しかも、交響楽団。.... 佐久間學

(10/2/18-3/8)

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3月8日

MONO=POLI
松平敬(Voc)
ENZO/EZCD-10006


山下達郎でお馴染みの「一人アカペラ」、多重録音によってたった一人でコーラスの全てのパートを録音し、あたかも大人数の合唱団のように聴かせる「ワザ」ですね。福島県の名産ではありません(それは「アカベコ」)。そんな手法で制作された曲ばかりを集めたアルバム「オン・ザ・ストリート・コーナー」は、まさに感動的なほどの完成度を誇っています。なにしろ、歌っているのは達郎だけなのですから、音色は完全に統一されていますし、曲に対する表現だってどの声部の人も全く同じものなのですから、きれいに「ハモる」のは当たり前のことなのでしょう。もちろん、それを支える技術的な問題は、彼の場合は長い時間をかけて蓄積されたノウハウによって、殆ど解決されているはずです。単にクロック通りのテンポではなく、微妙に伸び縮みするルバートまでも、きちんと表現できるようになっているのですからね。
クラシックの世界でもそんなことを真剣にやってみようとする人が現れました。それが、松平敬さんです。松平さんというのは、芸大を卒業された「声楽家」で、普通のレパートリーもしっかり勉強された方なのですが、特に「現代音楽」についての造詣が深く、シュトックハウゼンの作品などはかなりコアな実績をお持ちになっているそうです。「クラシック」ばかりではなく、仙台近郊で毎年初夏に行われている「荒吐(アラバキ)」というロック・フェスに関連したライブに出演されたりとか、幅広いジャンルでも活躍されています。
ここで松平さんが行ったのは、そんなクラシック版「一人アカペラ」で、合唱音楽の歴史を俯瞰しようという壮大な試みでした。そのようなアンソロジーでは定番の、13世紀に作られたとされるカノン「夏は来たりぬ」から始まって、次第に時代を進めて「現代」まで至るのがちょうど真ん中、そこから、今度はシンメトリカルに改めて時代をさかのぼる、という構成からは、歴史の本質を見据えた冷徹な視点を感じることが出来るはずです。
Pro Toolsを駆使したマルチトラック・レコーディングと、ソプラノからベースまでの音域をカバーできる驚異的な声によって、彼の声は男声だけによるシンプルな2声部から、16声部の混声合唱までの幅を持つことになりました。「16声部」と聞いてすぐに連想されるあの曲、そう、リゲティの「ルクス・エテルナ」が、その真ん中に据えられているのも嬉しいことです
しかし、それは聴く前に抱いていた期待が、かなり過大なものであったことを知らしめるものでしかありませんでした。楽譜を見ながら聴いていると、テキストの語尾などは今までのフツーの合唱の録音からは決して聴くことの出来ない明瞭さがあることが分かります。曲の構造も、手に取るように明晰に伝わってきます。しかし、あまりに均質すぎるその声からは、個々の声の持つテクスチャーの違い、それによって生じるはずのえもいわれぬ質感というものが、全く消え去っているのです。ここで唐突に思い出したのが、ノリントンが全ての弦楽器にノンビブラートで演奏させたマーラーの「アダージェット」でした。「ピュア」であることが必ずしもメリットにはなり得ないことを痛感させられたあの録音と同じ「間違い」を、ここから感じ取るのは、決して困難なことではありません。
もう一つ、彼の歌い方の独特な「クセ」も問題。彼本来の声域である低い声ではそれほど目立たないのですが、高音域、特にファルセットを使った女声音域になると、低めのピッチで入ってしばらくすると本来の音にたどり着くという、非常に耳障りな「ずりあげ」の歌い方になってしまうのです。これは、このような録音では致命的な欠陥。せっかくこれだけの手間をかけたというのに、無惨にも崩れ去ったこんな姿を見るのは、とても残念です。それは、達郎が達した境地からは、はるかに遠いものでした。

CD Artwork © Takashi Matsudaira and Office ENZO Inc.

