日本の歴史認識慰安婦問題第3章 主な論点 / 3.4 慰安婦数

3.4 慰安婦数

慰安婦が何人いたかを示す史料はないので、各研究者がさまざまな方法で推計しており、2万人から40万人まで諸説ある。ここではそれらを紹介し、代表的な説を評価する。

図表3.4 慰安婦数の推計

慰安婦数

(1) 慰安婦数に関する諸説

図表3.5は、秦郁彦氏が調査した慰安婦数に関する主な説の一覧である。

 図表3.5 慰安婦数の諸説

慰安婦数の諸説

出典)秦「戦場の性」P405[表12-13]より抜粋

最も少ない説は秦氏の2万人前後、最も多いので40万人という説もあるが、日本の研究者で最も多いのは吉見義明氏の最大20万人である。
推計方法は、日本軍の兵力数と慰安婦の適正比率から算出する方法が主流だが、満州や中国の公娼の領事館統計を利用したり、林博史氏のように衛生サックの配給数から推計したりする方法もある。

(2) 秦氏の推計

秦氏は、当初、母数となる日本軍の兵力を300万人、兵士50人に慰安婦1人の割合で計算して6万人、慰安婦の交代率を1.5として9万人、と算出していた。

「戦場の性」では兵力が最大の300万人になった時期以降、南方は全軍敗退期に入って慰安所に通う余裕はなかったことから、兵力の母数は250万人、交代率も中国と満州の兵力にのみ適用、慰安婦1人当たりの兵士数も平時の公娼統計を参考にして150人に変更した。その結果、250万人÷150=1.67万人、満州中国での交代を考慮に入れても、狭義の慰安婦は多めに見ても2万人前後であろう。広義をとっても2万数千人というところか、と述べている。狭義とは、軍人専門の慰安所であり、広義とは軍民共用の慰安所の軍人相当分を含むものである。(秦:「戦場の性」,P405-P406)

(3) 吉見氏の推計

吉見氏は兵力の平均を300万とし、兵士100人に慰安婦1人、交代率を1.5として下限を求めると4.5万になる。これに東南アジアの私設慰安所のような小部隊が自前で調達した慰安婦を含めて、下限を5万としている。

上限として、当時兵士29人に慰安婦1人が適正値だと言われていたので、30人に1人、交代率を2とすると20万人が上限となる。しかし、占領地では軍による拉致や監禁輪姦、短期間の徴集が多く、こうした被害者を慰安婦数に参入すれば、占領地の女性の交代率は何倍にもなることになる。(吉見:「従軍慰安婦」,P78-P80)

慰安婦数20万人(交代率2.0)はある瞬間10万人の慰安婦がいたことを示す。慰安婦1人が1日4人を相手すると日に40万人が慰安所に行くことになるので、7.5日あれば300万人すべてが慰安所に行くことになる。つまり、300万人全員がほぼ週に1回、慰安所に通い、兵士の収入の半分かそれ近くを慰安所に払うことになってしまうのである。いくら戦時中と言ってもそこまで日本軍兵士が女好きだとは思えない。

※吉見氏は「平均」と言っているが、ただしくは最大値である。

(4) 秦・吉見氏の推計の評価

日本軍の兵力

日本軍の兵力を示す史料はいくつかあるようだが、史料によって数字が微妙に異なっている。図表3.6は筆者が探し出した大江志乃夫の史料と秦氏が利用した史料の数字をマージしたものである。

図表3.6 日本軍の兵力 (単位:万人)

日本軍の兵力

出典)陸軍兵力は、大江志乃夫「支那事変・大東亜戦争間動員概史」,P243 による。
海軍兵力は、吉田裕「アジア・太平洋戦争」,P99による。
"秦氏"の列は、秦「戦場の性」,P401による。
"補正"の列、及び"秦氏"の列の1942,1943,1944年の海軍兵力は筆者が設定。

