人食いエビ。.... 佐久間學

(17/6/24-17/7/15)

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7月15日

STRAUSS
Electra
Birgit Nilsson(Elektra), Regina Resnik(Klytämnestra)
Marie Collier(Chrysothemis), Tom Krause(Orest)
Georg Solti/
Wiener Philharmonker
DECCA/483 1494(BD-A)


このところ立て続けに往年の名録音がBD-A化されているので、なんかとても幸せな気持ちになれます。まあ、中にはマスターテープそのものが劣化していたものが使われていて、いくらなんでもこれを商品にするのはまずいだろう、というようなものもありましたが、それもある意味「歴史の証言」的な見地からだったら許してもいいかな、という気持ちにさえなってきます。というのも、中には本当にマスターテープそのものの音が味わえるものがあったりしますからね。
最近では1966年に録音されたDGの「トリスタン」が、そんなぶっ飛ぶようなものすごい音が体験できるものでした。そして今回はやはり1966年に、こちらはDECCAで、あのゴードン・パリー(とジェームズ・ブラウン)によって録音された「エレクトラ」ですから、期待は高まります。こちらもやはりSPEAKERS CORNERのLPで聴いていますから、その録音の凄さは十分に確認済み。
「エレクトラ」というオペラは、2時間にも満たない長さですから、続けて聴いてもそれほど負担にはなりません。というか、音楽的にはワーグナーのような「無駄な」ところは全くなくて、最初から最後までとても美しいオーケストラとリリカルな歌で満たされていますから、退屈さとはおよそ無縁な体験を味わうことができるはずです。しかも、この、ジョン・カルショーがプロデュースした録音では、単に音楽を聴かせるだけではなく、それらが上演されている時の歌手たちの動きや、さらにはその場の情景までが音によって再現されるように作られている、とされていますから、耳で聴くだけであたかもステージが眼前に広がっているように感じられるはずです。それは、「ソニック・ステージ」と命名されて、大々的にLPのジャケットにもそのロゴマークが掲載されていましたし、今回それを忠実に再現したこのジャケットでも、それは見ることが出来ます。
もっとも、そういう特別の録音方法が使われている、と、メディアに向かって宣言した当のカルショーが、後年「あれはただのデマだった」と証言していますから、実際はそれほどのものではありませんでした。それでも、当時の音楽評論家は見事にこのデマ(フェイク)に騙されて、結果的にDECCAの売り上げに貢献するような発言をあちこちでしてくれたのですから、カルショーは「してやったり」と思っていたのでしょうね。そんな悲しい評論家は日本にもいて、実際FMラジオでLPをかけながら「ここでは、あたかも映画のズーム・インのような効果が出ている」と語っていたことがありましたからね。先入観というのは、恐ろしいものです。
ただ、そこまでの「真実」が分かっていても、改めてこの録音を聴いてみるとその大胆な音響操作には驚かされます。なんせ、この話に登場する人たちはみんなどこか「狂って」いますから、その「狂い」の描写の音楽はそれだけでかなりの異様さを持っているところに、さらにサウンド・エフェクトを駆使してオーバー・アクションに仕上げられています。例えば、クリテムネストラが「狂ったように」笑いながら遠くへ去っていくシーンなどは、耳をふさぎたくなるほどの迫力です。ほんと、やっていることはアナログでとても幼稚なことなのですが、それに大真面目に取り組んでいる歌手や録音チームの努力には、圧倒されます。というか、あっとおどろかされます。
このBD-Aには、もちろんマルチ・チャンネルではなく2チャンネルで、LPCMとDolby True HDの2種類のフォーマットのデータが収められています。ですから、それを切り替えて瞬時に聴き比べることが出来るのですが、そうすると明らかのDolbyの音がワンランク低いものであることがはっきり分かります。繊細さがわずかになくなっているのですよね。2チャンネルであればLPCMのままでも伝送には問題がないはずなのに、なぜわざわざDolbyで音質を劣化させているのかが、理解できません。マスターテープの劣化はほとんど感じられないのに。

BD Artwork © Decca Music Group Limited


7月13日

WAGNER
Comment Siegfried Tua le Dragon et cetera
Une Tétralogie de Poche
Ensemble Le Piano Ambulant
PARATY/185144


