日本の歴史認識慰安婦問題第2章 慰安婦システム / 2.5 慰安婦の生活 / 2.5.2 性サービスと性病対策

2.5.2 性サービスと性病対策

この項では慰安婦たちの証言をもとに、相手にした軍人の人数や様子、性病対策などについて述べる。

図表2.11(再掲) 慰安婦たちの生活状況

慰安婦たちの生活状況

図表2.12は慰安婦が一日にどのくらいの軍人たちを相手にしたかを朝鮮人慰安婦と日本人慰安婦のそれぞれについて、定常時(閑散時のときもある)と最大時に分けて示している。朝鮮人慰安婦では、定常的には一日10人以下が過半数を占めるが、20人以上が6人もおり、最大では20人以上が11人もいる。日本人慰安婦は回答者が少ないが、定常的には10人以下、最大は60人以上と回答している。

図表2.12 慰安婦が一日に相手した軍人の数

慰安婦が相手した軍人数

※ 1人で2回リクルートされた文玉珠は2人分としている。

性病対策は軍医による定期健診のほか、性交後に局所を消毒液で洗浄するように指導されていたようだ。定期検診は週1回が6人、月2~3回が3人、月1回が3人、1~2カ月に1回が2人、残り6人は検診について証言しておらず、中には検診がまったくなかった場合もあると思われる。消毒液による洗浄は効果があったようでこれをしっかりやったという人は性病にかかっていない。

以下、軍人たちを相手した様子を証言から抜きだす。最初は中国各地で毎日平均35人を相手したという女性である。

金徳鎮(キム・ドクチン)〔17歳ー1937年~〕,上海他

その慰安所には、日本人の女2人と朝鮮人の女が20人ほどいました。日本人の女たちは以前、遊郭にいたということで、年は27~8歳ぐらい、軍人たちは日本の女より朝鮮の女の方がきれいでいいと言いました。私たちは毎日平均35人ぐらいの相手をしましたが、戦闘があるときはわずかしか来ませんでした。

部屋ごとにサックが箱いっぱい揃えてあって、軍人たちは部屋に来てこれをとって使用しました。使用しないと言う軍人には使用するよう頼みましたが、いつ死ぬかわからない状況で頑として受けつけない人もたくさんいました。1,2か月に1回ずつ軍医から検診を受け、病気がある場合は数日休むように言われました。性病にはかかりませんでしたが、最近病院に行って診察を受けたら、若い頃に子宮を酷使したため、子宮が曲がってしまっているとのことでした。

私は反抗しなかったせいか、軍人たちから乱暴に扱われることはありませんでした。戦闘を終えて帰って来た軍人は乱暴でしたが、これから戦闘に行く人たちは比較的やさしく、自分には必要がないと小銭をおいて行ったりしました。戦闘に行くのが怖いといって泣く人もいました。そんな時、私はきっと生きて帰って来るようにと慰めました。(挺対協:「証言」,P62-P64)

次は台湾で主に特攻隊の相手をした女性である。

李容洙(イ・ヨンス)〔16歳ー1944年~〕,台湾

大邸から私たちを連れてきた日本人の男が慰安所の経営者で、部屋に入れと言われたので拒否したら電気拷問を受けました。目からピカっと火が出て全身がわなわな震えました。軍人たちに殴られたことはありませんが、経営者にはたくさんぶたれました。

私たちは主に特攻隊の相手をしました。1日平均4,5人、軍人たちは次々入ってきてそそくさと済ませて出て行きました。月経の時にも軍人の相手をしなければなりません、綿の代わりに古い服を洗って使いました。
爆撃があれば山に隠れたり洞穴の中に隠れたりしました。そして少しの間でも静かになれば、畑でも田んぼでもどこでも、布をたらした囲いを作って軍人の相手をさせられました。

外で診察を受けた記憶はなく、サックというものも知りません。性病にかかったので、赤みをおびて光るとても強い606号注射を経営者がうってくれました。すっかりよくならないうちにまた軍人の相手をさせられるのでなかなか治りません。注射を打ち続けながら軍人の相手をしました。

特攻隊はみな若く19~20歳くらいに見えました。ある日の夕方、ひとりの軍人が来て、自分は今日出て行くと死ぬのだと言いました。私が「特攻隊はどんなことをするの?」と聞くと、「敵の船とか基地を肉弾で攻撃するんだ」と説明してくれました。そして、自分の写真と使っていた石鹸とタオルと洗面道具を私にくれました。(挺対協:「証言」,P137-P140)