3月6日

The Piano at the Carnival
Anthony Goldstone(Pf)
DIVINE ART/DDA 25076


バンクーバー・オリンピックでさまざまな「感動」に浸れる人は幸せです。先日の女子フィギュアスケートなども、全国津々浦々でそんなドラマに「感動」のコメントを寄せられた人は数知らず、美しいことです。
ご存じのように、金メダルの期待を一身に背負ったあの選手が選んだ曲は、ショート・プログラムではハチャトゥリアンの「仮面舞踏会」からの「ワルツ」、フリーではラフマニノフの「鐘」でしたね。「ワルツ」はともかく、「鐘」と聞いて一瞬あの合唱曲かな、と思ってしまいましたが、聞こえてきたのは有名なピアノのための前奏曲(op.3-2)をオーケストラ用に編曲したものでしたね。「ワルツ」の場合はもともとオーケストラ曲ですから、これがオリジナル、と思いきや、別の意味での「編曲」があったのは笑えます。
今回のCDは、フツーの「編曲」、「ワルツ」だけではなく「仮面舞踏会」全5曲をアレクサンドル・ドルハニャンという人がピアノ・ソロの曲に直したものです。本来は色彩豊かなオーケストラが演奏する曲ですから、それをピアノ1台だけで演奏するのではさぞや物足りないだろうな、とは、誰しもが考えることでしょう。しかし、ここではまさにピアノならではの魅力が生まれていたのですから、面白いものです。
もちろん、ソロ・ヴァイオリンが切々と哀愁に満ちたメロディを奏でる「ノクターン」や、やはりトランペットがソロで朗々と歌い上げる「ロマンス」のように、その息の長い旋律をピアノだけで表現するのは、ちょっと辛いな、と感じられる曲はあります。しかし、「ワルツ」などは、オーケストラではたくさんの楽器でやや重々しく聞こえてしまうものが、ここではいとも軽やかなフットワークに変わっています。
そして圧巻は、最後の「ギャロップ」です。いともひょうきんな曲想、なんと、最初のテーマはすべての音が半音でぶつかるというケッタイなものなのですが、実はこれをオーケストラで演奏するのは意外と難しいのです。実際には、フルート、オーボエ、クラリネットの、それぞれ2番奏者が本来の旋律を吹いて、1番奏者のその半音上の調で同じ旋律を吹いています。つまり、6人の奏者が、この微妙な音程をまさにアクロバットのように操って演奏するのですから、ピッタリ揃えることなどまず不可能なのですよ。それが、ピアノだったらどうでしょう。もう、しゃくにさわるぐらい完璧に、その音符を音にしていますよ。それもいとも軽やかなテンポで。
さらに、終わり近くに出てくるクラリネットのカデンツァも、指がもつれるぐらいの苦労をして吹いているものが、なんともすんなりと弾けてしまうのですからとても勝ち目はありません。そう、このピアノ版「仮面舞踏会」は、まさにオーケストラの奏者をあざ笑うためにあるのでは、とさえ思えてくる、小憎らしい編曲と、そして演奏なのです。
ところが、同じくオーケストラ曲をピアノ独奏用に編曲したものでも、ドボルジャークの「謝肉祭」(編曲はパウル・クレンゲル)となると全く様相が変わってしまうのですからまたまた面白いものです。先ほどまでの軽やかさはどこへ行ってしまったのか、いかにもモタモタした演奏でオケの持つ疾走感などは全く感じられないものになってしまっています。これなどは、多くの声部をコントロール出来なくなっている編曲上の問題なのかもしれませんね。
その他には、おそらくこのアルバムのメインであるシューマンの「謝肉祭」などとともに、ピアニスティックな名人芸が堪能できるものが揃っています。中でもシドニー・スミスという、19世紀後半に活躍した人の「ヴェルディの「仮面舞踏会」による華麗な幻想曲」が、聴き応えのあるパラフレーズでした。イチゴのスイーツではありませんよ(それは「パルフェ・ア・ラ・フレーズ」)。

CD Artwork © Divine Art Ltd

3月4日

The Italian Contemporary Flute Works
高橋眞知子(Fl)
菅原淳(Perc)
CAMERATA/CMCD-28196


日本のレーベルですから、「イタリア現代フルート作品集」という日本語のタイトルが最初にあったのでしょうが、それを英訳したときに「Contemporary」という単語を使ったのにはちょっと違和感が伴うのはなぜでしょう。ここで取り上げられている3人の作曲家のうち、2人まではその作品が前世紀の半ばに作られたもの、もちろんこれらは明らかに「現代音楽」という範疇で語られるべきものですが、それが果たして今生きている我々の「同時代」の音楽なのか、という点では、そろそろ認識を変えなければいけない時が来てしまっているのでは、という思いが、おそらくそのように感じさせるのでしょうね。
そんな「現代音楽」を積極的に取り上げているという高橋さんがここで選んだのは、まずシェルシのフルートのための作品でした。1953年から1955年にかけて作られた「Pwyll」、「Quays」、「Hyxos」という3曲(というか、別バージョンも含めて4曲)は、実は初めて聴いたもの。フルート・ソロのための「宝物」を教えてもらったような気がするほどの、美しい作品でした。
まず、普通のフルート1本で演奏される「Pwyll」は、そんな時代に作られたとは思えないようなリリカルは作品です。それこそ「同時代」の他の人たちのような頭でっかちの曲作りではなく、もっと感覚そのものを大切にしているような親しみやすさが感じられます。おそらく鳥の声の模倣でしょうか、そこからは、なにか具体的な風景のようなものが見えてきます。同じようなテイストを持つドビュッシーの「シランクス」、そして、ちょっと毛色は違いますが同じソロ・フルートのための定番、ヴァレーズの「Density 21.5」などとともに、フルート1本のための貴重なレパートリーがまた一つ見つかりました。
Quays」という曲は、同じ楽譜を普通のフルートと、同じ運指でそれより4度低い音の出るアルト・フルートによって演奏しています。たしかジョリヴェにも同じように「Pour Flûte(en SOL ou en UT)」(in Gin C のフルートで)という指示のある「呪文」という作品がありましたね。
Hyxos」は、アルト・フルートに打楽器が加わります。その打楽器というのが、「鐘」と「ドラ」。最初と最後の部分は、そんな、まるで仏教寺院のようなサウンドの中で、あたかも尺八のような渋い響きのアルト・フルートが、殆ど「お経」のようにメロディを紡いでいます。多少リズミカルな真ん中の部分は、もう少し南方系の、やはり宗教的な儀式を思わせるものです。
次の作曲家は、ついこの間ご紹介したマデルナです。「Dimensioni IIIからのカデンツァ」という曲が演奏されていますが、これはあの時の「Dimensioni III」という長い曲の最初のあたりに現れる、フルート・ソロのカデンツァだけを取りだしたものです。さらに、ここではフルートとテープのための作品も演奏されています。「テープ」というのは、当時、1950年代の「電子音楽」を録音したもの、それは、きちんと出版社から初演の時に使ったものが「修復」されて提供されているのだそうです。なにか、時代を感じさせられませんか?「今」だったら、シンセサイザーで、リアルタイムに演奏されるのでしょうか。
そして、最後にアルナルド・デ・フェリーチェという、まさに「同時代」の作曲家の「MU-夢」という、打楽器とフルートのための新作(2008年)が演奏されています。
高橋さんのフルートはここで初めて聴きました。経歴を見るとすでに還暦を過ぎたことが分かりますが、その音色とテクニックは、そんなお年は全く感じられない颯爽たるものでした。マデルナの「カデンツァ」も、前に聴いた若手の演奏にひけをとらないどころか、さらに「深み」が増したような印象すら受けるものでした。こういう人が、今まで表舞台に現れていなかったのは、本当にもったいないことなのではないでしょうか。

