日本の歴史認識慰安婦問題第2章 慰安婦システム / 2.5 慰安婦の生活 / 2.5.1 日常生活一般

2.5 慰安婦の生活

この節では慰安婦たちの生活を彼女らの証言などから推しはかって見る。生活状況は慰安所の管理者や顧客となる将兵、周辺の治安、物資の充足状況などにより千差万別で、悲惨な生活を強いられたケースが少なくないが、なかには生活を楽しむ余裕がある場合もあった。

図表2.11 慰安婦たちの生活状況

慰安婦たちの生活状況

証言は、主として朝鮮と日本の元慰安婦たちのもので構成している。数万人といわれる慰安婦のうちここでとりあげる証言はあわせても20人ほどしかいないが、年齢や派遣された地域、出身環境などは適度にバラついており、統計的意味は期待できないが、おおよその傾向を知ることはできる。

(注1)証言の標題部は、証言者名〔満年齢-慰安婦になった年〕、慰安所の場所、の順で記述。

(注2)出典のうち、挺対協編「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」は、挺対協「証言」と略す。

(注3)証言は原典の記載を要約することがある。

2.5.1 日常生活一般

この項では、慰安婦たちが生活した場所や一日の過ごし方、食事や洗濯、入浴、行動の自由度などについて慰安婦の証言を紹介する。

まずは、最も悲惨な生活を強いられた例である。証言者は、町内会の男に「就職すれば金も稼げるし挺身隊に行かないで済む」と言われ、母親が反対するのを押し切って日本(広島)に渡ったが、妻子持ちの男の性女中のような仕事をさせられ、朝鮮に帰してくれと言うと、知らない場所の慰安所に連れて行かれた。

崔明順(チェ・ミョンスン)〔19歳-1945年〕,日本

倉庫みたいに小さな建物でした。部屋が10ぐらい並んでいましたが、部屋は一坪ぐらいで毛布1枚だけがぽつんと敷いてありました。

想像もできなかった生活が始まりました。考えるだけでもぞっとして身の毛がよだちます。

朝9時半か10時ぐらいに起きて朝食を食べ午後になると、時には昼食前から軍人たちが押し寄せました。日曜日は朝からこみあってごった返していました。軍人たちが列を作って立ち並び一人ずつ入って来て普通で5分、長ければ10分ぐらいいました。… 夜10時ごろになるとこの生き地獄がおわるのでした。

命令通りにしないとめちゃくちゃに叩かれ、… 朝鮮語を使ったといっては殴られました。

すぐに用を済ませて出ていく人もいましたが、しつこく何十分も相手をさせられると、気絶してしまいました。そのまま横になっていると飯炊きのおばさんが来て冷たい水で顔や体を洗ってくれ、重湯を持ってきて飲ませてくれました。…

入口で監督する軍人が3,4人いましたが、彼らにもよく叩かれました。風に当たりに出かけるだけでも殴られました。… (挺対協:「証言」,P276-P278<要約>)

文必琪(ムン・ピルギ)〔18歳ー1943年~〕,満州

慰安所は日本式家屋で、周辺には部隊が駐屯していました。慰安所の建物はL字型の2階屋で、1階には私たちを監督していた朝鮮人男性二人の部屋と食堂があり、2階は慰安婦の部屋でタタミ一畳ほどの大きさでした。暖房は壁を温めるペチカ方式でした。慰安婦は皆、同じワンピースを着ており、十分な枚数を与えられていました。下着を着ることはありませんでした。洗濯は各自が自分でしました。食事は粟飯とたくあん、キャベツのキムチが主で、朝には味噌汁が出ました。日本の祝日には肉料理が出ることもありました。朝晩2食です。支度は私たちが交代でしました。

平日の朝は起床すると週に3,4回、集まって朝礼をし、時には軍人が来て防空演習をし、日本に忠誠を尽くそうという「皇国臣民の誓詞」註251-1を唱え、軍歌を歌うのです。

平日は軍人たちが戦場に行ってしまうので昼間はほとんど来ることがなく、夕方に来ました。土曜日と日曜日は朝8時から軍人たちが来ました。その日には昼食も出ました。夕方7時以降は将校たちが来て、夜を明かし、朝まで何回も求めるので、一晩中ほとんど眠ることができませんでした。