次の女性は、結婚して息子までもうけたのに、夫にソウルの紹介所に売られて多額の借金を背負い、その借金返済のために慰問団募集に応じた。軍人の相手をするとは思わず、洗濯をしたり看護をするのだと思っていた。

朴順愛(パク・スネ)〔23歳ー1942年~〕,ラバウル

慰安所の生活は朝7時から午後4時までは兵士を、午後4時から7時までは下士官を、午後7時から10時までは将校を相手にしました。少ない日は20人くらい、多いときは30人を越えました。日曜日には蟻が群がるように軍人がたくさんやって来ました。その当時、ワンピースのような服を着ていましたが、下着はつける暇がありませんでした。陰部が痛くてものすごく腫れました。

野戦病院から1週間に1回ずつ私たちを検査しに来ました。寝台に横たわっていると器具を差し込んで検査しました。妊娠したり、病気になったりするといけないのでサックは必ず使うようにしました。サックは軍人たちも持ってきましたが、事務室でも渡され、なくなるとまたくれました。サックはわたしたちがつけてやりましたが、20人に一人くらいの割合でつけようとしない人もいました。つけない人には接触を拒否しましたが、頬を殴りつけられました。病院では塊になった薬をくれたので、それを水に溶かして自分で必ず洗うようにし、軍人も洗ってやりました。幸い性病にかかることはありませんでしたが、マラリアにかかって軍医にお世話になりました。(挺対協:「証言」,P258-P260)

次の女性は、伯母が経営しているカフェで炊事などの手伝いをしているとき、「ここより給料の良いカフェを紹介してやる」と言われて漢口の慰安所に連れて行かれ、そのあと朝鮮人の慰安所経営者と一緒にインドネシアのクタラジャの慰安所に移った。おそらく伯母に売られたのであろう。

李得南(イ・トクナム)〔21歳ー1939年~〕,満州→漢口→スマトラ

漢口では多いときは1日に20人以上の軍人の相手をしました。漢口に来て3年目、経営者はスマトラのクタラジャで慰安婦が必要だから、この慰安所を引っ越すといいました。クタラジャは田舎でした。慰安所の周囲には警備隊、野戦病院、憲兵隊など、色々な部隊がいました。

クタラジャでも私たちは週に1回性病の検査を受けました。軍人の相手をしたあとは必ず、部隊がくれる消毒液で一生懸命体を洗いました。そのおかげで性病にはかかりませんでした。私は体質的に膣が浅く、ある時は膣がはがれ落ちるような痛みをともなって腫れあがり、動くこともできないほど苦しくなりました。診察した軍医助手が「この女は病状がひどいから、しばらくの間休ませなさい」と経営者に話してくれたので1週間休むことができました。

軍はサックを節約するため、一つで2,3回使用するようにというので、洗って使っていました。サックを洗いながら、この数だけまた軍人の相手をするのだと思うと、身の毛がよだちました。
本当にいろんな人がいました。病気だと言ってもうむをいわさずとびかかる人、相手をしたくないというと暴れて騒ぐ人、異常行為を要求する人、先に入った軍人が出て来ないと言って暴力をふるう人など、最低の軍人たちの相手をしました。(挺対協:「証言」,P216-P221)

次は日本人慰安婦だが、娼婦経験者だけあって男の扱い方に慣れている。慶子は初の陸軍直営慰安所(楊家宅慰安所)を皮切りに中国各地や南方を日本人の慰安所経営者とともに転々とした。

笹栗フジ(慶子)〔21歳ー1938年~〕,上海→湖州→広東→ボルネオ→フィリピン→パラオ→ラバウル

楊家宅慰安所の開業初日に慶子の客となった軍人は2人、2日目4人でそれ以降も同じような状態が続き、およそ半月後この慰安所は閉鎖された。慰安婦たちは再編され、慶子は朝鮮人慰安婦二人とともに、上海の西にある湖州の長興に移動した。

長興の慰安所開業の日、20名ほどの兵士の行列ができた。たくさんの兵士をこなすための方法を慶子は朝鮮人慰安婦に教えた。「腰ば、2度3度こうまわし、そうそう、それから、こう下から上にグッと突きあげるとばい、すると相手はすぐ終わるからね。これおぼえておらんと、あれだけいると体もたんからね」「コウスルトネ、ウン、ワカタヨ」「オネサン、アリカト」顔を引きつらせる二人に「さぁ、一丁かたづけようか。一人3分として20人なら、一人で引き受けても1時間で終わりばい」