※1 内地には、朝鮮、台湾を含む。

※2 慰安婦数算出用に利用する兵力で、陸軍の外地合計と海軍兵力を足したもの。

慰安婦数算出のもとになる陸軍の外地兵力と海軍の兵力が300万人を超えるのは1944年になってからだが、秦氏が指摘するようにこの頃になると太平洋の各地で激戦が繰り広げられ、兵士たちも戦闘に明け暮れるような日々が多くなっただろうし、日本や朝鮮から慰安婦を運ぶことは困難になっている。南方とその他(太平洋島々などか?)の半分近くがそのような状態になったとすれば、250万とすべきなのかもしれない。ただ、このころから本土決戦にそなえて内地の兵力が増強され、沖縄など日本国内や朝鮮・台湾にも慰安所が設置されるようになってきているので、それを考慮すれば、母数を300万とするのもアリだろう。なお、ここでいう"母数"とは吉見氏のいうような"平均値"ではなく、最大値をもとに設定した数字である。

慰安婦1人当たりの兵士数

秦氏は最初、兵士50人に慰安婦1人で見積もっているが、以下はそのときのものである。

{ 時期により場所によりバラツキがあるが、兵隊29人に女1人を意味する「ニクイチ」という「適正比率」が一部に流通していたこと、1943年の漢口地区における実比率が150人に1人だったこと、1938年の揚州慰安所での実比率が50人に1人だったこと、ビルマ戦線で現地人を入れてやはり50人に1人だった点から、50人で1人で計算して6万、女が1.5交代したとして9万となる。}(秦郁彦:「昭和史の謎を追う(下)」,P487)

"ニクイチ"は、休日など慰安所が忙しいときに兵士が待ち時間なく遊べるための基準値ではなかろうか。繁閑の差が大きい慰安所で、そこまで慰安婦を用意したら経営は成り立たないだろう。

慰安婦数を、兵士の月当り利用回数と慰安婦の1日当り平均客数で評価すると((5)参照)、50人という数字は現実的でないと思われる。

交代率

交代率1.5とは、母数とした慰安婦数の50%が新しい慰安婦に交代したことを意味する。交代率は、慰安婦が前借金を返済し終わるなどして慰安婦を廃業し、それを新しい慰安婦が穴埋めする比率を意味するもので、交代率≒廃業率になる。随時発生する廃業をまとめていくら、と推計しているのだが、それを年単位に分割してみたらどうなるか、秦説(交代率1.5)と吉見説(交代率2.0)のそれぞれについて、シミュレーションしてみた。秦氏は中国・満州の慰安婦のみ交代対象にしているのでその分だけを計算した。

図表3.7 慰安婦の交代率の評価

慰安婦の交代率の評価

秦説では、年平均廃業率 ―― 1年間に慰安婦が廃業する割合=新しい慰安婦に交代する割合 ―― は、7%くらいになる。つまり、1年間で100人のうち7人が廃業し新しい人に変ることになるのだが、この比率は低いのではないだろうか。まとめて1.5倍もすると大きな数字になるように見えるが、1938年から1945年までの8年間にもなれば、小さな数字も意外と大きくなる。ちょうど住宅ローンの利子が小さく見えても返済額トータルは思ったより大きくなるように。

吉見説で交代率を2.0とすると、年平均の廃業率は21%くらいで、1年に10人中2人が交代することになるが、交代が少なかったとみられる南方方面を含めると高いようにも思える。

交代率を評価する基準となる情報 ―― 例えば廃業した慰安婦の数とか平均勤続年数など ―― がないので評価しにくいが、中国・満州だけで1.5は少なく、南方を含めて2.0は高すぎるようにみえる。

(5) 筆者の慰安婦数評価

兵士及び慰安所の経済的な面から慰安婦数を推定してみる。図表3.8は、兵士の利用回数(1か月)と慰安婦の負荷(1日当りの平均客数)から、必要な慰安婦数を試算したものである。この表では、兵士総数を300万人、1カ月は30日として計算している。例えば、兵士の月当り平均利用回数が1回のとき、慰安婦が1日に相手する客が2人であれば、必要な慰安婦は5万人になる。〔(1回×300万人)÷30日÷2人=5万人〕

秦氏は、南方の兵士は戦闘が忙しくて慰安所どころではない、との理由から兵力総数を250万に減らしているが、ここでは減らさない。この時期になると沖縄をはじめ本土各地や朝鮮、台湾でも慰安所が設置されるようになってきているので、その増加分が南方分を補うと考えたからである。

