日本の歴史認識慰安婦問題第2章 慰安婦システム / 2.4 慰安婦のリクルート / 2.4.2 日本でのリクルート

2.4.2 日本でのリクルート

図表2.7(再掲) 慰安婦のリクルート

慰安婦のリクルート

(1) 業者によるリクルート

日本からは、軍出入りの業者などを使って娼婦を中心に集めたようだ。千田夏光氏はそうした業者と面談してリクルートの模様を聞き出している。以下、千田氏の著書から要約して引用する。

 福岡市内に住む田口栄造(仮名)さんという方は、昭和13年中支那派遣軍が初めて慰安婦を集めたときに女衒(ぜげん)役をやった一人だった。軍から「慰安婦を集めて来い」といわれたのは、昭和12年の暮れで、そのとき田口さんは福岡で編成された連隊に何となくついて中国に行き、兵隊が酒が欲しいと言えば都合してくる、という便利屋のような仕事をしていた。

田口さんがついていた部隊には北九州出身者が多かったので、同郷の女がいいだろうと、遠賀川の川筋にある私娼窟などを歩き回って経験者ばかりを集めた。前借金千円を前渡しして、それを全部返したら自由、食事は軍隊給与でタダ、などと説明した。当時、軍隊というのは信用があったので、誰もが信じてくれた。

実際に千円を返して自由になった女性もたくさんいた。第一陣で行った連中は、遅い者でも数カ月で返し自由の身になったけど、彼女らはこの商売をやめようとしなかった。こんな体でも兵隊さんのために働ける、お国のために尽くせるというので彼女らは喜んでいた。自由になって内地へ帰っても、また体を売る商売をするしかないことを知っている彼女らは兵隊に尽くした。金も欲しかったでしょうが。

中国には、彼女らを「物資」として陸軍の輸送船で運んだ。集めた女性は全部で100人を超えた。その中には北九州にいた朝鮮人も少しいたが、娼婦経験者ではないものもいたらしい。(千田夏光:「従軍慰安婦」,P36-P41)

(2) 日本人慰安婦の証言より

図表2.8は、日本人元慰安婦9人の証言から彼女たちのリクルート状況をまとめたものである。証言した元慰安婦は少なく、これだけで日本人慰安婦の全体を確定できるものではないが、およその傾向をつかむことはできるのではないかと思う。

・出身家庭は貧しい家庭か、家業破綻や家族崩壊で没落した家庭ばかりである。

・慰安婦になる前は一人を除いて、すべて娼婦である。その一人(田中タミ)も娼館で小間使いをして主人に犯されている。後述の朝鮮人慰安婦は、ほとんどが処女のまま慰安婦にされている。

・慰安婦になった年齢は21歳未満が4名いるが、5名は21歳以上で最高齢は35歳である。

・リクルートは、娼館の主人や周旋屋、友人などの勧誘によるものが多く、高給にひかれたり、「お国のため」に応募している。石川たま子は警察からの指名、田中タミは小間使いをしていた遊郭の指名で行っているが、「勤務先の都合による転勤」のようなものといってよいだろう。

図表2.8 日本人慰安婦のリクルート状況

日本人慰安婦のリクルート状況

(注)年齢は満年齢だが、生年月日や慰安婦となった年月日が正確にわからない場合があるので多少の誤差がある。

いくつかの証言(要約)を以下に紹介する。

・高梨タカ; 父は博打うちだったが、10歳の時に死去、11歳で奉公に出され、14歳で芸者屋の使い走りをやり、16歳で結婚したが夫は博打好きで19歳で売られて私娼に。周旋屋から紹介され前借なしで2000円持って南京に出かけ、将校用の料理屋で仲居をやったり、パンパンをやったりした。

・笹栗フジ(慶子); 11人兄弟の長女として生まれたが17歳のとき母が12人目を身ごもり、口減らしとのため遊郭に売られた。兵站司令部付の軍属の男から前借金1000円、軍は女郎屋のおやじのように借金を水ぶくれさせない、顔なじみの福岡連隊を相手にする、などと言われて行くことにした。上海の楊家宅慰安所に入ったが、一緒に行った朝鮮人の娘は慰安婦になることを知らなかった。

