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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国 二代(とよしげ 豊重)
浮世絵師名一覧
〔享和2年(1802)? ~ 天保6年(1835)?〕
※①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録データベース」「国書データベース」〔国文学研究資料館〕 ④〔早大〕 :「古典籍総合データベース」早稲田大学図書館 ⑤〔東大〕 :『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔日本書誌学体系67・近世文学読書会編〕 角書は省略。①~⑥は「合巻年表」の出典。◎は表示不能あるいは難読文字
☆ 文政八年(1825)
(豊重から豊国(二代)と改名)
◯ 正月七日、
初代歌川豊国
没(五十七歳)
◯「合巻年表」
(文政八年刊)
歌川豊重画
『女風俗吾妻鑑』「歌川豊重画」表紙 歌川豊国 市川三升作 五柳亭徳升代作 今利屋板 ⑤① 〔国書DB画像〕巻末〝豊重 豊国門人峯吉画〟
〈作者三升と代作者徳升と豊重、三者とも裃姿。三升と徳升は口上を述べる体、豊重は平伏。表紙は師匠の豊国、こ の作が豊重の合巻初筆なのであろう。「豊国門人峯吉画」の峯吉は豊重の俗称と思われるが、飯島虚心の『浮世絵 師歌川列伝』(明治27年)以降の諸書は俗称を源蔵としており、整合しない〉
「豊重 豊国門人峯吉画」
『女風俗吾妻鑑』巻末
(国書データベース)
歌川豊国二世画
『傾城水滸伝』歌川豊国画 曲亭馬琴作 鶴喜板 ①
〈〔目録DB〕はこの豊国を二代目とするのだが、初代ではないだろうか〉
◯『伊勢物語』合巻 鶴屋喜右衛門板 巻末「文政八年乙酉新版」目録
(早稲田大学「古典籍総合データベース」)
〝尾上松緑百物語
豊国伜 哥川豊重画
尾上梅幸作 全六冊〟
〈これは文政八年正月出版の合巻目録。ここに豊重は初代豊国の伜とあるから、養子となったのは文政七年かそれ以前 と思われる。なお『尾上松緑百物語』の刊行は翌年の九年〉
◯
歌川豊国二代
名弘書画会 文政八・九年頃 三月二十六日 柳橋 大のし屋
(「浮世絵師の書画会」久保田米斎著 『錦絵』第十六号所収 大正七年刊)
〝各位の諸君 倍々御光祥被遊御座 奉唱南山候 陳者 来ル三月廿六日 不論晴雨 柳橋大のし富八亭ニテ 名弘書画会相催申候間 御抂賀(ママ枉駕)奉希上候 会主 二代目 歌川豊国 補助 歌川豊広/故人 豊国社中/桜川慈悲成/山東庵京山
〈「光祥」は幸せ、「南山」はお祝い、「陳者(のぶれば)」は「さて」、「御枉駕」は御来訪の意味。名弘とあるから 襲名披露である。この年の正月、養父の初代豊国が亡くなったばかり。一般に喪中の期間は養父の場合十三ヶ月とさ れるから、この三月とは文政九年のように思うのだが、下掲、文政九年の「合巻年表」書誌・柳亭種彦の序文・曲亭 馬琴の記事などを参照すると、どうやら文政八年三月が正しいようである。補佐役として、初代とは兄弟弟子の豊広 および豊国一門とあることから、いわば歌川派総出の支援があったものと思われ、また戯作者の代表として、桜川慈 悲成・山東京山の大御所を擁していることから、当時の文芸界挙げての襲名披露とみてよいのであろう。したがって、 この引き札を見る限り、豊重の二代目豊国襲名に大きな問題があったとは思えない。ただ、それにしても喪中の襲名 披露という点に関しては、なんらかの事情があった上でのこととも思え、何か腑に落ちない思いは残る〉
☆ 文政九年(1826)
