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☆ くにやす うたがわ 歌川 国安浮世絵師名一覧
〔寛政6年(1794) ~ 天保3年(1832)7月6日没・39歳〕
(西川安信〈やすのぶ〉参照)
 ※①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録データベース」「国書データベース」〔国文学研究資料館〕   ④〔早大〕  :「古典籍総合データベース」早稲田大学図書館   ⑤〔東大〕  :『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔日本書誌学体系67・近世文学読書会編〕    〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔中本型読本〕:「中本型読本書目年表稿」   ⑬〔人情本〕 :『人情本事典』    〔日文研・艶本〕:「艶本資料データベース」  〔白倉〕   :『絵入春画艶本目録』     角書は省略。①~⑥は「合巻年表」の出典。◎は表示不能あるいは難読文字  ☆ 文化五年(1808)    ◯「咄本年表」〔目録DB〕(文化五年刊)    歌川国安画『噺の百千鳥』歌川国安画 三笑亭可楽作    ◯ 画工名「安」から「国安」への改名   ◎文化五年四月 市村座「道行初音鳥」より「井筒や舟頭房 尾上栄三郎」落款「豊国門人安画」
   「井筒や舟頭房 尾上栄三郎」「豊国門人安画」(早稲田大学「演劇博物館浮世絵閲覧システム」)    〈これが国安の役者絵の上限と思われる〉   ◎文化五年五月 中村座「義経千本桜」より「平の友もり 中村歌右衛門」落款「豊国門人 安画」
   「平の友もり 中村歌右衛門」「豊国門人 安画」(早稲田大学「演劇博物館浮世絵閲覧システム」)   ◎文化五年五月 中村座「義経千本桜」より「狐忠信」中村歌右衛門 落款「豊国門人 安画」
   「きつね忠のぶ 中村歌右衛門」「豊国門人 安画」(ライデン民俗学博物館)    〈画像の所在情報はベルギー在住のギ ペペレマンセ(Guy Pepermans)氏から寄せられました〉
   「きつね忠のぶ 中村歌右衛門」「豊国門人 安画」    〈この画像はギ ペペレマンセ(Guy Pepermans)氏のご提供です〉      〈無名翁(渓斎英泉)の『無名翁随筆』の歌川国安の項目に「文化の始め、錦絵を出せり【中村歌右衛門千本桜忠信道     行ノ画アリ】」という記事がありますが、この「きつね忠のぶ 中村歌右衛門」がその記事の役者絵にあたります〉    ◎文化五年十一月 中村座「御摂恩賀仙」より「平の清盛 中村歌右衛門」落款「豊国門人 国安画」
   「平の清盛 中村歌右衛門」「豊国門人 国安画」(早稲田大学「演劇博物館浮世絵閲覧システム」)       〈以上、落款の変化から、「安」から「国安」への改名は文化五年であることがわかる〉     ☆ 文化七年(1810)    ◯「日本古典籍総合目録」(文化七年刊)   ◇常磐津    歌川国安画『有則恋重荷』二冊 歌川国安画 桜田治助作     ◯『一対男時花歌川』(式亭三馬作・前編 歌川豊国画、後編 歌川豊広画・文化七年刊)   (三馬口上)   〝これにひかへましたる小せがれハ豊広せがれ歌川金蔵、つぎにひかへをりまするハ豊国門人文治改歌川    国丸、安治郎改歌川国安、これにひかへしかわいらしいふりそでは私門人益亭三友、いづれもじやくは    い(若輩)ものどもにござりますれバ、御とり立をもつて、すゑ/\大たてものとなりまするやう、豊    ひろ豊くに私にいたるまで、ひとへに/\希奉ります〟    〈安治郎から国安の改名時期は文化五年。『一対男時花歌川』の出版の経緯は下出「一対男時花歌川」『戯作六家撰』     に出ている。(本HP「浮世絵事典」の項「一対男時花歌川(イッツイオトコハヤリウタガワ)」参照)下出の挿絵は口上の場面、     肩衣に「馬」の字は三馬の門人、肩衣に「年玉印」は歌川門の人々。いわば一門あげての和解である。豊国が中央、     左右に豊広と三馬がいて、背後に双方の弟子たちが控える。名を列記すると、三馬側は益者三友・徳亭三孝・楽亭馬     笑・古今亭三鳥。歌川派は豊広の脇に倅の金蔵、そして国貞・国丸・国安・国長・国満が控える。ただ、国貞はなぜ     か一人だけ離れて、三馬の門人側に座っている。この挿絵は豊国が画いたのだろうが、この配置に何か意味があるの     だろうか。そして挿絵の上部にやはり連中の名の入った提灯が下がっている。右から馬笑・三馬・三孝・三鳥・三友     ・豊広・金蔵・年玉印だけのもの・国貞・国安・国政・豊国・国長・国満・国丸・国久・国房と並んでいる。     2013/10/24修正追記〉
   『一対男時花歌川』前編・口上 豊国画 (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    「一対男時花歌川」(『戯作六家撰』)  ☆ 文化八年(1811)    ◯「合巻年表」(文化八年刊)    歌川国安画    『五人揃紋日大寄』「一陽斎の楼上にて 歌川国安画」   益亭三友作 西宮新板 ①    『豊の伊呂波』  「前編 歌川国安画 後編 歌川国満画」竹塚東子作 西与板  ①    ☆ 文化九年(1812)     ◯「合巻年表」(文化九年刊)    歌川国安画『豊の伊呂波』前編「歌川国安画」後編「歌川国満画」竹塚東子作 西与板 ①     〈文化六年刊『春慶物茶番狂言』の改題再摺本〉    ◯「死絵年表 文化九年」(本HP・Top・特集)    歌川国安画「沢村宗十郎(四代目)瀬川菊之丞(四代目)」一点     署名「国安画」「極」 版元印なし  ☆ 文化十年(1813)     ◯『馬琴書翰集成』⑥323 文化十年(1813)「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
   「文化十年刊作者画工番付断片」    〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと〉     ◯『俗曲挿絵本目録』(漆山又四郎著)   ◇浄瑠璃・常磐津(文化十年刊?)    歌川国安画『四季詠寄三大字』(常磐津)国安画 福森久助・瀬川如皐作 伊賀屋板〔文化10/03/07〕    〈〔~〕は立命館大学アート・リサーチセンター「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」の上演データ〉     ☆ 文化十一年(1814)     ◯『噺本大系』巻十五「所収書目解題」(文化十一年刊)    歌川国安画『駅路馬士唄』表紙「國安画」二世恋川春町作 山口屋板    〈国安は表紙。挿絵は二代目喜多川歌麿(署名「哥麿画」)〉     ☆ 文化十二年(1815)     ◯「合巻年表」(文化十二年刊)    歌川国安画    『通神百夜車』歌川国安画 西川光信作 鶴喜板(注:日本小説年表による)①  ☆ 文化~文政期(1804-1829)  ◯「双六年表」〔本HP・Top〕   「むかしむかしあか本じたて頼光山入双六」「国安画」加賀屋吉右エ門   「諸国狂歌師見立双六」「歌川国安画」板元未詳    〈中央のコマに芍薬亭撰の『狂歌万花集』(文政年間刊)に関する記事あり〉  ☆ 文政元年(文化十五年・1818)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政元年刊)    歌川国安画『以代美満寿』一冊 立川談洲楼焉馬序     大和画元祖図鳥居清元図 五渡亭国貞画 武清筆 法橋玉山 春亭画 夸斎 秋艃筆      かつしか戴一筆 清信筆一円斎国丸縮写 国安画 豊国画     ☆ 文政二年(1819)     ◯「合巻年表」(文政二年刊)    歌川国安画『狐拳之濫觴』「歌川国安画」茗渓庵主人作 柳亭種彦校閲 ④     <七月 見世物 籠細工(細工人 亀井町笊籠師・酒呑童子等)両国広小路>  ◯『観物画譜』8~9( 朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)   8「難波籠細工 大江山酒呑童子の図」錦絵 署名「国安画」丸屋文右衛門板   9「口上(略)江戸花籠細工 籠細工人 亀井斎 人形細工人 和泉屋五郎兵衛」摺物     署名「国安画」聚宝堂(近江屋権九郎)板      (細工は酒呑童子と大黒様の図)    ☆ 文政三年(1820)     ◯「合巻年表」(文政二年刊)    歌川国安画『福茶之口切』「国安画」文尚堂虎円作 丸文板 ①    <七月 見世物 笊細工(鯉の滝登り)東両国広小路・瀬戸物細工 両国回向院境内>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「見立 籠細工 口上(略)鯉の滝登り・玉藻前」摺物 署名「国安画」     ☆ 文政四年(1821)     ◯「合巻年表」(文政四年刊)    歌川国安画    『成程塩梅余詩』歌川国安画 文尚堂(三亭春馬)作 板元未詳(注:日本小説年表による)①    <二月 見世物 看々踊り 葺屋町河岸>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「見立かん/\おどり」錦絵 署名「応需 国安画」伊勢屋利兵衛板     ☆ 文政五年(1822)     ◯「合巻年表」(文政五年刊)    歌川国安画    『看々踊きんら廼唐金』歌川国安画 蘭奢台薫作 山口板  ①〈書誌による 板元は文政5年新刊目録による〉    『吉丁字出世淀鯉』  歌川国安画 蘭麝亭薫作 板元未詳 ①〈書誌による〉    『小柳縞阿娜帯止』 「歌川国安画」墨川亭(北川)雪麿作 丸文板 ①    ☆ 文政六年(1823)     ◯「合巻年表」(文政六年刊)    歌川国安画『朝顔合秋七種』「歌川国安画」恋川春町二世 丸文板 ⑤     序「癸未の初春 恋川ゆき町師匠の名を狂哥堂よりゆるされて 恋川はる町改(印)」  ◯「往来物年表」(本HP・Top)    歌川国安画 十返舎一九編 山口屋藤兵衛〔国書DB〕    『栄達足利往来』表紙「国安画」口絵 国丸画    文政六年三月刊    『万祥廻船往来』表紙「国安画」口絵 一圓斎国丸画 同    『親族和合往来』表紙・口絵・挿絵「国安画」    同    『英将義家往来』表紙・口絵「国安画」       同    『頼朝武功往来』表紙「国安画」口絵 国貞画  文政六年刊    『家具名尽文章』表紙「国安画」口絵 国貞画  同    『児女長成往来』表紙「国安画」口絵 国貞戯毫 同    『頼光山入往来』表紙・口絵「国安画」     同    『義経勇壮往来』表紙・口絵「国安画」     同    『勇略木曾往来』表紙・口絵「国安画」     同    『楠三代往来』 口絵「国安画」        同    『勇烈新田往来』歌川国安画          同     ☆ 文政七年(1824)    ◯「合巻年表」(文政七年刊)    歌川国安画    『誂染由縁廼色揚』「歌川国安画」江南亭唐立作 鶴喜板  ⑤    『躾方浮世諺』  「歌川国安画」蘭麝台薫作  鶴喜板  ⑤    『通神百夜車』   歌川国安画 西川光信作  鶴喜板  ①             「文化十二年刊の再版、深草傳記と角書」⑥    『福神宝山入』  「国安画」  十返舎一九作 江崎屋板 ①    『着替浴衣団七縞』表紙「国安画」一円斎国丸画 欣堂間人作 鶴喜板 ①    『通神百夜車』 哥川国安画 西川光信作(国立国会図書館デジタルコレクション)     ◯『江戸小咄辞典』「所収書目改題」(武藤禎夫編・昭和五二年・一二版)   ◇咄本(文政七年刊)    国安画『百の種』三笑亭可楽作〈解題「文政八年に嗣足再板」とあり〉  ◯「往来物年表」(本HP・Top)(文政七年刊)    歌川国安画    『至徳諸芸往来』口絵・挿絵「国安画」十返舎一九編 山口屋藤兵衛 文政七年刊〔国書DB〕    <文政七年 見世物 曲力持 蔵前八幡社>  ◯「御蔵前八幡宮二於而奉納力持」錦絵作画(文政七年(1827)春)
   「御蔵前八幡宮二於而奉納力持」国安画 ※「見世物興行年表」の画像です      〈川添裕氏が主宰する「見世物文化研究所」の「RAKUGO.COM」「見世物データベース」を見ると、「文政7 1824 素     人力持 市中 文化後期より流行し、この頃絶頂。プロ化する」という記事がある。してみると「文政七年之春」とい     う朱書きの入ったこの国安画は、素人力持の絶頂期を伝えるものであろう。三枚続き右の「大関金蔵」は当時有名な     素人力持で、神田明神下の酒屋・内田屋の金蔵と思われる。この人は亀戸天神にも「力石」を奉納し、また富賀岡八     幡宮にも「樊噲石」(樊噲は漢の劉邦の家来で豪傑)を奉納している。詳しくは下記「江東区・文化財史跡等一覧」     の「力石 天神下内田金蔵・八町堀亀島平蔵奉納」(以下「一覧」と記す)参照。その「一覧」所収の画像に亀戸天     神の「力石」があって、そこには「八丁堀亀島平蔵」の文字が刻まれている。おそらくこの平蔵が国安画の「小結平     蔵」なのであろう。この亀島平蔵は「石の平蔵」と呼ばれた力持とのことだが、国安画のほうは「石」ではなく「五     俵持」の平蔵である、もし同一人物だとしたら、「石の平蔵」と称される以前の平蔵ということになる。上記「一覧」     記事によれば、この「石の平蔵」は深川の佐賀稲荷にも力石を奉納しているとのことだ。それ以外の人物「大亀足持      関脇直吉」・「関脇与五郎」・「指曲持 小結左七」・「樽三樽俵壱ひ(ママ)う足持 大関久太郎」についてはよく分     からない。いづれにしても、文政七年の春、六人もの力自慢が「御蔵前八幡宮」(現在の蔵前神社)に集結して「力     持」の技芸を奉納したのである。国安画「御蔵前八幡宮二於而奉納力持」はその奉納の記念として制作されたもので     あろう。ただその時「力石」が建てられたかどうかは分からない。     ところで「大関久太郎」が足で持ち上げている菰樽の文字「男山」と「瀧水」と商標の「剣菱」は何を意味するので     あろうか。「男山」と「剣菱」は伊丹と灘の銘酒で、ともに将軍家の御前酒であり、江戸では最高級の下り酒と称え     られていた。一方「瀧水」の方は「四方の瀧水」とも呼ばれて江戸人に親しまれてきた江戸根生いの酒である。では     なぜ「男山」「剣菱」「瀧水」なのだろうか。実は「剣菱」で有名な酒屋も、「大関金蔵」が奉公する酒屋も、そし     て「瀧水」の醸造元も、すべて同じ内田屋を名乗るのである。では同一のお店かというと、所在地がそれぞれ、昌平     橋、神田明神下、日本橋新和泉町とあるから、どうも同一の店ではありそうもない。内田屋の一族なのかもしれない     が。(ただ昌平橋内田屋と神田明神下の内田屋とは地理的には非常に近いから同じ店のような気もするのだが……ど     うであろうか)     上記亀戸天神の「力石」には「神田明神下内田金蔵 世わ人佐助」なる刻字もある、したがって内田屋がこの蔵前八     幡の奉納力持にも世話役として関与している可能性はあろう。さいわい内田屋には力持の大関金蔵もいる。するとこ     の奉納は、無論神事には違いないが、その目的とするところは「剣菱」「瀧水」の宣伝にあったとも考えられよう。     相撲にゆかりある蔵前八幡を舞台に選び、当時評判の素人力持を客寄せにして、内田屋が自家の酒の宣伝興行を行っ     たのではあるまいか。国安画の「御蔵前八幡宮二於而奉納力持」はその興行の様子を伝えるものであるが、あるいは     この三枚続きはそのまま宣伝用のポスターとして使われたのかもしれない。この錦絵の板元は印から清水か三河屋の     いずれかだが、制作を持ちかけたのは興行主の内田屋ではあるまいか。画工に国安を起用したのは板元か内田屋か知     るすべもないが、国安の相撲絵に対する一定の評価があっての起用であることは間違いないだろう。     さて残る「男山」だが、これが「剣菱・瀧水・内田屋」とどう関係しているのか今ひとつ分からない。     最後にこの画像について一言触れておきたい。この国安画「御蔵前八幡宮二於而奉納力持」は蔵前神社の宮司・阿部     康久氏から提供されたものである。現在、その錦絵は北海道旭川にある酒造元・男山株式会社の資料館が所蔵する由     であった。早速同社に問いあわせたところ、これは三十年以上も前に来館者が持ち込んだもので複製とのこと、二十     年前、所有者に連絡を取ろうとしたら、既に亡くなっていて原本の所在も不明のままという回答であった。     本HPとしては原本が確認されていないので不安であるが、しかしこれはこれで資料的価値はあると考え掲載するこ     とにした。所在情報と画像をお寄せくださった阿部康久氏には改めてお礼を申し上げます。2010年1月5日記〉
   「力石 天神下内田金蔵・八町堀亀島平蔵奉納」「江東区・文化財史跡等一覧」
   「江戸 遊楽町へようこそ」 神田昌平橋・内田屋の記事    <秋 見世物 駱駝 両国西広小路>   ◯『藤岡屋日記 第一巻』p343(藤岡屋由蔵・文政七年記)   〝文政七甲申秋    (両国橋西広小路に於て駱駝の見世物)去年紅毛国より長崎表ぇ持渡候也、おだやかにして、喰物、大    根・蕪菜・さつまいも等のよし、三十二文宛にて見物夥敷群集すなり〟
