無意志動詞、involitive verb。シンハラ語文法ではニシュカルマ動詞とか、アカルマカ動詞と呼ばれる。そして、無意志動詞の現れる文をニルットサーハカ文(無意志動詞文)と呼ぶ。この無意思動詞文がシンハラ語を最もシンハラ語らしくする…
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無意志動詞involitive verbはシンハラ文法でニシュカルマ動詞やアカルマカ動詞と呼ばれます。また、無意志動詞の現れる文をニルットサーハカ文(無意志動詞文)と呼びます。
でも、無意思の文とはいったい何なのでしょう。シンハラ語らしさの現れた文と言われるけれど、無意思動詞が使われるとどんなことが起こるのでしょうか。
ニルットサーハカ文はシンハラ語の日常会話で頻繁に現れます。日常茶飯の普通の出来事なのですが、日本語では頓着しないことなので--私たちは無意思文とか無意志動詞とか教えられてこなかったので--、日本の人はシンハラ語を話すようになってもこれを普通に聞き流してしまう。
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態を表すシンハラ文法用語
パラスマイパダ |
能動態
volitive voice |
සකර්මක ක්රියාව |
サカルマカ・クリヤーワ
transitive verb
他動詞 |
කර්ර්තකාරක වාක්ය |
カルルタ・カーラカヤ
active voice
能動態文 |
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アートマネーパダ |
中動態
involitive voice
deponent
අවේතනික ශාවයි |
අකර්මක ක්රියාව |
アカルマカ・クリヤーワ
intransitive verb
非他動詞(自動詞) |
නිර්ත්සාහක ක්රියාව
නිර්ත්සාහක ආක්ය |
ニルットサーハカ・クリヤーワ
無意志動詞
ニルットサーハカ・ワーキャ
middle voice
中動態文 |
ආත්මනේ පදය |
アートマネー・パダ
involitive or deponent verb
無意志動詞(非他動詞) |
- |
受動態
passive voice |
කර්මකාරක ක්රියාව |
カルマカーラカ・クリヤーワ
passive verb
受動態動詞 |
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無意志文は、そのままずばり、話し手の意思が現れない文のこと。文法上では、何かが動作主(話し手)に働いて…働きを受ける動作主は主格でなく与格で表示され…そのために動作主の意思が動作・行動・行為に働きかけを持っていないことが表される。これが無意思文です。
こう説かれても何だかわかりにくい。
例えれば、皿を割ってしまったとして、「(私が)皿を割った」と言うべきところを「皿を割れた」と言い逃れてしまう---ような--ことが無意思文"的"な言い方かも。「を」という助詞を使ったり、「割れた」という言い回しをしたら明らかな間違いです。でも、これがシンハラ語なら間違いではない。
こんな風に聞いてしまうと、ははあ、だからシンハラ人は無責任なのか、何かヘマやらかしても「自分がやったんじゃない」と彼らが言い逃れするのはそういうことか、と早合点される人がおられるかも。だが、そこは少し違います。
日本語だって、私たちは普段、意識していませんがずいぶんと無意志文がのさばっている言語です。
「なる」と「する」という言い回しで文を分ければ、「なる」で表現される文はシンハラ語の無意志動詞文に近い。動作主(話し手)が主体となって「する」のではなくて、他の何かが作用して「そうなった」。皿を割っても「皿が割れちゃった」と言い逃れるような気分。日本語もシンハラ語の無意思文"的"な言い方で世間を渡っています。

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シンハラ文法用語のニルットサーハカをチャールス・カーターのシンハラ語=英語辞典で引くと involitive の訳語と共に deponent という単語が出てきます。この deponent をシンハラ受験生必携のマララセーカラ英語=シンハラ語辞典で引き直します。
すると、そこにアートマネー・パダආත්මනේ පදය atmanepada という訳語が載っています。サンスクリットに出てくる、あのアートマネー・パダ。中動態です。
アートマネーパダとは?
