日本の歴史認識慰安婦問題第2章 慰安婦システム / 2.6 慰安婦の帰還 / 2.6.2 帰還の様子

2.6.2 帰還の様子

ここでは、慰安婦たちの証言から故国に帰ったときの様子をうかがってみる。

図表2.15(再掲) 慰安婦の帰還

慰安婦の帰還

(1) 中国・満州からの帰還

終戦後中国から船で帰還(河順女)

まずは比較的楽に帰還できた例である。

{ 日本が敗戦すると経営者たちは先に逃げ出してお金は一円ももらえませんでした。店で飯炊きをしていた中国人の家でしばらく食べさせてもらいました。その中国人から朝鮮へ行く船が入港したと教えられました。お金がないのに乗れるかどうか心配でしたが、その中国人が一緒に来て船の人に話をつけてくれたので船に乗って上海から釜山に帰りました。}(挺対協:「証言」,P93-P94<要約>)

終戦後中国から汽車で帰還(呉五穆)

同じ中国からでも危険な目に遭った人もいる。

{ 解放後、汽車に乗って故郷に向かいました。帰る途中、列車事故でたくさんの人が亡くなったのですが、私たちは無事に戻ってくることができました。新義州(北朝鮮の中国国境)で旅館に入ったとき、ロシアの軍人たちが女を探しに来て、恐ろしくて行李のなかに隠れて一晩過ごしました。}(同上,P99-P100<要約>)

終戦後満州から帰還(文必琪)

満州から帰るのはソ連兵の強姦をさけながらの帰還になった。

{ 終戦を迎え、突然、軍人たちの姿が消え慰安所に来なくなりましたが、ある日ソ連軍が慰安所に来て銃を向け、私たちの服を脱がせようとしました。そのとき私たちを管理していた朝鮮人男性が荷物を棄てて逃げよう、と言って彼の家族ともう一人の慰安婦4人で顔を真っ黒に塗りたくって逃げ出しました。幌もない貨車に乗って鴨緑江に行き、そこから歩いてソウルに帰りました。}(同上,P127-P128<要約>)

終戦の前に帰国した日本人慰安婦(黒須カナ)

昭和16年、大隊長から「墓参りに帰っておいで」と言われて日本に帰る途中でアヘンの中毒症状がでてしまい、帰国後入院して治療することになった。

{ 北京で駅弁を買って食べたらまもなく激しい悪寒に襲われた。それを見ていたある男(女衒)が歩み寄ってきて介抱してくれ、下関まで連れて行ってくれた。その間、断続的に痙攣がおき、幻視、幻聴に悩まされたが男は彼女を背負って下関にたどりつき、病院にかつぎこんでくれたらしい。そこで約1ケ月過し、さらに郷里に戻って1年ほど療養生活を送った。}(金一勉:「軍隊慰安婦」,P182-P183)

(2) 南方からの帰還

西太平洋は1943年の秋くらいから、米軍の攻撃が激しくなり、1944年になると撃沈される船が増えていった。1944年7月にはサイパン島玉砕、同年10月米軍がフィリピン・レイテ島に上陸、1945年3月マニラ陥落、1945年5月ビルマのラングーンが陥落している。インドネシアは1945年の終戦後にオランダに引き渡されている。

トラック島から1943年12月に帰還(菊丸)

{ はじめは輸送船2隻に分乗していたけど、途中で片方がやられてそちらに乗ってた人たちが入ってきてからは船底にすし詰め。それでも横須賀について日の丸のついた飛行機が飛んでいるを見たときはうれしかったわ。}(広田和子:「従軍慰安婦。看護婦」,P77-P78)

ラバウルから1944年1月に帰還(朴順愛)

{ ラバウルを出るときの船はとても大きな船でしたが、乗船して1週間くらいたった頃、船が魚雷にやられて沈没、気がついてみたら海の中で板切れにつかまっていました。救命要請用の白い旗がなかったので仕方なくはいていた下着をぬいで信号にしました。するとボートが近づいてきて助けてくれました。8~9時間海に漂ったあと、軍艦がひきあげてくれ、ラバウルに戻りました。戻ってから日増しに爆撃は激しくなりましたが、しばらくしてラバウルを出ることができました。2回目のときも船は壊れましたが、パラオに行って1週間ほど滞在し、再び船に乗って下関に着いたのは1944年の正月でした。}(挺対協:「証言」,P264-P266)

終戦後、ビルマの密林を脱出して帰還(金台善)

以下は、北ビルマのミッチナでアメリカ軍の捕虜になった慰安所経営者(日本人)が、尋問に回答したもので、アメリカ軍の報告書(1944年11月30日付)からの抜粋である。

