日本の歴史認識慰安婦問題第3章 主な論点 / 3.2 強制連行はあった?

3.2 強制連行はあった?

図表3.1 強制連行はあった?

強制連行はあった?

(1) 吉田清治証言

吉田氏の著書「私の戦争犯罪…朝鮮人強制連行」(三一書房、1983年)には、吉田氏が韓国の済州島から慰安婦を強制連行する模様がつぎのように描かれているという。

{ 吉田が … 9人の部下をつれて済州港に上陸したのは1943年5月18日だという。… 上陸してから1週間、10人の武装した兵隊と憲兵に護衛されて、吉田の徴発隊は島を縦横にかけめぐり、泣き叫ぶ若い朝鮮人女性を狩りたて、片はしからトラックに積み込んだ。役得としてトラック上で強姦する兵もいた。

 帽子工場の女工から8人、貝ボタン工場で16人、乾魚工場から27人、ソーセージ製造所から50人、西帰浦の海女を50人というぐあいに、計205人を連行するナマナマしい情景が活写されているが、ここでは城山浦の貝ボタン工場での連行ぶりを抜き出しておこう。

「… 隊員たちがすばやく工場内の2か所の出入り口を固め、木剣の先を突きつけて、女工たちを起立させた。「体格の大きな娘でないと勤まらんぞ」と山田が大声で言うと、隊員たちは笑い声をあげて、端の女工から順番に、顔とからだつきを見つめて、慰安婦向きの娘を選びはじめた。若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がおびえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は…台を回って行って娘の腕をつかんで引きずり出した…女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。… 」}(秦郁彦:「昭和史の謎を追う(下)」,P474-P476)

(2) 秦郁彦氏の現地調査

この話に疑問を持った秦郁彦氏は、1992年3月、吉田清治氏に電話で問い合わせたが埒が明かず、その足で済州島に飛んだ。上記の城山浦の近くの老人クラブで貝ボタン工場の元組合員など5人の老人と話したが、そのような事実はないことを確認した。また、「済州新聞」の記者が現地住民に取材したがそのような事実は確認されなかったという記事が1989年の同紙に掲載されていたことも知った。(秦:「戦場の性」(P230-P233)

秦氏の調査結果はサンケイ新聞などで報道され、朝日新聞はじめ報道各社は吉田証言を取り上げることを控えるようになった。吉田自身も1996年には内容の一部に創作があることを認め、1997年3月朝日新聞は「吉田証言の真偽は確認できない」との記事を出したが、吉田証言が誤りだったと公式に認めるのは2014年9月まで待たねばならなかった。

(3) 国家補償派の主張

吉見義明氏は、吉田清治が証言したような「奴隷狩りのような連行」だけが強制連行ではなく、前借金でしばるケース、だまして連れて行くケース、誘拐や拉致、総督府が集める人数を割り当てる場合、なども広い意味での強制連行にあたる、と主張する。

{ 強制連行とは本人の意志に反してつれていくことである。このように広い意味での強制連行には、①前借金でしばってつれていくことや、②看護の仕事だ、… とかいってだましてつれていくことや、③誘拐・拉致などもふくまれる。②のだましてつれていくケースを強制連行にふくめるのは、慰安所についたとき、むりやり慰安婦にされるからである。… 業者がやった場合でも、元締めとなる業者は軍が選定し、女性たちを集めさせているのだから、当然軍の責任になる。…

 また、総督府が集める人数を上から割り当てていったとしたら、事実上の強制(半強制)になる。このようなケースがあったかどうか、より正確に実証していかなければならない …

 「官憲による奴隷狩りのような連行」が朝鮮・台湾であったことは、確認されていない。… しかし、「官憲による奴隷狩りのような連行」が占領地である中国や東南アジア・太平洋地域の占領地であったことは、はっきりしている。}(吉見・川田:「"従軍慰安婦"をめぐる30のウソと真実」,P22-P24<要約>)

(4) 否定派(秦郁彦氏)の主張

秦氏は、まず、中国や東南アジアで「官憲による奴隷狩りのような連行があった」という吉見氏の主張に対して、次のように述べている。

占領地における強制連行

{ たしかに占領地で吉見の言うような連行、拉致事件が少なからず報告されている。だが、ウラのとれぬ申立てが多く、事実だとしても少数グループによる性犯罪、すなわち強姦事件のカテゴリーに入るものがほとんどだと思われる。悪質な事件は日本軍憲兵隊自身の手で摘発されるか、終戦直後のBC級裁判で処罰されている。BC級裁判の過程で、この種の性犯罪が日本軍上級司令部の指令や黙認下に起きたとする記録は見当たらない。}(秦:「戦場の性」,P377<要約>)

2.4.4項に記したように占領地には「私設慰安所」のようなものがあり、そこでは現地の女性を拉致して慰安婦として使うことがあったが、全貌はわかっていない。

しかるべきレベル以上の地位にある者に認定された慰安所だけを"狭義の"慰安婦システムと定義すれば、これらは強姦事件のカテゴリーに入るだろうが、世界で問題にされている"広義の"慰安婦システムにはこうした性暴力も含まれると考えるべきだろう。「このような事例は慰安婦システムではないので、日本政府の謝罪や賠償の責任外」などと主張できる状態でないことは秦氏も承知しているはずだ。