CD Artwork © Camerata Tokyo Inc.

3月2日

読んで楽しむ のだめカンタービレの音楽会
茂木大輔著
講談社刊
ISBN:978-4-06-214887-0

いまや、「N響の首席オーボエ奏者」というよりは、「『のだめカンタービレ』の音楽監修者」としての知名度の方が高くなってしまった感のある茂木大輔さんが、みずから、その「のだめ」との関わりを語った本なのだめ
茂木さんの、今や殆どライフワークか、とまで思わされてしまうような「のだめ」への入れ込みようを見ると、そもそもこの作品が始まった時点で作者の二ノ宮さんとは何らかのつながりがあったのでは、と思ってしまいますが、それがそもそもの間違いであることが、この本の冒頭で、まず明らかにされます。茂木さんが最初に「のだめ」に出会ったのは、単行本の5巻が出ていた頃だ、というのですね。それだったら、ここのマスターと大して違わないじゃないですか。ただ、スタートは同じでも、マスターはあら探しに夢中になっていたのに対して、茂木さんの場合は、その設定の完成度の高さに感激、直ちにファンレターを送って作者とコンタクトをとった、というあたりが、大きな違いになってきます。
それからは、作者の周辺ともしっかり人脈がつながり、晴れて「公式スタッフ」としてスタート出来ることになったというわけです。ですから、マンガの連載が始まった時点では茂木さんはなんのアドバイスもしていなかったというのが真実、ちょっと意外ですね。つまり、二ノ宮さんには、すでにある程度マニアを納得させられるだけのスキルはあったということになります。
茂木さんの仕事は、ですから、そんな「のだめ」の世界を実際にコンサートで実現させるところから始まります。このあたりの「実況中継」は、今までの著作で彼が見せてきた、まさに息もつかせぬ緊迫感で、読むものを引きつけずにはおきません。ここでも発揮された、茂木さんの人脈、それらの人々の確かな能力を、真に感謝を込めて描写する茂木さんの筆致にも、ますますの磨きがかかっています。
ここで明らかにされるのが、当事者のみが知りうる正確な時系列です。最初にこの「のだめコンサート」が開催されたときには、実は世の中的にはそれほど「のだめ」は浸透してはいなかったのですね。もちろん、テレビドラマやアニメが制作されるという話すらもなかった時代です。そう、その後の、クラシック界までも巻き込んで、大ムーヴメントとなってしまった「のだめ現象」は、この茂木さんの企画がなければ、もしかしたらこれほど広がりのあるものにはならなかったかもしれないということが、ここではっきり分かることになるのです。ですから、ドラマ化や、ひいては劇場版の映画化などというとてつもないものにまで成長してしまった「のだめ」には、茂木さんの力がかなりの割合で荷担していたことも、同時に分かってきます。
したがって、ドラマ化にあたって、茂木さんがスタッフに加わったというのは、いとも自然な流れでしょう。しかし、そこで直面したのは、「クラシック」の常識をドラマに反映させることの難しさでした。例えば、日本ではまずあり得ない、コンサートが終わってからのスタンディング・オベーションのシーンなども、クラシック・ファンであれば間違いなく違和感を抱くものなのでしょう。当然、茂木さんはこの件について申し入れたそうなのですが、それは「ドラマ」として盛り上げる時には、多少現実離れしていても必要なことだ、という「論理」の前に、あえなく不採用となってしまいます。このあたり、茂木さんの悔しさのようなものがひしひしと伝わってきますね。
これだけの「当事者」の著作ですから、次の2点については当然述べられているだろうと思いながら読んでいました。それは、ドラマでズデネク・マーツァルがキャスティングされた経緯と、「千秋真一指揮」となっているCDでの、実際の指揮者の名前です。しかし、それらはついに語られることはありませんでした。

Book Artwork © Kodansha Ltd.

