia:「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件」)

秦氏によれば提訴の内容は次のようなものである。

{ 「被告(日本国)は原告らに対し、各金2千万円を支払え」と請求。3人の慰安婦のうち実名を公表したのは金学順だけで、あとの2人は仮名にしてある。補償要求の根拠は、「朝鮮人元軍人・軍属及び軍隊慰安婦らは、それぞれ強制的に連行された」ので、人道に対する罪に当たるとし、法的根拠はないにせよ、「信義則上」「条理上」の義務から補償すべきであると主張していた。
訴状が認めるように、この訴訟の弱点はすでに日韓条約で法的解決が終了している点にあり、韓国国内法の補償対象から漏れた原告たちの請求は、まず国内法改正の形で韓国政府へ持ち込むべき筋のものであった。
したがって、日本の裁判所へ訴えても勝訴する見込みはほとんどなかったのであり、実際に類似の判例も出た。高木弁護士も、その辺りは承知していたと思われるが、世論を盛りあげることによって民間基金のような形で救済金が集まるか、議員立法に持ち込めるのではないかと期待していたようである。}(秦:「戦場の性」,P22<要約>)


4.1節の註釈

註41-1 田村泰次郎「春婦伝」

田村泰次郎は1911年11月三重県生まれの小説家。戦時中は5年3か月にわたって中国山西省で従軍、そのときの体験をもとにした小説を発表、1947年の「肉体の門」は120万部を超えるベストセラーになった。(Wikipedia「田村泰次郎」)

「春婦伝」がなぜGHQの検閲にひっかかたのかよくわからないが、検閲調書には「韓国人への批判」とあるそうだ。原本には、「この一編を、戦争間大陸奥地に配置せられた日本軍下級兵士たちの慰安のため、日本女性が恐怖と軽侮で近づこうとしなかった、あらゆる最前線に挺身し、その青春と肉体とを亡ぼし去つた数万の朝鮮娘子軍にささぐ」 とあり、むしろ朝鮮人慰安婦を称えているようにみえる。(ヌルボ・イルボ 「韓国文化の海へ」 )

註41-2 高崎宗司

1944年茨城県生まれ。1967年東京教育大学日本史専攻卒、アジア女性基金運営審議会委員。2013年まで津田塾大学国際関係学科教授。秦と高崎は、アジア女性基金において、ともに資料委員会委員を務めたが、秦は「(高崎は)建前はともかく、本籍は国家補償派に残してあること、勘ぐれば最初から基金を乗っとるために入ってきたらしいことがわかったのは収穫だった」と述懐している。(Wikipedia「高崎宗司」

註41-3 サハリン在住韓国人問題

朝鮮が日本の植民地だった時代に日本国籍を保有していた朝鮮人約2万7千人が労働者として南樺太に移住していた。これらの人々の韓国への帰還などを要求する訴訟を1975年高木健一弁護士らが日本政府を相手取って起こした。日本政府は1987年から「サハリン残留韓国、朝鮮人問題議員懇談会」を設置して韓国への帰国支援などの費用を予算化している。(Wikipedia:「在樺コリアン」)

西岡氏は青柳氏や高木弁護士の訴えは「根拠のないもの」と批判した上で、日本政府が予算をつけてこの問題は解決に向った、という。そして、「とにかく、高木弁護士にサハリン裁判を"乗っ取られた"宋斗会氏らは、今度は、韓国から原告を集めようとした」と述べる。高木弁護士が訴訟を起こしたのは1975年なので、その時点で"乗っ取られた"ことははっきりしているのに、15年近くたってから、新たな行動を起こしているというのは不自然である。高木弁護士に"乗っ取られた"のではなく、日本政府が乗り出してきて解決に向かったので、別の問題に鞍替えした、ということではなかろうか。

註41-4 宋/青柳グループのその後

{ 弁護士に依存しない本人訴訟をとった宋斗会=青柳グループは1992年2月、光州の軍人・軍属を原告とする「千百人訴訟」を東京地裁に起こすが、慰安婦をふくまなかったせいか、ほとんど報道されなかった。}(秦:「戦場の性」,P23注(6))