◯「合巻年表」
(文政九年刊)
歌川豊国二世画
『尾上松緑百物語』「歌川豊国画」尾上梅幸作 花笠文京序 鶴喜板 ⑤ 表紙「弌陽斎豊国画」口絵「此所一丁/前の豊国画」
〈表紙と口絵一丁が初代豊国でその他は二代目豊国画である。これは初代が前年の正月が亡くなったことによる〉
『傾城揚羽蝶花形』 歌川豊国画 三升作 五柳亭徳升作 今利屋板
(注:日本小説年表による)
① 『笹色猪口暦手』 前編「故豊国画」後編「歌川豊国画」柳亭種彦作 西与板 ⑤
〈前編が初代、後編が二代目。下掲参照〉
『勧善辻談義』 「歌川豊国画」関亭伝笑作 森治板 ①
〈版本において豊重が豊国を名乗るのは文政九年刊から。〉
◯『笹色猪口暦手』序(合巻・柳亭種彦作・歌川豊国画・文政九年刊)
(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)
〝此冊子文政甲申冬十月前編三冊草稿なりて画る者/故豊国なり、乙酉秋九月後編の稿を脱して、今の豊 国が筆に継ぐ 文政九年丙戌春発販 柳亭種彦誌〟
〈甲申は文政七年、その十月に草稿成った前編の挿絵は故豊国(初代)が担当した(確かに前編巻末に「故豊国」とあり) そして翌乙酉八年九月に草稿成った後編は現在の豊国(二代)が担当したとある〉
◯『著作堂雑記』229/275(曲亭馬琴・文政九年(1826)二月記) 〝三世市川三竹肖像【戌二月下旬、二代目
歌川豊国図
】丙戌二月廿七日詠題 親ほどになるべきものを竹の子の みつとかぞふるよい名のみにて〟
〈丙戌は文政九年。馬琴の記事は、文政九年二月下旬、二代目豊国が画いた三世市川三竹の肖像に、同月二十七日「親 ほどに~」の賛を認めたというのであろう。ただ三世市川三竹がよく分からない〉
☆ 文政十年(1827)
◯「合巻年表」
(文政十年刊)
歌川豊国(二世)画
『誂織八丈縮緬』 「歌川豊国画」山東庵京山作 森治板 ① 『誂染楓絹川』 歌川豊国画 尾上梅幸作 花笠文京代作 泉市板 ①
(注:文政九年刊『児桜法華房』(歌川国貞画)の後編。日本小説年表による)
『想合対管笠』 「歌川豊国画」尾上梅幸作・花笠文京代作 山本板 ① 『東男連理緒』表紙「豊国画」五渡亭国貞画 十返舎一九作・総州屋板 ②
〈〔目録DB〕の注記によると、文化六年刊の本文を補修して外題を再版したものの由)
◯「艶本年表」
〔目録DB〕(文政十年刊)
歌川豊国二世画
『玉の盃』前編 好川艶春(歌川豊国二世)画 色亭乱馬作
(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)
◯「浮世絵師売出しの一大難関」靄軒著(『彗星 江戸生活研究』第三年(1928)十月号) 〝(本郷豊国(二代目)襲名引札) 各位之諸賢 倍々御光祥被遊御座 奉唱南山候 陳者 来三月廿六日 不拘晴雨 柳橋大のし富八亭に て名弘書画会相催申候間 御抂駕奉希上候 亥三月 会主 二代目 歌川豊国 補 歌川豊広 故人豊国社中〟
〈二代目豊国の襲名披露書画会、日時:文政十亥年(1827)三月廿六日、会場:柳橋大のし屋冨八亭〉
☆ 文政十一年(1828)
◯「合巻年表」
(文政十一年刊)
歌川豊国二世画
『千葉模様好の新形』「豊国画」 東里山人作 松本幸四良補 岩戸板 ① 『扇富士曾我物語』 「歌川豊国画」 市川三升作 五柳亭徳升代作 岩戸板 ① 『逢見茶娵入小袖』 「一陽斎豊国画」墨川亭雪麿作 山本板 ①
◯「咄本年表」
〔目録DB〕(文政十一年刊)
歌川豊国二代画
『林屋落噺』歌川豊国画 林屋正蔵作
◯「艶本年表」
〔目録DB〕(文政十一年刊)
歌川豊国二世画
『玉の盃』後編 好川艶春(歌川豊国二世)画 色亭乱馬作