2月28日

GARBIZU
Music for Txistu and Piano
José Ignacio Ansorena(Txistu, Tamboril)
Álvaro Cendoya(Pf)
NAXOS/8.572096


またまた、誰も知らないトマス・ガルビスというスペインの作曲家のアルバムです。「初恋の味」ですね(それは「カルピス」)。そして、演奏されているのが、これも誰も知らない「チストゥ」という楽器です。まさにこのレーベルの面目躍如ですね。
「チストゥ」というのは、スペインのバスク地方の民族楽器です。リコーダーのように縦に構えて音を出す管楽器、リードのない、いわゆる「エアリード」なのも、リコーダーと共通しています。特徴的なのは、この楽器には音階を作るための指穴が3つしか開いていない、という点でしょう。その穴は、歌口から最も遠くの先端部分に、表に2つ、裏に1つ開いています。普通は、左手の親指で裏の穴、人差し指と中指で表の穴を押さえます。さらに、穴を全部開けたときに楽器を支えやすいように、先端部には輪っかがついていて、そこに小指か薬指を入れて固定します。そう、この楽器は、左手だけで演奏することが出来るのです。
そこで、余った右手では何をするのかというと、左腕に吊された「タンブリル」という、両サイドに皮が張ってある小さな太鼓を叩くのですよ。つまり、「チストゥ」と「タンブリル」はワンセットで演奏されることになっているのです。この演奏家は、「管楽器奏者」であると同時に「打楽器奏者」、しかもそれを同時に演奏しなければならないのですから、大変です。
なにしろ、穴が3つしかないのですから、そのままでは音は4つ(例えば「ド、レ、ミ、ファ」)しか出せません。あとは、強く息を吹き込むことで倍音を鳴らして、1オクターブ上の音(やはり「ド、レ、ミ、ファ」)、そしてもう1段階上の倍音でさらに5度上の音(「ソ、ラ、シ、ド」)を出して、かろうじて音階が出来上がります。もちろん、出来るのは全音音階だけ、半音を出すにはどうするのでしょう。
といった予備知識を持って、この「チストゥ」の「教授」であるアンソレーナという人の演奏を聴いてみましょう。その音は、まさにリコーダーそのものの素朴なものでした。しかし、その素朴な楽器が奏でる音階は、穴が8つ以上開いているリコーダーと殆ど変わらないほどの正確さを持っていたのです。半音もしっかり出していますよ。さすがは「教授」ですね。ただ、倍音を多用している高音部では、いかにも力が入っているというような、かなりハイテンションの音色になっています。
作曲家のガルビスは、1901年に生まれて1989年に亡くなった、やはりバスクの人です。そんな楽器のために作るのですから、そんなに難しいものではない、せいぜい民族音楽に毛の生えたようなものなのでは、といった先入観は、この卓越した技の冴えを見せる「教授」の演奏を聴くなり、跡形もなく消え去ります。これは、そんな「和み」を与えてくれるようなものではさらさらなく、言ってみれば、あの超絶技巧を思い切り振りまいた19世紀あたりの「ゴールデン・エージ」の産物そのものではありませんか。こんなシンプルな楽器でこれだけの細かい装飾的な音符を操るなんて、まさに神業です。
しかし、です。そんな華やかな技巧を凝らした曲を聴いて抱くのは、「こんなことをやっていて、いいのかなぁ〜」という、なんともやりきれない思いです。確かにアンソレーナさんはよくやっています。しかし、何と言っても、この曲たちはこの楽器の機能の限界をはるかに超えたものを要求しているのは明らかなのですよ。最初のうちは「すごいなぁ」と思っていても、次第にその「無理」が見えてきてしまいます。そして、CD1枚聴き終わる頃には、そんな無理な演奏に付き合わされた疲れがどっと押し寄せてくるのですよ。それと、笛を吹きながら叩いている太鼓の、なんと鈍くさいことでしょう。
これも、前回と同じ、二度と聞きたくなくなるようなCDでした。それも、このレーベルの「面目躍如」たるところです。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

2月26日

Eight Visions
A New Anthology for Flute and Piano
Marya Martin(Fl)
Colette Valentine(Pf)
NAXOS/8.559629