この間もカラヤン盤をご紹介したばかりの「ニーベルングの指環」ですが、あの時は全曲の演奏時間は15時間でした。そんな長いものを、普通のハイレゾのフォーマットで1枚のBDに入れるのは不可能なので、Dolby True HDというマルチチャンネル用に大幅に圧縮された音源に変換されていましたね。
つまり、音を犠牲にしてそんなせこいことをしないと、1枚には収まらないほどの長さを持った作品だ、ということです。
ですから、実際にこちらのように、余計なものを取り除いて全体を半分以下、6時間15分のスリムなものにして上演するような試みも行われていました。まあ、これだったら普通に「オペラ」として鑑賞するには充分の内容を持っています。
今回のCDでは、それがさらに削られ、なんと51分39秒ですって。編成も、オリジナルは100人を超えるオーケストラに、主だったところでも20人は下らないソリストに合唱を加えると200人近くは必要な演奏家が、たったの6人で済んでいます。正確には、それにナレーターが1人と、プログラマーとミキサーが加わりますが、それでも総勢9人ですからね。なんという軽さでしょう
タイトルも、ですから「ニーベルングの指環」みたいな重苦しいものではなく、フランス語で(演奏家はフランス人)「ジークフリートはどのようにして竜を殺したのか、その他」という軽さ、こんなタイトルの曲が全部で17曲あります。そしてサブタイトルは「ポケットに入る4部作」ですって。粋ですね。
ただ、なんと言っても1時間弱に物語を収めるには、大幅なカットが必要で、「4部作」のなかの「ワルキューレ」は丸ごと削除されていましたね。まあ、ここでのプロットはアルベリッヒがラインの乙女から黄金を奪って作った指環が、アルベリッヒ→ヴォータン→ファフナー(竜)→ジークフリートとめぐって、最後はラインの乙女に返されるというものですから、ジークムントやジークリンデの出場所はなくなってしまいます。
ただ、それではあんまりだというので、「ワルキューレの騎行」だけは、そのモティーフが現れる「神々の黄昏」の第1幕第3場に相当する部分で演奏されています。ある意味「反則」ですが、有名な曲はあった方が良いので、許しましょう。
演奏家の内訳はキーボード、フルート、オーボエ、ヴァイオリン、チェロ、エレキ・ベースの6人ですが、それぞれ別の楽器も持ち替えますし、なんと「セリフ」も喋ります。もちろん、フランス語で。
なんたって、ワーグナーには絶対に必要な金管楽器が全く欠けているというのが、この編成の特徴です。しかし、それは2台のシンセサイザーと、専門のライブ・エレクトリックスの担当によって、壮大な音響(さらには自然音のサンプリング)が提供されていますから、ダイナミックスから言ったらフル・オーケストラよりもすごいものがあります。オリジナルを知っている人であれば、「良くやったね」と思ってしまう個所が続々と現れてくるのを楽しめるはずです。
セリフだって、かなり変調されているので、へたくそな歌を聴かされるよりはよっぽどインパクトがありますよ。
こんなにコンパクトになっていても、ワーグナーの音響と、ストーリーに託した思想は存分に伝わってくるというのがすごいところ、というか、「指環」の世界は、実はこの程度に収まってしまうぐらいの矮小なものだったのか、と気づかされるのが、ちょっと怖いというか。
ただ、フルート奏者はフルートにピッコロ、そしてアルトフルートも演奏していますが、なにかピッチが微妙なのが気になります。「ジークフリートの葬送行進曲」ではトランペットの代わりにピッコロがジークフリートのモティーフを吹いているのですが、これがとてもチープに聴こえます(チープフリート)。
最後にきゃりーぱみゅぱみゅの「もったいないとらんど」が聴こえてくるのが、ほほえましいですね。

CD Artwork © Paraty Productions


7月11日

SCHUBERT
Symphony No.8 "Unfinished"
Mario Venzago/
Kammerorchester Basel
SONY/88985431382


いろいろ突っ込みどころ満載のジャケットです。まず、曲のタイトルとして最初に「The Finished "Unfinished"」、つまり「完成された『未完成』」という、不思議なセンテンスが掲げられています。いわゆる「未完成」というニックネームで広く親しまれている、シューベルトのあのロ短調の交響曲は、その名の通り本来なら4つの楽章があるはずなのに前半の2つの楽章しか作曲されていないという作品なのですが、それを「完成」させてしまったというのですね。完成すればもう「未完成」ではなくなるのに、ちゃんと「交響曲第8番『未完成』」と、理不尽なタイトルなのが、まず笑えます。
ジャケットの写真の方も、普通に見ると重苦しく漂う雲を撮ったものだと思ってしまいますが、ブックレットを裏返すと、そこにはまだつながっていない工事中の橋が。これで「未完成」を表現しているのでしょう。でも、曲の方はもう「開通」しているのに。
「未完成」を「完成」させたのは、何も今回が初めてのことではありません。1981年から1984年にかけて、ネヴィル・マリナーがPHILIPSにシューベルトの交響曲全集を録音した時には、イギリスの音楽学者ブライアン・ニューボールドによって、多くの交響曲が「復元」されていましたが、1983年に録音されたこのロ短調の交響曲でもしっかり4楽章までの「フルサイズ」のものになっています。ご存知のように、この曲のスケルツォ楽章は最初の20小節はオーケストレーションが完了していますし、そのあともトリオの断片までがピアノ譜で残されていますから、ニューボールドは一応シューベルトが望んだであろう形に復元することは可能でした。ただ、フィナーレの楽章はそのような下書きめいたものは残されてはいませんから、ほぼ同じ時期に作られた劇音楽「ロザムンデ」の間奏曲第1番をそのまま使っています。
今回は、指揮者のヴェンツァーゴが自らの仮説をもとにこの2つの楽章を復元したものが演奏されています。ただ、「ヴェンツァーゴ版」はここで初めて披露されているわけではなく、すでに2007年に録音されたジョアン・ファレッタ指揮のバッファロー・フィルの録音(NAXOS)でも使われていました。ここでは第3楽章がニューボールド版、第4楽章がヴェンツァーゴ版によって演奏されています。ただ、同じヴェンツァーゴ版と言っても、今回自らが指揮をして演奏しているものとは少し異なっている部分がありますから、この10年の間に「改訂」が行われているのでしょう。
ヴェンツァーゴの説によれば、シューベルトは最初からこの交響曲は4つの楽章まで作っていたそうなのです。そして、「ロザムンデ」の注文を受けて急いで仕上げなければいけなかった時に、この交響曲の第3、第4楽章からモティーフを転用したのですが、その際に交響曲の楽譜が散逸してしまった、というのです。ですから、その逆の手順、つまり「ロザムンデ」の中の何曲かの素材を組み合わせることによって新たに復元された第3、第4楽章が、ここでは演奏されています。
今まで首席客演指揮者のジョヴァンニ・アントニーニとの演奏でベートーヴェンの交響曲などを聴いてきたこのバーゼル室内管弦楽団は、ここでも7.6.5.4.3という編成の弦楽器と、木管楽器以外はかなりピリオドに近い楽器を用いるというやりかたによって演奏を行っていました。特にユニークなのは、第1楽章をきちんと楽譜通りの「アレグロ」のテンポにしていることでしょう。確かに、これによってこの曲の新たな姿は浮かび上がってきます。ただ、それを受ける「新しい」楽章たちからは、逆に冗長な印象を与えられてしまいます。第3楽章で、第2トリオを新たに「ロザムンデ」の素材で付け加えていますが、それを間にスケルツォを挟まず第1トリオのすぐ後に置いているのはあまりに風変りですし、第4楽章もコーダで第1楽章のテーマが再現されているのには、違和感が募るだけです。だれも、原曲がこうだとは思わないでしょう。