・山内馨子(菊丸); 父は青函連絡船の機関士を退職していろんな仕事をしたがすべて失敗して酒びたりになった。10歳のときに芸者置屋に売られて上京し、16歳から芸者生活。置屋の借金を軍が肩代わりしてくれると聞いて即決し、トラック島に渡った。

・石川たま子; 小学校3年で落第し、紡績工場、ソバ屋などの仕事を転々とした後、横須賀の花街で働いた。仲間から南洋に行けば儲かると聞いてテニアン島の遊郭に行き、そこで警察から指名されてラバウルの陸軍慰安所に行った。

※石川は朝鮮人だったという説もあるが、幼少期を横浜で過ごしており、日本人として扱う。

(3) 内務省による牽制と黙認

内務省警保局通牒

警察は大量の慰安婦募集が行われていることを知って困惑した。

1937年末から翌年1月にかけて、各県の警察は大規模な戦地向け慰安婦の募集に業者が暗躍していることを知る。調べてみると、元凶は神戸福原遊郭の大内藤七という男で、上海派遣軍陸軍慰安所に於て酌婦稼業を為すこと」との前提で、年季2年、前借500~1000円で16~30歳の女性約500人(あるいは3千人)を集める予定で、すでに200~300人が現地に渡っていることが判明した。内務省は公序良俗に反し皇軍の威信を失墜するだけでなく、婦女売買に関する国際条約にも違反すると苦慮したが、軍の希望に沿ったものであることから条件付きで黙認することにして各県に通達した。(秦:「戦場の性」,P54-P56<要約>)

通牒は1938年2月23日付け内務省警保局長名で発信された「支那渡航婦女の取り扱いに関する件」で、主な内容は以下の通り(全文は『小資料集』を参照)だが、国際条約遵守を名目にしている。

・現在、内地で娼妓等の醜業を営み、満21歳以上かつ性病などの疾患がないもので、北支、中支方面に向かう者に限って、当分の間黙認する

・身分証明書の発給に際し、婦女売買や略取誘拐がないことを確認すること。

陸軍省副官通牒

内務省警保局長の通牒が出された直後の3月4日、陸軍省から北支方面軍及び中支那派遣軍参謀長宛に次のような趣旨の通牒が出されている。(全文は『小資料集』を参照)

・内地において慰安婦の募集に際し、軍の名義を使って市民の誤解を招いたり、社会問題を起こす恐れのある場合があったり、誘拐に類する方法で募集して警察に検挙される者がいた。

・慰安婦の募集にあたっては、募集を行う人物の選定を適切に行い、関係地方の憲兵や警察との連携を密にして実施すること。

これらの通牒があったためか、日本人慰安婦は朝鮮人などと比べて、売春経験者でかつ21歳以上の女性が多かった。

1992年1月11日の朝日新聞が、慰安婦の連行に軍が関与していたことを裏づける文書が発見された、と報じ、直後に訪韓した宮沢首相が何度も謝罪せざるをえなくなる事態を招いたその文書が、まさにこの陸軍省の通牒であった。

否定派vs肯定派

この文書について否定派は、業者の違法行為を防止するためのものであり、官憲による強制連行を否定する内容だ、と主張する。一方、吉見氏は慰安婦の徴募に際して業者と憲兵・警察が連携していたのだから、業者が不法行為を行なえば憲兵・警察にも責任がある。また、内務省警保局長通牒は日本の内地だけに出されており、朝鮮・台湾では出されていない、という。(吉見・川田:「従軍慰安婦をめぐる30のウソと真実」,P20-P21)

否定派の主張は、日本国内で官憲による組織的な強制連行がなかったことは証明できるかもしれないが、植民地や占領地で業者や官憲が行った強制連行を否定することは困難である。