日本の歴史認識慰安婦問題第3章 主な論点 / 3.9 植民地問題

3.9 植民地問題

慰安婦問題において、韓国との間がこじれている最大の理由は、韓国側が植民地問題と関連させて日本の謝罪を求めているからである。この節では、日本はどのような経緯で韓国を併合(植民地化)したのかを確認してみる。

図表3.15 植民地問題

慰安婦=公娼!?

(1) 日露戦争まで(~1905年)

19世紀末の朝鮮半島(~1873年ごろ)

日本が明治維新を迎えたころ、朝鮮半島にあったのは朝鮮王朝(日本では李氏朝鮮と呼ぶ)とよばれる国であった。李氏朝鮮は1392年に成立した王朝で、成立当初から「中国を中心とする冊封体制註39-1」を堅持していた。

明治維新後、日本は国交樹立を求める国書を朝鮮に送ったが、朝鮮は、「皇上」や「奉勅」など中国の皇帝が朝鮮に下す言葉が書かれていたことから、日本が朝鮮よりも上位になるとして受け取りを拒否した。

征韓論から日朝修好条規(~1876年)

朝鮮の対応に対して西郷隆盛らは征韓論を唱えたが、大久保利通は反対し、西郷らは下野して西南戦争を起こすことになる。1875年、明治政府は朝鮮を挑発して江華島事件註39-2を起こし、日本に有利な日朝修好条規を締結する。これを契機に日本は朝鮮に対する影響力を強めていく。

朝鮮の内乱から日清戦争へ(~1894年)

開港後の朝鮮では、衛正斥邪(日本の"攘夷"とほぼ同義)を是とする一派と、明治維新に倣って近代化を進めようとする朝鮮青年貴族たちの開化派、清国への臣従を主張する閔妃(びんひ/ミンピ)一族による政争が続いていた。1894年2月、朝鮮で甲午農民戦争註39-3が起こると清は朝鮮王朝の依頼で軍を派遣し、日本も邦人保護の名目で派兵した。

日清戦争(1894~95年)

1894年7月25日、朝鮮の豊島沖での武力衝突を契機に日清戦争が勃発、勝利した日本は清国との間で下関条約を結んで莫大な賠償金のほか、台湾や遼東半島を手に入れるともに、朝鮮が自主独立国であることを認めさせた。朝鮮では開化派が実権を握って近代化を進めた。

三国干渉(1895年)

1895年、満州をねらうロシアはドイツ、フランスと結んで遼東半島の返還を迫り、日本はやむなくそれに応じたが、日本国民のロシアへの敵意をあおることになった。一方、朝鮮ではロシアの支援を受けた李朝の高宗が復権、開化派を駆逐して皇帝に就任した高宗は国号を「大韓帝国」に改め、近代化政策を進めたがうまくいかなかった。

ロシアの南下政策(~1903年)

南下政策を進めるロシアは、三国干渉後、清と露清条約を結び、東清鉄道の敷設など満州への権益を確保、遼東半島の旅順港などを租借して植民地化を進めた。ロシアは1900年に中国で起きた義和団の乱に乗じて満州を軍事占領するなど南下政策を推し進めた。
日本は1902年にイギリスと日英同盟を締結してロシアとの対抗姿勢を強める。1903年8月からの日露交渉において、日本は、朝鮮半島を日本、満州をロシアの支配下に置くという妥協案をロシアに提案したが、ロシア側は朝鮮半島で増えつつあった利権が妨害されることをおそれてその提案を拒否した。

日露戦争(1904~05年)

このままでは独立も危ぶまれると判断した日本は、1904年2月6日ロシアに国交断絶を通告し、2月8日旅順港にいたロシア艦隊を攻撃、2月10日に宣戦布告して日露戦争が始まった。
当時、枢密院議長だった伊藤博文はアメリカに特使を派遣してアメリカ世論の懐柔と講和の仲介を依頼、セオドア・ルーズベルト大統領も日本の支援を約束した。
日本は1905年3月の奉天会戦でロシア軍を後退させ、1905年5月27~28日に行われた日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った。9月5日アメリカの仲介によりロシアと日本はポーツマス条約を締結して戦争は終結した。ポーツマス条約により日本は、遼東半島の租借権、東清鉄道(南満州鉄道)、朝鮮半島の監督権などを獲得した。