(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)
◯「文政十一戊子年」①249 正月六日(『馬琴日記』巻一) 〝
歌川豊国
、為年始祝義、来。玄関ぇ申置、帰去。当時、本郷春木町二丁目ニ住居之由、告之〟
〈この歌川豊国は二代目。馬琴作の挿画は文政八年刊の合巻『傾城水滸伝』初編だけで、翌九年の二編からは国安が担 当した。以下、2014/04/07の追記、二代目豊国の『傾城水滸伝』初編担当は「日本古典籍総合目録」に拠ったものだ が、初編は初代豊国とも考えられるので、しばらく保留する〉
◯『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編・天保十五年序) ◇「初代歌川豊国」の項
「豊国筆塚碑」
(文政十一年八月記の「歌川総社中碑」に名を連ねる) 〝二代目豊国社中 国富 国朝 国久女 国春 国弘 国重 国盛 国靄 国道 国一 国与〟 〝二代目一瑛斎歌川豊国〟 ☆ 文政十二年(1829)
◯「合巻年表」
(文政十二年刊)
歌川豊国二世画
『花紅葉芳野竜田』「一陽斎歌川豊国画」式亭虎之助作 岩戸板 ④ 『天下茶屋敵討』 「歌川豊国画」 十返舎一九作 岩戸板 ①
(『敵討住吉詣』『殿下茶屋誉仇討』の合冊改題本)
◯『江戸小咄辞典』「所収書目改題」
(文政十二年刊)
歌川豊国画
『たいこの林』林屋正蔵作 西村屋板
〈この豊国は二代目〉
☆ 天保元年(文政十三年・1830)
◯「往来物年表」
(本HP・Top)
歌川豊国画
『泰平江都往來』口絵「元祖 重政図 豊国写」西村屋与八 文政十三年五月再板
〔国書DB〕
☆ 天保二年(1831)
◯「合巻年表」
(天保二年刊)
歌川豊国(二世)画
『天津空村雨物語』 歌川豊国画 東里山人作 板元未詳
(注:日本小説年表による)
① 『春狂言善悪鏡』 「歌川豊国画」恋川春町作 鶴喜板 ⑤ 『今昔虚実録』 「歌川豊国画」桜川慈悲成作 西与板 ④ 『敵討湊の曙』表紙「豊国画」柳川重信・歌川国丸画 為永春水作 大阪屋板 ①
◯『噺本大系』巻十六「所収書目解題」
(天保二年刊)
二代目歌川豊国画
『笑話の林』 奥付「江戸 咄の作者 林屋正蔵著/浮世絵師 歌川豊国画」西村屋板
〈この豊国は二代目〉
◯『今昔虚実録』歌川豊国二代画 桜川慈悲成作 西与板 天保二年刊
(国書データベース)
(口絵 初代歌川豊国肖像 二代目豊国画) 〝歌川豊国似顔 くまどりは実紅梅のかんのべに 一陽斎にひらく顔見世 故人自作〟 (桜川慈悲成の口上) 〝憚り乍ら此処にて鳥渡(ちょっと)口上の申し上ます こゝに矢の根五郎をあらはしましたるは 御 ぞんじの私兄弟分の故人歌川豊国 茶番狂言の画図に御坐ります 此義は只今の二代目歌川豊国 大江戸御なじみ深き先の豊国同様御ひゐき御取立の御礼 何がなと申しますに寄りまして わたく し申しますは かげながら親の悦びいさみます其似顔と申認めさせ 御礼の為御覧に入れ奉ります 猶此上相替らず 今の豊国/\と御引立の程すみからすみまでと角かはらの 古人にかはりて 行年七十才の親父 桜川慈悲成申す〟 ☆ 天保三年(1832)
◯「合巻年表」
(天保三年刊)
歌川豊国二世画
『風流烈女伝』三編「歌川豊国画」表紙「後素亭豊国画」墨川亭雪麿作 山本板 ⑤ 『恋染木手管苧環』「歌川豊国画」恋川春町作 泉市板 ⑤ 『鶴千年対面曾我』「歌川豊国画」恋川春町作 泉市板 ⑤ ☆ 天保四年(1833)
◯「合巻年表」
(天保四年刊)
歌川豊国二世画
