日本の歴史認識慰安婦問題第2章 慰安婦システム / 2.5 慰安婦の生活 / 2.5.4 楽しかったこと、苦しかったこと

2.5.4 楽しかったこと、苦しかったこと

図表2.11(再掲) 慰安婦たちの生活状況

慰安婦たちの生活状況

(1) 余暇

日本人慰安婦も朝鮮人慰安婦も定期的な休日があったかどうかには誰もふれていない。軍人たちが来るのが少ない日や時間帯をねらって、余暇を楽しんでいたようにみえる。しかし、前線に近い慰安所など場所によっては余暇を楽しむ余裕のないところもあった。

朝鮮人慰安婦19人のうち、余暇について証言しているのは10人、何も証言していないのが9人でうち3人は監禁状態に近く、余暇どころではない状況だったようにみえる。余暇を楽しんだ、と証言している10人についてその内容をみると、映画と買い物が4人、仲間との談話や散歩が2人、外食が1人である。(2つ以上あげている場合があるので合計は10以上になる)

朝鮮人慰安婦たちの余暇に関する証言はあまり楽しそうではない。

{ (広東で) 外出する機会があれば、経営者からお金をもらって下着や化粧品を買いました。軍人がそれほど来ない日を選んで、ひと月に1,2度外出して劇場に行って映画を見たりしました。軍人が連れて行ってくれる時もあれば、私たちだけで行くこともあり、中国人の引く人力車に乗って行きました。中国人は私たちを日本人だと思っていたようで、言うことをよく聞きました。}(挺対協:「証言」,P78<李英淑>)

{ (華北で) 軍人たちが来ない午前の時間に私たちは洗濯をしたり、真ん中の部屋に集まって話をしたりしました。}(同上,P49<金学順>)

{ (パラオで) 目先のきく女たちは門の前に立っていた監視役の男に金を少し握らせて、買い物に出かけました。}(同上、P204<李相玉>)

トラック島で将校用の慰安婦をしていた菊丸は司令官といっしょに豪華な島めぐりをしている。

{ ある時は司令命令で島めぐりをしたこともある。其の時は一番嬉しかった。ランチには中将旗がひるがえり、私一人に司令部つきの若い士官が2人ついて、其の時の姿は半ズボン。何か急にえらくなったよう。昼食はサンドイッチ。今考えるとあのときくらい自分の鼻が高くなったことはない。}(広田和子:「従軍慰安婦・看護婦」,P28)

(2) 病気・怪我

病気や怪我、自殺未遂などについて朝鮮人慰安婦たちが証言している内容をまとめると下記のようになる。最も多いのは性病で続いて性器の腫れ、など性器周辺の異常、軍人や慰安所経営者の暴力により負傷した人も4人いる。なお、日本人慰安婦にこのようなことについての証言はあまりない。

・病気になったり傷害を負った … 16人

ー 性病 …………… 6人

ー 性器周辺の異常 … 5人

- 暴力による負傷 … 4人

- 自殺未遂 ……… 3人

- 盲腸手術 ……… 1人

(注)一人が2つ以上あげている場合がある。

・病気や怪我について証言していない … 3人

事例; 軍人の暴行

{ 殴られることが日課でした。月を眺めているだけで何を考えているのかと殴られ、独り言を言えば文句を言ったと殴られました。… 私は特に反抗した方なのでよく叩かれたようです。あまり叩かれ過ぎたせいか今でも急に意識が遠くなり耳が聞こえなくなることがあります。
子宮が腫れて血膿が出て兵隊の相手をすることができなかった日、ある将校が来て相手をできないなら代りに自分の性器を口に含めと言いました。私は「そんなことをするくらいなら、あんたのクソを食らう方がまだましだ」と言い返しました。するとその将校は、めちゃめちゃに殴る蹴るの暴行を加え、私は気を失ってしまいました。}(挺対協:「証言」,P111-P112<黄錦周>)

事例; 病気、自殺試行

{ 私は膀胱炎のような、血が流れて小便ができない病気にかかり、病院に通い治療を受けました。他の女たちの中には針の入る穴もないくらいに性器がひどく腫れあがって出血する人がたくさんいました。
体が辛いときには死のうとしたこともありましたが、死ねませんでした。川に身を投げようとしたり、高いところから飛び降りようとしたり、車に飛び込もうともしてみましたが、どうしてもできません。… 私はあきらめて別に反抗もしませんでした。そのせいか軍人たちからも、さほど乱暴に扱われませんでした。}(同上、P63-P64)<金徳鎮>)