マーリャ・マーティンというアメリカのフルーティストが、8人のアメリカの作曲家の作品を集めた「アンソロジー」を作りました。フルーティストもそして、その作曲家も、誰一人として馴染みのない名前だ、というのがすごいところです。そういう地道な仕事を日々行っているのがこのレーベルなのでしょうね。頭が下がります。ただ、例によって、国内盤についてきたタスキはデタラメの極致、ピアニストのファースト・ネームとラスト・ネームが逆になったりしていますが、それはCDを作った人のせいではありません。
作品を提供した作曲家とそのタイトルを、まず収録順にご紹介しましょう。「Velocity」という曲を作ったのは、ケンジ・ブンチ。名前といい、顔立ちといい、日系3世という感じでしょうか。ミニマルっぽいオスティナートの連続で超絶技巧が試されます。中間部は癒し系。ポール・モラヴェックの「Nancye's Song」も、メロディが美しい癒し系です。「ナンシー」というのはこのフルーティストのお母さんの名前なのだとか。
次は、中国生まれのチェン・イの「Three Bagatelles from China West」。タスキには「3つの小バラード」とありますが、「バラード」と「バガテル」って、違くないですか?これはもう中国丸出しの楽しい曲です。というか、日本人あたりにはとても恥ずかしくて表には出せないような五音階などを堂々と使っているあたりに、妙にうらやましさを感じたりします。タニア・レオンというキューバ出身の人の作品は「Alma」。これも、自分のアイデンティティであるラテン音楽満開という、明るい曲です。
イヴ・ベグラリアンという人の「I will not be sad in this world」では、なんと彼女自身の歌(声?)を録音したものを素材にして、それを変調したりマルチトラックに振り分けたりしたものが伴奏になっています。不思議な浮遊感の中に、フルートはあくまでもリリカルに流れます。デイヴィッド・スタンフォードの「Klatka Still」は、もろ「ジャズ」の手法による作品。めまぐるしい「早弾き」の連続です。
メリッサ・ヒュイという人は、香港生まれ。しかし、「Trace」という彼女の曲は、日本語の「間」という概念を取り入れた、とても共感できるものです。そして、トリを務めるのがネッド・ローレムという1923年生まれのこのなかでは最年長となる作曲家です。作品も一番長く、4つの部分からなる「Four Prayers」。フランス風の祈りを思わせる曲ですが、3曲目だけが定期的にピアノのクラスターが現れるというダイナミックな作風になっています。これは異教徒の祈りなのでしょうか。
こんな具合に、「現代音楽」と聞いて思い出すような難解さは全く見られない、楽しめる作品ばかりが集められています。技法的にも、フラッター・タンギングでさえちょっと異様に感じられるというノーマルさ、ひところ流行った「重音」や「ホイッスル・トーン」などは、いったいどこへ行ってしまったのでしょう。というより、もはや「現代音楽」が「難解」だった時代はとうの昔に終わってしまっていたことを再認識する、というのが、正しい聴き方なのでしょう。そうなってくると、「非西欧」の語法がこれからはメインになっていくような予感も。
そんな、「今」の音楽の一つの流れを見せてくれた興味深いアルバムではありますが、これらを演奏しているフルーティストは、もう二度と聴きたくなくなるような不快な音をまき散らしていました。いや、指はきちんとまわっていてなんの破綻もないのですが、常に、それこそ「重音」を出しているような、ヌケの悪い音からは、どの瞬間にも美しさを感じることは出来ませんでした。これを聴いて思い出したのが、現代音楽しか吹けないハンガリーのフルーティスト、イシュトヴァン・マトゥス、昔の現代音楽(変な言い方)では通用したのかもしれないそんな彼女の音からは、決して「今」は聞こえてはきません。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

2月24日

クラシック音楽は「ミステリー」である
吉松隆著
講談社刊(講談社+α新書)
ISBN978-4-06-272625-2

「クラシック」+「ミステリー」というタイトルだと、なんだかNHKの「名曲探偵アマデウス」を連想させられますね。もっとも、あちらは「ミステリー」とは名ばかり、実体は「謎解き」に名を借りた単なる「アナリーゼ」ですがね。それに無理矢理こじつけた「ドラマ」が、とことんチープ。そんな強引さが意味もなく笑いを誘うから不思議です。
いやしくも作曲家である吉松隆さんが書いたこんな扇情的なタイトルの本は、「笑い」という点では「名曲探偵」にもひけをとらないものでした。なんたって、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を「ミステリー」に仕立てているのですからね。「ドン・ジョヴァンニは誰に殺されたか」という、この名作オペラをいわば「殺人事件」見立てた「読み替え」は、しかし、読者の知的好奇心を満足させるだけの周到な「本格推理」作品に仕上がっていました。もちろん、そこには読者を最後まで引きつけずにはおかないエンタテインメントとしての要素も満載です。 そもそも、この作品のプロットそのものにもかなり無理があるのは事実です。この物語は1日のうちに起こったものである、という「オペラ・ブッファ」のお約束はともかく、ここでは時間の感覚がとっても曖昧。騎士長を殺したあとドンナ・エルヴィラに会ったのは真夜中のはずですが、次のツェルリーナの結婚式の場は間違いなく真っ昼間でしょうね。ところが、ドン・ジョヴァンニの「うまくいった、あの女(エルヴィラ)は行ってしまったな」というセリフからは、前の場からそんなに時間が経っていないことがうかがえますよ。それはともかく、ドン・ジョヴァンニとレポレッロが「墓場で」騎士長の石像に会うのはその日の夜、つまり、ドン・ジョヴァンニに殺された騎士長の石像が、なんと「一夜にして」出来上がってしまっている、ということになりますよね。なにしろ、そこは墓だったんですから、生きているうちに作らせたなんてことはあり得ません。いくら仕事がはかどったとしても、無理な話です。
そんな、最大の「疑問」には敢えて触れることはせず、吉松さんはもっぱら石像という命を持たないものが人を殺すことに対しての謎解きに挑みます。そこに登場する「名探偵」のような人達の顔ぶれはなんとも豪華ですよ。中には、元ネタが分からない人もいますが。そして、それこそクリスティの「オリエント急行殺人事件」のように、登場人物全員が犯人なのだ、という可能性まで示唆されます。しかし、「探偵事務所所長」によって最後にあかされる驚愕の「真実」とは・・・。
まあ、「そんなわけはない」と一笑に付すのは簡単なことですが、吉松さんの絶妙の筆致には間違いなく「それもありかな?」と思わせられるだけのものがあります。それを裏付けるのが、実際の「証拠」を、きちんと原曲の中に求めた、という堅実な手法です。まず演奏されることのないウィーン版の異稿からまでもその根拠を見つけ出すというマニアならではの真摯な取り組みには、頭が下がる思いです。
そんな、いわば「お笑い」の世界から一転して、「クリミナル・マインド」ばりの「作曲家のプロファイリング」では、ハードボイルド・ミステリーの世界へと読者を誘います。しかし、そこに待っていたものは、血なまぐさい犯罪現場ではなく、いともまっとうな吉松さん自身の作曲家としての信条告白でした。作曲家、あるいは音楽家としての資質が、幼児からの英才教育を受けたケースと、音楽以外のさまざまな道を経た上での「晩学」のケースとではどのように異なるのか、それを語る著者の言葉には熱いものがあります。
この本は、ウェブサイトで連載されたものをまとめたものなのだそうです。「2ちゃん」から小説が出来てしまったように、これからはこんなケースも増えていくのでしょうね。