{ (1944年)7月31日の真夜中、ミッチナにある3つの慰安所の慰安婦63名と、慰安所経営者、使用人その他の一行が避難を開始した。慰安婦たちは私服の上に濃緑色の軍服をまとっていた。一行は10隻の小型船に乗ってイラワジ川を渡った。… 一行はワインマウの北方で上陸し、8月4日ごろまでそこの密林にとどまっていた。その後、彼らは退却する兵士のあとを追ってノロノロと歩き始めた。8月7日、一行は小規模な戦闘に巻き込まれ、混乱のうちにばらばらになってしまった。… 証言者の一行は放棄された先住民家屋で雨露をしのぎ、2日間そこにとどまった。… 8月10日、その家屋は英国人将校に指揮される大勢のカチン族に取り囲まれ、彼らは捕えられた。途中4名が移動途中で死亡、2名が日本兵と間違えられて射殺された。}(吉見義明:「従軍慰安婦資料集」,P463-P464<資料100><要約>)

秦氏は次のように述べている。

{ 1944年秋から45年春にかけて、ビルマの日本軍が総崩れになると、慰安婦たちの苦難はさらに厳しさを増す。インパール作戦に敗れ、「白骨街道」を退却していた中島軍医は、「ぼろぼろの兵隊服をまとい、頭は丸坊主」の一団が杖にすがって下って来るのに出会う。… 傷病兵と慰安婦(80人)が大発輸送でモールメンへ先行脱出したのは例外的な幸運で、タイへ向かう山中を物乞い同然の姿でさまよったり、軍票をつめこんだリュックぐるみシッタン河の濁流へ流された哀話が伝わっている。}(秦:「戦場の性」,P126)

(3) フィリピンからの帰還

ビルマ以上に厳しい帰還となったのがフィリピンである。

{ 1945年2月のマニラ陥落に先だって彼女たちの多くは在留邦人と後先になりつつルソン北部の山岳地帯へ移動した。そのさいフィリピン人慰安婦は解放して各自の判断に任せたようだ。… 5月19日、朝鮮人慰安婦の一群がルソン島東岸のディンガラン湾で米軍に捕らえられた。第一次尋問調書は次のように彼女たちの経歴を要約している。
「全員が弱っており、10日間、草以外は何も食べていない。… 女性たちの家庭はいずれもきわめて貧しく、少しでも家族の負担を減らし、いくらかのお金を稼ぐため朝鮮のゲイシャ・ハウスに売られた。… 彼女たちをふくむ10人はクラーク飛行場の近くで谷口という男が経営する慰安所に入り、10月南サンフェルナンドへ。45年1月10日、山中へ後退する途中、鈴木大佐の部隊と同行、行軍中に一人が死亡、病気の二人は置き去りにされた。5人は3週間前に部隊と別れ、自活することにした。5月18日、海岸で米軍の舟艇を見かけ、手を振って投降した」
ミンダナオ島などの戦況はルソン島以上に悲惨で、100人以上いた慰安婦(現地人慰安婦が最多)の多くは米軍の掃討に追われて日本軍や在留邦人とともに山中を逃げまどった。邦人の女性たちは頭を丸坊主にしていたが、それは日本兵のレイプから免れるためだった。}(秦:「戦場の性」,P128-P132)

秦氏はこのあと、大岡昇平の俘虜記から引用しているが、それは次のようなものである。

{ 部隊と行動を共にした従軍看護婦が、兵隊たちを慰安した。一人の将校に独占されていた婦長が、進んでいい出したのだそうである。彼女達は職業的慰安婦ほどひどい条件ではないが、一日に一人ずつ兵を相手にすることを強制された。山中の士気の維持が口実であった。応じなければ食糧が与えられないのである。}(大岡昇平:「俘虜記」,P446)

{ 沖縄戦でも、住民がもっとも恐怖したのは、米軍の砲爆撃よりも日本兵の乱暴だった、と言い伝えられているのと似た戦争末期の「狂気」現象といえよう。}(秦:「戦場の性」,P133)

(4) 帰還できなかった慰安婦たち

元陸軍パイロットの富永泰史氏は、戦後14年ぶりにマニラの日本料理店で会った女性は、直感では元朝鮮人慰安婦に間違いない、と述べている。(千田夏光:「従軍慰安婦」,P180)

終戦で故国に帰れず――あるいは自らの意志で帰らず――に、現地に残留した元慰安婦たちも少なくなかったようだ。

{ 慰安婦問題を掘り起こした尹貞玉は88年、タイのハッチャイで暮らす元慰安婦を訪ねている、沖縄の渡嘉敷島に連行されたペ・ポンギは、日本軍の降伏後、石川の民間人収容所に入ったが、故郷に帰る機会が与えられなかった。… 中国の武漢附近に残留した韓国人元慰安婦26名の名簿が、慰安婦の代表から韓国大使館に提出されている。}(吉見:「従軍慰安婦」,P212-P213)