日本の歴史認識慰安婦問題第1章 概要 / 1.1 慰安婦システム

flower第1章 概要

1.1 慰安婦システム

慰安婦制度は、日本の公娼制度に準じて運営された。慰安所の運営は主として軍が指定した業者が行ったが、慰安所の設置や慰安婦の徴募には軍が深く関与し、占領地や僻地では軍が直接慰安婦を徴募し、慰安所を運営するケースもあった。

 図表1.1 慰安婦システム

慰安婦システム

(1) 慰安所の設置

日本軍が最初に慰安所を設置したのは、1932年の第1次上海事変のときで、海軍が設置し陸軍がそれにならったといわれている註11-1。本格的に慰安所を展開するのは、日中戦争がはじまり南京が陥落したあとの1938年1月からで、戦線の拡大にともなって中国全土、東南アジアなどの日本軍占領地には慰安所が設置され、その数は400以上にのぼった註11-2

{ 近代戦史に珍しい慰安婦随伴の日本軍という姿は、南京事件がきっかけになって確立されたといえそうだ。}(秦郁彦:「南京事件」,P239)

(2) 設置の目的

陸軍省の文書註11-3によれば、慰安所を設置する目的として、士気の振興、軍紀の維持、略奪・強姦等の予防、性病の予防、などがあげられているが、実質的には強姦の防止と性病の予防が主たる目的であった。加えて、軍事機密の保持も目的のひとつとされている。目的を達成したかどうかは、数値データがないので何ともいえないが、強姦も性病も根絶できなかったことは確かである。なお、ドイツやイギリスなど他国の同様施設の主目的は性病予防だった。

(3) 慰安所の経営形態

軍慰安所の経営形態には次の3つのタイプがあった。(吉見:「従軍慰安婦」,P74)

軍直営の慰安所は辺地の末端部隊などにあり、その中には拉致・強姦とみまがうような私物の「慰安所」もあったが、多くの慰安所は業者が何らかの形で介在することが多かった註11-4

(4) 公娼制との関連

近代公娼制はフランスのナポレオン軍が行った性病管理の制度がきっかけとされている。日本でも1900年に「娼妓取締規則」を制定して近代公娼制がはじまった。第一次大戦後、世界的に廃娼運動が高まり、日本も国際連盟の勧告を受けて公娼制度を廃止しようとしたが、日中戦争開戦にともない棚上げされた。
秦郁彦氏は、{ 従軍慰安婦のシステムはこの公娼制の戦地版として位置づけるのが適切}(秦:「戦場の性」,P27) と述べているが、公娼制とまったく同じではなく、戦地であるがゆえの制約のほか、植民地や占領地での慰安婦の徴募方法など内地の公娼制とは異なる部分もあった。

(5) 慰安婦のリクル-ト註11-5

慰安婦は、日本人だけでなく、植民地だった朝鮮や台湾、日本軍が占領した中国や東南アジアの国々などからも集められたが、地域によって募集方法は異なった。

日本人慰安婦は業者が遊郭などから集めた。内地では警察が慰安婦対象者を国際法の制約から21歳以上の公娼(売春経験者)のみに制限していたが、なかには制限を無視して未成年者や未経験者を慰安婦にすることもあったようだ。公娼のほとんどは、内地の貧しい家庭から身売りされた娘たちだった。

戦線が拡大して日本人慰安婦だけでは不足するようになると、植民地(朝鮮や台湾)からも徴集するようになるが、これも朝鮮人を含む業者が徴募にあたった。徴募に当たっては植民地を管轄する総督のもと、警察や村長なども協力した。植民地では売春経験者もいたが、未成年の未経験者が多く、身売りされるか看護の仕事などとだまされて連れて行かれた者が多かった。

中国や東南アジアなどの占領地での徴募は、軍が前面に出て行うケースが多かった。地元の有力者に指示して集めさせたり、現地の業者に依頼したりしたが、軍が直接集めた場合もあった。南京では安全地帯にあった女性専用収容所からも集めている。フィリピンやインドネシアでは暴力的に連行した事例も報告されており、抑留所にいたオランダ人女性を強制的に慰安婦にしたケースでは、戦後のBC級裁判で戦犯として裁かれ、主謀者は死刑になっている。

(6) 慰安婦の生活

慰安婦の生活は、慰安所の場所(前線か後方の都市部か)や現地軍管理者・業者のほか、対象となる兵隊の数や質などにより、千差万別であったが、多くの慰安婦は下記註11-6のように厳しい生活を強いられた。