Book Artwork © Kodansha Ltd.
オペラ御殿という素晴らしいサイトを作ってらっしゃる「ミン吉」さんから、この件の私の疑問に対して次のような趣旨のコメントを頂きました。

『ドンナ・エルヴィラに会ったのは真夜中のはず』

確かに、原稿のト書きに楽譜にも「夜」という言葉がありますが、初演の時の台本には実は「明るい夜明け」とあったのだそうです。これはベーレンライター版にもそのような註が記されているそうです。したがって、ここは夜明けの直前となります。実際のステージでも、エルヴィーラが到着したところで夜明けになる演出が多いそうです。
したがって
『ツェルリーナの結婚式の場は間違いなく真っ昼間』

農民は、生活がかなり朝方なので、真昼間というよりも、昼前あたりなのでは、ということです。これで、第1幕の時間的な問題は解決されます。

『ドン・ジョヴァンニに殺された騎士長の石像が、なんと「一夜にして」出来上がってしまっている、ということになりますよね。なにしろ、そこは墓だったんですから、生きているうちに作らせたなんてことはあり得ません。』

種本であるガッツァニーガの《ドン・ジョヴァンニ》では、オッターヴィオ公爵が、生前に用意した墓が、完成から一ヶ月も経たないうちに使われることになるとは、というような台詞を言っているのだそうです。ですから、前もって作っていたのですね。その時に碑文も刻まれたそうです(これはまさに「一夜にして」ですね)。モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》にはこの部分はありませんが、レポレッロが館にやって来た騎士長像を『白い』と言っているのは、出来立ての真新しい像という意味が込められているのでは、というご意見です。

2月22日

FRANCK, GOUNOD
Sept Paroles du Christ sur la Croix
Marcelo Giannini(Org)
Luc Aeschlimann(Vc)
Laure Ermacora(Hp)
Michel Corboz/
Ensemble Vocal de Lausanne
MIRARE/MIR 106