『鏡山故郷の錦絵』表紙・見返し「豊国画」巻末「歌川国貞画」柳亭種彦作 山本板 ④ ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③305(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)
「歌川豊国系譜」
(初代豊国門人) 〝二代目 一竜斎豊国【俗称豊国、養子トナル、本郷春木町ニ住ス、初名国(空白)、歌川豊重ト改ム】〟 ☆ 天保五年(1834) ◯「日本経済新聞」「夕刊文化」2011/2/1日、夕刊記事 天保五年八月十六日 両国柳橋・河内屋にて、花笠文京主催、浮世絵師の「画幅千枚かき」書画会 参加絵師、香蝶楼国貞・一勇斎国芳・渓斎英泉・歌川豊国・前北斎為一 (被災した花笠文京を支援するための書画会)
〈この歌川豊国は二代目。この時点ではまだ豊重に戻っていなかったか〉
画幅千枚がき
(引札)
☆ 天保六年(1835)
◯『後の為の記』(曲亭馬琴著・天保六年自序)
(国会図書館デジタルライブラリー所収)
〝歌川豊国は一男一女なり、女子はかくし子なりければ、生涯父と不通也、男子は彫工に成たるが、放蕩 にて住所不定なり、因て弟子を夫婦養嗣にしたり、これを後の豊国といふ、画はいたく劣れり〟
〈後の豊国とは弟子の豊重〉
☆ 刊年未詳
◯「双六年表」
〔本HP・Top〕
歌川豊国(二代)画
「新板加州金沢道中案内記」「歌川豊国筆」「豊年画」板元未詳 ②
〈②の書誌は二代豊国とする。豊年画は上りのコマ絵〉
「新板百人一首むべ山双六」豊国(二代) 十返舎一九校 大黒屋平吉板 不詳(書誌のみ)⑫〔跡見1390〕
◯「艶本年表」
〔目録DB〕
◇艶本
(刊年未詳)
歌川豊国二世画
『玉の盃』二編二冊 好川艶春(豊国二世)画 色亭乱馬作
(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)
☆ 没後資料
☆ 弘化元年(天保十五年・1844) ◯『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編・天保十五年序) ◇「初代歌川豊国」の項
「歌川豊国系譜」
(初代豊国門人) 〝二代目 一竜斎豊国 又後素亭 俗称(空白)幼名(空白)国 本郷春木町に住す、歌川豊重と改む〟 ◯『紙屑籠』〔続燕石〕③72(万象亭(森島中良)著、文化年中前半) (「役者似顔絵師 歌川」の項) 〝元祖 歌川豊国【豊春門人、植木町に住】 二代目豊国【豊国実子】 三代目豊国【初国貞、亀戸に住す】 豊国門人 国貞 同 国安 同 国政【富三郎、高麗蔵、うちは絵大首の始、二代目国政は役者絵出さず】 同 国芳〟
〈国貞が豊国を襲名するのは天保十五年(弘化元年・1844)のこと。従ってこの「役者似顔絵師 歌川」の記事はそ れ以降の書き入れであろう〉
☆ 嘉永三年(1850) ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆) ◇中p1399
「歌川豊春系譜」
〝(歌川豊春)門人 豊国 二代目〟 ◇中p1400
「歌川豊国系譜」
〝二代目 豊国 元国政、紀国橋向〟 ☆ 安政四年(1857)
◯「合巻年表」
〔目録DB〕
◇合巻
(安政四年刊)
歌川豊国二世画
『水滸伝正本製』八巻 豊国二世画 松園梅彦作
(注記「日本小説年表による」)
〈二代目豊国画は不審〉
☆ 慶応四年(明治元年・1868) ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪189(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
「歌川豊春系譜」
