日本の歴史認識慰安婦問題第2章 慰安婦システム / 2.1 公娼制 / 2.1.2 日本と朝鮮の公娼制

2.1.2 日本と朝鮮の公娼制

図表2.1(再掲) 売春の歴史と公娼制

公娼制

(1) 日本における近代公娼制註212-1

江戸時代以前

日本では、平安時代に「白拍子(しらびょうし)」と呼ばれた遊女の慰問団が東北遠征軍の戦場に派遣されたことがあるが、1193年に源頼朝が遊女を管理する役人を命じたことが「吾妻鏡」に書かれており、これが文献に初めて現れた公娼制度らしい。
戦国時代からは遊女も増え、江戸時代には江戸の吉原、京都の島原、大阪新地に広大な遊郭が設置された。江戸時代の遊女のほとんどは、貧しい農村から身売りされてきた娘たちで、客の男などが金を払って身請けしない限り、年季が明けるまでやめることはできなかった。

娼婦解放令

明治維新後の1872年、明治政府は文明開化のために江戸時代から続いて来た人身売買を禁止する太政官令を出し、これが日本の近代公娼制の端緒となった。人身売買を禁止するとともに既存の前借金が無効とされたが、"自由意思"による前借金契約は黙認されたので、娼婦の実質的な待遇は以前とあまり変らなかった。その後、国家が売春にかかわるのは文明国として好ましくないとして、管理業務は道府県に移管され、娼婦の登録や性病の検診も行なわれるようになった。

近代公娼制の確立

1900年、廃娼運動の高まりなどを背景に、明治政府は「娼妓取締規則」を制定して全国的な統一基準を作ろうとした。この法令は、公娼制が"自由意思"によるものであることを明確にするため、廃業の自由が認められ、年齢制限もそれまでの16歳から18歳に引き上げられた。しかし、前借金の契約は有効とされたので、借金返済ができなければ廃業は困難であり、娼妓の境遇が著しく改善されることはなかった。

国際的規制への対応

国際的な廃娼運動が高まるなかで、1902年に「醜業を行なわしむる為の婦女売買禁止に関する国際協定」、それを改定した「 (同左) 条約」が1910年に採択され、これらをもとにした「婦人及び児童の売買禁止に関する条約」が1921年に採択された。日本政府は1925年に"満21歳未満"という年齢制限に留保条件をつけて批准するが各国から非難され、2年後にこの留保を撤回する。日本はこのときイギリス、フランスなどにならって、植民地(朝鮮、台湾など)を適用除外とした。

廃娼運動

日本における廃娼運動の目的は、娼婦の保護や救済ではなく、国際的体面とか良家の子女の教育上の問題であった。いくつかの県では廃娼宣言をしたが、実質的には公娼から私娼への転換のよびかけにすぎなかった。政府も一時公娼廃止を考慮したといわれるが、戦時体制に入り棚上げされたまま終戦を迎えることになる。

(2) 日本の娼婦たち註212-2

娼婦の区分

日本で娼婦と呼ばれる人は次の3つに分けられる。これ以外にバーやカフェーなどの女給やダンサーなども娼婦予備軍とみなされていた。

・娼妓 … 貸座席においてからだを売る婦女。吉原では花魁(オイラン)と呼んだ。

・芸妓 … 料理店等で遊技を提供する婦女。いわゆる芸者。娼妓を兼ねることもあった。

・酌婦 … 料理店の客席において客をもてなす婦女。ほとんど全員がからだを売った。

娼婦数

図表2.2は、上記3区分ごとの娼婦数の統計値である。明治時代から娼婦は増え続けていたが、1937年に日中戦争がはじまると以降は減少していく。

図表2.2 日本の公娼数

日本の公娼数

出典)秦「戦場の性」,P30の表2-2をグラフ化

娘の身売り

この時代の日本では、公娼の多くは親が前借金の名目で娘を業者に売る「身売り」の犠牲者であり、その背景には貧困と家父長制があった。貧困といっても多様で、親や兄弟の借金、死亡、学資稼ぎから、本人の失恋、破婚、など各人各様であるが、凶作のときは身売りが頻発した。特に1931年と1934年の東北大凶作では多くの農民が餓死線上にまで追い詰められたという。
前借金は一定期間娼婦として働くことにより返済することになっていたが、悪徳業者は割高の衣食住経費や高い利子をかけて返済を先延ばしすることもあった。

家父長制

家父長制とは、家族とその構成員に対する統率権が男性の家父長(戸主)に集中している家族形態で、家父長の了解さえあれば、本人の意思とは無関係に遊郭に娘を売ることができた。家父長が博打などの道楽のために娘を売ることもあった。家父長制は、中世の武士階層が「家」を統制するために採用されたが、明治民法で家父長の権限が保証され、天皇を頂点とする中央集権国家を統制する手段として活用された。

(3) からゆきさん註212-3

からゆきさんとは、家が貧困のため海外に出稼ぎ(売春)に出た女性たちのことで、「天草子守唄」の歌詞にある「から(唐=外国)行き」が語源とされている。(コトバンク「からゆきさん」)