酒を飲んで来て刀を抜き暴れ出した軍人や、刀をタタミに突き立てて性行為をする軍人がたくさんいました。ある軍人があまりにもひどいことをするので、腹がたって蹴飛ばしたことがありました。するとその軍人は私の服を全部引き裂き真っ裸にして叩いたあげく、刀を振りかざし、真っ赤に焼いた薪を持ってきて私の脇の下に押しつけました。この傷のため3ケ月苦しみました。

家族が狂おしいほどに恋しくて毎日のように泣き、他の女の悲しい泣き声を聞いてまた泣きました。(挺対協:「証言」,P121-P126<要約>)

下記の慰安婦が行った南洋のパラオにあった民間の慰安所は、彼女が行ったときに開業し、海軍と陸軍が共同で利用していたようだ。

李相玉(イ・サンオク)〔15歳ー1936年~〕,パラオ

慰安所の経営者は朝鮮人夫婦で全羅道の方言を使っていました。女たちにはそれぞれ部屋があり、小さなタンスが置かれていました。布団もありましたが、布団とタンスの代金は私たちの稼ぎから差し引かれました。部屋は畳敷きで2畳ほどの大きさでした。食堂には30代の朝鮮人女性が賄い婦をしていました。おかずにはキムチもあり、3食出ましたが、量が少なかったのでお腹がすき、パイナップルなどをもぎ取って食べたりしました。門の前には監視役の男が立ってましたが、目先のきく女たちは男にお金を少し握らせて、買い物に出かけていました。

白い軍服を着た軍人と国防色の軍服を着た軍人が来ました。軍人のなかには一度済んでからまた飛びかかって来る男もいて、大声をあげて必死になって抵抗すると殴られたり、刃物で突き刺されたりしました。こんな生活に耐えきれず逃げ出したのですが、捕まってしまいひどく痛めつけられました。そのため今も右の耳がよく聞こえず、身体もがたがたです。(挺対協:「証言」,P201-P204<要約>)

以下は、日本人慰安婦の証言である。下記の2人は同じ船に乗ってトラック島に行き、一方は将校用、他方は兵士用の慰安婦だったが、2人とも「いままで一番楽しかったのは、トラック島にいたときよ」と言っていたそうだ。なお、2人は互いの存在を知らなかったという。

山内馨子(菊丸)〔18歳ー1942年~〕,トラック島

いっしょに上陸した慰安婦は約100名、そのうち33名は士官用で菊丸さんはその一人だった。部屋はウナギの寝床のような細長い建物の中にズラッと並び、6畳間に4畳のベランダがあり、床の間と押入れがついていた。「あたしは士官用だったから、お相手させていただいている方々と同等の食事ができました。赤飯の缶詰、肉、野菜、なんでも豊富にありました。果物は本場だから新鮮なものがすぐ入手できる。洗濯物は土人の女がやってくれる。ハンカチ、敷布、寝巻大小とりまぜて10銭。昼は必ず昼寝をする。その間の静かなこと。3時過ぎるとそろそろ動きだす」。

「将校にもいろんな人がいる。酒癖の悪い将校がからんできたら、"貴様、それでも将校か"といってやるととたんにシャンとする。将校でも慰安所のものをこわすと、理由を書いて司令部に届けなきゃいけないのよ。お上からの預かり物をこわした、というわけ」(広田和子:「従軍慰安婦・看護婦」,P24-P33)

鈴本文〔17歳ー1942年~〕,トラック島

トラック島にいてる間は、日本にいて芸者置屋を転々としているころよりも気が紛れとったね。わたしらは一般の兵隊用やからね。士官用の人たちのところは塀でかこって区別してあるわけよ。
トラック島いうところは海がきれいで、食べ物ていうたらパパイヤとかバナナ、それからパンの実。食事のしたくは炊事の人がついていっとった。おふろはドラム罐やった。

1年の契約で1年10ケ月いたさかい、あとは帰りの船を待つだけやったから、島めぐりをしたり、なじみの兵隊さんが遊びにきたり、のんびりしたもんやった。
飛行機乗りや潜水艦乗りは金離れがよかったね。いつ死ぬかわからんという気があるからね。わたしらもそういう人にはちょっとでもなぐさめになればというナニもあったしね。とくにあした飛行機で飛び立つ人にはサービスしてあげようという気持ちになるよね。もう絶対に帰ってこなんだからね。(同上,P43-P45)