(2) 韓国併合

日韓議定書と日韓協約

1904年2月、日本は大韓帝国の独立と領土保全および皇室の安全を保障するかわりに韓国における日本軍の行動の自由と、軍略上必要な土地の収容を韓国に承認させた(日韓議定書)。同年8月22日には第1次日韓協約により、日本人顧問を送り込み財政や外交などの発言権を得た。

日露戦争後、日本はイギリスやアメリカの承諾を得た上で、1905年11月、第2次日韓協約を締結、この協約によって韓国皇室は保持されたが、韓国の外交権は日本に接収されることとなり、事実上、韓国は日本の保護国となった。12月には、韓国軍の指揮権を有する行政府である統監府が設置され、伊藤博文が初代統監に就任した。

ハーグ密使事件と第3次日韓協約

1907年6月、韓国皇帝高宗はオランダのハーグで行われていた万国平和会議に密使をおくり、協約の無効を訴えたが、ロシア、アメリカ、イギリスなど各国から拒否された。事件後、高宗は伊藤博文に追求されて退位させられ、同年7月、第3次協約を結ぶことになる。この協約により内政までも日本が握り、韓国軍の解散や司法権・警察権も日本に委任されたため、各地で反日闘争が激化した。

伊藤博文暗殺

伊藤博文は1909年10月26日、ロシア蔵相と話し合うために訪れた満州のハルビン駅で大韓帝国の民族運動家 安重根に射殺された。伊藤は息を引き取る前に自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知り、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれる。

日韓協約後、朝鮮内で独立運動が激しくなるにつれて、日本では韓国併合論が高まっていた。しかし、伊藤は併合に否定的で、保護国とするのも韓国の国力がつくまで、と考えていた。1909年4月、時の首相 桂太郎が伊藤に「併合するより他なし」とおそるおそる打診すると、伊藤もこれに同意したという。1909年6月、伊藤は韓国統監を辞任している。

韓国併合

1909年12月、韓国の政治結社「一進会」が「韓日合邦を要求する声明書」を上奏、これは日本と韓国が対等合併することを求めたもので日本がそのまま受け入れることはできなかった。日本にも韓国にも併合の賛成論と反対論があったが、日本では1910年6月3日、「併合後の韓国に対する施政方針」が閣議決定された。親日派で固められた韓国閣僚も賛成し、1910年8月22日、韓国併合条約に両国代表が調印した。これにより大韓帝国は消滅し、朝鮮総督府が設置された。韓国の皇族は大日本帝国の皇族に準じる王公族に封じられ、併合に貢献した朝鮮人は朝鮮貴族とされた。
日韓議定書から併合条約に至る一連の協定や条約について、韓国の学者などには国際法に照らして違法であり無効だ、という意見もある。日本の学者の意見にもいろいろあるようだが、海野福寿氏の主張する「不当だが合法」が最も妥当な主張のようだ註39-4

(3) 併合後の施策

日本の統治政策を否定的にとらえる人たちと肯定的にとらえる人たちとがいるが、韓国においては否定的にとらえる人が圧倒的に多いようだ。ここではWikipedia:「日本統治時代の朝鮮」などを参考にしている。

戸籍制度見直しと身分解放

李氏朝鮮時代には姓をもつことが許されていなかった賎民にも姓を名乗らせ、それまで戸籍に書かれていた身分を廃止した。

学校教育制度の導入

内地に準じた学校教育制度が導入され、統合直前に40校程度しかなかった学校が1940年代には1000校を超え、普通初等学校への就学率は1910年の1%が1943年には49%になった。朝鮮語を必修科目としてハングルを学ばせたが、教師は日本語で教えた。