CD Artwork © Sony Music Entertainment Switzerland GmbH


7月8日

WAGNER
Der Ring des Nibelungen
Many Soloists
Herbert von Karajan/
Chor der Deutschen Oper Berlin(by Walter Hagen-Groll)
Berliner Philharmoniker
DG/479 7354(BD-A)


最近、例えばビートルズが来日してから半世紀とか、先日のベームのバイロイトでの録音から半世紀とか、なにかと「半世紀」ネタが世の中にはあふれているような気がします。そこに来て、今年2017年は、「ザルツブルク・イースター音楽祭」が始まってからやはり「半世紀」なのだそうです。夏に開催される「ザルツブルク音楽祭」は戦前からあったものですが、「イースター」の方は文字通り復活祭の時期に、カラヤンが自らの理念を実現させるために1967年3月19日にスタートさせた音楽祭です。オープニングを飾ったのはワーグナーの「ワルキューレ」、それは3回上演され、その間にはバッハの「ブランデンブルク協奏曲(1、2、3番)」と「組曲第2番」、ブルックナーの「交響曲第8番」、ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」の3種類のコンサートが2回ずつ開かれました。もちろん指揮は全てカラヤン、それだけではなく、なんと「ワルキューレ」では演出まで自ら手掛けていたのですから、もうこれはカラヤン一色のイベントでした。お赤飯はありません(それは「おべんとう」@朝ドラ)。
さらに、この「ワルキューレ」はその前の年に同じキャストによってベルリンで録音されていたのです。つまり、ニューアルバムをレコーディングして、それをプレイリストにしたツアーを行うという、まるでポップス界のアーティストのようなことを、カラヤンはやっていたのですね。そんなことを4年間繰り返して、あっさり史上2回目となる「指環」全曲のスタジオ・レコーディングを完成させてしまいました。
1989年にカラヤンが亡くなったのちも、この音楽祭はベルリン・フィルとその時の指揮者によって継続されました。しかし、2013年からは、ティーレマン指揮のドレスデン・シュターツカペレという新しいホストによる体制に変わっています。今年の音楽祭では、「半世紀」の記念としてこのメンバーによってカラヤンが使った舞台装置や衣装を復元した「ワルキューレ」が上演されました。いまだにカラヤンの亡霊は消えることはありません。
そして、その「半世紀」の記念グッズとして登場したのが、このBD-Aによる「指環」の全曲盤です。ワーグナーの「指環」が、1枚のBD-Aに収まったものとしては、その最初のスタジオ・レコーディングであるショルティとウィーン・フィルのものがありました。ただ、それはトランスファーが行われたのが1997年で、その頃のフォーマット、つまり24bit/44.1kHzによるものでしたから容量25GBのBD1枚に楽々収まっていました。しかし、カラヤンの場合、全曲の演奏時間は「899分5秒」なのでほぼ15時間、それを24bit/96kHzのPCMで録音するとメモリーは30GB以上必要になってBD1枚では足りませんね。ただ、どうやら最近のBD-Aでは「DOLBY TRUE HD」でロスレス圧縮されているので、サイズはかなり小さくなって、これだけのものでも1枚に収まるようになっているのでしょう。
ただ、手元には1998年頃にリマスターが行われた「オリジナルス」のCDがありますが、それと比較すると明らかに元のマスターテープのコンディションが違っています。音に影響が出るほどの磁性体の劣化はほとんど感じられないのですが、明らかにテープを編集した時につないだ跡がはっきり聴こえる個所が、今回のBD-Aでは無数に見つかりました。おそらく、その部分はスプライシング・テープが剥がれてしまっていたのでしょう。
音そのものは、劣化こそないものの、CDと比較すると前回の「トリスタン」ほどの目覚ましい違いはありません。そこで、「神々の黄昏」の「ジークフリートのラインの旅」のトラックだけ24/96のFLACデータを購入して比較してみたのですが、BD-Aの音とは明らかに違っていました。それがDOLBYのためなのかどうかは、分かりません。
「神々」の冒頭の木管のアコードで、フルートの音がとても主張を持って聴こえてきました。これが録音されたのは1969年。もうゴールウェイはベルリン・フィルのメンバーになっていました。