〝(歌川豊国門人)豊国 号後素亭、本郷春木町ニ住ス。後歌川豊重ト改〟 ☆ 明治二十六年(1893) ◯『浮世絵師便覧』p208(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊) 〝豊国 二世豊国、始め豊重といふ、本郷に住す、人呼ひて、本郷豊国といふ、◯天保、弘化〟 ☆ 明治二十七年(1894) ◯『日本美術画家人名詳伝』補遺(樋口文山編 赤志忠雅堂 明治二十七年(1894)一月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝同豊国二代 始め豊重と云ふ 後豊国に改む 弘化年間 浮世絵を画く〟 ◯『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿) ◇「一世歌川豊国伝」p101 (文政十一年八月、初代歌川豊国追悼の筆塚を建立。表に狂歌堂真顔の撰文、背面に当時の門人名あり。 上掲、文政十一年の「豊国筆塚碑」参照) ◇「一世歌川豊国伝」p102 〝(歌川豊国に一男一女あり)門人豊重を此女にあわせて家を継がしむ。
二世豊国
とす。かの筆塚に記せる 豊国の義子、今の豊国と云える即これなり。一龍斎と号し、又後素亭と号す。よく画双紙を画く。文政八 年板尾上梅幸代花笠作の尾上松緑百物語(六冊)は、口画二丁は前豊国にして、余は二世豊国の画く所な り。又同九年板柳亭種彦作、笹色の猪口は暦手(六冊)は、前篇は前豊国の筆にして、後篇は二世豊国の 画なり。同年板伝笑作勧善辻談義(六冊)も、二世豊国なり。又文政十一年には、東里山人作千葉模様好 の新形を画けり。何の故にや後に家と出でて、本郷春木町に住し、名を改めて再び歌川豊重と称す。世こ れを本郷豊国と称し、又源蔵豊国と称す。源蔵は豊重の俗称なり。終りを知らず〟 ◇「三世豊国伝」p132 〝一世豊国の没するや、門人豊重後を継ぎ、
二世豊国
と称えしが、家と出でて再び歌川豊重と称せしことは、 一世豊国の伝にしるせしが、其の家を出でし年月詳ならず。今此風聞書によりて見れば、天保九年已前(イ ゼン)なること明かなり〟
〈「此風聞書」とは『古画備考』所収の「天保九年五月十四日聞」とあるもの。ただこの聞き書きには、国安が「一昨 年相果候」という記述があって、それによれば、国安の没年は天保七年頃になるのだが、『馬琴日記』には天保三年 の死とあるから、この聞き書きには時間的な整合性に問題がある〉
◯『名人忌辰録』下巻p2(関根只誠著・明治二十七年刊) 「歌川豊国【二世(ママ)】香蝶楼」の項より 〝一龍斎国重、故豊国の号を嗣て二世と称し夭死す(三世豊国記事中略)国重、文政の末、故豊国の後家に 通じて此名を貰ひ二世豊国と名乗る、此時にや或人の吟に「歌川をうたがはしくも名のりえて二世の豊国 贋の豊くに」かくて同門一同不承知にて遂に素人と成り本郷三丁目に住し瀬戸物商をなす)〟
〈二代目歌川豊国の初名を国重とするのは、この関根只誠からのようだ。これは何に拠ったものであろうか。しかし 『原色浮世絵大百科事典』第二巻の「浮世絵師」二代目歌川豊国の記事に「国重」は見あたらない〉
☆ 明治三十一年(1898) ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(68/103コマ) 〝二世 歌川豊国【文政元~十二年 1818-1829】 通称源蔵、後素亭と号す、始め豊重と称して、本郷春木町に住み、初代豊国の門弟にて、師の死後、其 の妻に入夫し、二世豊国といへり、天保六年十一月一日没す、享年五十九〟