   「駱駝之図」 国安画 ・ 山東京山撰 (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)      〈この「駱駝之図」には〝文政四年辛巳六月阿蘭陀人持渡駱駝之図〟とあって、長崎への渡来は文政四年。画中に〝文政     七甲酉年閏八月上旬より江戸大に流行〟の朱書きがある。また「古典籍総合データベース」には国安画・江南亭唐立撰     の「駱駝之図」もあり、こちらの朱書きには〝文政七年庚申年初秋江戸に来り壬八月より両国に於て見せもの〟とある〉  ◯『観物画譜』27(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)   「駱駝(説明文省略)山東庵京山」錦絵二枚続 署名「応需 国安画」文政七年閏八月 森屋治兵衛板  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「駱駝之図 蛮名カメエル 又トロメテリス 牡八歳 牝七歳(江南亭唐立文)」錦絵二枚続    署名「国安画」森屋治兵衛板      ☆ 文政八年(1825)      ◯「絵本年表」(文政八年刊)    歌川国安画    『故実四季文章』  一冊 国安画   十返舎一九著 山口屋藤兵衛板〔漆山年表〕    『故実四季文章続編』一冊 歌川国安画 十返舎一九著 山口屋藤兵衛板〔目録DB〕     ◯「合巻年表」(文政八年刊)    歌川国安画    『会席料理世界吉原』「国安画」  表紙「豊国画」市川三升(代作五柳亭徳升) 岩戸板 ⑤              (岩戸屋の新版目録「水戸鮟鱇小田原勝男/会席料理世界吉原/歌川国益」)    『八人芸楽屋種本』 「歌川国安画」表紙「国貞画」江南亭唐立作 丸文板 ⑤    『春小袖門松模様』 「歌川国安画」 山東京山作   鶴喜板  ①    『隅田川屏風八景』 「国安画」   古今亭三鳥作  森治板  ①    『東風流妹背鞠唄』 「国安画」   普米斎玉粒作  伊藤板  ①    『再度敵討也実』 前「北尾美丸画」後「歌川国安画」恋川春町(二世)作 山口板 ⑤    『小町形桜香筥』   歌川国安画  普米斎玉粒作  板元未詳 ①〈書誌による〉    『駱駝之世界』   「歌川国安狂画 江南亭唐立戯竹 森治板  ①    『其俤白石噺』   「歌川国安画図」恋川春町(二世) 丸文板  ①    『伊勢物語』    「歌川国安画」 江南亭唐立作  鶴喜板  ⑤    ◯「読本年表」(文政八年刊)    歌川国安画『絵本魁草紙』「歌川国安画」故式亭三馬作 河内屋太助他板 ①     ◯『噺本大系』巻十五「所収書目解題」(文政八年刊)     歌川国安画『百の種』署名「国安筆」三笑亭可楽作 山口屋板   ◯「往来物年表」(本HP・Top)    歌川国安画 十返舎一九編 山口屋藤兵衛〔国書DB〕    『三韓平治往来』表紙 国丸画 口絵・挿絵「国安画」文政八年正月刊    『故実四季文章』表紙・口絵・挿絵「国安画」    同    『人倫品定文章』表紙・口絵・挿絵「国安画」文政八年刊     『四季文章続編』歌川国安画        同    ☆ 文政九年(1826)      ◯「絵本年表」〔目録DB〕(文政九年刊)    歌川国安画『当世戯子目付絵』歌川国安画     ◯「合巻年表」(文政九年刊)    歌川国安画    『笠松峠雨夜菅簑』「歌川国安画」表紙 国貞画 墨川亭雪麿作 表紙「雪麻呂作」丸文板 ①    『夫婦松連理鉢植』「歌川国安画」 山東庵京山作 森治板 ⑤    『浜真砂筑地白浪』「一鳳斎国安画」市川団十郎作 五柳亭徳升校  岩戸板 ④    『復習四手垂駕』 「哥川国安画」 五柳亭徳升  市川団十郎校合 山本板 ⑤    『傾城水滸伝』二編「歌川国安画」 曲亭馬琴作  鶴喜板 ①    『情競傾城嵩』  「国安画」   板東秀佳作 五街遊人松島調布代作 鶴喜板 ④    ◯「読本年表」    歌川国安画    『鳳凰染五三桐山』歌川国安画 山旭亭真婆行遺稿 ⑩    『阿古義物語』後輯「画師 歌川国安画図」教訓亭楚満人作 河内屋茂兵衛他板 ①〈楚満人は為永春水〉    ◯「人情本年表」(文政九年刊)    歌川国安画    『鳳凰染五三桐山』三冊 歌川国安画 山旭亭真婆行遺稿 ⑬    『朧月夜』    三編 歌川国安画 南仙笑楚満人作  ⑬    ◯「艶本年表」(文政九年刊)    歌川国安画    『大和妖狐伝』色摺 半紙本 三冊〔日文研・艶本〕          見返し「鳳倒山人繍像」「猿猴坊月成著」          序  「丙戌葉月 ◎の花さく街なる草庵に筆を採て 七五山人しるす」    『開中鏡二編』色摺 半紙本 三冊「鳳倒山人」元来庵介米(猿猴坊月成)作〔白倉〕     (豊国の『絵本開中鏡』の続編で、作者は同じ月成である)     ◯『筆禍史』「阿漕物語後編」(文政十年・1827)p112(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝『阿漕物語』の前編四巻は文化六年式亭三馬の著なり、勢洲阿漕ヶ浦の争乱を基としたる小説にして、    例の平次等と共に忠臣孝子烈婦等を描出したるものなるが、此後編は其あとを継げる為永春水の著なり、    『国書解題子に曰く     阿漕物語後編(六巻)式亭三馬の阿漕物語の続編なり、即ち三馬が前帙の例言に「這の書編述未だ稿     を畢らず、全部八巻、先づ半を裂て世に広くす、後帙四本、開市を俟て高覧あらば、余が幸甚しから     ん」と記せるが、其の後其の志を果さずして病没したりければ、其の遺意を受けて門人狂訓亭三鷺     (為永春水)之れを補定し、歌川国安画図の業に与りて、一書を成せる所なり、文政九年丙戌秋七月     の序あり、全編六巻十齣より成れり、但し本書は頗る当時の子女の嗜好に適し、大に其名を博したる     が、風俗壌乱故を以て罰せられ、書は悉く絶版せられたり    如何なる刑罰を受けたるかは未詳なり、又此書絶版と成し事も右の記事にて見るのみ    さて風俗壌乱とは那辺の記事なるかと、試みに通覧すれども、此処ぞと云ふべき点もなし、     (*以下、記事の引用あり、略)    著者春水が後年の『春色梅暦』に筆せるが如き誨淫卑猥の個所はなかりし、之を当時幕府が風教上に害    ありとして絶版を命じたりとは思はれず、或は『東鑑』に拠れる鎌倉時代の物語といふと雖も、実は仮    托にして、近き諷喩の意あるものと認めしにもありしならんか〟
   『阿古義物語』後輯 狂訓亭楚満人(為永春水)作・歌川国安画 〔『筆禍史』所収〕      〈宮武外骨は『阿古義物語』後輯の刊行年を文政十年とするが、国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は文政九     年刊とする〉     ☆ 文政十年(1827)  ◯「大空武右衛門牛を跨ぐ図」錦絵 国安画   (「集古会」第二百九回 昭和十二年一月『集古』丁丑第二号 昭和12年3月刊)   〝浅田澱橋(出品者)歌川国安筆 錦絵 大空武右衛門牛を跨ぐ図 一枚〟    〈大空武左衛門が江戸に現れるのは文政10年の5月〉     ◯「合巻年表」(文政十年刊)    歌川国安画    『鎌倉山黄金廼千代鶴』「歌川国安画」市川三升作 五柳亭徳升代作 鶴喜板 ①    『嗚呼忠臣夜光珠』   歌川国安画 竹田出雲作 板元未詳(注:日本小説年表による)①    『女船頭矢口之渡』  「歌川国安画」恋川春町(二世)作 丸文板 ①    『面白妙須磨雪平』  「歌川国安画」東里山人作  泉市板 ①    『伊達摸様廓寛濶』  「国安画」  五柳亭徳升作 鶴喜板 ①    『開運子松山噺』   「歌川国安画」市川三升作 五柳亭徳升代作 泉市板 ⑤    『弓削道鏡物語』   「歌川国安画」十返舎一九作 鶴喜板 ⑤    『雪明常盤松』  三編「歌川国安画」十返舎一九作 山口板 ①    『傾城水滸伝』  三編「歌川国安画」曲亭馬琴作  鶴喜板 ①    『家財繁栄抄』  後編「歌川国安画」前編 五湖亭貞景画 十返舎一九作 山口板 ①    『唐渡仙人揃』     歌川国安画 十返舎一九作 板元未詳(注:日本小説年表による)①    『義経誉軍扇』    「歌川国安筆」五柳亭徳升作 鶴喜板 ⑤    『菅原実伝記』    「歌川国安画」五柳亭徳升作 鶴喜板 ①    『四天王其源』    「国安画」  徳升編 鶴喜板 ⑤(備考「北尾政美の原本を編集しなおした再版本」)    『長壁太郎譚』    「歌川国安画」南仙笑楚満人作 鶴喜板 ①     表紙 上巻 文晁(蝶)椿年(亀)武清(桜花)南嶺(不明) 翠凌?