こうした厳しい生活の一方で、借金を返済するだけでなくお金を貯めることができた人、運動会などのレクリェーションを楽しんだ人、将兵に愛されて結婚した人、お国のためというモチベーションを維持していた人、兵隊たちから温かみのある対応を受けた人、などもいた。

アジア女性基金の理事だった大沼保昭氏は面会した朝鮮人元慰安婦から、慰安所で重い病気にかかったとき日本の軍医は一生懸命治療してくれたと言い、「大沼先生ね、わたしを地獄に連れてったのは日本人だった。でも地獄から救ってくれたのも日本人だったよ」と言われたという。(大沼保昭:「歴史認識とは何か」,P151-P152)

(7) 慰安婦の帰還

終戦を迎えて、日本人や朝鮮人慰安婦は郷里に帰ることになる。秦氏は{慰安婦の9割以上が生還したとみられる}(秦「戦場の性,P406) と言うが、満州では攻め込んできたソ連軍に強姦されたり、フィリピンやビルマあるいは中国の奥地に取り残された慰安婦も少なくなかった註11-7

うまく戻れた人たちも、売春を蔑視する韓国や日本では社会的差別が社会復帰を妨げただけでなく、性病や子宮疾患、不妊、あるいはPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しんだ註11-8。なかには、そうした差別を恐れて故郷に帰ることをためらった朝鮮人慰安婦を「結婚しよう」とだまして売春で稼がせようとしたが、拒否されて殺してしまった日本の男もいたらしい註11-9


1.1節の註釈

註11-1 最初の慰安所

{ 確実な資料によって確認される最初の軍慰安所は上海でつくられた。… 1931年9月18日、日本軍は中国東北(満州)の柳条湖付近で南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国側のしわざだとして戦争を開始した。いわゆる満州事変である。… 翌32年1月、上海で戦端をひらいた。第一次上海事変である。… 陸軍で軍慰安所設置にあたった上海派遣軍の岡村寧次参謀副長の回想によれば、慰安婦制度は、上海にいた日本海軍にならったというから、海軍がまず、軍慰安所を設置したらしい。}(吉見:「従軍慰安婦」,P14-P15)

註11-2 慰安所の数

(1942年9月3日の陸軍省の課長会議での報告){ 設置された軍慰安所は、華北100、華中140、華南40、南方100、南海10、樺太10、計400か所である。}(同上,P70)

註11-3 慰安所設置の目的

陸軍省副官通達「支那事変の経験より観たる軍紀振作対策」1940年9月19日

{ … 事変地に於ては特に環境を整理し慰安施設に関し周到なる考慮を払ひ殺伐なる感情および劣情を緩和抑制することに留意するを要す … 特に性的慰安所より受くる兵の精神的影響は最も率直深刻にして之が指導監督の適否は士気の振興、軍紀の維持、犯罪及び性病の予防等に影響するところ大なるを思はさるへからす }(吉見義明:「従軍慰安婦資料集」<資料28>、P168)

註11-4 軍直営の慰安所

{ 【軍直営】は過渡的存在で38年中にほぼ姿を消すが、のちになって辺地の末端部隊で見かけるようになる。私物の慰安所と呼べそうだが、業者は何らかの形で介在することが多かった。例外的とはいえ、実情がもっともわかりにくいのは、拉致、強姦と重なりあうこの種の「私物」で、払うべき代金を惜しみ、タダで済ませたり、暴力をふるう兵士もいたらしい。}(秦:「戦場の性」,P80-P81)

註11-5 慰安婦のリクルート

この部分は吉見:「従軍慰安婦」,P86-P127 を参考にした。なお、南京の例は、ミニー・ヴォートリンが管理していた金陵女子文理学院の収容所に1937年12月24日日本軍が来て、自由意思で応募した元売春婦21人を確保したことがミニーの日記とジョン・ラーベの日記に書かれている。

註11-6 慰安婦の生活

吉見:「従軍慰安婦」,P140-P158

註11-7 慰安婦の帰還

吉見:「従軍慰安婦」,P206-P207,P212-P213

註11-8 帰還後の慰安婦

吉見:「従軍慰安婦」,P213-P218

註11-9 だまされて殺された慰安婦

千田夏光:「続・従軍慰安婦」,P152-P157