BD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH


7月6日

WAGNER
Tristan und Isolde
Birgit Nilsson(Isolde), Wolfgang Windgassen(Tristan)
Chrisra Ludwig(Brangäne), Eberhard Waechter(Kurwenal)
Martti Talvelr(Marke), Peter Schreier(Ein junger Seemann)
Karl Böhm/
Chor und Orchester der Bayreuther Festspiele
DG/479 7291(BD-A)


1966年のバイロイトのライブ録音、カール・ベーム指揮の「トリスタン」全曲がBD-Aになりました。もちろんワーグナーのオペラで、西部劇ではありません(それは「ウエスタン」)。とは言っても、必ずしも全面的に歓迎できる出来ではなくなっているのが最近のこういう古いアナログ録音のハイレゾ化ですから、現物を確かめるまでは油断が出来ません。
まずは、ジャケットがオリジナル通りだったのにひと安心。いや、こちらにあるように、決してオリジナルが「正しい」ものではないのですが、半世紀前に入手したLPと同じジャケットに出会えたことには喜びを隠せません。
CD化された時には、ジャケットの写真が反転されてしまった(そちらが本来の写真なのですが)のと同時に、LPでは5枚組の最後の1面が余っていたので、そこに「おまけ」で収録されていた第3幕の冒頭からのリハーサルの録音もなくなっていました。まあ、CDだとちょうど3枚に収まってしまいますからそんな「余計なもの」は必要なかったのでしょう。それが、今回のBD-Aでは最後のトラックに全く同じものが入っていました。これでやっと、LPの正確な追体験が可能になりました。
というのも、このLPを買った時に、まずは全曲、何度も裏返しながら聴き通しましたが、そのあと何か聴き直すときにもっぱら聴いていたのが、この最後の1面だったのですよ。あまり頻繁に聴いたものですから、そこでベームがしゃべっていたことまで、一緒に刷り込まれてしまっていました。いわば、「トリスタン・リミックス・フィーチャリング・カール・ベーム」といった感じで、それだけで成立している音楽になっていたのですよ。これはすごいですよ。オーケストラへの細かい指示とともに、そこで歌い始める、後のウィーン国立歌劇場の総支配人、エーベルハルト・ヴェヒターと一緒にデュエットまで始めますからね。
そのLPは輸入盤に日本語の対訳などを加えたものだったのですが、何しろ当時のDGの輸入盤は盤質が悪かった、というか、高温多湿の日本の気候には合わない素材だったために、しばらく経つとコンパウンドの中の添加剤が表面に移行したのか、明らかに音が劣化してきました。あれほど美しかったニルソンの声も、醜く歪むようになっていたのです。その時点で手放してしまったので、そのLPはもはや手元にはありません。ですから、これは本当に久しぶりに再会できたリハーサル、ベームの声が聴こえてくると、そのころの身の周りのことまでがしっかり蘇ってきましたね。
同時に、そのリハーサルから見えてくる「そのころ」のベームの音楽も、まざまざと蘇ってきます。ベームといえば、すっかり枯れてしまった晩年の演奏ばかりが語られている、という印象がありますが、ここではとてもきびきびとした仕草で音楽を作っている姿がはっきり分かります。そして本番の演奏でも、常にドライブ感を絶やさずに突進している爽快感が伝わってきます。例えば、第2幕でイゾルデが待っているところにトリスタンが現れる場面とか、第3幕で、イゾルデに会えると分かった時のトリスタンの大はしゃぎする時のバックのオーケストラなどは、まるで踊りだすようなテンションにあふれています。その分、この作品では欠かせないと言われている耽美性のようなものはやや希薄になっているのでしょうが、それが「そのころ」のベームだったのですよ。
そんな、最初にまっさらなLPに針を落とした時に聴こえてきた音が、今回のBD-Aではしっかり再現されていました。そして、懸念されたマスターテープの歪みは、全くありませんでした。これは驚くべきこと、いつ、どのようなコンディションでハイレゾ・デジタル・トランスファーが行われたのかは全く分かりませんが、ここで聴ける音は間違いなく劣化していないマスターテープそのものの音です。この弦楽器の繊細な肌触りやソリストの立体的な存在感は、CDでは決して味わえません。

BD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH


7月4日

MOZART/Requiem
BRUCKNER/Motets
Max Emanuel Cencic, Derek Lee Ragin(CT)
Michael Knapp(Ten), Gotthold Schwarz(Bas)
Peter Marschik/
Wiener Sängerknaben, Chorus Viennensis
Symphonieorchester dere Wiener Volksoper
CAPRICCIO/C8018