行列は"業務開始"してみると、増えこそすれ減ることはないのだった。もっとも、"入口"で終わりというのが3人に一人、ほとんどが3分組だったので、少なくとも熟練工の慶子には苦にならなかった。(千田夏光:「従軍慰安婦・慶子」,P139・P175-P176)

高梨タカ〔35歳ー1939年〕,中国~セレベス

慰安婦が到着した日や部隊移動のときは、一人の妓が300人の兵隊の相手をしたともいう。――300人? そんな嘘をいっちゃだめだ。そんなにゃできないよぉ。24時間に300人やれば、一人何分なのよ。5分もない。食べないで寝ないで、おしっこにも行かないで、いくらしても、30人がせいぜいでしょう。一日何十人もの客をとらせてごらん。膣が腫れあがって次の日はダメになる。パンパンだって、軍隊には大切な商品、そんなことさせたら損じゃないの…

突撃の前には妓を抱いてすっきりした気持ちで戦場にむかったって?突撃の前の日なんかに妓を抱きに来る兵隊なんかありゃしないよ。あんなもん、ピンとしなけりゃ入らないじゃないのよ。ウソ、ウソ、生き残りの大ボラよ。…

娼売といったって、女房のそれと違いはないですよ。… やっぱり思いやりですよ。夫婦の場合も同じですよ。「やらしてやったんだ」では亭主も抱く気にはなりませんよ。男だってあれは大変だぁ。サービスしてますよ。本当は女のモノだけが金になるというのはこりゃおかしいよ。五分五分だよね。「やっていただきましてありがとうございました」と布団の上でどっちもが手をつきあう心が本当だろうね。家庭ほどいいものはありませんよ。あたしも軍人にはずいぶんつくしました。(玉井紀子:「日の丸を腰に巻いて」,P86-P90)

最後は京子と呼ばれたラバウルの慰安婦の証言だが、下記は京子のなじみ客だった将校が京子自身から聞いた話として作家に伝えたものである。京子はラバウルで米軍の爆撃を受けて亡くなった。

京子〔25歳ー??〕、ラバウル

…京子は、問わず語りに自分のことをポツリ、ポツリ話し始めた。

「私が生まれ育ったところは、山口県豊浦郡肥中村字特牛といいます。小学校を出てすぐに奉公に出され、18になった時、下関の遊郭に売られました。話には聞いてましたけれど、辛くて死んでやろうかと何度も考えました。借金は増えるばかり、幾ら働いても家から借りに来るんです。働いている女の人たちはみんなそうでした。25の暮れに、思い切って軍の慰安婦になりました。家に700円入れて、私が300円持って、年が明けてすぐボルネオの「キナバル」に行き、6月頃、ミンダナオ島のダバオで兵隊相手の商売をしました。

その頃は、現役の若い兵隊さんばかりで1日7,8人が限度、楽じゃないけど躰を悪くすることはありませんでした。半年ぐらい働いて、去年の10月末にこのラボウルに来たんです。ここでは、大きな部隊(38師団)の専属になって、とても忙しかったんです。毎日朝から12,3人もの兵隊さんの相手をさせられてお金にはなりましたけど、辛いんですよ。それで、辛いと言うと、"最前線の女は、1日30人も相手をするのに、お前たちは何だ"と叱られるんです。でも30人なんてとても、せいぜい20人がやっと、1週間も続いたら身体を悪くしますよ。そのうちに専属の部隊が、ガダルカナルへ出て行って、すっかり暇になり、そこでそんな慰安婦ばかりが集められて、通過部隊専用にされたんです。ところが半死半生で帰って来た人ばかりで商売にならず、陸軍船舶部隊(暁部隊)の慰安婦にかわったのですが、暁部隊は出港して行ったら全滅で帰ってこないんです。出港前の蒼い顔をしたオドオドした人ばかりと寝ていると、私もおかしくなりかけて、そんな時、この店が出来て働かないかと誘われたんです。この家だって、料亭なんて看板出しているけど、慰安所と同じ、ただ客が将校というだけです。そのかわり泊りだけで、昼間の時間の遊びがたまにあるぐらいだから楽なんですが、お金にならないの。(谷川美津枝:「青年将校と慰安婦」,P255-P256)