出身地、渡航先、規模

女性たちは長崎県島原半島と熊本県天草諸島の貧しい農漁村出身者が多かった。背景には大正期までの日本の農漁村では村単位の若者宿や娘宿に見られるように、性道徳や貞操観念が薄かったこともあるようだ。明治初期はシンガポール、ボルネオ、香港、インドネシア、フィリピンなど東南アジアへ渡る女性が多かったが、その後、シベリア、満州などにも進出した。最盛期は第一次大戦前後で約1万人の売春婦が東南アジアや中国、シベリアなどにいた。

終息

第一次大戦前後からシンガポール、フィリピン、インドネシア、シベリアなどで公娼制が廃止され、日本政府も取締りを強化したので、からゆきさんたちは減っていった。のちに、日本軍が慰安所を開設したとき、現地に残留したからゆきさんが設置に協力した場合もあったようだ。

(4) 朝鮮の公娼制註212-4

妓生(キーセン)

妓生は、宮中内の宴会などで楽曲を演奏したり踊ったり、賓客に性サービスを提供する役割を持った女性で、10世紀の高麗時代に制度化された。彼女たちは、身分的には最下層に属したが、歌舞を教えられ官僚や上流社会あるいは軍人へ性サービスを提供し、朝鮮の売春制度のもとになった。
1392年に成立した李氏朝鮮では、妓生学校の設立や妓生の全国的配置、兵士たちへの性サービスなどの妓生制度を確立した。

日本の公娼制導入

1876年、日朝修好条規により朝鮮は開国することになり、日本人居留地が形成されると日本の公娼制が持ち込まれた。日朝修好条規は江華島事件を機に結ばれた条約で裁判権や関税権などが日本寄りの不平等条約であった。日清戦争、日露戦争を経て日本の影響力は強まり、1910年に日韓併合が行われると、正式に公娼制度が導入された。

娼婦数と日朝比率

朝鮮総督府の資料によれば、1910年の芸妓・酌婦・娼妓合計の娼婦数は5千人余でうち8割は日本人娼婦だったが、ピークの1940年には13.8千人(同3割)となりその後は減少していく。1940年の日本(内地)の人口は約73百万人、娼婦は約175千人だが、朝鮮の人口約23百万人に対して娼婦数はかなり少ない。朝鮮で娼婦の原型になった妓生は上流階級向けであり、一般庶民に売春の慣習はなかったが、日本の公娼制導入により一般化した。それでも、当時の朝鮮では早婚の風習があったり経済的に貧しくて一般庶民が売春宿に通うことは少なかったのであろう。

娘の身売り

朝鮮王朝時代には、妓生は身分世襲つまり奴婢という階級からだけ採用されたが、日本の公娼制が導入されると日本と同様に、貧困家庭の娘が娼婦になることが多かった。当時の朝鮮の農民人口は8割と内地の2倍を占め、しかもその6割以上が小作農など土地を持たない農民で、農村の貧困度は内地を上回り、加えて1928,29,39,42,43年と続いた凶作の影響も大きかった。また、公娼制とともに日本から持ち込まれた家父長制は、もともと儒教倫理が強かった朝鮮の風土の中で家父長の権限をさらに強めることになり、身売りを促進することになる。形の上では、未成年者や本人の意に反した周旋は禁止されていたが、業者は巧みに規制をくぐりぬけていた。

(5)この節のまとめ

公娼制度ができて以来、娼婦にさせられたのは戦敗国の女性や最下層の貧民の女性たちだった。近代公娼制により性病検査が行われ、欧米では廃娼運動とともに公娼制が廃止されて婦女子の人身売買などが禁止されていったが、それは欧米の本国だけで植民地はそのままにされた。

日本では明治維新後も江戸時代からの遊郭制度を引き継ぐ一方で近代公娼制を導入したが、娼婦の解放には至らずに戦後を迎えた。その理由はおそらく、江戸時代まで続いた身分制度や家父長制、女性蔑視の意識、そして食べることさえままならない貧しさの存在だった。それらが解決したのは戦後、民主主義が何とか定着し、民衆の教育レベルが上がり、高度経済成長によって豊かな社会を迎えてからだった。日本は明治維新から50~60年で軍事的には列強と肩を並べるまでになったが、こうした問題が解決できるようになるまでには100年以上の歳月を必要としたのである。


2.1.2項の註釈

註212-1 日本の公娼制

元森絵里子:「自由意思なき性的な身体-戦前期日本の公娼制問題における「子ども」論の欠如-」,明治学院大学社会学・社会福祉学研究139号、2013年2月

秦:「戦場の性」, P27-P34

Wikipedia「公娼」

註212-2 日本の娼婦

秦:「戦場の性」,P29-P39

註212-3 からゆきさん

秦:「戦場の性」, P47-P52

Wikipedia:「からゆきさん」

註212-4 朝鮮の公娼制

秦:「戦場の性」, P27-P34

李榮薫:「反日種族主義」.P244-P248

Wikipedia:「韓国併合」、「妓生」、「日本統治時代の朝鮮」、「日本の人口統計」