〈何に拠ったものか不明だが、没年月日及び享年を明記している。天保6年(1835)59歳没とすると、安永6年(1777)生ま れになるが、『原色浮世絵大百科事典』二巻はこの説を採らず〉
☆ 明治三十二年(1899) ◯『浮世画人伝』p82(関根黙庵著・明治三十二年刊) (「歌川豊国系譜」より) 〝一龍斎豊国 初代豊国門人、初名国重、俗称源蔵、師豊国ガ寡婦ノ夫トナル、故ニ二世豊国ノ号ヲ嗣ギ早世ス、同門中 ニ技量大ニ劣レリ、世俗源蔵豊国ト云フ〟
〈「初名国重」は黙庵の父只誠の上掲『名人忌辰録』に拠ったもの〉
「歌川豊国系譜」
◯「集古会」第五十五回 明治三十八年(1905)十一月
(『集古会誌』丙午巻之一 明治39年1月)
〝清水晴風(出品者)本郷豊国筆板行 加賀鳶行列図 一巻〟 ◯「集古会」第六十六回 明治四十一年(1908)一月
(『集古会誌』戊申巻二 明治41年10月刊)
村田幸吉(出品者)二代豊国筆 男女振分出世双六〟 ◯「集古会」第八十三回 明治四十四年(1911)五月
(『集古会誌』辛亥巻四 大正2年4月刊)
〝村田幸吉(出品者)本郷豊国筆 加賀鳶出初行列板行絵 一巻〟 ◯「集古会」第八十七回 明治四十五(1912)年三月
(『集古会誌』壬子巻三 大正2年9月刊)
〝林若樹(出品者)二代豊国 似顔画板下 五枚〟 ☆ 大正四年(1915) ◯『浮世絵』第二号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)七月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「二代目豊国は国重か豊重か」小島烏水著(3/24コマ) 〝二世豊国は国重にあらずして、豊重なるべし〟
〈以下、烏水はその理由を四点あげる〉
1初代豊国の門人は、国貞・国直のように「豊国」の「国」の字を頭に戴く、ところが豊重だけは「豊」 を頭に戴く、これは豊広の門人が広重・広昌のように「広」の字を頭に戴くのに対して、実子金蔵だ けは「豊清」と「豊」の字を戴く例と軌を一にする。豊国と豊重との関係は豊広と豊清と同様、父子 のような特別な縁があると思われること。 2ストレンジ著『日本の色刷』(大正二年刊)所収の役者絵に「豊国伜豊重画」の落款があること 3文政十一年の「豊国先生埋筆之記」に「二代目豊国社中」として、国富・国春等とともに「国重」の 名があることから、国重と二代目豊国とは別人であること。 4『浮世絵師便覧』や『浮世絵備考』に「国重 喜斎と号す 一世豊国門人」とあること 〝決論すれば、豊重は一龍斎にして、国重は喜斎なり。二代目豊国は豊国の伜と署名せる一龍斎豊重が 署名したるものにして、師の妻に入夫云々は、口善悪(くちさが)なき人の浮説に過ぎざるべし。 併し、ここに折衷説あり、宮武外骨氏編『此花』第十一枝〟 ☆ 大正五年(1916) ◯『早稲田文学』p12「最近思潮」大正五年(1916)七月号 〝六月の美術界 豊国劇画を観て (初代豊国記事 略) 豊国の没後、二代豊国を名乗つた国重の俳優画もあつたが、もはや、地黒と紅との快い配色は見られな い。彼は好んで明るい鮮かな紺を人物と着つけに用ゐてゐる。そして屡々筆勢を見せた線や、英泉のや うな堅い線を使つてゐる。併し国貞よりは師に近く、徒らに場面の派手で賑かな国貞よりは寧ろ国重の 方がよいと思ふ。人の知る如く、国重は師名を襲ふたが、評判が悪かつたので、同門の五波(ママ)亭国貞 が彼を無視して改めて更に二世豊国と名乗つた。併し国貞改豊国のものは、賦彩が俗つぽく華美で、道 具立も煩さく、入物がちつとも生動してゐない。豊国の父は人形師であつたさうだが、彼の似顔絵に此 の事が大きな便益を与えたにしろ、彼は更に俳優の人間らしい感情に触れてゐる。寧ろ国貞の絵こそ徒 らに美しい「人形的」のものである〟