(不明)〈武清と南嶺が入れ代わる二種の表紙あり〉        下巻 抱一(牡丹) 和年(鶴) 武一(梅) 半◎?(水仙)    『北雪合戦』     歌川国安画 十返舎一九作 板元未詳(注:日本小説年表による)①    ◯「日本古典籍総合目録」(文政十年刊)   ◇滑稽本    歌川国安画『其儘草紙』二冊 歌川国安画 恵陽陳人作〔目録DB〕      ☆ 文政十一年(1828)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政十一年刊)    歌川国安画    『四十八手最手鏡』一冊 画工歌川国安 蓬萊山人撰 西村屋与八板      (天保十四年十月嶋村利助より再版)    『相撲金剛伝』  二編 歌川国安画 立川焉馬撰 西村屋与八板     ◯「合巻年表」(文政十一年刊)    歌川国安画    『塩汲車輪廻仇討』  「歌川国安画」表紙 故人豊国画 恋川春町(二世)作 泉市板 ⑤    『伊達姿辰巳八景』  「国安画」  市川団十郎作 五柳亭徳升代作 山本板 ①    『道外武者太平楽』  「歌川国安画」十返舎一九作  鶴喜板 ⑤    『風俗女西遊記』   「歌川国安画」南仙笑楚満人作 西与板 ④    『傾城水滸伝』四・五編「歌川国安画」曲亭馬琴作   鶴喜板 ①    『有喜世諺草』    「国安画」  十返舎一九作  鶴喜板 ①    『金草鞋』   十八編「歌川国安画」十返舎一九作  森治板 ⑤    『旅道艸』      「歌川国安画」十返舎一九作  松村与兵衛板 ①    『夢之世話金則敵』表紙「哥川国安画」英笑画 恋川春町作 鶴喜板 ①    ◯「文政十一年戊子日記」①284 三月十六日(『馬琴日記』第一巻)   〝(中川金兵衛を以て)国安ぇ御伝言有之、御用は、当年西与・森治とも被仰付候間、出情認候様、被仰    遣候也〟    〈国安は馬琴作合巻『傾城水滸伝』(鶴屋喜右衛門板)文政九年の二篇から天保四年の十二編まで挿絵を担当。「西与     ・森治」は板元西村与八・森屋治兵衛である。西村与八は翌十二年、馬琴作・国安画の合巻『漢楚賽擬選軍談』を刊     行。森屋治兵衛は同じく十二年、馬琴作・国安画の合巻『風俗金魚伝』を刊行する。馬琴が筆工中川金兵衛を以て国     安に伝えたのは板元の要請で画工に起用するという内容であろう。中川金兵衛は『滝沢家訪問往来人名簿』に〝甲申     九月十三日初来、対面 折違御門外御成道 小笠原家中ニて 筆耕者〟とある。日記には頻繁に登場する〉     ◯「文政十一年戊子日記」①301 四月十六日(『馬琴日記』第一巻)   〝西村与八使礼。漢楚賽壱・弐、絵写本出来、指越。然所、国安心得違有之候ニ付、直し候様、被仰遣〟    〈合巻『漢楚賽擬選軍談』は歌川国安が画工を担当した〉     ◯「文政十一年戊子日記」①373 八月十日(『馬琴日記』第一巻)   〝(板元大坂屋半蔵より)美少年録報条の画、美少年国安ニ画せ出来、見せらる。画がら不宜候得ども、    そのまゝにいたし、筆工へ可遣旨申聞け、返之〟    〈『近世説美少年録』初編は翌文政十二年に刊行されるが、それに先だって国安画による報条を出すというのだろう〉      ◯「文政十一年戊子日記」①374 八月十一日(『馬琴日記』第一巻)   〝大坂や半蔵来ル。美少年録報条の画、国安方ニて出来かね候旨、国貞弟子画(一字ムシ)出来よし、持    参、被為見之〟    〈どういう事情によるものか、国安画は出来ず、結局国貞の弟子のものが採用された。『近世説美少年録』初編の画工     は、結局国安ではなく国貞であった〉     ◯『増補浮世絵類考』文政十一年八月(斎藤月岑編・天保十五年序)   (「初代歌川豊国」の項)
   「豊国筆塚碑」(文政十一年八月記)の「歌川総社中碑」に名を連ねる     ☆ 文政十二年(1829)     ◯「合巻年表」(文政十二年刊)    歌川国安画    『漢楚賽擬選軍談』初・二編「歌川国安画」 曲亭馬琴作  西与板 ④    『盛衰記摺鉢無間』    「一鳳斎国安画」墨川亭雪麿作 山本板 ④    『喜怒哀楽堪忍袋』    「歌川国安画」 式亭虎之助作 鶴喜板 ①    『風俗金魚伝』    初編「歌川国安画」 曲亭馬琴作  森治板 ⑤④    『新編金瓶梅』    初集 歌川国安画  曲亭馬琴作  泉市板 ①    『娘暦振袖初』    初編「歌川国安画」 式亭虎之助作 山口板 ①    『傾城水滸伝』  六-八編「歌川国安画」 曲亭馬琴作  鶴喜板 ①    『廓薫名寄生梅川』  表紙「国安画」歌川貞幸画 古今亭三鳥 鶴喜板 ⑤    『鎌倉山百人一首』  表紙「国安画」歌川安秀画 恋川春町作 鶴喜板 ④    『安達織作廻国伝』  表紙「歌川国安画」巻末 春斎英笑画 見返し 歌川国兼画 関亭伝笑作 森治板 ①    『家内安全集』    表紙「国安画」春川英笑画 十返舎一九作 西与板 ①    『金草鞋』十九編   見返「歌川国安画」表紙・挿画 北尾重政画 ⑤             〈見返が先に作られた後、画工が重政に代わったものと考えられる〉    ◯「文政十二年己丑日記」②141 八月 九日(『馬琴日記』第二巻)   〝森や次兵衛来る。予、対面。金魚伝後編催促也。且、国安事、当分本所三ツめニ在宅、遠方、且、こみ    合出来かね候故、画ハ英泉ニ可致哉之旨、不及相談、初編を国安ニ画せ候事故、国安しかるべし。英泉    とても、画埒明かね候趣、申聞おく〟    〈国安は当時本所三ツ目に住んでいた。板元森屋次兵衛は、国安の住居が遠方で画稿等の遣り取りに効率が悪いこと、     加えて画注文が混み合っているという理由で、金魚伝の画工に英泉の起用をもちかけたのである。これを見ると、英     泉は板元に重宝がられているようである。しかし初編が国安であること、また英泉では〝埒明かね候〟と推測して、     馬琴は国安を選らんだ。ここのところの英泉の遅筆が馬琴の判断に影響したのだろうか。結局、文政十二年から天保     三年まで刊行された『風俗金魚伝』は国安が単独で画工を担当することになる〉     ◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p121(曲亭馬琴記・文政十三年記事)   〝己丑(文政十二年)三月類焼後同年夏ヨリ 深川扇橋冨川町百軒長屋 画工 歌川国安〟  ☆ 文政頃(1818-1829)    ◯「おもちゃ絵年表」〔本HP・Top〕(文政頃刊)    国安画「子供大名行列」国安筆 蔦屋重三郎「極」文政~天保頃 ⑥  ☆ 天保元年(文政十三年・1830)     ◯「合巻年表」(天保元年刊)    歌川国安画    『三国妖狐殺生石』春夏秋冬四部「歌川国安画」五柳亭徳升作 若与板 ④    『傾城水滸伝』九・十編上「歌川国安画」 曲亭馬琴作   鶴喜板 ④    『相撲推故伝』 初・二編「歌川国安画」 立川焉馬二世作 岩戸板 ④    『風俗金魚伝』   三編「歌川国安画」 曲亭馬琴作   森治板 ⑤    『三国志画伝』   初編「歌川国安画」 重田貞一訳   鶴喜板 ①    『金草鞋』    二十編「歌川国安画」 十返舎一九作  森治板 ⑤(湯殿山羽黒山紀行)    『怪談春雨草紙』    「歌川国安画」 市川三升作 五柳亭徳升代作 山本板 ⑤    『魁梅枝曾我』     「一鳳斎国安画」十字亭三九作  鶴喜板 ④    『御誂替島廻』     「歌川国安画」 十返舎一九作  西与板 ④    『双面桂川水』     「歌川国安画」 式亭虎之助作 三馬遺稿 泉市板 ④    『伊勢海道銭懸松』 表紙「国安画」五湖亭貞景画 築地全交作 山口板 ①     ◯「読本年表」(天保元年刊)    歌川国安画    『奥陽群談壷の碑』初編 歌川国安画  恵陽陳人作  ⑩〈書誌による〉    『小説坂東水滸伝』英泉・国安・泉晁画 教訓亭主人作 ⑩〈書誌による〉    『十杉伝』初編  口絵「歌川国安」挿絵 歌川国芳/歌川国丸画 為永春水作 河内屋茂兵衛他板 ①     ◯「艶本年表」(天保元年刊)    歌川国安画    『恋湊女護生娘』色摺 中本 三編六冊「鳳倒子画」天保元年頃〔白倉〕            淫亭主人スキナリ(十字亭三九)及び陰莖斎雁高作      (白倉注「これは、礫川南嶺(十字亭三九)作『恋湊女護生娘(ニョウゴノシマダ)」(文政六年・1823)作の艶本化」)    鳳倒子(歌川国安)画〈歌川国安か?〉    