秦氏は「学術的レベルでは、強制連行はなかった」とする視点が浸透しつつある」と前置きした上で、吉見氏らは次の4つの論理を展開している、と言う。

a)未発見の証拠文書に期待

{ 吉見氏が指摘する朝鮮総督府の例では、総督府が関与したことを示す文書が発見される可能性があるという。しかし、中央で数千人単位の女性動員を決定したならば末端へ流れる過程で膨大な関連史料が作成されているはずだが、慰安婦問題が爆発してから7年以上も経過したのにこの種の資料がみつからないのは、最初からなかったと考えるのが常識だろう。しかし、存在しないことを証明するのは至難だから、この論拠は半永久的に使えるかもしれない。}(秦:「戦場の性」,P378<要約>)

秦氏が指摘してから20年たっても吉見氏が期待するような資料は発見されていない。吉見氏が主張するようなかたちで総督府が関与した可能性は極めて低い、といえるだろう。

b)監督責任を問う、c)「強制連行」の定義を拡大

{ b)では、前借金で娘を売った親や業者、女衒などの一次責任が問題になる。吉見は「業者がやった場合でも、その業者は軍が選定しているのだから軍の責任になる」と監督責任論を展開するが、勢い余って「慰安所経営など汚い仕事をする朝鮮人の多くは植民地支配のもとで生活の基盤や故郷を奪われていた」からとなると次のc)に入れるべき。吉見の拡張した定義では「本人の意志に反してつれていくこと」だとして、借金でしばったり、だまして連れて行くことも強制連行に含めているが、この論理を適用すると、霊感商法やねずみ講のたぐいまで国は被害者への補償責任を負うことになってしまう。}(秦:「戦場の性」,P378-P379<要約>)

b)とC)がごっちゃになっているが、借金でしばるにしろ、だますにしろ、本人が知らないところで慰安婦にさせられた、という意味で「強制」ではないかもしれないが、「強制的」であることは間違いない。それらの一次責任は秦氏が指摘するように親や家族、業者などにあるが、その当時から数十年も経過しており、被告を特定し証拠を示して有罪を勝ち取ることは不可能だろう。また、家族に一次責任がある場合は国の責任は問えないし、業者に責任があった場合でも、国がそうした徴募方法を指示していたか、業者がそのような方法で徴募していることを知っていて黙認したことを、証明することができなければ国の法的責任を問うことは困難であろう。ただ、慰安婦システムは「霊感商法」や「ねずみ講」とちがい、軍が軍のために企画し、業者に委託して実施したシステムであるから、軍の道義的責任は免れない。さらに、だまして連れて行くことは、「婦人児童の売買禁止条約」と言う国際法で禁止されている行為である。(3.7節(1)参照)

※広辞苑によれば、「強制」とは「威力・権力で人の自由意思をおさえつけ、無理にさせること」となっており、「だまし」は「強制」ではない。「だまし」などを含めて「強制的」とするのが妥当ではないかと思う。

朴裕河氏は次のように述べる。

{ "慰安婦"を必要としたのは間違いなく日本という国家だった。しかし、そのような需要に応えて、女たちを誘拐や甘言などの手段までをも使って"連れていった"のはほとんどの場合、中間業者だった。… そういう意味では、慰安婦たちを連れていったことの法的責任は、直接には業者たちに問われるべきである。それもあきらかな"だまし"や誘拐の場合に限る。需要を生み出した日本という国家の行為は、批判はできても"法的責任"を問うのは難しいことになるのである。}(朴裕河:「帝国の慰安婦」,P46)

d)挙証責任の転換

{ 主として上野千鶴子のようなフェミニストたちによって主張されている。セクハラ裁判を援用しつつ、「訴追された加害者が反証する責任を負うように論理を組み替えるべき」という。}(秦:「戦場の性」,P379<要約>)

セクハラを訴追された加害者が無罪を証明できなければ有罪、という論理のようだが、こんなことをしたら「気に食わない奴はセクハラで訴えてやろう」となってしまう。

(5) 否定派(小林よしのり氏)の主張

小林よしのり氏は次のようなかなり乱暴な解釈をする。

{ 吉見氏の言うように「本人の意志に反した場合はすべて"広義の強制"だ」とすると、ソープランドで働いている人でも、本人がたった一言、「本当はこんな仕事したくはなかった」と言いさえすれば"広義の強制"が成り立つ。}(小林よしのり:「慰安婦」,P115<SAPIO 1997年5月28日号から転載>)