アートマネーパダはパラスマイ・パダ parasmai pada と対になるサンスクリットの文法用語です。
パダは「単語」を表しますが「ことば/文」の意味でも使われます。
サンスクリットはシンタックスのルールが希薄で構文論もありません。「単語」と「文」は未分化で単語はそのままで文にもなる。ですから、パラスマイパダという用語は「動作主(文の主語)が動作主以外に対して動作/行為を働きかける単語」のことであると同時にそうした作用を表す文をも指しています。
サンスクリットの流れを汲むパーリ語を文法の基礎に置くシンハラ語はパラスマイ・パダをサカルマカ動詞sakarmaka kriyaava/サカルマカ文sakarmaka vaakyaa と呼んでいます。他動詞/他動詞文のことです。
一方のアートマネー・パダですが、これはうまく日本語文法に収まる用語がありません。英語にもないのですが、日本語でも、これが扱いに窮してしまうタイプの動詞なのです。
アートマネー・パダは目的語を持たない。自己完結の動詞です。パラスマイ動詞を他動詞とするのに準じてアートマネー・パダを自動詞とすることがあります。でも、自動詞としてしまうと何かすわりが悪い。「動詞の表す事態が動作主自身(主語)に及ぶ」ことを表すと言うのですから他動詞ではないのですが、自動詞とは言い切れない。動作が起こるのは「自ら(みずから)」ではなくて「自ずから(おのずから)」であって、動作主が不在だからです。
そうなら、再帰動詞? いえ、そうでもない。シンハラ文法ではこの処を「動作主にとって動詞の作用・行為がニラーヤーサniraayaasa の状態(without effort / easy)にある」と表現してアートマネー・パダを説明します。
nir-は「超越した」「乗り越える」あるいはただ「行くこと」を意味します。ニラーヤーサは作為・行為を超えた状態。何かが導くこと。何かに導かれることなのです。シンハラ語のニルットサーハカ文(無意志動詞文)がニパータのTaを伴う与格主語を用いる訳がここにあります。動詞の及ぼす作用は主語(動作主)が原因でないというしるしを不変化詞、シンハラ文法で言うニパータのTaで表します。ここに現れる「名詞+不変化詞」のパターンを与格名詞と呼んでいます。ここがデポーネントdeponentな感じなのです。
deponentな表現ってどんなこと?
大学入試に欠かせないマララセーケラ英語=シンハラ語辞典。この赤本にのっているdeponentの訳はආත්මනේ පදය だった。「皿を割れた」では1~3までシンハラ語の無意思文に触れてきました。そして、シンハラ文法でいう無意思文の世界が英語ではdeponentである、ということにも行き当たりました。
ここからは英語世界で無意思文が---deponent!--がどう扱われているのか、覗いてみましょう。日本語はインド世界の言語に括られるシンハラ語と共通する口語構造を基盤に持っているのですが、その現象面では、言い換えれば昭和以降の私たちの気分はたぶんに英語的世界の波間に漂っています。無意思文など「ない」という明晰な世界です。しかしながら、英語も、ここの部分は揺れています。「ない」のか「ある」のかその「中間」か。
グーグル・グループのサイトsci.langでdeponentが話題になっています。だいぶ前のことですが、こんな書き込みがありました。
1 |
I opened the door with a key. |
私はドアを鍵で開けた |
2 |
The key opened the door. |
鍵でドアが開けられた(鍵で開けられたドア)×鍵がドアを開けた |
3 |
The door opened. |
ドアが開いた、ドアが開けられた ×ドアが開けた |
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×印は文型からはそう訳せるものの、文として意味を成さない例です。
いまもdeponent関連でググれば同じような例文が掲載されています。
上記の例では、3番目の「ドアが開いた」が注目される文です。The door opened --「ドアが開いた」--という捉え方が deponent だからです。
このdeponentを中動態middle voiceと呼ぶ態caseの表現だと言うのですが、なにか、足りない。ポイントがずれかかっています。能動態と受動態の間にあるから中動態、ミドルだなんて、この用語も変な据え方です。能動態の「する」、受動態の「される」。その中間に何が来るといって、「するでもない、されるでもない」としか言いようがない、ミドル。何だか窓際のミドル・エイジのようで。中動態のミドルって、一体、なに?