『恋湊女護生娘』初編二冊 鳳倒子画 淫亭主人作〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)  ☆ 天保初年(1830~)    ◯「合巻年表」(天保初年刊)    歌川国安画『浮名の一節』摺付表紙「歌川国安画」式亭虎之助作 山口板     〈補注、文化十二年刊・春亭三暁作・歌川美丸画・西宮新六板『浮名の一節』の改題後印本の由〉    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(天保頃刊)   「江戸名所四季遊参双六」「歌川国安画」山本平吉 天保頃 ②⑧     ☆ 天保二年(1831)     ◯「合巻年表」(天保二年刊)    歌川国安画    『二重衣北里色揚』第一輯「歌川国安画」山東京山作  春治板 ①    『漢楚賽擬選軍談』 三編「歌川国安画」曲亭馬琴作  西与板 ④    『傾城水滸伝』十・十一編「歌川国安画」曲亭馬琴作  鶴喜板 ④    『風俗金魚伝』   四編「歌川国安画」曲亭馬琴作  森治板 ⑤    『娘暦振袖初』   後編「歌川国安画」式亭虎之助  山口板 ⑤④    『新編金瓶梅』   一集「国安画」  曲亭馬琴作  泉市板 ⑤    『将門冠合戦』     「歌川国安画」五柳亭徳舛作 森治板 ①    『傾城外八文字』上巻見返「歌川国安画」巻末「安秀画」五柳亭徳舛作 山口板 ①            下巻表紙「歌川国安画」巻末「安秀画〔歌川〕」    『武勇水陸伝』   表紙「歌川国安画」歌川安秀画 五柳亭徳舛 森治板 ⑤     『旅路の春雨』   表紙「歌川国安画」歌川安秀画 五柳亭徳舛 森治板 ⑤  ☆ 天保三年(1832)(七月六日没・三十九歳)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保三年刊)    歌川国安画    『熱海温泉図彙』一冊 画図岩瀬京水・渓斎英泉・歌川国安 京山百樹編 山口屋藤兵衛板     ◯「合巻年表」(天保三年刊)    歌川国安画    『五節供稚童講釈』初編三・四「歌川国安画」山東京山作 鶴喜板 ①    『殺生石後日怪談』五編一・二「英泉画」表紙 国芳 曲亭馬琴作 山口板 ⑤    『十二雄雌赤友録』一輯「歌川国安画」歌扇亭三ッ丸作 泉市・丸甚合板①     『千代褚良著聞集』一輯「歌川国安画」曲亭馬琴作   西与板 ⑤    『三国志画伝』二-四編「歌川国安画」十返舎一九作  泉市板 ①    『風俗金魚伝』  五編「歌川国安画」曲亭馬琴作   森治板 ⑤    『新編金瓶梅』  二集「国安画」  馬琴作     泉市板 ⑤    『梅暦魁草紙』    「歌川国安画」五柳亭徳升作  山本板 ⑤    『復讐相宿噺』    「歌川国安画」表紙 国貞 五柳亭徳升作 佐野喜板①    『女眉間尺』     「一鳳斎国安画」十返舎一九作 森治板 ⑤     〈作者十返舎一九は二世(旧名十字亭三九)、初世一九は天保二年八月七日没〉    『熊谷武功軍扇』 表紙「国安画」歌川国芳画 烏有山人作 鶴喜板 ①    『義仲朝日鎧』  表紙「国安画」雄斎国芳画 烏有散人作 鶴喜板 ①     ◯「読本年表」(天保三年刊)    歌川国安画『十杉伝』三編「歌川国安画図」教訓亭主人著 河内屋茂兵衛他板 ①    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(天保三年刊)    歌川国安画『花勝美色結綿』三冊 歌川国安画 松井幸三作     ◯『馬琴書翰集成』天保三年(1832)正月廿日    ◇篠斎宛、七月朔付書翰(二巻・書翰番号-38)②165    〝俳優坂東三津五郎、旧冬死去いたし、初春ハ瀬川菊之丞没し候。この肖面の追善にしき画、旧冬大晦日    より早春、以外流行いたし、処々ニて追々出板、正月夷講前迄ニ八十番余出板いたし、毎日二三万づゝ    うれ捌ケ、凡惣板ニて三十六万枚うれ候。みな武家のおく向よりとりニ参り、如此ニ流行のよし、山口    屋藤兵衛のはなしニ御座候。前未聞の事ニ御座候。このにしき画におされ、よのつねの合巻・道中双六    等、一向うれず候よし。ヶ様ニはやり候へども、勢ひに任せ、あまりニ多くすり込候板元ハ、末に至り、    二万三万づゝうれ遣り候ニ付、多く(門+坐)ケ候ものも無之よしニ御座候。鶴や・泉市・西村抔、大    問屋にてハ、ヶ様之にしき絵ハほり不申、うけうりいたし候共、末ニ至り、いづれも二三百づゝ残り候    を、反故同様に田舎得意へうり候よしニ御座候。かゝる錦絵をめでたがる婦人ニ御座候。これニて、合    巻類ハほねを折るは無益といふ処を、御賢察可被下候。正月二日より白小袖ニて、腰に葬草(シキミのルビ)    をさし候亡者のにしき画、いまハしきものゝかくまでにうれ申とハ、実に意外之事ニて、呆れ候事ニ御    座候。ヶ様之事を聞候ニ付ても、弥合巻ハかく気がなくなり候也〟      〝右のにしきゑ、旧冬大晦日前よりうれ出し、正月廿日比までにて、後にハ一枚もうれずなり候よし〟      ◇桂窓宛、七月朔付書翰(第二巻・書翰番号-40)②172   〝当早春、「俳優三津五郎・菊之丞追善のにしき画」、大流行いたし、八十余番出板いたし、凡三十五六    万枚うれ候ニ付、並合巻・道中双六などハ、それにおされ候て、例より捌ケあしく、小まへの板元ハ本    残り、困り候よし。死人の錦絵、正月二日比より同廿日比迄、三四十枚もうれ候とは、意外之事ニ御座    候。多くハ右役者白むくニて、えりに数珠をかけ、腰にしきミ抔さし候、いまハしき図之処、早春かく    のごとくうれ候事、世上の婦女子の浮気なる事、是にて御さつし可被成候〟    〈記事は同年七月朔日のもの。正月二日頃から正月二十日頃にかけて、坂東三津五郎と瀬川菊之丞の死絵が婦女子、特     に武家の奥向きを中心に三十六万枚も売れたというのであるが、その余波が、購買層を同じくする合巻や道中双六に     及んだという、馬琴の見立てである。坂東三津五郎は天保二年十二月二十七日没、享年五十七才。瀬川菊之丞は天保     三年一月六日没、享年三十一才。二人の死絵は国貞・国安・国芳等が画いている。馬琴が見たものは、白無垢、襟に     数珠、腰に樒を差した図柄というが、誰の死絵であろうか。ここでは一勇斎国芳と国安の死絵をあげておく〉
   一勇斎国芳画「坂東三津五郎」「瀬川菊之丞」  歌川国安画「坂東三津五郎」「瀬川菊之丞」       (東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)     ◯「天保三年壬辰日記」③85 四月廿六日(『馬琴日記』第三巻)   〝画工国安より、使ヲ以、殺生石後日五編の下、写本之義ニ付、以参、可奉伺処、病気ニ付、使を以伺候。    此ものへ御指図、被成下候様、申之。則、宗伯を以、右使ぇさし画の事示談〟    〈『殺生石後日怪談』の挿画担当が渓斎英泉から歌川国安に替わった。やはり英泉の遅筆が原因であろうか〉     ◯「天保三年壬辰日記」③158 七月廿四日(『馬琴日記』第三巻)    〝画工歌川国安、当月盆前歟、死去のよし。今日、山口や藤兵衛、告之。国安年来瘡毒ニて、歩行不自由    のよし。右古疾ニて、病死のよし。年四十許共。予が作合巻の画をこ(ママ)ゝせ候処、病死ニて已来差支    ニ及ぶべし〟    〈「お盆前歟」とあるから七月上旬の逝去か。瘡毒は梅毒。馬琴と国安の間には、英泉や重信のような私的なつきあい     はなかったようである。しかし英泉や北渓のように画稿を督促されることも殆どなかった。「已来差支ニ及ぶべし」     という馬琴の感慨には、国安の確かな技量に対する信頼感はもちろんのこと、彼の律儀な仕事ぶりに対する信頼感も     こめられているような気がする     馬琴作・国安画の合巻は以下の通り
   『傾城水滸伝』  十三編(二~十二編担当・文政九年(1826)刊~天保四年(1833)刊)                 十三編は歌川貞秀が担当    『漢楚賽擬選軍談』 三編(全て担当・文政十二年(1829)刊~天保二年(1831)刊)    『風俗金魚伝』  上下編(全て担当・文政十二年刊~天保三年刊)    『新編金瓶梅』   十集(一~二集担当・天保二年刊~同三年刊)                 三集以降は歌川国貞が担当    『殺生石後日怪談』 五編(五編上下担当・天保三年刊~同四年刊)                 初編は初代豊国と国貞、二~四編は渓斎英泉、五編を国安、死後の残りは                 国貞が担当    『千代褚良著聞集』 二輯(一輯担当・天保三年刊)                 二輯は二世北尾重政が担当する