コルボの最新録音は、フランクとグノーの「十字架上のキリストの7つの言葉」という、なんとも珍しい曲でした(グノーのタイトルは、正確には「十字架上のわれらが主イエス・キリストの7つの言葉 Les Sept Paroles de Notre Seigneur Jésus-Christ sur la Croix」)。これが録音されたのが昨年の夏、ロケーションは彼のお気に入りのフランスのヴィルファヴァール農園です。一昨年の「ロ短調」のように、毎年夏にはここで録音を行う、というのが、彼の年中行事になっているのでしょうか。ただ、今回は納屋を改造したオーディトリアムではなく、小さな教会のようなところですね。敷地内のいろいろな場所で録音が出来るというのが、ここのウリなのかもしれません。この教会には、カヴァイエ・コルの小振りなオルガンが設置されていて、ここではその鄙びた音も聴くことが出来ますよ。
そう、今回録音された2曲は、どちらもそんな小さなオルガンだけで伴奏が出来てしまうような、小規模な宗教曲です。フランクの場合には、それにチェロとハープが加わります。
どちらも全く聴いたことのない曲、そんな人のために、ライナーには聴きどころとして「ともに1850年頃にパリで作られた、同じ題材による全く異なる性格をもつ2つの傑作」とありますよ。別に、結託したわけではないのでしょうが、ほとんど同じ時期に同じようなテーマで2人の「大」作曲家が作ったものを聴き比べるというのは、面白い試みです。フランクとグノーでは確かに作風は全然違うでしょうしね。渋さのフランク、vs、派手なグノー、でしょうか。
しかし、どちらの作曲家に対しても、それほどの深い知識と経験を持たない人が抱いたそんな先入観は、実際に曲を聴き始めると見事に崩れ去ることになるのです。フランクの「7つの言葉」の、なんと明るいことでしょう。これって、キリストが十字架にかけられたときに語られたという言葉、いわば「遺言」というか、「辞世の句」を集めたという涙なくしては味わえないようなお話ですよね。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とかね。しかし、そこにフランクが付けた音楽ときたら、「渋い」どころか、チェロはベタベタに甘〜いメロディを奏でるわ、ハープは華麗に盛り上げるわ、ソリストたちはノーテンキに歌いまくるわで、「慎み深さ」といったものが全くないんですからね。極めつけはコーラス。殆どヴェルディの「ブン・チャッ・チャ」的なノリで陽気に騒ぎ立てるという不謹慎さですよ。
音楽としてはとびきり美しいメロディ満載の親しみやすいものなのですから、魅力はあります。最初のソプラノのソロだって、それだけを取り上げれば極上の「癒し」にはなり得ますが、そのテキストとのあまりのミスマッチは、フランクという人の人格すらも疑いたくなるようなものなんですよね。まあ、いくら大作曲家といっても失敗作はあるもので、これなんかは本当は「なかったことにしたい」作品なのかもしれません。そんなものをわざわざ引っ張り出してきて、フランクさんに恥をかかせてしまったコルボっていったい・・・。
一方のグノーといえば、華やかなバレエ音楽の印象が強いものですからこれを聴いてフランクとは逆の意味で裏切られた思いを味わってしまいました。これは、慎ましさの中に深いメッセージの込められた、まさに「隠れた名曲」ではありませんか。オルガンの控えめな伴奏の中で、合唱はまるでルネッサンスの頃のようなたたずまいを見せています。見た目の華やかさなどはすべて捨て去った、敬虔な祈りだけがそこには漂っているのです。イエスの実際の「言葉」だけが小さなアンサンブルで歌われる、というアイディアが、ほんのわずかな飾り立て、でしょうか。これで、もし、コルボの合唱団がこの世界を的確に表現できるだけの「深さ」を備えていたならば、もう何も言うことはなかったのですが。

CD Artwork © Mirare

2月20日

RAUTAVAARA
Choral Works
James Burton/
Schola Cantorum of Oxford
HYPERION/CDA67787


フィンランドの長老作曲家、エイノユハニ・ラウタヴァーラの合唱作品を集めたアルバムです。オーケストラの作品などはたびたび聴いていますが、実は合唱に関しては初体験、この中の曲はすべて無伴奏の混声合唱曲ですので、純粋に彼の合唱における成果が味わえることでしょう。
このアルバムのライナーノーツは、なんと、同じフィンランドの作曲家、ヤーッコ・マンティヤルヴィが書いています。歳は35才も違いますが、彼自身とも多くの共通点を持つこの先輩のことを暖かく語った文章は、多くの示唆に富んだものです。その中に出てくるのが、「折衷様式」という言葉です。マンティヤルヴィが、まさにこのような作風であるため、この先達のそのような一面には敏感に反応しているのでしょうね。
ここに収録されているのは、最も初期のものが1973年に作られた「ロルカの詩による組曲」、そこから、最新作、これが初録音となる2008年の「Our Joyful'st Feast」までの作られ方をつぶさに見ていくと、そんな「折衷」さのありようが、ラウタヴァーラの場合には作曲年代によって大きく変化していることが良く分かります。1つの曲の同じ時間の中に、多くの要素をそのまま並べて、言いようのない緊張感を産んでいるのが初期の作品だとすれば、後期のものはそれらの平均値を用いて、より滑らかな仕上がりを目指した、そんな感じでしょうか。人はおそらく、こういう現象のことを「進歩」や「円熟」と呼ぶのでしょう。
実際、その最も初期に作られた「ロルカ」では、グリッサンドや微分音などという、いかにも「前衛的」な手法までも交えて、かなり「とんがった」刺激が与えられます。しかし、おなじロルカのテキストを用い、日本の東京混声合唱団の委嘱によって1993年に作られた「我が時代の歌」になると、なんとも「洗練」された音楽に変わってしまっているのがはっきり感じられてしまいます。そこでは、確かに多くの技法が混在してはいるのですが、それらは互いに寄り添い、すべてが同じ方向を向いているのですね。その結果現れてくるのは、なんとも心地よい、殆ど「ヒーリング」といっても構わないほどの口当たりの良さでした。その流れはとどまるところを知らず、最近の作品になるにしたがってそのまろやかさには「磨き」がかかっていきます。最新作に見られるのはいとも平穏なたたずまい、なんだか、いつぞやの「世界合唱シンポジウム」のテーマ曲を作った日本人のように、功成り名遂げた大家が、ほんの小遣い稼ぎに作ってみました、みたいな趣がないといったらウソになります。
しかし、せっかく聴くのですから、出来ればこういう人の作品には、なにかに挑戦している姿を見たいものです。そうなると、最も面白く聴けるのは、1970年代の終わりに作られた「Canticum Maria Virginis」と「Magnificat」あたりでしょう。これこそ、「折衷様式」の極致、殆どリゲティかと思われるトーン・クラスターから、セリー風のアリア、さらにはシュプレッヒ・ゲザンクと、刺激的な手法のてんこ盛りは、とってもスリリングです。さらに、5つの部分から出来ている「Magnificat」では、最後の「Gloria」がなんとも人を食った発想なのがたまりません。この歌詞ですから、普通は喜び満開、といった感じで作られているものですが、ここではそれが恐ろしく暗〜く始まります。断じて心地よいものは作らないぞ、みたいな心意気を、そこからは感じられませんか?
そんな「毒」までを表現するには、この合唱団はちょっと物足りないところがないわけではありません。あと一歩、男声に色気があって、女声のアインザッツに確信のようなものがあれば、この「折衷」がより際立って聞こえてきたはずなのに。もしかして、仙台の某混声合唱団、ではなく香辛料合唱団だったら、この「Magnificat」からそんな面白さを引き出してくれるかもしれませんよ。