中動態ってなに?
英語には middle voice なんてありません。英語は「(誰某が/何かが)開けた」「(誰某に/何かに)開けられた」という表現を能動態と受動態で表しますが、動作主(主語)を不在にして「開いた」とは言えません。動作主が不在なら動作主による行為そのものが存在しないから。
英語に中動態はない。
でも、つぎの謎謎がsci.langの論争に加えられています。中動態と思しき英文を問うているのです。
Q;形は受動態で意味は能動態。なぁんだ? A;デポネント動詞
Q;形は能動態で意味は受動態。なぁんだ?
A;自動詞
では、次の英文の意味は?
I married her. A practical Sanskrit Introductory / Charles Wikner / 3B1
この問いの答えは一つではありません。
答① この言葉を花婿が言ったなら 「私は彼女と結婚した」。
答② この言葉を牧師が言ったなら 「私は彼女を結婚させた」。
これをシンハラ文法で答えれば、
①はアートマネーパダとしての訳、②はパラスマイパダとしての訳です。
では、もう一問。
今度はアートマネーパダとしての訳とパラスマイパダの訳を答えてください。
She takes a good picture
答 ① 「彼女、写真写りがいいね」? アートマネーパダ。
② 「彼女、いい写真を取るね」? パラスマイパダ。
married や take は他動詞であり、自動詞でもある。そして、自動詞の中のデポネント動詞でもあるというややこしい三重性を持っています。
これらの質問がややこしいのは、英語ではアートマネーパダとしての意味を語形や文形から知ることができないからです。デポーネントの状況、ムードを表すには「be動詞+過去分詞」という変則の文型パターンを作って、シンハラ語にある無意志動詞文(のようなもの)をバーチャルに仮設しなければなりません。これは「is gone」のような言い回しに現れる特別な意味のことであって注)、通常の受動態表現をつくる「be動詞+過去分詞」とは異なります。
注)
Age of Empires is gone 帝国主義は終わった
everyone else is gone 誰もいない
All of the cake is gone. ケーキはすべてなくなった
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サンスクリットではパラスマイパダは語尾が -i 形で(一人称)、アートマネーパダでは -e 形になります。
シンハラ語の場合、サカルマカ(他動詞)の動詞語幹語尾は多くの場合 -a 形、アカルマカ(自動詞)とニシュカルマ(無意志動詞)では -e 形になります。更に -e 形語尾は動詞の第一母音が a 音であれば /a/ 音に変わります。 ここがポイントです。
そして、ここから次の用法が生まれます。無意志動詞を用いて受動態が作れるという変則です。
シンハラ語は受動態をどう表現するか
シンハラ語には受動態がない。これは原則です。中動態を世界観とする言語の特色とも言えそうです。この無意志動詞の中動態が受動態をカバーする、ってどんなこと?
