この節では、慰安所の設置方法、経営形態、慰安所数、利用規定、設置目的とその成果、などについて述べる。
図表2.3 慰安所のイロハ
軍慰安所・軍隊慰安所ともいい、一般には軍隊や政府組織が軍人や軍属のために設置あるいは指定した売春宿のことを指す。(Wikipedia:「慰安所」)
これは正統派の答えであるが、次のように言う人もいる。
{ 慰安所とは、一口に言えば遊郭なり、女郎屋なりであって、これを軍で公然と開いている…}(中支那派遣軍の堀江兵站司令官の言 秦:「戦場の性」,P91)
{ 慰安所とは、天皇や国家が許さなかった「涙」を見せてはいけない<戦場=国家の空間>を裏切る、不穏で、不敬的でさえあった空間でもありえた。}(朴裕河:「帝国の慰安婦」,P88)
{ 慰安所とは、あくまでも<移動>する近世的遊郭が、国家の勢力拡張に従い外国に出張り、個人の身体を国家に管理させた"近代的装置"だった。}(朴裕河:「帝国の慰安婦」,P276)
慰安所の形態については、吉見義明氏の定義に秦郁彦氏が追加したもの(A2とD2)註221-1 をもとに整理すると次のようになる。
A 軍直営の軍人・軍属専用の慰安所
A1 利用規則などを定めてまともに営業したもの
A2 辺地の末端部隊などが設置したもので拉致、強姦と重なりあう「私物」的なもの
B 軍が管理・統制のもと民間業者が経営する軍人・軍属専用の慰安所
B1 特定の部隊専属
B2 都市などで通過部隊なども対象
C 軍が指定した民間の売春宿 一般人も利用
D 純然たる民間の施設 軍人も利用
D1 一般の売春宿
D2 料理屋、カフェー、バーなど売春を兼業した施設
AとBのタイプでは、軍は慰安婦の徴募から、慰安所の設置まで主体的に関与している。CとDは民間の業者任せだが、Cについては性病検査は軍が行ったと思われる。
秦氏によれば、A1は1938年上海で開業した楊家宅慰安所のみで、以降はほぼ姿を消す、という。A2を軍中央が慰安所として認許していたかどうかは疑問だが、インドネシアやフィリピンなどでは現地の女性を強制的に連れてきて特定の部隊専用の私設慰安所のようにした例が報告されている。
下士官以下10数人しかいない分遣隊に女を置くのは許されていなかったようで、そうした部隊のために巡回慰安婦を用意する場合もあった。
なお、後述する慰安所数や慰安婦数にどの範囲までを含めるかはあいまいである。
林博史氏は性暴力の視点からつぎのように分類する註221-2 。
A 後方部隊によって設置・管理され、制度化された慰安所
B 比較的前線に配備された部隊が設置した慰安所。Aほどではないが、制度化されている。
C 前線に配備された部隊による性売買の装いのない暴力的監禁、強姦
D 短期間、あるいは1回限りの性暴力
CとDは犯罪といってもよいもので、Dは明らかに慰安所のカテゴリではないが、Cは上記の秦/吉見分類のA2に相当するものであろう。
吉見氏は、「将校専用の慰安所又は料亭にいる女性はほとんど日本人だった、下士官・兵用の慰安所には日本人もいたが、朝鮮人のほか中国人や東南アジア人など占領地の女性が多かった」、という。(吉見:「従軍慰安婦」,P75-P76<要約>)
1942年9月3日の陸軍大臣も出席する局課長会報で、倉本敬次朗恩賞課長は、「将校以下の慰安施設を次の通り作りたり、北支100、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400箇所」と報告している。(秦郁彦:「慰安婦と戦場の性」,P105)
「慰安施設」と言っているものが、上記(2)A~Cのどれに該当するものかはわからない。
秦氏の「慰安婦と戦場の性」に掲載されている慰安所データと倉本課長の報告を突きあわせたのが図表2.4である。秦氏のデータは、記録や証言のある慰安所だけをピックアップしたもので、実際に存在した慰安所のごく一部だが、それでも300か所近くある。また、調査時期も倉本報告とは違う時期になっているものが多いので、両者を単純に比較することはできないが、400か所という数字は実態よりかなり少ない数字ではないかと思われる。
なお、デジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」(アジア女性基金のホームページ)でも、中支だけで130か所近く、フィリピン30か所、ビルマ50か所以上、インドネシア40か所以上、ラバウル20か所、終戦間近になると沖縄にも130か所つくられた、と報告している。