吉見氏は「本人の意志に反した場合」という言葉を使っているが、その意味は「慰安婦になることを自ら判断して決めたのでなく、それがわかったときは従わざるを得なかった」という状態を言っているのは明確である。対して、ソープランド嬢の例は「娼婦になれと言われて、しかたなくなったが、なりたくてなったわけではない」、つまり前者は本人が判断する機会をまったく与えられていないのに対して、後者はいやいやにしろ本人が判断している。この差は非常に大きい。大人であれば誰でも、嫌なことをやらざるを得ない時があることはみんなわかっている。このように言葉尻をとらえて主旨を捻じ曲げ、単純化してしまうのは暴言といってよいが、残念ながら、こうしたやり方を歓迎する人たちがいるのも事実である。

(6) 挺身隊との混同

吉見氏はこの問題については軽く触れている。

{ 1943年以降、朝鮮人の戦争への動員は激増した。43年度の労務動員数は総督府斡旋だけでも13万人余、1944年度にはさらに増え40万人余その他に100万人が必要とみられていた。徴兵制も施行され、労働者の不足は激しくなった。そこで1944年、総督府は「女子遊休労力の積極的活用」という名目で、女性の動員を行なうこととし、新規学校卒業者と満14歳以上の未婚者の全面的動員体制を確立しようとした。このような中でつぎのような状況が出現した。

勤労報国隊の出動をも斉しく徴用なりとなし、一般労務募集に対しても忌避逃走し、或いは不正暴行の挙に出ずるものあるのみならず、未婚女子の徴用は必至にして、中には此等を慰安婦となすが如き荒唐無稽なる流言巷間に伝わり、此等悪質なる流言と相俟って、労務事情は今後ますます困難に赴くものと予想せらる。(内務大臣請議「朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正の件」1944年6月27日)

14歳以上の未婚の女性はすべて動員されるだけでなく、慰安婦にされるという噂が、44年中に深く広がっていたことがわかる。… この噂は、若い女性たちをパニックに陥れた。経済的に余裕のある家庭では、娘を女学校から退学させて田舎に隠したり、いそいで結婚させたりした。}(吉見:「従軍慰安婦」,P100-P101)

このあとのことは秦氏の文献から引用する。

{ 挺身隊と慰安婦を混同する当時の風説は戦後も継承され、元挺身隊員は慰安婦とまちがえられるのを恐れて名乗りたがらぬ傾向がつづいた。… 90年秋に結成された挺対協でも、この混同問題はあらためて論議された。山下英愛(日韓混血の梨花女子大学院生)は次のように書く。

当初は慰安婦のみを念頭においていたのが事実である。ところが次第に挺身隊の中には慰安婦ではなく、勤労挺身隊だった者もいたことがわかった。…
挺身隊協議会はいまもこの議論を続けているが、大勢としては歴史的事実として慰安婦も勤労挺身隊も存在し、かつ今日までどちらも挺身隊という名のもとで闇に埋もれてきた関係上、両方視野に入れて取り組むべきであるという意見が強い。

復活した戦後の風説は、論拠のはっきりしない「ソウル新聞」の記事を「引用」した千田夏光の著述(1973「従軍慰安婦」)が起源らしく、子引き、孫引きされていったもののようだ。}(秦:「戦場の性」,P372-P373<要約>)

(7) まとめ

吉見氏らは当初から挺身隊による連行はない、と主張しており、日本政府の責任を追及するためにまず取り上げたのは慰安婦の強制連行だった。秦氏も、{ 現在の法常識では、時効の問題を抜きにしても日本国が金銭的補償義務を負うのは、元慰安婦たちが「官憲の組織的強制連行」によってリクルートされた場合に限られる。}(秦:「戦場の性」,P377) という。

その後、「官憲による組織的な強制連行を裏づける史料はみつかってない」、というのが吉見氏らを含む研究者の間での共通認識になったようだが、{ 日本の左翼人権派はこの20数年、慰安婦問題の核心を強制連行→広義の強制性→性奴隷→女性の人権――の順にすり替えてきた。}(秦:「慰安婦問題の決算」,P71) と国家補償派を揶揄する。そして、藤岡信勝氏ら否定派本流は今でも慰安婦問題が存在しない最大の理由に「強制連行はなかった」をあげるのである。

確かに、日本軍が企画・運営した「慰安婦システム」において、慰安婦を官憲が組織的に強制連行した、という史料はみつかっていない。おそらくそうした事実はなかっただろう。しかし、慰安婦システムの周辺で日本軍兵士が占領地の女性を拉致して慰安所のような場所で輪姦したり、慰安婦システムにおいて慰安婦をリクルートする際、業者や家族らによって(本人からみれば)強制的に慰安婦にさせられた女性たちがいたことも事実なのである。

つまり、単に「強制連行はなかった」というのは誤りで、正しくは「官憲による組織的な強制連行はなかった」である。より正確にはその後に続けて、「一部に小グループによる強制連行や業者が不法な方法で連行したこともあった」と言うべきである。

論争当初、国の法的責任と関連する強制連行の有無は最大の論点であった。しかし、アメリカをはじめとして世界の世論は、人道的問題として日本軍が大規模な売春システムを抱えていたことこそが、最大の問題だと考えており、強制連行の有無の重要性は薄れている。