注)
能動態 හේ වැඩ කරයි
へー ワェダ カライ
彼は/が 仕事を する
主格/主語 対格/目的語 他動詞・現在/述語
受動態 ඔහුගෙන් වැඩ කෙරෙයි
オフゲン ワェダ ケレイ
彼によって 仕事は された (偶然に、彼も知らぬ間に)
奪格/主語 対格/目的語 自動詞/述語
中動態 ඔහුට වැඩ කෙරෙයි
オフタ ワェダ ケレイ
彼に 仕事は なされた (偶然に、彼も知らぬ間に)
与格/主語 対格/目的語 他動詞+補助動詞/述語
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上の例は前出カルナティラカ「シンハラ語文法」の能動態・受動態の比較文例177ページに中動態を加えて作りました。「によってගෙන්」というニパータ(助詞)と無意志動詞の組み合わせで受動態っぽい文語になっています。本来、シンハラ語は受動態を表す動詞形を持ち合わせていないので、不変化詞(ニパータ)を添えて新たな表現形式の受動態を作るのです。
でも、なんか、これ、シンハラ語っぽくない。口語では、まず、使わない表現。だって、受動態を作ったら動作主を意識して名指ししなくてはいけなくなるのですから。日本語の気分と同じように「誰がやった」なんてシンハラ語は(口語では)言わないのです。
日本語には中動態があるのか
日本語の多くの動詞は中動態だ、という論があります。能動態も受動態も主語がなければ定義できませんから主語を外す文で会話する日本語ではシンハラ語にあるような中動態が生じても無理のないことです。日本的な「受け身表現」がそんな中動態の有様をよく呈しています。日本人の生活そのものが主語を持たない中動態なのですから、それが言語に波及しない訳がありません。
W.S.カルナーティラカが中動態表現を作るシンハラ語の無意志動詞をこう規定しています。
කර්තගේ විශේෂ උත්සාහයක් නොමැතිව වේතනාවෙන් තොරව බාහිර හේතු ආදිය නිසා ඉබේටම කෙරෙන ක්රියා නිර්ත්සාහක ක්රියා නම් වේ.
සිංහල භාෂා ව්යාකරණය / ඩබ්ලිව්. එස්. කරුණතිලක / ගුණසේන / 2004
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行為者の特別な意志によるのではなく、また、行為がリフレクト(受身)によってなされるのでもなく、行為者の外部に発する原因などによって行為者自身が行ってしまう動作を表すのがニルットサーハカ動詞(無意志動詞)である。 |
Sinhala Bhasha Wakaranaya p.178 / W.S.Karunathiraka/Gunasena/2004 |
英語のdeponentとは異なり、文を支配する主語は必要ない。動詞の行為は言及されない何者かによる。カルナティラカはそう明晰に指摘するのです。言及されない主体は明確に言及されないのです。
When you're gone の場合
これは歌のタイトル。When you're gone -- 英語には存在しないはずの自動詞の受動態です。文法解釈にこだわれば、goneは過去分詞の形容詞であるというような解釈をするのかもしれませんが、これは意味としてdeponentを表す自動詞、中動態の動詞と読めます。
このbe+gone、決してhave+goneではない。have+goneならto LosとかTexasとかの行き先を表せますがbe+goneはここで閉じられます。どこへ行くのでもない。「行ってしまった。(だからここにはいない)」と表現されるだけで、宙ぶらりんな言い回し。
When you're gone はさまざまな歌手に歌われています。そのデポーネントな気分。
Go という動詞は自動詞だから受動態は作れない。
でも、「あなたは去ってしまった」を完了形のyou have gone ではなく受動態のyou are goneで表したのがこの歌です。統語としてはナンセンス。だけど、このbe動詞+自動詞Goの二語のつながりが「自動詞の受動態」を作って、英語になかった無意思文を英語の中に新たに注ぎ込んでいる。
「あなたYou」は「去ってしまったare gone」けど、それは「あなた」の意志でそうしたのではなくて「なぜか分からないけどそうなった」。
日本のテレビでWhen you're gone を歌った歌手がいました。あれ、眼張りギラギラのアメリカンな化粧で歌ってた。これはMeのようにシンプルなdeponentで歌って欲しい。Meの歌い振りは一押し。
今回のタイトル「皿を割れた」はシンハラ語の無意思表現を日本語に直訳したものですが、これでは日本語としてNG。「皿が/は 割れた」が正しい。でも、シンハラ語は「皿が割れた」を「皿を割れた」と対格で表現する。しかも主語(行為者)は与格。
シンハラ語と日本語は名詞に接尾辞(ニパータ/助詞)を付けて格を表し、動詞の語形を変化させて態を表します。シンハラ語と日本語は文に主語がいらないことも同じ。ようく似ています。無意思文を平気で使いまわすというところも。
でも、日本語とシンハラ語は語族として何のゆかりもない。縁もゆかりもない二つの言語がこうして言語の性格を共有しているだなんて。
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