1994年に録音されて、1995年にリリースされたCDが、このカプリッチョ・レーベルの「ENCORE(もういっちょ)」シリーズとしてリイシューされました。ウィーン少年合唱団など、ウィーンの演奏家によるモーツァルトの「レクイエム」です。
ウィーン少年合唱団はおなじみの合唱団ですが、少年合唱ですから変声期を迎えて「少年」でなくなれば退団しなければなりません。このあたりの悲哀を描いた映画なども数多く作られています。ただ、「少年合唱」は辞めても「合唱」まで辞めることはないわけで、そんなウィーン少年合唱団の「卒業生」たちを集めて1952年に作られた合唱団が、ここで少年たちと一緒に歌っている「コルス・ヴィエネンシス」という男声合唱団です。ウィーン少年合唱団は基本的に児童合唱、つまり女声合唱のパートを歌う合唱団ですが、混声の曲を歌う時には、このコルス・ヴィエネンシスが男声パートを担当することになります。
さらに、「大人」になっても「少年」の声を残せた人もこの合唱団にはいました。そんな、奇跡とも言えるソリストが、カウンターテナーのマックス・エマニュエル・ツェンチッチです。彼は、ソプラノの音域まで歌うことのできるカウンターテナーとして、世界中で活躍していますが、ここでも「レクイエム」のソプラノ・ソロを歌っています。
普通に、大人の声の歌手として大成した人ももちろんいます。ここでのテノール・ソロ、ミヒャル・クナップは、やはりウィーン少年合唱団の元団員、そしてバスのソリスト、ゴットホルト・シュヴァルツは、ライプツィヒのトマス教会合唱団の元団員です。
アルト・ソロも、アメリカのカウンターテナー、デレク・リー・レイギンが歌っています。つまり、この「レクイエム」は、声楽パートは全てオトコによって演奏されているという、かなりユニークな陣容なのです。
もちろん、指揮をしているのは当時のウィーン少年合唱団の指揮者、ペーター・マルシクです(彼は1991年から1996年までこのポストにありました)。そんなラインナップだと、ちょっとユル目のいかにもウィーン風(それがどういうものかはよく分かりませんが)の演奏を思い浮かべてしまいますが、実際は予想を全く裏切られた、とても締まりのある演奏だったのには、ちょっとびっくりしてしまいます。確かに少年合唱のパートは、「大人」の合唱のパートに比べるとちょっと消極的な歌い方と表現ですが、何か「大人」たちがしっかりバックを固めて励ましているような感じがして、とてもまとまりよく聴こえます。
指揮者が目指している音楽も、とてもメリハリがきいていて新鮮です。使っている楽譜はジュスマイヤー版ですが、その中に指揮者の主張もしっかりと織り込んでいます。たとえば、「Rex tremendae」の6小節目で合唱と管楽器だけが付点音符で書かれているところは、その前の弦楽器のリズムと合わせて複付点音符で演奏していますし、「Confutatis」の13小節目では、テナーの「付点四分音符+八分音符」というリズムを、ベースと一緒になるように「複付点四分音符+十六分音符」にしています。
ただ、ソリストはツェンチッチだけが、ちょっと異様なビブラートとオーバーアクションで一人だけ浮いてしまっています。
うれしいことに、このアルバムではブルックナーのモテットが3曲カップリングされています。これは、今回のリイシューでのコンパイルではなく、初出のアルバムがすでにそういうカップリングで、同じ時期に同じ場所で録音されています(モーツァルトの「Ave verum corpus」まで入っています)。ブルックナーはア・カペラですから、合唱がもろに聴こえてきますが、ここでも少年のパートを支える大人のパートが素晴らしい演奏を聴かせてくれています。7声の「Ave Maria」では、3声の少年がピアノで始まってフォルテまで盛り上がった後、そこにピアニシモで4声の大人が入ってくる部分などは、ゾクゾクするほどの美しさです。