〈この「国重」は、上掲関根只誠著『名人忌辰録』(明治27年刊)の
「一龍斎国重、故豊国の号を嗣て二世と称し夭死す」 「国重、文政の末、故豊国の後家に通じて此名を貰ひ二世豊国と名乗る」
に拠っているのであろう。しかし豊国の二 代目を襲名したのは「豊重」が正しい〉
☆ 昭和以降(1926~) ◯
「梅ヶ枝漫録(一)」
伊川梅子(『江戸時代文化』第一巻第六号 昭和二年七月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝本所の豊国は、もと国貞と云つてゐましたが、本郷の豊国のやめてから、十年程たつてから、豊国を名 乗りました。本郷の豊国をいれると、三代目になりますが、本郷のは、だまつて名乗つたので、公然で はありません。其の間の消息はよく知りませんが、弟子が、二組になつてゐたのかも知れません。 本所の国貞が、豊国を名乗る時は、相談に参りました(中略) 本郷の方は、全然かまはなかつたのです。夫婦養子をしたとか云ひますが、私は何とも聞きませんでし た〟
〈伊川梅子は初代豊国の孫。本郷の豊国が二代目〉
◯「集古会」第百六十四回 昭和三年一月
(『集古』戊辰第二号 昭和3年2月刊)
〝浅田澱橋(出品者)二代豊国 奥勤出世双六〟 ◯『狂歌人名辞書』p154 快庵編・昭和三年(1828)刊) 〝歌川豊国(二代)、初号国重、通称源蔵、一龍斎、又、一瑛斎の号あり、一たび豊国の号を継ぎしが物議 の為め再び元の国重に復す、天保六年十一月一日歿す、年五十九〟 ◯「集古会」第百七十七回 昭和五年九月
(『集古』庚午第五号 昭和5年11月刊)
〝出口斎吉 伊勢(出品者)後素斎画 布袋と狸の腹鼓 紙本 一枚〟
〈この「後素斎」が二代目豊国(後素亭)と同人か不明〉
◯『浮世絵師伝』p133(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝豊国 二代 【生】享和二年(1802) 【歿】 【画系】初代豊国門人 【作画期】文政~天保 歌川を称す、俗称源蔵、文政の初め頃初代豊国の門に入り、始め一龍斎豊重と号せしが、文政七年頃師 の家に夫婦養子となる、落款に「豊国伜豊重画」とせしは其頃の作なり、蓋し其が妻は豊春の血縁に当 れる者ならむか。次で翌八年師の歿後直ちに師家を継ぎ、同年三月二代目豊国を襲名したり、時に年二 十四。襲名以後は、一陽斎(文政十一年乃至同十二年)・一瑛斎(文政十一年頃)・後素亭(文政十一 年頃乃至天保五年頃)・満穂庵(天保四五年頃)等の別号あり。彼は若年にして早くも師家の名誉を一 身に担ふことゝなりしかば、これを同門中の一派の者等より羨望且つ嫉妬されしは、亦止むを得ざりし なり。乃ち伝記に、彼は師の寡婦に入夫せりと云ひ、或は其の技拙劣にして見るに足らずなどゝ伝へし は、全く中傷的捏造説にして、これ恐らくは、暗に彼と反対の位置に立ちし国貞一派の所爲なるべし。 事實、彼の画技に於けるや、伝ふるが如き拙劣なるものに非ず、美人画に、俳優絵に、また其他の作画 に、相当注目に値すべきものあり、其が錦絵の作は頗る多く、就中、彼が唯一の風景画たる「名勝八景」 (天保初期の作)の如きは、頗る出色の作なり。錦絵以外に尚ほ、肉筆美人画あり、草双紙の挿画あり、 其の技未だ衰へたりと思はれざるに、天保五六年以後は、全く彼の画蹟をとゞめず、これ或は諸書に伝 ふるが如く天保六年(十一月一日)に死せしものか、又は、一旦師家を去りて画界を追き、本郷春木町 に陶磁噐業を営みつゝ、尚ほ数年を生存せしものか、其の点甚だ不明瞭なれども、天保六年に五十九歳 なりしとする説は甚だ疑はしきものなり。