図表2.4 慰安所数の評価
※ "--"は、データ無し
出典)「秦氏データ」は、「慰安婦と戦場の性」の表3-4、表4-1、表4-2、表4-3、及びP116-P117、「倉本報告」は同書P105 による。
慰安所の設置は、軍中央の管理・指揮下で計画的に行われたのではなく、現地部隊長の判断で行われた。最初に軍が用意したのは、慰安所にする建物である。家屋はホテル・食堂・商店や大きな屋敷など、軍が接収した部屋数の多い建物が当てられた。将兵が通うのに便がよい位置にあることも条件であった。建物の確保や部屋の工事は兵站部門の担当だったようだ。
建物を確保すると、小さく間仕切りをし、便所、洗浄所、受付などをつくり、各部屋にベッド・毛布・消毒液を入れるなどした。漢口の積慶里慰安所は、当初アンペラ(アンペラという草の茎又は竹で編んだムシロ)で部屋を仕切り、布団や食器類は、無人の中国人家屋から設営隊員が徴発してきたものを使った。後には、業者が板壁を張り、畳を入れ、格子戸をつけ、色鮮やかな寝具や調度品を入れたという。
慰安婦はこうした小部屋に住み、同じ部屋で客の相手をした。部屋は8畳くらいの場合もあったが、普通は2,3畳から4畳半程度だった。前線に近いところでは、簡単な板囲いに中はアンペラ敷き、まるで簡易共同便所のようなところもあったという。
慰安所の開設にあたり、軍は業者と慰安婦ならびに利用者向けの規定を作成していた。原型になったとみられる第一次上海事変のときに設置した慰安所の利用規定(全文は『小資料集』参照)とマニラ地区の規定などからその要旨をまとめてみる。営業時間など細部は慰安所によって異なるが、どの慰安所も大体このような内容になっていると思われる。
・開業にあたって、業者は申請書など必要な書類を提出し検査を受ける
・制服着用の陸軍軍人、軍属以外の利用は禁止
・毎月1回、憲兵が指定する定休日を設定
・毎週1回、軍医が接客婦を検診し、不合格者は接客を禁止
・性病予防のためコンドーム及び消毒液を使用する
・営業時間は午前10時から午後6時、午後7時~午後10時
・接客婦は許可なく指定地外に出ることを禁ずる
・収入の5割(又は4割)は接客婦の収入とする
・営業者が接客婦に対する利益の分配などで不当な行為があるときは営業停止を命じる
これ以外に、業者が用意する設備や性病の予防活動、慰安婦との費用分担など詳細にわたって取り決めている。この詳細さを国家補償派の吉見氏は、「軍が深く関与していたことを示すもの(=軍の責任は重い)」といい、否定派の秦氏は「大事な慰安婦を守ろうとするもの」という。おそらく両方とも正しいが、立つ位置によって見方は大きく変るのである。
利用者には次のような規定を厳守することが求められた。下記はフィリピン タクロバンの慰安所のものであるが、他の慰安所も同様と思われる。
・服装は通常服とする
・酩酊している者および規律を乱す者は慰安所への立入りを禁止する
・飲食物の持ち込みは禁止
・慰安婦および経営者のいずれに対しても暴力行為を働き、もしくは強制を行なってはならない。
・支払いはあらかじめ軍票をもって行う
・性病予防については、サックを使用するだけでなく、必ず洗浄を実行すること
慰安所によっては、曜日によって利用できる部隊を決めている場合もある。
利用料金は、利用者の階級や時間、慰安婦の人種などによって異なるが、一般兵士はおおむね1回1円50銭から2円くらいだった。当時の平均的な兵士の月給は15円~20円 ―― 食事や住まい、制服などは支給される ―― なので、月給のおよそ1割ということになる。
図表2.5 慰安所の料金
出典欄; 秦=秦郁彦「慰安婦と戦場の性」 資料=吉見義明編「従軍慰安婦資料集」
吉見義明:「従軍慰安婦資料集」,P27-P28
秦:「慰安婦と戦場の性」,P80-P81
林博史:「日本軍慰安婦問題の核心」,P161
吉見:「従軍慰安婦」,P131-P135
第一次上海事変後設置された慰安所の利用規定 秦:「戦場の性」,P411-P413
マニラの慰安所の利用規定 吉見義明:「従軍慰安婦資料集」,P497-P509
吉見義明:「従軍慰安婦資料集」,P520