土地政策

総督府は測量を行い土地の所有権を確定させた。これにより朝鮮での不動産売買が安定したが、多くの境界問題や入会権問題を生み、「日帝による土地収奪」論を招いた。

インフラ整備

それまで朝鮮半島にはほとんど存在しなかった鉄道、道路、上水道、下水道、電気インフラ、病院、学校、工場などのインフラ整備を行った。

参政権など

朝鮮人も内地に居住していれば選挙権・被選挙権ともに認められたが、朝鮮半島においては、朝鮮総督府が直裁しており、日本人でさえ参政権は持っていなかった。

戦時体制への組み込み

満州事変以降、植民地住民を戦時体制に組み込むことを目的に、神社参拝、皇国臣民の誓詞の斉唱、創氏改名などが行われた。

独立運動

第一次大戦(1914~1918年)終了後、民族自決主義が世界に広まり、朝鮮でも独立運動が活発になった。なかでも1919年に起きた三・一独立運動は朝鮮全体を巻き込む暴動に発展し、総督府による取締りにより多数の死傷が出た。この運動がきっかけになって「大韓民国臨時政府」が上海で結成された。

(4) 日本政府の謝罪

日本政府は植民地支配について、過去、何度も謝罪のメッセージを出しているが、それが相手に響くようなものにはなっていない。以下、主なメッセージである。(出典は、Wikipedia:「日本の戦争謝罪一覧」)

戦後50年衆議院決議(1995年6月9日)

「 … 世界の近代史における数々の植民地支配や侵略行為に想いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジア諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する」

小渕恵三首相...日韓共同宣言(1998年10月8日)

「両首脳は、日韓両国が21世紀の確固たる善隣友好協力関係を構築していくためには、両国が過去を直視し相互理解と信頼に基づいた関係を発展させていくことが重要であることにつき意見の一致をみた。小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。金大中大統領は、かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請である旨表明した」

その他

上記以外にも日本の首脳が植民地支配を明示した反省や謝罪のメッセージを出している。

細川護熙(1993/8/23)、村山富市(1994/8/31)、橋下龍太郎(1996/6/23,1997/8/28)、小泉純一郎(2002/9/17、2005/4/22、2005/8/15)、菅直人(2010/8/10)

こうした謝罪のメッセージを発するかたわらで、{ … 戦争や植民地支配を正当化する閣僚の発言が多発し、責任追及、辞任というケースが続いていた。結局、日本国民がそうした"妄言"を吐く政治家を選挙で選んでいるのである。国民はおのれの身の丈以上の政府をもつことはできない。過去の戦争と植民地支配で日本がどれだけ取り返しのつかない行為を犯してしまったのかを国民自身が知り、問題に直面にしなければ問題は解決しない。}(大沼保昭:「"慰安婦"問題とは何だったのか」,P6)

(5) 朴裕河氏の主張

朴裕河氏は、日本が過去何度も植民地支配について謝罪していることやアジア女性基金で「植民地後処理」を行なったことを評価しつつも、より明確で公式的な謝罪をすべきだという。

{ 戦後日本は平和憲法を掲げ、戦争を起こさないという価値観を守り続けてきた。大多数の国民が反戦意識を保てるように教育してきたのも、高く評価すべきだろう。しかし、「帝国」として存在した――植民地を支配した――ことに対する反省意識は、反戦意識ほどには日本国民の共通認識にならなかったと言えるだろう。日本が、日本人の犠牲を中心においた戦争記憶だけでなく、「他社の犠牲」に思いをはせるような、反支配、反帝国の思想を新たに表明することができたら、その世界史的な意義は大きいはずだ。過去において帝国主義的な侵略を行ったのは日本だけではない。しかし西洋発の帝国主義に参加してしまった日本が反帝国の旗を掲げるのは、西洋発の思想によって傷つけられたアジアが、初めて西洋を乗り越えることになり得る。支配思想ではなく、共存思想をアジアが示す意義もある。}(朴裕河:「帝国の慰安婦」,P313)