事例; 性病

{ ある将校が私の陰部がめちゃくちゃになっているのを見て拭いてくれたりもしました。しばらくすると陰部が真っ赤に腫れあがり、ひどい臭いがしました。
薬を飲み、注射を打ち治療をしても、病気は治りませんでした。軍医が治療をしながら、薬では治らないというようなことを言いました。私の病気(性病)が重いので、朝鮮に送ってくれるのだというのです。軍医が何か書いた紙をくれ、それを持って船に乗り釜山に帰って来ました。}(同上,P279-P281<崔明順>)

事例; アヘン中毒

{ ある夜、彼女は大隊長の世話をした帰途、酒の酔いと足の痛みが一度に押しよせ、うずくまってしまった。当番兵がアヘンを吸わせてくれて、体じゅうの痛みがとれ、宿酔いがとれた。それからこの薬に頼るようになった。日本に帰ろうとした途中で激しい悪寒に襲われて体中が震えだしとまらくなった。それを見たある男が麻薬の禁断症状であることを見抜き、下関まで我慢させて病院にかつぎこんだ。}(金一勉編:「軍隊慰安婦」(上坪隆著「芸者・黒須かなの従軍」),P181-P183 <要約>)

事例; 心中の巻き添え

{ 確か6師団の兵隊だったが、何度か宋神道のもとに通ってきてなじみになっていた。その日、神道は気分がすぐれず、拒んだ。すると突然、「こんなに愛していることがわからないのか」そんな意味のことを口走りながら匕首を取り出し、自分の手首を切った。血が飛び散り、避けた切り口に白い肉がもりあがった。わき腹に激痛を覚えたのはその直後である。「お前を殺して俺も死ぬ」そんな言葉が聞えた。幸いというべきかどうか、兵隊の傷は静脈をはずれ死には至らなかった。神道の約10センチほどの刀傷の痕は、今も消えずに残っている。}(川田文子:「皇軍慰安所の女たち」、P119<宋神道>)

(3) 亡くなった慰安婦たち

以下は、19人の朝鮮人慰安婦の身近で亡くなった同僚の慰安婦についての証言である。7人の慰安婦が同僚の死を見ており、死者の数は合計で15人以上になる。

・平壌出身の女性がアヘン中毒で死にました。(上海 河順女)

・いっしょに行った5人のうち(私と)フキコの外はみんな死にました。梅毒がひどくなって死んだ女性もいました。(満州~華北 呉五穆)

・マンダレーからアキヤブに行く途中で一人のお姉さんが肺病で息を引き取りました。(ビルマ 文玉珠)

・私がいた建物は爆撃を受けてあちこち穴があいていました。女たちもたくさん死にました。(パラオ 李相玉)

・平壌の女は軍人から性病をうつされ、死にました。(スマトラ 李得南)

・別の慰安所では3,4人が自殺し、病気で死んだ女もいました。(ビルマ 李用女)

・二人が妊娠しました。うち一人は中絶の手術が失敗して死にました。(釜山 尹頭理)

(注) カッコ内は慰安所の場所と証言者名

(4) 玉砕した慰安婦

ビルマの首都ラングーン(現在はヤンゴン)の北1000キロ、中国雲南省のビルマ国境近くにある騰越(とうえつ)という古い町を守備していた日本軍を中国とアメリカの連合軍が攻撃してきたのは、1944年6月27日のことだった。アメリカ製の最新鋭の装備で武装した5万人ちかい中米連合軍は、2000人そこそこの日本軍に襲いかかり、9月13日、日本軍は玉砕した。この戦闘で奇跡的に生き残った一人の兵士にインタビューした千田夏光氏によれば、そのとき約40人の日本人と朝鮮人の慰安婦がいたという。日本人慰安婦たちはおにぎりや銃弾を運ぶなど、兵士たちを支援した。もうこれまで、というときになって日本人慰安婦の一人は、想いを寄せていた将校に「殺してくれ」と頼み込み、将校は「俺もすぐ後から行く」と言って彼女の後頭部に銃弾を撃ち込んだ。別の一人の日本人慰安婦は敵弾の前に立ち尽くしてハチの巣状になって戦死、残った8~9人の日本人慰安婦は手榴弾で自決した。

彼女らは自決する前に、約30名いた朝鮮人慰安婦に「あなたたちは何も日本に義理たてることないのよ」といって投降をすすめた。この朝鮮人慰安婦は証言した兵士とともに中国軍の捕虜となり、終戦後、迎えに来た朝鮮の抗日軍にひきとられていったという。(千田夏光:「続・従軍慰安婦」,P21-P41<要約>)

なお、この話は秦氏によると「伝説化したエピソード」で、「40数人の慰安婦のうち20人前後が死んだらしいが、数人の慰安婦は自決、残りはおそらく砲爆撃の犠牲になったのだろう」と述べている。(秦:「戦場の性」,P123)