CD Artwork © Capriccio


7月1日

ピリオド楽器から迫るオーケストラ読本
「音楽の友」編
佐伯茂樹監修
音楽之友社刊(ONTOMO MOOK)
ISBN978-4-276-96263-7


「ピリオド楽器」という言葉は、現在ではかなり知られるようになってきました。とは言っても、その正確な意味を把握している人はそれほど多いとは思えません。
これは「特定の時代の楽器」という意味。これとほぼ同じものを指し示す言葉として「オリジナル楽器」と「古楽器」がありますが、これらは正確さにかけては「ピリオド楽器」に負けてます。「オリジナル楽器」には時代的な意味が全く感じられませんし、「古楽器」には、「古い」時代しかカバーできないようなイメージがありますからね。
つまり、「古楽器」と言うと、バロック時代以前の楽器が連想されるのが普通のことではないでしょうか。確かにこの時代の音楽に使われた楽器やその演奏スタイルについての研究が進んで、世の中は今の楽器とは外見ではっきり異なっている「古い」楽器を使った演奏がほぼスタンダードになりつつあります。
しかし実際は、もう少し時代が進んだ「古典派」や「ロマン派」の音楽でも、今の楽器とは微妙に異なった楽器が使われていたわけで、最近ではそれを演奏面で実践している団体もたくさん出てきているのです。そんなまさに、そんなに「古く」ない時代の音楽でも、「その時代の楽器」が使われるようになってきた、という流れを受けて、そこまでカバーできるタームとして俄然主役に躍り出てきたのが「ピリオド楽器」という言葉なのです。
今回、音楽之友社から、こんなムックが出るようになったのも、そのような最近の流れがかなりの現実味を帯びてきたことの表われなのでしょう。実は、「古典派」や「ロマン派」の時代の楽器の方が、それ以前の「バロック」の時代の楽器よりも正しい情報が広まっていないのだそうで、その辺の間違いや勘違いを正す、といった意気込みさえも、ここには込められているようです。
なんたって、監修者としてほとんどの原稿を執筆しているのがこの時代の楽器のオーソリティの佐伯さんですから、これはとても読みごたえがあります。写真も豊富に使われていて、いかにこの時代の楽器と現代のものとは異なっていたかがはっきり分かります。何より重要なのは、作曲家がその曲を作った時には、間違いなく当時の楽器を念頭に置いていた、ということが、ここでははっきり示されている、ということではないでしょうか。クラシック音楽の場合、演奏家の使命は作曲家の意図を正確に再現することに尽きますが、その際に手掛かりになるのは楽譜だけではなく、その当時の楽器の情報だ、という監修者の主張が、至る所から伝わってきます。
たとえば、「(ピッコロは)王侯貴族の趣味の楽器として親しまれてきたフルートとは違い、野外の行進などで遠くまで通る鋭い音を持っていた。ベートーヴェンの交響曲第5番の第4楽章でも、オーケストラ全員がffで鳴らしている場面でもピッコロのパッセージが浮かび上がる」というような記述には、実際に普通のオーケストラの中でこのパートを演奏して報われない思いを体験したものにとっては、激しく同感できる部分があります。
とは言っても、「ワーグナー・テューバ」の説明で、いわゆる「テューバ」との「混同を避ける」ために「テノールテュー」と「バステュー」と表記しているのは、明らかな間違いでしょう。スコアにドイツ語で「Tuben」とあるのは複数形で、単数形は「Tuba」なんですからね。
もう1点、ここではピリオド楽器を使っている団体の紹介もされていますが、その中で「レ・シエクル」の扱いが異様に多いのが気になります。確かにこの団体は現在最も注目に値するオーケストラであることに異論はありませんが、この極端さは、裏表紙全面に広告を掲載しているこの団体のCDの販売元(キングインターナショナル)に対する「忖度」だと思われても仕方がありません。「損得」しか考えられない出版社とは、なんと悲しいことでしょう。

Book Artwork © Ongaku No Tomo Sha Corp.


6月29日

WAGNER
Parsifal
Jess Thomas(Parsifal), George London(Amfortas)
Hans Hotter(Gurnemanz), Iren Dalis(Kundry)
Gustav Neidlinger(Klingsor), Martti Talvela(Titurel)
Hans Knappertsbusch/
Chor und Orchester der Bayreuther Festspiele
DECCA/UCGD-9055/7(single layer SACD)