       なお馬琴作読本は一作もなし。国安に読本挿画が無いわけではない。しかし実に数少ない。約四点あるのみ。一方、     合巻の挿画は七十九点にのぼる。これで見ると、国安は合巻の挿画に特異な才能を持っていたのであろう〉     ◯『馬琴書翰集成』②252 天保三年十一月二十五日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-60)   〝『千代褚良著聞集』は画工国安、当秋物故いたし候故、此度は、今の北尾重政に画せ候。夫故、画も国    安より埒明かね、当月中旬、やうやう出来終り候〟    〈歌川国安は七月の盆前に病死していた。(『馬琴日記』第三巻、七月二十四日記事参照)そのため『千代褚良著聞集』     の挿画は北尾重政二代が引き継ぐことになった。だが「国安より埒明かね」で、馬琴には従来にもまして画工が頭痛     の種となった〉     ◯『馬琴書翰集成』②259 天保三年十一月二十六日 小津桂窓宛(第二巻・書翰番号-62)   〝『千代褚良著聞集』ハ、画工国安、当秋物故いたし候間、今般ハ今の北尾重政ニ画せ候。夫故、国安よ    り画もおそく出来、十八丁ハほりニ出し有之、あと十丁ハ、いまだ筆工出来終り不申候。此仕合故、年    内出し候とも、十二月限りのうり出しニ可相成候。左候ハヾ、来春ならでハ被成御覧まじく候〟     ☆ 天保年間(1830~1844)    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(天保年間刊)    歌川国安画    『恋の初音』三冊 歌川国安?茎立作 天保初年刊(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ☆ 刊年未詳    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(刊年未詳)    歌川国安画    「新製口取御菓子双六」「国安画」  新吉原竹村伊勢 ④ 墨摺    「男女振分婚礼双六」 「歌川国安画」板元未詳 ⑧    ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕(刊年未詳)    鳳倒山人(国安)画「十六夢左支」色摺 一枚 書名「鳳倒山人画」猿寿楼好成作    ☆ 没後資料    ☆ 天保四年(1833)    ◯「合巻年表」(天保四年刊)    歌川国安画    『五節供稚童講釈』後編一・二冊 歌川国芳画 三・四冊「歌川国安画」山東庵京山 鶴喜板 ⑤④                    表紙 国貞画 見返 京水画    『殺生石後日怪談』五編三・四冊「国安画」表紙 国貞画 馬琴作 山口板 ⑤    『二重衣北里色揚』      「歌川国安画」山東庵京山作   森治板 ⑤    『七奇越後砂子』      上「国安画」中 泉晁画 下 五雲亭貞秀画 表紙 国貞画 墨川亭雪麿作 佐野喜板 ⑤     (備考:本書が四人の画工によって画かれているのは、天保三年七月六日に国安が没したことによるもので、見返し      の表示は三冊とも国安画となっている)    『三国志画伝』    五-七編「歌川国安画」十返舎一九作      泉市板 ⑤    『両顔忍夜桜』      初編「歌川国安画」表紙 国貞 立川焉馬  泉市板 ⑤    『霞帯〆如月』        「歌川国安画」表紙 国貞 五柳亭徳升 鶴喜板 ⑤     ◯「読本年表」(天保四年刊)    歌川国安画『奥陽群談壷の碑』二編 歌川国安画 恵陽陳人作 ⑩〈書誌による〉     ◯『無名翁随筆』〔燕石〕(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   ◇「歌川豊国」の項 ③305
   「一陽斎豊国系譜」〝初代豊国門人〟      〝国安 俗称別記ニユヅル〟      ◇「歌川豊国」の項 ③309    〝歌川国安【文化ノ始ヨリ天保ニ至テ歿ス、三十余】     俗称安五郎、居大門通村松町、又本所扇橋ニ住ス、号一鳳斎、江戸の産也    幼年より豊国の門人となり、師の傍に塾生す、文化の始め、錦絵を出せり、【中村歌右衛門千本桜忠信    道行ノ画アリ】其後、故ありて西川安信と改めしが、国安とす、草双紙、錦絵世に多し、画法能豊国の    筆意を学べり、浮世役者画かきの一人なり、門人多し    門人安信 安 多吉   按るに、二代目国安と称する者有とみゆ、板刻者出せり〟    ☆ 天保五年(1834)    ◯「合巻年表」(天保五年刊)    歌川国安画    『千代見草調富貴組』  「歌川国安画」表紙 国貞画 笠亭仙果作 山本板 ④    『三国志画伝』八編上下帙「歌川国安画」表紙 上帙 貞秀画 下帙 国貞画 十返舎一九訳            九編上帙 「歌川国安画」表紙 上帙 国芳画 鶴喜板 ①    ☆ 天保六年(1837)     ◯「合巻年表」(天保六年刊)    歌川国安画    『千代見草調富貴組』 「歌川国安画」表紙 国貞画 笠亭仙果作 山本板 ④    『三国志画伝』九編下帙「歌川国安画」十返舎一九訳 泉市板 ①           十編下帙「国安画」表紙 一勇斎国芳画 十返舎一九訳 泉市板〈十編上帙未確認〉    『新編金瓶梅』  三集「国安画」  馬琴作    泉市板 ⑤    ☆ 天保年間(1830~1843)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇絵本(天保年間刊)    歌川国安画    『四十八手最手鏡』一冊 歌川国安画 再刻 嶋村利助求版(文政十一年初版也)     ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)   ◇「初代歌川豊国」の項
   「豊国筆塚碑」(文政十一年八月記)の碑陰にある「歌川総社中碑」に名を連ねる)      〝国安社中 安信 安秀 安重 安春 安常 安清 安峯〟    〈初代豊国門人〉       ◇「初代歌川豊国」の項
   「一陽斎豊国系譜」〝初代豊国門人〟      〝初代豊国門弟    国安 末ニ記 二代目国安〟    〈「末ニ記」とは別項を立てて記述するという意味。下記の項目がそれにあたる〉      ◇「歌川国安」の項   〝歌川国安 文化の始より天保至て歿す 三十余     俗称 安五郎 居 大川通村松町 本所扇橋に住す。     号 一鳳斎 江戸の産也    幼年より豊国の門人となり、師の傍に塾生す。文化の始、錦絵を出せり(歌右衛門、忠信道行の画也)    其後、故有て西川安信と改しが、亦改て国安とす。草双紙、錦絵多し、門人も多し。     門人安信 安ゝ 多吉   按るに、二代目国安と称する者と見ゆ、板刻ものあり〟     ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」(浅岡興禎著・嘉永四年(1851)起筆)   ◇「歌川豊国系譜」中p1400
   「歌川豊国系譜」〝国安 天保五六年比死〟      ◇「歌川国貞、同国芳」の項 中p1401   〝同(歌川)国安と申、国貞につゞきて、役者画よく画候者、一昨年相果申候(中略)天保九年五月十四    日聞〟    〈国安の没年は暫く明確でなかったようで、『浮世絵師便覧』(明治二十六年(1893)刊)の飯島虚心は、天保七年     (1836)としている。おそらく虚心は「歌川豊国系譜」の「天保五六年比死」を採らず、上記の「一昨年相果申候」     「天保九年五月十四日聞」の記事に信をおいて、天保七年の方を採用したと思われる。しかし曲亭馬琴の日記によれ     ば、国安逝去は天保三年(1832)七月の盆前、つまり上旬であった〉     ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年(1868)成立)   ◇「歌川氏系譜」⑪189