(6) まとめ

韓国との間で慰安婦問題が30年もの長きに渡って続いているのは、植民地問題が関係しているからにほかならない。朴氏が指摘するように、日本人には反戦意識はあっても反植民地意識はほとんどないと言ってよいだろう。そうした意識を持つことは大切だと思うが、それとともに、日韓双方の国民の間にある不信感を取り除く努力が重要である。現時点で仮に日本政府が真摯な謝罪をしたとしても、それで韓国は納得するのか、という不信感を持っているのは一部の日本人だけではないだろう。

韓国には華夷主義的発想にもとづく対日優越感があって、それが一連の問題において徹底的に日本を跪かせないと気が済まない、という感情を生み出している、と多くの日本人は感じているし、韓国人からみれば同様の優越意識を日本人は持っていると感じているだろう。こうした意識改善は、短期間でできるものではなく、双方で地道な活動を根気よく続けるしかないのではないだろうか。


3.9節の註釈

註39-1 冊封体制

称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗主国と朝貢国の関係)を伴う外交関係の一種。「天子」は中国の歴代王朝の君主たちが自任した。(Wikipedia:「冊封体制」)

註39-2 江華島事件

漢城(現ソウル)の北西岸、漢江の河口にある江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件。 (Wikipedia:「江華島事件」)

註39-3 甲午農民戦争

1894年(甲午の年)に朝鮮南部で起こった農民反乱。圧政に苦しむ農民の間に広まった民衆宗教(東学)は1890年代には活動を公然化させるが、全羅道古阜で全琫準(ぜんほうじゅん)に率いられた農民たちが同年2月郡庁を襲撃し、5月以降全羅道一帯に及ぶ蜂起に発展,閔(びん)氏政権の打倒と日本人の駆逐をかかげて各地を転戦した。出兵した日本軍が7月には日清戦争を起こし、全琫準は農民軍数万を率いて政府と日本の連合軍と対峙したが,12月の公州攻防戦で敗れた。従来は「東学党の乱」と呼ばれたが、民衆の反侵略・反封建闘争の先駆と位置づけられる。(コトバンク<百科事典マイペディア>:「甲午農民戦争」)

註39-4 韓国併合条約の有効性

明治大学教授で近代日朝関係史が専門の海野福寿氏は、併合条約(1910年)の起点になった第2次日韓協約(1905年)の締結に際して、武力的威迫、脅迫的言辞、不法行為などがあったことは間違いなく、こうした行為のもとで締結された条約は無効だという。しかし、不法だとすれば1905年~1945年までの41年間の日本の朝鮮支配は植民地支配ではなく、単なる軍事占領ということになるが、それでは日本の朝鮮支配の実態を説明しきれない。たとえば、当時、日本と韓国は交戦状態にはなく軍事占領とは言えない、朝鮮総督府が行使した権限を韓国主権の一時的代行とみるのは困難、列強による国際的承認を得ていた、などである。(海野福寿:「日韓協約と韓国併合」,P6-P9) 2001年に行われた「韓国併合再検討国際会議」(註38-7) に出席のおり、海野氏は「不当だが合法」論を主張している。

海野氏によれば、韓国併合と似たような形で併合が成立したのがハワイだという。

{ 韓国併合条約は、… 韓国皇帝が統治権委譲を申し出、それを天皇が受諾し併合する、という「合意」の形式が整えられている。世界史上、近代国家が併合を願い出ることはまれであろう。類例のひとつはハワイである。ハワイ先住民による近代国家はハワイ王国である。その後、進出した白人農業資本家たちが、アメリカへの併合論を唱えるようになり、1893年クーデターを起こし王朝を転覆させた上で、アメリカ政府に併合の要望を出す。アメリカはいったん拒絶するが、1897年に併合する。韓国併合のわずか13年前である。(同上,P377-P378<要約>)