図表3.8 慰安婦の負荷と兵士の利用回数

慰安婦の負荷と兵士の利用回数

兵士の月給は二等兵~上等兵で10円強から20円強、それに対して慰安所の料金は1回1.5~2円程度である。兵士にも慰安所が好きでしょっちゅう通う人もいればまったく行かない人もいる。"2-2-6の法則" 註34-1と呼ばれる法則を適用すると、よく行く人が2割、ときどき行く人が6割、まったく行かない人が2割になる。平均1回であればよく行く人たちは月平均2回行くことになり、平均2回であれば2割の人たちは4回/月、つまり毎週慰安所に通うことになるが、この人たちは給料の半分かそれに近いお金を慰安所につぎこむことになってしまう。ここでは、平均回数の上限を1.4回と定め、下限を1から同じ幅をひいた0.6とした。

一方、慰安婦の側からみると一般の公娼で慰安婦が一日に相手する客数は2~3人註34-2なので、ハイリスク・ハイリターンの戦地では慰安婦も慰安所経営者もそれ以上を期待するだろうから、最低ラインを4人とした。

表中の薄紫色で塗った部分がその条件を満足した範囲である。これから兵士数300万人に対応する慰安婦数は1万人~3.5万人となる。兵士90人から300人に慰安婦1人である。

次に交代率は、吉見氏が使っている1.5~2.0に対して、1.5~1.8としたい。下限は秦氏のように南方の慰安婦分を除外せずに1.5そのままとし、上限は南方の慰安婦分を除外して1.8とする。交代率を掛けると下限は1万人×1.5=1.5万人、上限は3.5万人×1.8=6.3万人となる。これが慰安婦数の限界範囲であろう。

(6) 民族別比率

秦説

秦氏は、慰安婦の民族別比率が示されている慰安所の記録や証言、満州と中国における接客女性に関する外務省領事館統計(1938年/1940年)などから、次のように推定する。

{ 民族別比率は筆頭が日本人(沖縄含む)で、現地人(中国人、満州人、フィリピン人など)がそれに次ぎ、朝鮮人は第3位と推定したい。他に台湾人、オランダ人などのカテゴリもあるので、あえて比率を概数で示すと4-3-2-1(内地人-現地人-朝鮮人-その他)となろう。}(秦:「戦場の性」,P410)

図表3.9は秦氏が推定の根拠とした慰安所などの民族別構成の表をサマライズしたものである。中国は日本人が多く、東南アジアは現地人が多くなっている。

 図表3.9 慰安婦の民族別構成の例

慰安婦の民族別構成の例

出典)秦「戦場の性」,P407〔表12-14〕をサマライズ

吉見説

吉見氏は性病感染源の女性の民族比などを提示しているが、現地人が多い、というだけで具体的な比率は示してない。

{ 大本営陸軍部研究班「支那事変に於ける軍規風紀の見地より観察せる性病に就て」は、1940年までに性病にかかった中国出征陸軍軍人は14,755人であるとし、性病感染時の「相手女」としてつぎのような数字をあげている。すなわち、朝鮮女4,381人(51.8%)、支那女3,050人(36.0%),日本女1,031人(12.2%)である。「相手女」のすべてが慰安婦というわけではないが、大多数が慰安婦であったとみていいだろう。…
つぎのような統計もある。…43年2月に南京にいた敦賀第15師団軍医部が検診した慰安婦数は、日本人272人、朝鮮人48人、中国人261人… 中国人慰安婦の数は考えられている以上に多いのかもしれない。
東南アジア・太平洋地域では、輸送が困難であったこともあって、地元の慰安婦の割合がよりいっそう高くなったものと思われる。}(吉見:「従軍慰安婦」,P82-P84)

吉見氏が指摘するように民族別比率で最も多かったのは中国人を含む現地人(オランダ人などを含む)だったかもしれない。


3.4節の註釈

註34-1 2-2-6の法則

組織内には2割の優秀な人、6割の普通の人、2割のイマイチの人がいる、といわれる法則。慰安所によく通う人、時々行く人、まったく行かない人の割合を調べたわけではないけど、まぁこんな比率ではないでしょうか。

註34-2 公娼の一日あたり客数

{ 内務省統計では、遊客約3千万人に娼妓3.5万人(1940年)と記録されているから、平時の内地遊郭では一人が一日平均2~3人を迎えていた計算になる。(秦:「戦場の性」,P391)