CD Artwork © Hyperion Records Limited

2月18日

STRAVINSKY
Pulcinella, Symphony in 3 Mvt., 4 Études
Roxana Constantinescu(MS)
Nicholas Phan(Ten)
Kyle Ketelsen(Bar)
Pierre Boulez/
Chicago Symphony Orchestra
CSO・RESOUND/CSOR 901 920(hybrid SACD)


ネット配信の飛躍的な普及に伴って、CDSACDといったフィジカルな媒体を取り巻く状況は、なかなか厳しいものがあります。ただ、96/24クラスの高音質のデータはギガバイト単位のサイズになってしまいますから、そのような音を求める向きに関してはかろうじてSACDあたりはまだ優位を主張できるのかもしれません。
制作サイドとしては、クラシックに関してはかつて市場を牛耳っていたメジャー・レーベルの凋落ぶりが悲惨です。かつてDGとともにUNIVERSALの一翼を担っていたDECCAPHILIPSは、今ではかろうじて名義だけが残っているような状態で実際の制作などは殆ど行っていないはずです。PHILIPSなどは、もはや過去のカタログさえも転売されてしまっているのではないでしょうか。今まで強烈な個性を主張していたそれらのレーベル固有のトーン・ポリシーなどは、もはや完璧に消滅してしまっていたのです。
と思っていたら、最近、例えばエッシェンバッハとフィラデルフィア管とか、ヤルヴィとドイツ・カンマー・フィルなどの自主録音盤などのクレジットの中に「POLYHYMNIA」という文字がよく見かけられるようになったので調べてみると、これは元PHILIPSのエンジニアが集まって作った録音プロダクションであることが分かりました。このような形で、有能なエンジニアたちが今までのような特定のレーベルの専属ではなく、個別に録音を請け負うチームとして活躍するようになっていたのですね。しかも、その「製品」は、メジャーが見捨てたSACDを前面に押し出しているというのですから、かえってこの方が愛好家にとってはありがたいことなのかもしれません。なんたって、SACDを開発したのはPHILIPSなのですからね。
2007年に発足したシカゴ交響楽団の自主レーベル「CSO・RESOUND」も、この「ポリヒムニア」が録音を担当しているものでした。最新盤は、ブーレーズの指揮による2009年の2月と3月のコンサートでのライブ録音です。もちろん、このチームの仕事ですから、セッション以上のクオリティがしっかり保たれています。
曲目は、「プルチネッラ」全曲と、「オーケストラのための4つのエチュード」、そして「3楽章の交響曲」という、ブーレーズお得意のナンバーが揃っています。それぞれ今までに何度となく録音してきたものばかりですね。この中で「3楽章の交響曲」は、手元に1996年にベルリン・フィルと録音したDG盤がありますので、比較することも出来ます。1945年に完成したこの曲は、いわば作曲家の「新古典主義」の時代の産物になるのでしょうが、ライナーのインタビューでブーレーズが語っているように、第1楽章にはまるで「春の祭典」のような、彼のその前のスタイルが反映された部分が見られます。第2楽章はまさに「新古典主義」そのものというスタイリッシュな曲なのですが、第3楽章になると、今度はやがて訪れる彼の「セリー」の時代を先取りしたようなパッセージまで現れます。もう終わっているはずなのに(それは「セーリ」、しかも男だし)。そんな様式感の違いが、ベルリン・フィルよりは、今回のシカゴ響の方がはるかにはっきりと描かれています。というより、プレイヤーたちがいかにも楽しみながら自発性を発揮している、という感じがとても伝わってくるのですね。ベルリンの人たちはなにか「くそまじめ」という感じがしてしまいます。特に、第2楽章で大活躍するフルート奏者の違いが、かなり大きなウェイトを占めているのではないでしょうか。ベルリンはおそらくブラウでしょうが、シカゴは間違いなくデュフォー、彼のいきいきとした音楽は、この楽章を「雅び」で彩っていました。
「プルチネッラ」では、メゾのコンスタンティネスクがちょっと期待はずれでしたが、オケがやはりこの「偽バロック」をとことん楽しんでいるさまが、とても素敵でした。「エチュード」では、まさにこのオケの機能性が炸裂です。

SACD Artwork © Chicago Symphony Orchestra

おとといのおやぢに会える、か。


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