日本の歴史認識慰安婦問題第2章 慰安婦システム / 2.6 慰安婦の帰還 / 2.6.1 帰還の要因、帰還率

2.6 慰安婦の帰還

慰安婦たちは契約が終るなどして終戦より前に故国や故郷に帰った人たちと、終戦により解放されて帰った人たちとがあるが、病気や自殺などで帰れなかった人たちや、戦闘の巻き添えを喰ったり、帰る途中で亡くなったりした人たちも少なくなかった。

この節では、元慰安婦の証言などをもとに帰還状況をまとめる。元慰安婦の証言は日本人9人(図表2.8)、朝鮮人19人(図表2.9)のほか、インドネシア、フィリピンの元慰安婦の証言も参考にしているが、これ以外の国の元慰安婦の証言はみつかっていない。

図表2.15 慰安婦の帰還

慰安婦の帰還

2.6.1 帰還の要因、帰還率

(1) 概況

1945年の敗戦時にアジア・太平洋の各地に散在していた日本人は約660万人(厚生省調査)で、軍人・軍属と民間人はほぼ半々だった。朝鮮人、台湾人は「カイロ宣言」に基づき「戦勝国民」として待遇され、日本人とは切り離してそれぞれの出身地へ送還されたが、概して日本人より早く送還されている。若干の残留者はいたが、終戦から10年以内にほぼ全員が帰還した。慰安婦たちもこのなかに含まれているとみられるが、慰安婦の帰還に関する公式資料はほとんどなく、詳しい状況はわからない。(秦:「戦場の性」,P138<要約>)

海軍は終戦前の1944年9月、帰還命令をだして日本人慰安婦を内地に送り返したというが、陸軍は特別の場合を除いて帰還させなかったようだ。敗戦後、仏領インドシナ連合軍はすべての慰安婦を帰還させる命令を出しており、相当数の慰安婦が送り帰されたとみられる。しかし、一方で本国に帰れなかった慰安婦も少なくなかった。(吉見:「従軍慰安婦」,P212<要約>)

(2) 帰還の要因

慰安婦が帰還するきっかけになった要因で最も多いのは終戦であるが、終戦前に別の要因で帰還することになった人たちも少なくない。

図表2.16は元慰安婦たちの証言註261-1から帰還することになった要因を分析したものである。
朝鮮人慰安婦は終戦によるものが6割を占めるが、軍人(将校)の裁量で帰還を許された人たちも2割いる。日本人慰安婦は終戦で帰った人が過半を占めるが、契約満了で帰った人も多い。インドネシアとフィリピンには私設慰安所と思われる所にいた人がかなり混じっており、単純に比較することはできないが、インドネシア人は大半が終戦により帰還し、フィリピン人は戦局悪化――米軍の攻撃により日本軍部隊が撤退――により帰還している。

図表2.16 帰還の要因

帰還の要因

終戦と戦局悪化以外の要因の主な内容は次のようなものである。

軍人裁量

・懇意にしていた高級将校が故郷に帰れといって手はずを整えてくれた。(金徳鎮)

・主計将校から慰安所の外で暮らそうと言われたが、一度故郷に戻ってからにしてくれ、といって証明書をもらって帰郷。戻る気はなかった。(文玉珠)

病気

・性病が悪化し送り返された。(崔明順)

・部隊の移動に伴い他の慰安婦は連れて行かれたが、性病にかかっていたので解放された。(インドネシア:テティ)

脱走

・慰安所を訪れた朝鮮人男性に頼んで脱走、その男性と中国各地を転々とし子供までもうけた。(金学順)

その他

・ゲリラ仲間に助け出された。(フィリピン:ヘンソン)

※ 国名がないのは朝鮮人。朝鮮人は挺対協:「証言」、インドネシア人は川田文子:「インドネシアの"慰安婦"」、フィリピン人はフィリピン弁護団:「フィリピンの日本軍"慰安婦"」による。

要因のうち契約満了は本人の意志であるが、それ以外は他力本願つまり本人の意志とは無関係のものである。契約満了で帰った人は日本人以外にはほとんどいない。ただし、この表の証言者たちは、日本人以外は娼婦経験がなく未成年者も多い。娼婦出身者は慰安所との契約の仕組みを知っており借金を返し終われば自分の意志で帰れたが、仕組みを知らないとただ耐えるしかなかったかもしれない。娼婦出身者は日本だけでなく、朝鮮などその他の国にもいたはずで、その人たちの中には日本人と同様に契約満了で帰った人もいたであろう。つまり、慰安所の契約の仕組みを知っているかどうかが、明暗を分けたと思われる。

(3) 慰安婦の就業年数

図表2.17は、図表2.16と同じ証言者から、慰安婦として就業した年数の分布を示したものである。朝鮮人、日本人では3年以下が過半数を占めるが、7年以上つまり上海に初めて本格的な慰安所ができた1938年1月以前から終戦近くまで慰安婦をしていた人も一人ずついる。

インドネシア、フィリピンでは慰安婦として徴用されたのが太平洋戦争が始まり日本軍がこれらの地域を占領した1942年春以降になるので、3年以上就業した人はいない。

図表2.17 慰安婦の就業年数 註261-2

慰安婦の就業年数

(4) 帰還率

慰安婦の帰還者数について秦氏は9割以上が生還しただろうと推定している。

{ 慰安婦の損耗率は計算のしようもないが、日赤従軍看護婦の損耗率4.2%( … )が参考になろう。
「20万人の朝鮮人女性を慰安婦に強制徴集して虐待、ほとんどを殺害」(クマラスワミ報告書における北朝鮮政府の申し立て)とか、「朝鮮人慰安婦20万のうち15~18万は死亡と推定」(93年5月、IEDのカレン・パーカー報告書註261-3)とか、「朝鮮人慰安婦200名を潜水艦に乗せ機雷にぶつかるように仕組み、沈没させて殺した」(91年5月、尹貞玉の東京講演)たぐいの非常識な浮説が流布されているが、私は慰安婦の9割以上が生還したと推定している。}(秦:「戦場の性」,P406)

帰還できなかったのは、病死や自殺、戦闘に巻き込まれて死亡した人や現地人との結婚などにより現地に残留した人などが含まれる。

9割は慰安婦全体に対する数字であろうが、朝鮮人慰安婦については 2.5.4項(3) にも記したとおり、周辺にたくさんの死者がいたことを証言しており、少なくとも他の国の慰安婦より厳しい環境の中にいたと思われ、それより帰還率は低かったのではないだろうか。


2.6.1項の註釈

註261-1 帰還要因分析の元データ

日本人は図表2.8にリストされた9人、朝鮮人は図表2.9にリストされた19人(1人で2回行っている人がいるので20件)、インドネシア人は、川田文子:「インドネシアの"慰安婦"」、フィリピン人は、フィリピン弁護団編:「フィリピンの日本軍"慰安婦"」に掲載された元慰安婦の証言から帰還要因が記載されているものだけをピックアップした。
なお、朴順愛の帰還理由は戦局悪化としたが、契約が満了していることを本人も認識している。

註261-2 慰安婦の就業年数

就業年数は、徴募された年月と解放された年月の差から求めている。何月に徴募/解放されたかわからない場合は、年の引き算と季節などから推定しているので、最大1年の誤差がある場合がある。

261-3 IEDのカレン・パーカー報告書

1993年5月、国連人権委員会は日本政府に対して元慰安婦に対して個人補償を勧告するIED(NGO国際教育開発)の最終報告書を採択した。(Wikipedia:「マクドゥーガル報告書」)