次は、インドネシア バンドンの慰安所にいたインドネシア人の証言である。証言者は4人おり、著者の川田文子氏がひとつのシナリオに編集しているので誰の証言なのかわかりにくいところもあるが、スハナの証言として要約する。

スハナ〔16歳?ー1942年?~〕,インドネシア バンドン

家の前でひとりで遊んでいると、数人の兵隊がやってきて腕をつかみ、銃を突きつけられてジープのような乗り物に乗せられシンパン通りの建物に連れて行かれた。

慰安所の日常的な運営は3人の中国人があたっていた。3人ともインドネシアで生れ育っている。毎週土曜日に憲兵が見回りにきて、3人に指示をしていた。居間が兵隊たちの待合室でその側に受付があり、名前の札と写真が貼られていて、兵隊たちはそれを見て慰安婦を指名し、中国人が指名した部屋に入る。6メートル四方の部屋が3つあり、そこにはベッドと小さなテーブル、椅子、それに洋服ダンスが置かれていた。スハナさんらはふだんは奥のゴザが敷いてあるだけの部屋で過ごし、夜もその部屋で眠った。ベッドのある3つの部屋が満室になると兵隊は待合室で待っている。兵隊たちはトランプほどの大きさの切符と衛生サックを持って部屋に入って来た。女性たちの報酬は1週間で5ルピアから10ルピアくらいで、化粧品や食べ物などを買うとそれでほとんで消えてしまうような額だった。食事は1日に2回、休日が週に一度あった。ふだんは庭に出る以外は一切外出禁止だったが、休日には家に帰ることが許されていた。

1945年8月、4人は中国人から「家に帰っていいぞ」と言われた。(川田文子:「インドネシアの"慰安婦"」,P99-P114)

最後に私設慰安所とおぼしきところに強制連行されたフィリピン人女性の証言である。

テオドラ・コグロン・インテス〔14歳ー1942年〕,フィリピン・ネグロス島

その日の朝10時ごろ、日本軍の兵士はトラック2台に鈴なりとなって町に来て、たくさんの人を捕まえ始めた。私は市場で野菜やコメを売っていたが、逃げるまもなく2人の日本兵に腕をつかまれ、抵抗したら銃剣で顔と太ももを殴られ気絶してしまった。気がついたらどこかの家の部屋にいた。日本兵2人が部屋に入ってきてシャワーを浴びるよう言われ、部屋に戻るとその2人の日本兵に強姦された。

その部屋にはほかに3人のフィリピン人女性がおり、いつもバスタオルをまとうだけのかっこうでいろ、と命令され、部屋の外には銃を持った兵士が常に見張りに立っていた。私たちは毎日朝3時に起床し、日本兵の相手をした後、朝食や昼食の準備、後片付けをし、午後に再び何人かの日本兵の相手をした後、夕食の準備、後片づけをし、また日本兵の相手をするという毎日だった。この家には全部で200人くらいの日本兵がいて、入れ替わり立ち代わり私を強姦した。医者の診察などは一切ありません。連行されてから1か月くらいして部隊が移動し解放された。(フィリピン従軍慰安婦弁護団編:「フィリピンの日本軍"慰安婦"」,P90-P92)


2.5.1項の註釈

註251-1 皇国臣民の誓詞

朝鮮人を完全なる皇国臣民とするため展開された皇民化政策の一環として1937年に制定された。児童用の「其ノ一」、大人用の「其ノニ」の2種類がある。

皇国臣民ノ誓詞(其ノ一)

私共は、大日本帝国の臣民であります。

私共は、心を合わせて天皇陛下に忠義を尽します。

私共は、忍苦鍛錬して立派な強い国民となります。

皇国臣民ノ誓詞(其ノ二)

我等は皇国臣民なり、忠誠以て君国に報ぜん。

我等皇国臣民は互に信愛協力し、以て団結を固くせん。

我等皇国臣民は忍苦鍛錬力を養い以て皇道を宣揚せん。

(出典:Wikipedia:「皇国臣民の誓詞」)