1.事案の概要
X(原告)は,発明の名称を「逆転洗濯方法および伝動機」とする発明について,平成14年6月12日(パリ条約による優先権主張平成13年10月18日,中華人民共和国)を国際出願日とする特許出願をした(特願2003-536518号)が,平成20年5月15日付で拒絶査定を受けたので,平成20年8月18日に拒絶査定不服審判を請求するとともに,平成20年9月8日付けで明細書を対象とする本件補正を行った。
特許庁は,上記審判請求を不服2008-21115号事件として審理し,平成21年10月20日付けで審尋がなされ,Xが平成22年4月9日付けで回答書を提出したが,平成22年5月10日,本件補正を却下するとともに,「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をした。
なお,特許庁がXに提示した先行技術文献は,少なくとも次のとおりである。
拒絶査定時までに提示した文献
特開昭59-171588号公報(以下,「刊行物1」という。甲1)
特開昭53-025072号公報(甲3)
特表平09-500709号公報(甲4)
実願平4-27639号(実開平5-87352号)のマイクロフィルム
審尋で提示した文献
刊行物1
実願昭61-179182号(実開昭63-085495号)のマイクロフィルム(以下,「刊行物2」という。甲2)
実願昭63-111582号(実開平2-32822号)のマイクロフィルム
審決で提示した文献
刊行物1
刊行物2
甲3
甲4
特開平05-234911号公報(甲5)
2.争点
(1)拒絶査定時までに提示した先行技術文献とは異なる先行技術文献を用いて審判請求時の補正を却下して拒絶審決をする場合,審判請求人に拒絶の理由を通知する必要があるか。
(2)進歩性判断の誤り。
3.判決
審決取消。
4.判断
「第5 当裁判所の判断
1 取消事由1(審判手続の法令違背)について
(1)Xは,審決が,拒絶査定における引用文献と異なる引用文献を用いて補正発明の進歩性を否定したものであり,Xには,拒絶査定の理由と異なる拒絶の理由について意見書を提出する機会が与えられなかったから,審判手続には特許法159条2項で準用する同法50条の規定に違反する瑕疵があり,当該瑕疵は審決の結論に影響を及ぼす違法なものであると主張する。
(2)まず,審決に至るまでに審査官及び審判官が示した文献に焦点を当てて本件の経過をみるに,審査での拒絶査定(甲11)で示されたのは,刊行物1(特開昭59-171588号公報)及び特開昭53-25072号公報(甲3)の公知文献のほか,特表平9-500709号公報及び実願平4-27639号(実開平5-87352号)のマイクロフィルムであったのに対し,Xが審判請求とともにした本件補正後に審判で示された審尋書(甲15)で,刊行物1のほか,新たに刊行物2(実願昭61-179182号(実開昭63-85495号)のマイクロフィルム)と実願昭63-111582号(実開平2-32822号)のマイクロフィルムを提示して拒絶すべきものとする前置報告書の内容がXに示され,改めて拒絶理由が通知されない限り特許法17条の2所定の補正はできないが,審尋に回答するよう求め,Xはこれに対して,本件補正は独立特許要件を充足すること,また,補正案を示して更に請求項1を補正する機会を与えてほしいことなどを内容とする回答書(甲16)を提出したが,そのまま審決に至ったというにある。
(3)本件出願に関して争点となっている法条については,平成5年法律第26号により改正された特許法17条の2及び50条が適用されるところ,本件補正は,平成6年法17条の2第1項3号に該当する拒絶査定不服審判請求日から30日以内に行う補正であるから,同条の2第3項ないし5項に規定される要件を満たす必要があり,特許請求の範囲の減縮を目的とする補正について同条の2第5項により準用される同法126条4項は,「発明が特許出願の際独立して特許を受けることができるものでなければならない」と規定するから,本件補正は,いわゆる「独立特許要件」を充足する必要がある。
一方,同法53条は,同法17条の2第1項2号に係る補正が,同条3項から第5項までの規定に違反している場合には,決定をもってその補正を却下すべきものとし,同条は,同法159条1項で読み替えて拒絶査定不服審判に準用される。また,同法50条ただし書は,拒絶査定をする場合であっても,補正の却下をするときは,拒絶理由を通知する必要はないものとし,同条ただし書は,同法159条2項で読み替えて拒絶査定不服審判に準用される。したがって,拒絶査定不服審判請求に際して行われた補正については,いわゆる新規事項の追加に該当する場合や補正の目的に反する場合だけでなく,新規性,進歩性等の独立特許要件を欠く場合であっても,これを却下すべきこととされ,その場合,拒絶理由を通知することは必要とされていない。