半世紀以上前から「名盤」の誉れが高かったクナッパーツブッシュの「パルジファル」が、ついにSACD化されました。第二次世界大戦後に再開されたバイロイト音楽祭は、運営と演出はヴィーラントとヴォルフガングのワーグナー兄弟によって支えられていたとされていますが、演奏面で支えたのは紛れもなくクナッパーツブッシュでした。ですから、1951年から1964年まで、ほぼ毎年この音楽祭の象徴である「パルジファル」の指揮を行っていました。それらの音源は怪しげな海賊盤を含めて無数にリリースされていますが、1962年にPHILIPSによってステレオで録音されたものは、それらの中では抜きんでたクオリティの音で、各方面で絶賛され続けています。
もちろん、すでにCDにはなっていますし、2010年頃にはSPEAKERS CORNERによってマスターテープから新たにカッティングとプレスが行われ、ブックレットまで完全に復刻されたLPもリリースされています。
今回、国内盤限定でリリースされたのはシングル・レイヤーSACD、例によって3枚組で税込1万円超という、とてつもない価格設定です。すでに同じ音源のデータ配信も始まっていますが、それだと全曲が税込3680円(2,8MHz DSF、24/192 FLACとも)で購入できることを考えたら、その異常さは際立ちます。ただ、CDでは4枚組、第1幕の途中でディスクを交換しなければいけませんが、シングル・レイヤーSACDでは第1幕全体107分を1枚に収めることができるので、3枚組になっています。
確かに、ワーグナーの作品はどれも1つの幕の間中音楽は続いていますから、出来れば途中で切れ目を入れずに聴きたいものです。そういう意味ではこの「3枚組」のSACDは画期的です。もっとも、BD-Aやファイル再生だったら幕間までも止めずに聴けますけどね。
この音源は元々はPHILIPSのエンジニア、ハンス・ロウテルスレイガーの手によって録音されたもので、この劇場のライブ録音としては奇跡的なバランスと透明性を持っていました。しかし、このレーベルは今ではDECCAに吸収されているので、今回のハイレゾ・マスタリングは元DECCAのエンジニア集団のCLASSIC SOUNDによって行われています。その結果、先ほどの、PHILIPSのマスターを忠実にカッティングしたLPでは確かに感じられたPHILIPSの音が、完璧にDECCAの音に変わってしまっていました。まるで、絹のように繊細だった弦楽器の音は、かなり生々しい、あえて言えば「どぎつい」音になっていたのです。これは、以前小澤征爾の「くるみ割り人形」を聴いた時にも感じたことです。念のため、FLACのファイルを4分だけ買ってSACDと比較してみたのですが、それは全く同じ音でした。
このLPは、SPEAKERS CORNERにしてはとても良い盤質で、サーフェス・ノイズがほとんどありません。そこで聴こえてきたバイロイトのちょっとくすんだ、それでいて透明感のある音には心底圧倒されていたので、この、かなり「無神経」なSACDの音には完全に失望させられてしまいました。
もちろん、LPの音はそれだけでSACDとは全く異なっていますが、これも念のためやはりSPEAKERS CORNERのDECCA盤(ショルティの「エレクトラ」)を聴いてみると、そこからは、まぎれもないDECCAサウンドが聴こえてきますからね。
さらに、LPと比較すると、各所で「修正」された個所を見つけることが出来ます。場内のノイズがかなり「消されて」いて、特に、聴衆の咳払いはほとんどの場所で「消えて」います。もちろん、細かい演奏のミスなどは変わりませんから別テイクではありません。
そんな「些細」なことよりも、マスターテープそのものの劣化の方が気になります。この前のカラヤンの「トスカ」ほどではありませんが、このSACDのためにトランスファーされた時には、明らかにLPのカッティングの時よりも劣化は進んでいたようです。なにしろ、LPにはなかったドロップアウトが聴こえたりしますからね。
そんなものをこの値段で売りつけるのは、はっきり言って「詐欺」です。烈火のごとく怒りましょう。

SACD Artwork © Decca Music Group Limited


6月27日

VERDI
Requiem
Erika Grimaldi(Sop), Daniela Barcellona(MS)
Francesco Meli(Ten), Michele Pertusi(Bas)
Gianandrea Noseda/
London Symphony Chorus(by Simon Halsey)
London Symphony Orchestra
LSO LIVE/LSO 0800(hybrid SACD)


オーケストラによる自主レーベルとしては先駆的な役割を果たしていたロンドン交響楽団のLSO LIVEレーベルですが、そのクオリティの高さと安定したリリースでは、他の同様のレーベルを寄せ付けない勢いです。なんと言っても、最近のリリースは全てハイブリッドSACD、場合によってはBD-Aというハイレゾのメディアですからね。そんな好調なリリースの積み重ねで、今回のアイテムは品番が「800」にもなっていました。ここは確か「001」から始まるシリアル・ナンバーがそのまま品番になっていたはずですから、ということはもう800点もの録音が揃ってしまったのでしょうか。
いや、いくらなんでもそれは多すぎます。あのNAXOSとは違ってこちらは年間のリリースはせいぜい十数タイトルでしょうから、出来てから20年にも満たないレーベルでそれだけのタイトルがあるわけがありません。その「謎」を解くために、カタログを調べてみたら、なんと、その品番からは200番台から400番台が欠落していたのです。
2000年頃から始まったこのレーベルは、当初はCDしか出していませんでしたが、やがて、SACDもリリースするようになり、それを500番台からスタートさせたのです。たとえば、コリン・デイヴィスが指揮をした「運命」などは、CDでは「090」SACDでは「590」といった具合で(例外もあります)CDとSACDの両方の品番があったのですが、しばらくすると、ハイブリッドSACDに一本化されるのです。ですから、実質的に使われている品番はせいぜい500、その中で製品として今でも流通しているのは150点ぐらいでしょうか。
最近は録音フォーマットもDSD128(SACDの2倍のサンプリング・レート)が採用されるようになり、さらに凄さを増したこのレーベル、今では少なくなってしまった最低でもSACDでのリリースというスタンスを、この先も堅持していってほしいものです。
そんな、SACDならではの繊細な音色と幅広いダイナミック・レンジは、今回のヴェルディの「レクイエム」のような曲ではとことん威力が発揮されることになります。冒頭「Requiem aeternam」の、耳をそばだてないことには聴こえてこない超ピアニシモから、「Dies irae」でのオーケストラと合唱の咆哮による超フォルテシモ、さらにそこにバンダのトランペット群が加わった「Tuba mirum」でのスペクタクルな音場と、この曲で再現してほしい音が見事に眼前に広がります。もちろん、どこを取ってもひずみや混濁は皆無です。
まずは、サイモン・ハルジーに率いられた合唱がそんなサウンドを支えてくれています。ピアニシモの肌触り、フォルテシモの質感と、申し分ありません。ハルジーという人は、サイモン・ラトルとともにバーミンガム市交響楽団を支えてきた合唱指揮者ですが、ラトルがベルリン・フィルに移ると、彼もバーミンガムのポストはそのままに、ベルリン・フィルと密接な関係にあるベルリン放送合唱団の指揮者に就任します。そして、ラトルがベルリン・フィルからロンドン交響楽団に移るタイミングを待たずに、2012年からはロンドン交響楽団の合唱団のシェフとなっていたのでした(2015年まではベルリン放送合唱団の指揮者も務めていました)。
そして、4人のソリストも、期待の新人と安定したヴェテランをバランスよく配した豪華なもの、この曲にふさわしいオペラティックな歌い方で満足感を与えてくれます。声が伸びるだけでなく、まさに感情が込められたオペラ・アリアとしてそのテキストの情景までも伝わってくる劇的な歌は、「宗教曲」というチマチマした範疇を超えて感動を与えてくれています。
それらをまとめるノセダの指揮は、とてつもない推進力を持っていました。知る限りでは、ジョルダン盤トスカニーニ盤に次ぐ速さです。特に何回も現れるエネルギッシュな「Diesi irae」は、胸がすくような爽快感にあふれています。普通はCDでは2枚は必要なこの曲が楽々1枚に収まっているのは、そのせいだ