   「歌川豊春系譜」      ◇「歌川国安」の項 ⑪230   〝歌川国安    号一鳳斎、俗称安五郎、江戸の産也。居大門通村松町、本所扇橋等に住す。幼年より豊国門人となり、    師の傍に塾生す。文化の始錦絵を出せり〔割註 歌右衛門忠信の道行の画也〕。其後故有て西川安信と    改しが、亦改めて国安とす。草双紙錦絵多し。天保年中歿す。三十余歳〟     ◯『真佐喜のかつら』〔未刊随筆〕⑧370(青葱堂冬圃記・成立年未詳)   〝小児の翫ぶ絵双六といふ物、寛政の頃より多く流行す、予が物心しれる頃、神田弁慶橋丸屋文右衛門板    刻、出世双六と言物あり、絵は歌川国安とて、三陀羅法師千秋庵狂歌を加へたり、外ニも種々の双六あ    れど、此右に出るなし、されど今開板せる双六のやうに美々敷事なく、西条と言紙二枚つゞき、墨紅藍    黄の四遍摺にて、上袋は「壽」如此寿之字を草色にて摺、至て麁末之事也、わづか三拾年ほど過て、当    世にては如斯麁品ハなく、八遍十遍摺位は常の様にこゝろえぬ、此出世双六軸のうた      双六をふる春雨のあがりにはひとつ星みて長者にぞなる                       千秋庵 三陀羅法師〟     ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)   (名前のみ、記事なし)   〝東都     春川秀蝶・田中益信・泉守一・山本義信・古川三蝶・歌舞妓堂・【別人】勝川春章・勝川春常    勝川春山・勝川春扇・葛飾一扇・如蓮北昆・卍亭北鵞    東都    歌川国長・歌川国政・歌川国久・歌川国安・歌川国直・歌川秀丸・歌川月丸・北川菊丸、北川美丸    細田栄理・細田栄昌・細田栄亀〟     ◯『古代浮世絵買入必携』p12(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   〝歌川国安    本名〔空欄〕   号 一鳳庵   師匠の名 初代豊国  年代 凡六七十年前    女絵髪の結ひ方 第十二図・第十三図 (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    絵の種類 並判、中判、小判、細絵、長絵、二枚つぎ、絵本、肉筆    備考  〔空欄〕〟     ◯『浮世絵師便覧』p222(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝国安(ヤス)    歌川、◯一鳳斎と号す、後に名を改めて西川安信といふ、又改めて国安と称す、俗称安五郎、一世豊国    門人、天保七年死、三十余歳〟     ◯『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著・明治二十七年(1894)、新聞「小日本」に寄稿)   ◇「一世歌川豊国伝」p92   〝豊国の盛なる、自ら誇りて山東京伝を軽蔑せしのみならず、式亭三馬をも軽視せしをもて、其の交情一    時睦しからず。これかの三馬作、阿古義物語を発行するにあたり、何の故か豊国は半にして画かざりし    かば、三馬これを憤りたるによりてなり。戯作者略伝三馬の條に、大人が撰みたる絵本に、阿古義物語    といえる五巻あり、稿なりて故一陽斎豊国が許に稿本わたしかども、一陽斎如何なる故ありてか、繍象    半(ナカバ)にして、其の後をふつに画かず、ようやく遅滞におよびしかば式亭憤を発し、日ごろ刎頸の交    り厚きを、かくまで己を蔑如する、其の心根こそ悪(ニク)けれとて、自ら一陽斎に至り、まのあたり此事    を罵り、其の怠慢を責しかば豊国言を尽してわびたれども、式亭が怒りとけず、これより何となく互に    隔心出できて、此方にては、吾が著述せる冊子は、向後彼をして画かしめじといえば、彼方にても彼が    作りたる冊子は、吾ふつに画くまじなど罵りあいしが、書賈伊賀屋文亀堂があつかいにて、双方和解し、    文化七庚午文亀堂が上木せし、一対男時花歌川といえる冊子は、三馬子が編述せる所にて、前編六巻を    一陽斎画きて、これを初日と称え、後編六巻を、一柳斎豊広画きて、これを後日と(以上二十二字「小    日本」より)よび、初日後日、二日替りの狂言の如く執りなし、ところどころ両子あい画にせし所もあ    り。一入(ヒトシオ)興ふかく彫刻も細にいできて、是をもて式亭と一陽斎が和睦の媒(ナカダチ)となし、文亀    堂発市におよびしかば、目さきことに変りて、美しく面白き冊子なりとて、看客の評判つよく行われた    りきと、亡友一鳳斎国安子物語ぬ。    〈「戯作者略伝」とは岩本活東子の編集した『戯作六家撰』(安政三年(1856)成立『燕石十種』二巻所収)であろうか、     それともその原本である『戯作者撰集』(石塚豊芥子編・天保末年~弘化年間成立、嘉永年間補筆)であろうか。こ     の挿話は『戯作者撰集』に出ている。従って「亡友一鳳斎国安」から聞き書きしたのはその編者、石塚豊芥子である。     石塚豊介子は蔵書家・考証家として著名、『戯作者撰集』の編者でもある。豊介子は文久元年(1862)六十三歳没。国     安は天保三年(1832)の没年で、『原色浮世絵大百科事典』の享年三十九歳(「馬琴日記」は〝年四十許〟)。すると     国安の方のが六歳ほど年上であるが、「亡友」とあるからかなり親密な関係にあったと思われる。文化七年当時、国     安は十七歳。この豊国・三馬の騒動、江戸戯作界における画工優位を象徴するかのような出来事を、少年国安はつぶ     さに見聞していたはずだ。信ずるにたる消息だといえよう。三馬作『阿古義物語』(豊国・国貞画)『一対男時花歌     川』(豊国・豊広画)ともに文化七年(1810)の刊行〉      ◇「一世歌川豊国伝」p94   〝按ずるに、初日【井屋茨城/全盛合奏】一対男時花歌川は、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋勘    右衛門板なり。序のかわりに豊国、豊広、および三馬が門人等の像をかかげて、俳優貌見世の体に倣う。    三馬門人は馬笑、三孝、三鳥、三友等を載せ、豊広、豊国の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、国長、    国満、国丸、国久、国房、を載す〟     〝(式亭三馬『一対男時花歌川』の口上)これにひかえましたる小倅は、豊広せがれ歌川金蔵、次にひか    えまするは豊国門人文治改歌川国丸、安次郎改歌川国安、これにひかえしあいらしいふり袖は、私門人    益亭三友、いずれも若輩のもの共にござりますれば、御取立をもって、末々大だてものとなりまするよ    う、豊広、豊国、私にいたるまで、偏に偏に希い奉ります〟    〈豊広・金蔵父子の後ろに袴上下姿で控えているのが国安。口上には「安次郎改歌川国安」とある〉
   『一対男時花歌川』三馬口上 (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)      ◇「一世歌川豊国伝」p105   〝一世豊国の門人中よく其師風を守りて、失わざるものは国安なり。又師風を返じ別に一派を起さんとせ    しは国直也。二人の腕力は大抵優劣なし(以下、国直記事、略)〟       〝国安は俗称安五郎、一鳳斎と号す。江戸の人初め大門通に住し、後に深川扇橋、又両国若松町に住す。    夙に豊国の門に入り、塾生のごとく常に師の傍にありて、画法を学び其骨髄を得たり。遂に国字を称う    を許され、国安と称す。文化の始めより、錦画を出し行わる。野村氏類考に、国安の錦画行れしは、歌    右衛門忠信道行の画を始とす云々。後に故ありて名を西川安信と改しが、幾ならずして又改めて国安と    いう。天保七年没す。三十余歳、五柳亭徳升作大益天神記(五冊)、同作義経一代記(五冊)、同作四    天王其源(五冊)、二世焉馬作角力水滸伝等を画く。その他猶おおし〟    〈「歌右衛門忠信道行」とあるのは、文化五年(1808)五月、江戸の中村座で興行された『義経千本桜』の道行「幾菊蝶     初音道行」で、狐忠信役を務めた中村歌右衛門の役者絵と思われる。この芝居の役者絵としては、国安の師匠・初代     豊国のものが残されている。(早稲田大学演劇博物館の「演劇博物館浮世絵閲覧システム」で豊国画「狐忠信 中村     歌右衛門」を見ることができる)ただ幸いなことに、同システムには、文化五年の国安画・役者絵が三点収録されて     いる。それによると、興味ぶかい事実が確認できるので、参考までに上げておく。       文化五年四月、市村座・外題「道行初音鳥」            画題「井筒屋船頭房 尾上栄三郎」・署名「豊国門人 安画」       同年五月、中村座・(外題なし)            画題「平の友もり 中村歌右衛門」・署名「豊国門人 安画」     同年十一月、中村座・外題「御摂恩賀仙」            画題「平の清盛 中村歌右衛門」・署名「豊国門人 国安画」