ところで,平成6年法50条本文は,拒絶査定をしようとする場合は,出願人に対し拒絶の理由を通知し,相当の期間を指定して意見書を提出する機会を与えなければならないと規定し,同法17条の2第1項1号に基づき,出願人には指定された期間内に補正をする機会が与えられ,これらの規定は,拒絶査定不服審判において査定の理由と異なる拒絶の理由を発見した場合にも準用される。審査段階と異なり,審判手続では拒絶理由通知がない限り補正の機会がなく(もとより審決取消訴訟においては補正をする余地はない。),拒絶査定を受けたときとは異なり拒絶査定不服審判請求を不成立とする審決(拒絶審決)を受けたときにはもはや再補正の機会はないので,この点において出願人である審判請求人にとって過酷である。特許法の前記規定によれば,補正が独立特許要件を欠く場合にも,拒絶理由通知をしなくとも審決に際し補正を却下することができるのであるが,出願人である審判請求人にとって上記過酷な結果が生じることにかんがみれば,特許出願審査手続の適正を貫くための基本的な理念を欠くものとして,審判手続を含む特許出願審査手続における適正手続違反があったものとすべき場合もあり得るというべきである。
(4)本件においてされた補正却下に関する事情として,@本件補正の内容となる構成が補正前の構成に比して大きく限定され,すなわち,補正前発明が,駆動力入力端と2つの駆動力出力端とを含み双方向駆動を生じさせるための洗濯機において,駆動力伝達のための機構が,「駆動力入力を2つの駆動力出力に変換可能な歯車箱」と一般的に記載されていたのを,本件補正は,図面等に示された実施例の内容に即して,歯車箱内の歯車を二対の歯車部(15,28)を中心に具体的構成を特定するものであって,補正発明の構成に係るものであるが,この新たな限定につき現に新たな公知文献を加えてその容易想到性を判断する必要のあるものであったこと,A審尋で提示された公知文献はそれまでの拒絶理由通知では提示されていなかったものであること,B審尋の結果,Xは具体的に再補正案を示して改めて拒絶理由を通知してほしい旨の意見書を提出したこと,C後記2で判断するとおり,新たに提示された刊行物2の記載事項を適用することは是認できないこと,などの事実関係がある。本件のこのような事情にかんがみると,拒絶査定不服審判を請求するとともにした特許請求の範囲の減縮を内容とする本件補正につき,拒絶理由を通知することなく,審決で,従前引用された文献や周知技術とは異なる刊行物2を審尋書で示しただけのままで進歩性欠如の理由として本件補正を却下したのについては,特許出願審査手続の適正を貫くための基本的な理念が欠けたものとして適正手続違反があるとせざるを得ないものである。本件においては,審判においても,減縮的に補正された歯車の具体的構成に対し,その構成を示す新たな公知技術に基づいて進歩性を否定するについては,この新たな公知技術を根拠に含めて提示する拒絶理由を通知して更なる補正及び意見書の提出の機会を与えるべきであったというべく,この手続を経ることなく行われた審決には瑕疵があり,当該手続上の瑕疵は審決の結論に影響を及ぼすべき違法なものであるから,X主張の取消事由1には理由がある。
(5)Yは,平成5年法改正が,出願当初から多項制を活用して補正をあまり行わない出願と過度の補正を行う出願との不公平を是正し,審査・審判の迅速性を確保するために行われたものであり,最後の拒絶理由通知を受けた後になされた補正や拒絶査定不服審判を請求する際の補正が不適法である場合,直ちに当該補正を却下するという制度設計がなされたものであると主張する。
確かに,平成5年法改正は,Y主張のように,補正の目的を制限すること等により審査・審判の迅速性を確保することをその趣旨としたものということができる。しかし,平成5年法改正がこのような趣旨であり,補正が繰り返されるのは好ましくないとしても,それまでに示されなかった拒絶理由の枠組みに対する適切な手続保障が失われてはならず,過度の補正が行われた出願については別途の考慮を要するとして,本件の前記事実関係の下に,新たな公知技術が拒絶理由で示されないまま審決で補正発明につき独立特許要件欠如として容易想到の結論に至ることが許されないことに変わりはない。
Yは,審尋において,前置報告書の内容を示して意見があれば回答をするよう求め,具体的に刊行物2を示してその内容に基づいて補正発明が進歩性を欠く旨を述べ,これに対しXは,平成22年4月9日付け回答書を提出して,刊行物2及びその他の引用文献について詳細に反論し,補正発明が進歩性を有する旨を主張しているのであるから,この点について意見を述べる機会が与えられなかったとはいえないと主張する。
しかし,上記の手続は,審尋において刊行物2を示しただけであり,拒絶理由を通知して意見書の提出を求めたものではないから,補正案を示して補正の機会を与えるよう要望し,新たに示された刊行物2に対応した補正を予定していたXの手続保障に欠けるものであって,前示のような適正な審判の実現と発明の保護を図るという観点を欠くものである。
2 取消事由4(相違点2についての進歩性判断の誤り)について