依て、いま七戸吉三氏の数年来の研究に基き、彼の生年を享 和二年と認め、これを天保六年に当つれば三十四歳となる、而して歿年未詳といふ結論を以て至当なり とすべし。因に、七戸氏の二代豊国に関する研究論文は、雑誌『浮世絵志』第八号乃至二十八号中に詳 述されたるものあり、本項亦主として氏が所論に拠る〟 ◯『浮世絵師伝』p136(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝豊重 二代豊国の前名〟 ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊) ◇「文政八年 乙酉」(1825)p200 〝此年、二代豊国たる国重の挿画になる合巻『女風俗吾妻鑑』出版〟 ◇「文政九年 丙戌」(1826)p202 〝此年、二代豊国、歌川豊国と署名しての挿画ある合巻『尾上松緑百物語』出版〟 ◇「天保六年 乙未」(1835)p214 〝十一月二日、本郷豊国歿す。行年五十九歳。(本郷豊国は初代豊国の門人にして、二代目豊国と成れり。 本郷春木町に住せるを以て本郷豊国と称せられ、亦通称源蔵なるを以て、源蔵豊国とも称せらる。二代 豊国を称するは師の歿後五六年間なり(一龍斎・後素亭・一瑛斎等の号あり。三代豊国は即ち五渡亭国 貞なれども亦国貞を二代豊国と認むるの説あり)〟 ◯「集古会」第二百三回 昭和十年十一月(『集古』丙子第一号 昭和11年1月刊) 〝浅田澱橋(出品者)二代豊国筆 錦絵 関屋の摘草 一枚 扇合隅田川八景の内〟 ◯「集古会」第二百二十六回 昭和十五年五月
(『集古』庚辰第四号 昭和15年9月刊)
〝宮尾しげを(出品者)将棋駒形の纏の錦絵 豊国二 子供絵一 三枚〟 △『増訂浮世絵』p257(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊) 〝二代豊国 初代豊国の門人で、俗称を源蔵といふ。初め国重、後に豊重と称し、初代の没後、師名を襲ふて二世豊 国となつたのである。後に国貞が豊国となるに及んで、彼れ自ら二世なることを称したので、実際の二 代豊国なるものは、久しく世から閑却されて、その遺作は割合に近い頃までは、初代豊国又は国貞のも のと混同視されてゐたのである。二代豊国には、後素亭、一龍斎、一瑛斎、一鼈などの別号があつた。 又その住所が本郷春木町なるに因んで、本郷豊国と呼び、或はまた源蔵豊国ともいふた。 柳島妙見堂境内に、師の没後四年目、即ち文政十一年に建立された筆塚の碑文によると、別に国貞の名 が明記されてゐるので、二代豊国の存在について疑ふべき点はない。初代の没後、少なくも五六年間は、 豊国と名乗つてゐたことが推知される。 遺作によると、美人風俗の錦絵役者絵などは少くない。僅ではあるが、風景版画もあるが、その内名勝 八景八枚揃はその傑作である。肉筆画は歌川の典型を受けて、固くなつて居るが、それども可なりなも のがあつて、三代豊国よりも優れて居るものもある。二代は非常に拙なやうにいふが、必ずしもそうで はない〟
◯「日本古典籍総合目録」
(国文学研究資料館)
〔歌川豊国二世画版本〕
作品数:29
(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)
画号他:豊国・豊国二世・一陽斎・一陽斎豊国・一陽斎豊国二世・歌川国貞・歌川豊国・好川艶春 分 類:合巻23・咄本3・艶本1・相撲 成立年:文政8~12・14年(19点) 天保2~3年(6点) 弘化4年 (2点) 嘉永1年 (3点) 安政4年 (1点)
〈「画号他」に歌川国貞とあるのは不審。また、歌川豊重名の作品はなし〉