   「井筒屋船頭房 尾上栄三郎」 「平の友もり 中村歌右衛門」 「平の清盛 中村歌右衛門」    (早稲田大学「演劇博物館浮世絵閲覧システム」)       〈これによると、「豊国門人 安」が師匠豊国から「国」の使用を許されたのは、文化五年の十一月頃のことと思われ     る。おそらく顔見世興行の時期と合わせたのであろう。「野村氏類考」とは、野村氏の「浮世絵類考」という意味だ     ろうが、未詳。西川安信の改名時期も未詳。国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」によると、五柳亭徳升との     合巻は全七十九作品中、十六作にも及び、いちばん多い〉     ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(65/103コマ)   〝歌川国安【文政元~十二年 1818-1829】    通称安五郎、一鳳斎と号す、江戸の産にて大門通り村松町、また本所扇橋等に住めり、幼時より初代豊    国の門に入り、塾生と為りて其家に在りき、文化のはじめ、錦絵を出せしが、後に故ありて、西川安信    と名を改め、亦更に国安に復して、草双紙、錦絵等を多く画けり、天保七年没す、享年三十余歳〟  ◯『浮世画人伝』(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)   ◇「歌川豊国系譜」p83
   「歌川豊国系譜」〝国安(初代豊国門人)一鳳斎〟      ◇「歌川国安」の項 p98   〝 歌川国安(ルビうたかはくにやす)    国安は通称を安五郎と云ひ、一鳳斎と号し、初代豊国の門弟なり。初め大門通りに住し、後本所相生町    また深川扇橋に移れり。若年より豊国の塾にありて、文化の頃発梓したる錦絵に名あり。一時事故あり    て西川安信と改め、幾何もなく再び国安に復す。天保三年七月六日、享年三十九にして卒す〟     ◯「集古会」第六十六回 明治四十一年(1908)一月(『集古会誌』戊申巻二 明治41年10月刊)   〝和田千吉(出品者)歌川国安画 江戸名所四季遊参双六 /同筆 百物語化物双六〟  ☆ 大正年間(1912~1825)  ◯「集古会」第百二回 大正四年(1915)三月(『集古』庚辰第五号 昭和15年11月刊)   〝有田兎毛三(出品者)国安 忠臣蔵十二段 六枚〟  ◯「集古会」第百三十八回 大正十一年(1922)九月(『集古』壬戌第五号 大正11年10月刊(出品)   〝有田兎毛三(出品者)歌川国安画 四十八手最手鏡 蓬莱山人撰 一冊 文政十一年刊〟  ◯「集古会」第百四十九回 大正十四年(1925)一月(『集古』乙丑第二号 大正14年2月刊)   〝三浦おいろ 大阪(出品者)国安画 菅原天神記 一冊 徳升作〟  ☆ 昭和以降(1926~)  ◯「集古会」第百六十回 昭和二年三月(『集古』丁卯第三号 昭和2年4月刊)   〝浅田澱橋(出品者)国安画 蘭人持渡駱駝錦絵 一枚 文政四〟  ◯「集古会」第百六十四回 昭和三年一月(『集古』戊辰第二号 昭和3年2月刊)   〝中沢澄男(出品者)龍頭宝船 七枚     北寿・国安・貞秀・広重・芳虎 大正元晴風翁贈宇都宮製、其他〟  ◯『狂歌人名辞書』p68(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝歌川国安、通称安五郎、一鳳斎と号す、東都浮世絵師、初代豊国門人、後ち名を改めて西川安信といふ、    天保三年七月六日歿す、年三十九〟     ◯「日本小説作家人名辞書」(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)   ◇「竹田出雲」p781   〝竹田出雲    歌川国安一時の戯号であらう。「嗚呼忠臣夜光珠」(文政十年刊)の作者〟      ◇「西川光信」p805   〝西川光信(ママ)    浮世画家歌川国安、一時西川安信を名乗った事がある。其の際の別号であらう。「通神百夜車」(文化    十二年(1815)刊)の作者〟    〈西川光信は西川安信の誤記〉      ◯「集古会」第百七十五回 昭和五年三月(『集古』庚午第三号 昭和5年5月刊)   〝中沢澄男(出品者)国安画 錦絵 揚弓店婦人図 一枚〟  ◯『浮世絵師伝』p59(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝国安    【生】寛政六年 【歿】天保三年七月六日-卅九 【画系】初代豊国門人 【作画期】文化~天保    歌川を称し、一鳳斎と号す、俗称安治郎、一時画名を西川安信と改めしが、再び旧名に復して国安とい    へり、文化半ば頃には既に役者絵の作あり、はじめ落款には「豊国門人安画」とせり、美人画にも巧み    なりき、居所、本所相生町、また深川扇橋〟     ◯「集古会」第百九十二回 昭和八年九月(『集古』癸酉第五号 昭和8年11月刊)   〝和田千吉(出品者)国安画 江戸名所四季遊双六 一枚〟  ◯「集古会」第百九十七回 昭和九年九月(『集古』甲戌第五号 昭和9年11月刊)   〝浅田澱橋(出品者)国安画 錦絵 文政四年駱駝渡来図 一枚〟  ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「文政元年(四月二十二日改元)戊寅」(1818)p191   〝正月、豊国・国貞・辰斎・戴一・国丸・国安・春亭・武清・玉山等の挿画ある『以代美満寿』出版〟   ◇「文政五年 壬午」(1822)p197   〝春より葺屋町河岸に於いて唐人踊の見世物を出す。カンカン踊りといふ。為に歌川国安の画にて『看々    踊きんらの唐金』といへる合巻五巻二冊出版さる。蘭麝台薫の作なり。其他一枚物(錦絵)にも多く出    たり〟   ◇「文政一一年 戊子」(1828)p205   〝正月、歌川国安の画ける『四十八手最手鏡』出版。    三月、国安の画ける『相撲金剛伝』出版。(相撲の書三部まで出版ありしを見れば、此頃相撲道の盛ん    なりし事推して知るべし)〟   ◇「天保三年 壬辰」(1832)p210     〝七月六日、歌川国安歿す。行年三十九歳。(国安は江戸の人にして豊国の門人なり。俗称安五郎、一鳳    斎と号せり。一時西川安信と号せりといふ)〟   ◇「天保一四年 癸卯」(1843)p222   〝十月、歌川国安の画ける『四十八手最手鏡』出版。蓋し再版なり〟    ◯「集古会」第二百八回 昭和十一年十一月(『集古』丁丑第一号 昭和12年1月刊)   〝中沢澄男(出品者)歌川国安画 誂染由縁廼色揚 一冊 江南堂唐立作 合巻 つる屋版〟〈文政7年刊〉  ◯「集古会」第二百十回 昭和十二年三月(『集古』丁丑第三号 昭和12年5月刊)   〝中沢澄男(出品者)歌川国安画 菅原実伝記 合巻 御柳亭徳升作 文政十年版〟  ◯「集古会」第二百十三回 昭和十二年十一月(『集古』戊寅第一号 昭和13年1月刊)    中沢澄男(出品者)歌川国安画 菓子袋 一枚・菓子袋 一枚 文政七年〟  ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
   「歌川系図」〝豊国(一世)門人 国安(安信)〟    ◯「集古会」(第二百三十一回) 昭和十六年五月(『集古』辛巳第四号 昭和16年9月刊)   〝三村清三郞(出品者)歌川国安画 阿武松 緋縅画像 二枚〟  ◯「集古会」(第二百三十四回) 昭和十七年一月(『集古』昭和十七年第二号 昭和17年3月刊)   〝勝俣銓吉郎(出品者)歌川国安画 女水滸伝袋 三十枚 馬琴作 全部年中行事の画あり〟    〈『傾城水滸伝』〉  ◯「集古会」第二百三十七回 昭和十七年十一月 (『集古』昭和十八年第一号 昭和18年1月刊)   〝中沢澄男(出品者)歌川国安画 女水滸伝 七八九編袋 上下六枚 曲亭馬琴作〟  △『増訂浮世絵』p260(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝歌川国安    一鳳斎、俗称安五郎、江戸の人、豊国の家に居て絵を学んだ。文化の初めから錦絵をかいて居る。一時    名を西川安信と改めたといふが幾程もなく、旧に復した。天保三年七月六日没す、年三十九。門人には    安信、安秀、安春、安清、安峯がある。また二世国安もある〟     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔歌川国安画版本〕    作品数:93点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:国安・歌川国安    分 類:合巻78・読本3・咄本2・往来物3・艶本2・地誌1・滑稽本1・相撲1・演劇1    成立年:文化5・7~8・12年(7点)        文政2~13年    (67点)        天保1~6年     (28点)   〈〔目録DB〕に西川安信名の収録はない〉