SACD Artwork © London Symphony Orchestra


6月24日

MOZART
Requiem
Stephanie Culica(Sop), Lindsey Adams(Alt)
Rev. Michael Magiera(Ten), David Govertsen(Bas)
Rev. Scot A. Haynes/
Saint Cecilia Choir and Orchestra
SONY/88985424062


いちおう、モーツァルトの「レクイエム」だったら新しい録音はすべてチェックしようと思っているところに、SONYからこんなCDがリリースされました。
現物を手にしてみると、確かにSONYのロゴは入っていますが、なんか様子が違います。コピーライトのクレジットも、制作はDe Monfort Musicという聞いたこともない名前のところで、そこからのライセンスでSONYからリリースされた、みたいな書き方でした。調べてみたら、そのDe Monfort Musicというのは2012年に創設されたばかりの、主にローマ・カトリックの合唱音楽を録音するためのアメリカの新しいレーベルででした。当初のディストリビューションはUNIVERSALでしたが、2017年の1月からそれががSONYに変わったのだそうです。分かった
そのDe Monfort Musicは、シカゴのセント・ジョン・カンティウス教会と密接な関係にあり、そこで演奏されている典礼音楽をリリースしてきているのだそうです。このモーツァルトでは、この教会で活躍しているセント・セシリア合唱団とセント・セシリア管弦楽団が演奏しています。
ブックレットにはこの二つの団体に関する説明は、一切ありません。ただ、なぜかメンバーの名前だけはすべて載っています。オーケストラの場合は、彼らの「本職」まで記載されています。それで、このオーケストラは、シカゴ・リリック・オペラとかエルジン交響楽団といった、他の団体にポストがある人たちが、一時的に集まって演奏しているものだと分かります。
さらに、ブックレットにあるのは、「レクイエム」のテキストの「対訳」ではなく、「英訳」だけです。こんなのも珍しいですね。
珍しいと言えば、ここでの指揮者のスコット・A・ヘインズという人は、名前の前に「Rev.」という「神父」を意味する敬称が入っています。つまり、神父さんが指揮をしているのですね。聖職者を目指していた人が指揮の勉強もしたのか、その逆なのかは、やはりブックレットには何の情報もないのでわかりません。さらに、テノールのソリストのマイケル・マギエラという方も神父さんなのですね。
そして、ブックレットには録音のスタッフの名前はありますが、録音場所と時期はありません。まあ、場所はこの教会なので、あえて書くことはなかったのでしょう。ただ、代理店の情報によれば、これは2016年にライブ録音されたものだということです。
確かに、ライブっぽいグラウンド・ノイズたっぷりの中で演奏は始まります。ただ、なぜか聴衆の気配が全く感じられないのが不気味です。オーケストラはかなりたくさんのマイクを使っているようで、対向配置の弦楽器がはっきりと左右に分かれて聴こえます。そして合唱が登場すると、それはオーケストラとは対照的にぼやけた音像なのには戸惑ってしまいます。ただ、定位だけははっきりしていて、左からベース、テナー、アルト、ソプラノという、ふつう見かけるのと正反対の配置になっています。さらにソリストはというと、これも一人一人にマイクが付いているような生々しい音で、なぜか右チャンネルに全員固まって定位しています。なんか、とても落ち着けないマイクアレンジとチャンネル設定、まるでステレオ初期の左、中央、右だけに楽器をおいた録音のように聴こえてしまいます。さらに、ライブ録音のせいなのでしょうか、合唱は明らかにゲイン過多で、盛大に音が歪んでいます。
ソリストは、4人とも素晴らしい声ですし、合唱もかなりの名手が集まっているように聴こえます。もちろん、オーケストラも完璧な演奏です。ところが、音楽はどうしようもなくつまらないんですね。ひたすら良い声を響かせているだけで、そこには「陰」というものが全く感じられないのです。モーツァルトは、至る所で「問いかけ」と「答」を用意していたはずなのに、ここではそれが完璧に無視されているのですね。録音、演奏とも、まっとうな商品としての体をなしていませんでした。

CD Artwork © De Monfort Music LLC


おとといのおやぢに会える、か。



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