(1)Xは,刊行物2の反転装置3が,外軸5には前方プロペラが取り付けられ,内軸4には後方プロペラが取り付けられて,「主として船舶に用いられる」ものであるところ,船舶のプロペラに関する技術は,極めて専門的であるのに対して,補正発明の伝動機構が使用される洗濯機は,一般になじみが深い家庭電化製品の一種であり,また,船舶のプロペラの駆動機構は非常に大型であるのに対して,洗濯機の駆動機構は相対的に小型であり,両者間には設計に関して大きな相違が存在するから,洗濯機に関する刊行物1発明に,これらと技術分野が異なる刊行物2発明を適用することはできないと主張する。
(2)そこで検討するに,補正発明は,「洗濯機での使用に適した伝動機構」に関するものであり,刊行物2発明は,「洗濯兼脱水槽を備えたいわゆる一槽式脱水洗濯機」に関するものであって,いずれも一般家庭で利用される電化製品に搭載される比較的小型な動力伝達機構に関するものである。これに対して,刊行物2発明は,「主として船舶に用いられる二重反転プロペラのための反転装置」,すなわち,船舶等のプロペラ駆動用途で使用される非常に大型の動力伝達機構に関するものである。このように軽量な衣類を洗濯するための動力伝達機構と,重量のある船舶を推進させるための動力伝達機構とでは,設計思想に大きな相違が存在することが技術上明らかであるから,補正発明及び刊行物1発明と刊行物2発明とは,技術分野が異なるものと認められる。
また,刊行物1発明は,刊行物1によれば,従来の洗濯機における「洗濯兼脱水槽自身による回転運動がなく,撹拌体の回転運動のみにより洗浄を行うため,布の損傷,洗いむらが多い」という課題を前提として,「布の損傷,洗いむらを少なくし,洗浄性能の優れた一槽式脱水洗濯機を提供すること」,すなわち,衣類の洗浄力の向上を解決課題とするものと認められる。これに対し,刊行物2発明は,刊行物2によれば,「面間寸法を小さくできるようにするとともに,小歯車とたわみ軸とによるトルク伝達量を従来の場合よりも小さくできるようにして,配置上の利便と構造上の小型軽量化とをはかれるようにした,二重反転プロペラ用反転装置を提供すること」を解決課題とするものと認められる。ここにいう二重反転プロペラとは,主プロペラの回転により生じる反トルクを打ち消すために,主プロペラとは逆方向に回転する副プロペラを設けた機構をいい,技術上,以下の理由により,主に飛行機や船舶等で用いられるものと認められる。すなわち,空中や水上を走行する飛行体や船舶は,地上に配置された物体や地上を走行する走行体と比較して姿勢が安定しないため,推進用の主プロペラを高速で回転させるほど,これとは逆方向に姿勢が傾く傾向が大きくなることから,副プロペラを設けて,これを主プロペラとは逆方向に回転させることによって,主プロペラの回転に起因した姿勢の傾きを抑制する必要があるのである。
そうすると,刊行物1発明は,衣類の洗浄力の向上を課題とした技術であるのに対して,刊行物2発明は,船舶等の姿勢の安定化を本来的な課題とした船舶等に固有の技術である点で,両者の解決課題は大きく隔たっている。
(3)以上のとおり,刊行物1発明の洗濯機の動力伝達機構と,刊行物2発明の船舶等の二重反転プロペラの動力伝達機構とは,技術分野が相違し,その設計思想も大きく異なることから,洗濯機の技術分野に関する当業者が,船舶の技術に精通しているとはいえず,洗濯機の動力伝達機構を開発・改良する際に,船舶等の分野における固有の技術である二重反転プロペラに類似の技術を求めることは,困難であるというべきである。また,洗濯機は,通常,床面上に設置して安定な状態で使用されるから,撹拌機や内槽の回転によって生じる反トルクの問題を考慮する必要がないことが一般的であると解される。
したがって,当業者が,洗濯機の分野では本来的に要求されない二重反転プロペラに関する刊行物2の記載事項を,刊行物1発明に適用することは困難であり,この点を主張する取消事由4には理由がある。
(4)以上の点についてYは,刊行物1発明と刊行物2発明とは,伝動機構である点で同じ技術分野に属するものであり,また,1つの駆動力入力を2つの駆動力出力へと変換する,動力を伝達するという共通した作用,機能を有すると主張する。
しかし,解決課題が大きく隔たっている公知技術を組み合わせるに当たって,両者が動力伝達機構という汎用性の高い一般的技術分野に属するとしてその容易性の有無を判断することは慎重でなければならず,Yの主張を採用することはできない。
Yは,刊行物2に「主として船舶に用いられる」との記載があるように,この記載は例示にすぎず,その構造上,歯車機構を用いた反転装置自体に,船舶以外の用途に用いることを可能とする汎用性があることは明らかであるとも主張する。
しかし,明細書において当該発明を適用する技術分野が例示であると記載されているからといって,すべての技術分野の他の技術が適用容易となるものでないことは明らかであり,本件のように複数の発明を組み合わせて出願された発明の進歩性を否定しようとする場合には,それぞれの発明の技術分野,解決課題,組合せの動機付け等を具体的に検討しなければならない。刊行物1発明と刊行物2発明とは,前記のとおり,技術分野が異なるだけでなく,その解決課題も大きく隔たり,組合せの動機付けも明確でないから,Yの主張は採用することができない。
第6 結論
以上のとおり,X主張の取消事由1及び4には理由がある。よって,Xの請求を認容することとして,主文のとおり判決する。」